35 コピーには目的がある





 大学や博物館などの学術的な環境のなかで模型や複製が造られる場合、そこにはなんらかの目的がなくてはならない。毀損や遺滅したときのことを考え、予備品としての複製を誂る場合もあるし、教育研究を行うさいの有効なデヴァイスとして準備される場合もある。また、オリジナルの劣化を最小限で留めるため、展示公開に複製が用いられることもあるし、また今日すでに常識と化しているが、考古遺品など発掘調査で得られた学術標本の場合、発掘現場を管理する外国や自治体にオリジナルを返還するにあたって、学術資料としての複製を発掘した組織や団体が保持する場合も多い。


35-1 男茎形製品
大理石製、長12.4、幅4.9、高4.4、渤海東京城採取、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

35-2 男茎形製品(レプリカ)
陶土に彩色、長12.4、幅4.9、高4.4、1933−1939年、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

35-3 男茎形製品
陶製、長13.4、幅4.8、高4.6、1933−1939年、中国出土、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

35-4 男茎形製品(レプリカ)
石膏に彩色、長14.6、幅4.8、高4.6、1933−1939年、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

35-5 男茎形製品(中国製陶製品のレプリカ)
石膏に彩色、長14.9、幅4.5、高4.5、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

35-6 男茎形製品
鼈甲風セルロイド製、長12.0、最大幅3.9、高3.9、年代不明、東京大学大学院人文社会科学研究科・文学部列品室蔵

 東京大学文学部列品室所蔵資料中に男茎形製品[1]が6点ある。これらは男根を模している点ではいずれもホンモノではなくニセモノであるといい得るが、中にはより狭い意味でのニセモノ、すなわちレプリカが含まれている。これらの資料の来歴については不明な点も多いが、東京大学において行われたレプリカを用いた研究活動の一端を示す資料としてここに紹介する次第である。

 はじめに考古遺物のレプリカが作られる契機について考察する。ここではレプリカという語の意味を広く捉え、復元模型やジオラマなど通常はレプリカとは呼ばれない対象も考慮に入れる。これには違和感も残るが、他に適当な用語が見当たらないのでこのように用いたい。

 まずレプリカの製作の目的には大きく分けて、展示施設や教育の現場で使用するために作られる展示・教育用と、研究活動に使用するために作られる研究用とがある。このうち展示・教育用のレプリカにはオリジナルを忠実に模した場合(狭義のレプリカはほぼこれに限られる)と何らかの解釈が加えられる場合とがあり、研究用の模型には実験を目的とする場合と形態の分析を目的とする場合とがある。何らかの事情でオリジナルを用いた展示・教育が不可能な場合には、オリジナルを忠実に模した狭義のレプリカが製作されるが、これにはオリジナルが存在するが使用できない場合と、オリジナル自体が存在しないために使用できない場合とがある。前者は、例えば対象が展示・教育の現場における需要に比して希少である場合、保存上の理由などから技術的に使用が困難な場合、また遺構のようにそもそも動かすこと自体が困難な場合などに作られる。後者は、ある時点でオリジナルの形が失われてしまうもの、例えば遺物や遺構の検出状況のレプリカなどがこれにあたる。もちろん当初は前者の理由で作られたものがオリジナルの紛失等により後者の状態になることも考えられる。解釈を加えた展示・教育用のレプリカとしては、例えばその使用状況を想定したものがある。柄をつけた石器、復元竪穴住居、復元された遺跡のジオラマなどである。なお、特に遺構や遺跡についてはレプリカの製作にあたってサイズの縮小がしばしば行われる。これは大きな対象の使用を可能にするという点だけではなく、全体像の把握を可能にするという点で、オリジナルにはない長所をもっている。以上のような展示・教育用のレプリカは特に博物館などの展示施設で多く使われ、大きな効果を挙げている。

 研究用のレプリカは実験考古学と呼ばれる研究方法の一環としてしばしば製作される。この研究方法においては展示・教育用の狭義のレプリカと比較して、素材や技術の点ではオリジナルにより近づけることが重視されるが、形態的にはそれほど厳密にオリジナルを模倣するわけではない。レプリカのどのような点をどの程度オリジナルに近づけるかは研究の目的自体に関わって決定される。考古学遺物の属性は製作・使用・廃棄の局面に関わるものに区分することができるが、実験による研究もそれぞれを対象として行われうる。例えば各種製品の製作実験、同じく使用実験、竪穴住居の焼失実験などが挙げられよう。形態の分析を目的としたレプリカ製作については吉田・丑野論文を参照されたい。

 資料(1)と(3)はそれぞれ大理石製、陶製でいずれも基部で破損している。資料(2)・(4)・(5)はいずれも石膏製のレプリカである。資料(2)と資料(4)は完形に復元されているもののそれぞれ資料(1)と資料(3)と同形態であるが、資料(5)のオリジナルはこの列品室資料の中にはない。資料(6)は鼈甲風製であるが、あるいはセルロイド製の模造品かもしれない。

 資料(1)は茎部の表裏面に∩形、左右面に∪形の刻線を並べてヒダ状に表現している。刻線の数は表面及び左右面では9本であり、裏面でもやはり9本が残存している。裏面にはさらに先端から6本目の∩形刻線に接して1本の形の刻線もみられる。基部を横方向の刻線で画し、さらに2本の横方向の刻線の間に網の目状に刻線の装飾を施している。表面は丁寧に磨いて仕上げられているが、一部にわずかに擦痕が残る。後端の縁は円みを帯び、内面には全面に縦方向の擦痕がみられる。雁高は2ミリで先端に長さ21ミリの縦の刻みを入れて尿道口を作り、円形で径4ミリの貫通孔を穿っている。尿道口左側から裏面にかけて茶褐色で石灰質の付着物がみられる。器壁の厚さは5〜6ミリであるが、大理石をこの薄さに加工するには相当高度の技術を要したと思われる。

 資料(2)は寸法及び形態は資料一を忠実に模して完形に復元しているが、内面には凹凸がある。外面は資料(1)に似せて飴色に塗られ、内面は暗緑褐色に塗られているが横方向の擦痕がみられる。一方尿道口には外側からの刺突により深さ8ミリの盲孔が穿たれている。また先端部の付着物も黒く着色して表現されている。

 資料(3)は内外面とも釉薬がかかっている。さらに外面は緑色に彩色されているがむらが多い。亀頭直下の茎部表面に周囲を4分の3周〜2分の1周する∪字形の刻みを3本入れてヒダ状に表現し、裏面先端部には幅7〜10ミリの浅い抉りを3箇所並べている。雁高は4ミリで先端に長さ20ミリの縦の刻みを入れ、円形で径4ミリの貫通孔を内外両側からの刺突により穿って尿道口を表現している。内面、特に下半には横方向の刻線が多い。器壁の厚さは基部で4〜6ミリであるが先端部ではかなり厚い。

 資料(4)は完形に復元されていて基部で器壁の厚さは4〜5ミリ、内径は40×38ミリである。資料(3)に似せて彩色されているがよりむらが激しい。基部が一部割れて補修されており、先端部にもひびが入っている。中空部分の形状は特に先端付近でいびつである。尿道口にはやはり内外両側からの刺突により貫通孔が穿たれているが、中間部で細くなっている点で資料三と異なる。

 さて明らかにレプリカである資料(2)・(4)は型を用いて製作されたと考えられるが、中空であることから外型と中型が存在したはずである。いずれも外面の色調の相違や表面の微妙な凹凸から、表裏左右にまっすぐ縦に走る4本の線とオリジナルの割れ口の線が認められるが、内面にはこれらの痕跡はみられない。前者は製作時の型の継ぎ目の痕跡であると考えられ、四分割した外型を用いていたことが分かる。後者は外型が存在しない部分を他の部分に合わせて整形した痕跡だろう。資料(2)の刻線は、一部オリジナルとやや違うこと、刻線には復元部分との継ぎ目がみられないことから、全体に刻み直しているとみてよいだろう。資料(4)の裏面先端部の三箇所の抉りは資料(3)に比べて弱いが、表面亀頭直下の型の継ぎ目部分の刻線は資料(3)よりも強い。資料(4)については、資料(3)と同様にオリジナルを模って作られた可能性と、資料(3)を模って作られた可能性とがあるが、抉り部分を考慮すると後者の可能性が高い。刻線は資料(2)と同様に後から刻み直されたと考えてよいだろう。

 ところで資料(3)にもやはり外型の継ぎ目と考えられる縦線が4本みられ、また着色されている。従ってこの資料自体も何らかのレプリカである可能性が強い。色調から判断すると、例えば蛇紋岩製品を模したものかもしれない。その場合オリジナルが何かが問題になるが、その点については後述する。

 資料(5)は緑釉陶製品を思わせる色調に彩色されているが、内面は白いまま残されている。器壁の厚さは約5ミリである。資料(1)〜(4)にみられるようなヒダ状の刻線はみられないが、裏面には裏筋が表現されている。雁高は4ミリで尿道口は長さ17ミリの刻みとして表わされ、穿孔はされていない。この資料でも外面の色調の相違や表面の微妙な凹凸から、両側縁に先端から基部まで続く2本の縦線を認めることができる。従って表裏に二分割した外型で製作されたと考えられる。

 資料(6)は、滑らかなキャップ状の頭部と3本の輪を表裏面の2本の細長い板で繋いだ肋骨状の茎部からなる。表面側の板は最大幅12ミリの紡錘形を3つ連ねたように削られ、装飾的である。裏面側の板は幅11ミリだが中央で縦に割れている。これは男根に装着して使用される場合にサイズの「遊び」を作る効果があると考えられる。器壁の厚さは2〜5ミリで、内面には製作時のものと考えられる細かい擦痕が多い。

 これらの資料については、列品室所蔵資料を掲載した『考古圖編』には記されておらず、資料番号や資料カードも存在しない。来歴が知られているのは渤海東京城出土とされる資料(1)のみである。渤海東京城の調査は東亜考古学会によって昭和8・9(1933・4)年に行われ、東京大学からは原田淑人、駒井和愛らが参加した。この調査時に現地人から石製品を購入しているが、その中に宮殿址内採集品とされる「石製男根」が一点含まれていた(原田・駒井1939、82頁)。「長さ四寸二分、直徑一寸五分を算し、中空にして表面に皺等をも刻し、可成り寫實的に出来てゐる」と記されており、実測図や写真は示されていないものの、これが資料(1)に相当することは間違いない。この他に列品室資料については春成によって言及されている。旧石器時代以降の各地の性象徴遺物を集成して論じた中で列品室資料も紹介され、実測図が示されている(春成1996、101頁図4‐22〜24)。資料(1)が渤海東京城採集品であること、資料(3)及び(5)のオリジナルが中国製であることが述べられている。

 性器を模した製品は、例えば女陰形は豊穣の、男茎形は活力の象徴として、儀礼や呪術と結びつけて解釈されることが多い。しかし東京城報告書では資料(1)とその類品に対して性具説が採られ、春成もそれを追認している。象徴的遺物であるか性具であるかの判断は難しい。だが河北省満城漢墓の第一号墓出土のV字形で両端に亀頭が表現された青銅製品(中国社会科学院考古研究所1980、下巻図版61‐2)はいわゆる「互形」であると考えられ、性具であるとみなしてよいだろう。なおこの第一号墓は中山靖王劉勝(在位前154年〜113年)の墓であるとみなされている(同前、上巻336頁)。春成は「新石器時代以来のオハゼ形がすべて淫具すなわち張形であったとは考えにくいから、おそらくある時期にそのような用途も生じたということであろう」と述べている(春成前掲、100頁11〜12行)。

 我が国においてもかつて奈良時代以降の平城宮跡出土の男茎形木製品を女官の用いた張形とみなす考えがあったらしい(同前、97頁26〜27行)。しかしその後は井戸祭祀との関連が強調されるようになり、春成も井戸に限らず苑池や溝など水汲みの場との関連があることを指摘している。

 文献の上から我が国における張形の存在が明らかになるのは江戸時代以降である。秘具秘薬を専門に扱う店も存在したらしく、中でも長崎で明応元(1492)年、江戸で寛政3(1626)年創業と伝えられる江戸両国薬研堀の四ツ目屋が有名である。これらの使用の実態や名称は春画や春本などからある程度知ることができる。江戸時代の張形は中野による珍具研究(中野1951、1969)、小池による性具研究(小池1952)などで扱われ、また田中は特に春画にみられる張形を集成している(田中1999)。以下これらによって江戸時代の張形の実態を検討する。当時存在した多種多様な性具のうち、張形とされるものは男根を模った形態、大きさであり、中空で基部に紐を結ぶための孔があることが多い。用途については、基本的には一人で用いるものであったが、女二人や男女間で用いられることもあったとされている。基部の紐は二人で用いる際に一方の腰に結びつける場合以外に、一人で用いる際にも、足首に結びつける場合や蒲団に結びつける場合などに役に立った[2]。春画においては、片手に持って用いていてどこにも結びつけられていない張形に紐が描かれている例もあるので(同前、14頁第5図)、この紐を結ぶための孔の有無は必ずしも使用法とストレートには対応していない。素材は水牛製、鼈甲製、木製のものがみられ、使用前に湯を浸した綿を空洞に入れて温めたともいわれている。

 さて江戸時代における張形と列品室資料を比較してみたい。形態においては中空である点で共通し、また資料(1)〜(4)にみられる茎部のヒダも張形にしばしばみられるものである。ただし基部の紐を結ぶ孔は、資料(5)にはみられず、資料(1)・(3)では破損しているためにその有無を確認できない。資料(2)・(4)は孔のない状態で復元されている。また尿道口については、春画などからの確認は難しいが、貫通孔を持つ例はみられないようである。大きさの点では、春画における張形は非常に大きく描かれていることが多いが、これはかなり誇張されているのであろう。実物は列品室資料における程度の大きさであったと考えられる。このように素材と細部の形態に相違点はあるものの、資料(1)〜(5)は張形であると考えるのが妥当であろう。一方資料(6)に類似する性具も江戸時代には知られていた。性交時に男根に装着して使用する道具である。頭部のみの道具は冑(兜)形、茎部だけの道具は胴形ないし鎧形と呼ばれていたが、後者には窓が開けられ肋骨状になっているものがあった。つまり資料(6)は冑形と鎧形を合わせた形態であるといえる。この形態の道具は姫泣き輪と呼ばれたという意見もあるが(小池前掲、88頁)、姫泣き輪というのは、いりこ形ないしなまこの輪などとも呼ばれる海鼠の輪切りに対しての呼称でもあるため、これには疑問も残る。

 ある遺物に対して、類例の集成、形態・材質・製作技術などの検討を経て、用途や年代を推測するというのは、考古学の手法としては極めてオーソドックスなものである。東京城の報告書における資料(1)の扱いもこの方法によっている。渤海時代に属すると判断した根拠は二つある。一つは、類例のうち京都帝國大學考古學教室蔵の唐代とされる石製品と「製作手法が酷似してゐる」ことである。もう一つは、一緒に購入された渤海時代の石製獣形器脚と石材が共通することである。この石製獣形器脚についても、唐、新羅、正倉院御物との比較から渤海時代に製作されたものと推測している。用途については類例も含めて「これ等は生殖器崇拜に関係ある遺品とみるよりも、寧ろ一種の淫具の類と看るべきものではなからうか」と述べられている(原田・駒井前掲)が、特に根拠は示されていない。

 列品室資料はこの報告書作成の段階で類例を集成する意味で収集されたものである可能性が高い。従って収集された時期は渤海東京城の調査以降報告書刊行までの間、すなわち昭和8(1933)年から昭和14(1939)年までの間であろう。資料(1)・(2)はオリジナルの来歴およびオリジナルとレプリカの関係が明らかである。レプリカであると考えられる資料(3)〜(5)についてはまずオリジナルが何かが問題になる。東京城報告書には、京都大学考古学教室蔵の石製品、京都有憐館蔵の漢代の銅製品、新海覺雄氏蔵の緑釉陶製品の計三点の類例が紹介されているので、オリジナルはこの中に含まれていると考えるのが自然であろう。資料(3)が陶製のレプリカであるという推測が正しいとすると、前述したように蛇紋岩質のオリジナルを模したものかと思われる。従って京都大学考古学教室の石製品である可能性が高い。「製作手法が酷似してゐる」という記述も、中空であること、茎部のヒダ状の刻みや尿道口の表現が共通することを考えればうなずける。資料(5)は色調から新海氏蔵の緑釉陶製品がオリジナルであろう。一方資料(6)については考古遺物とは考え難く、おそらくは購入されたものだろう。

 張形に関していえば、資料(1)と(2)、資料(3)と(4)、資料(5)の三つのセットがあるわけだが、第三のセットのみ一点だけしかない。これはオリジナルが完形であったために復元の必要がなかったためと説明できる。資料(5)には資料(2)・(4)にみられる割れ口の線がみられないこともこれを裏付けている。したがって張形の製作の目的は、資料の収集のため(資料(3)・(5))と、完形に復元するため(資料(2)・(4))の二つがあったことになる。また4点のレプリカは既にみたように、素材や雌型の枚数、内面の着色の有無においてそれぞれ異なっている。このことはレプリカの製作が別々に行われたためと解釈することができよう。ただし資料(3)と(4)を除いては製作の順序は不明である。

 これらのレプリカはオリジナルの形態をかなり忠実に模しており、またおそらくは類例の収集の過程で製作されたものであることをみてきた。これらは厳密には最初に整理したレプリカ製作の目的に当てはまらない。着色が施されていること、内面の形状や尿道口など外側から見えない細部ではオリジナルと異なっていることは、見た目重視であったことを示し、展示・教育用であったことを示唆する。だがそもそも報告書に図や写真さえ掲載されなかったことから、これらの資料が展示に供された可能性は低い。したがって、これらが希少な資料であったことは確かであるが、展示・教育の現場での需要も同様に低かったと考えられる。実際に列品室における保管状況も、決して人目につく場所には置かれていなかったのである。また研究目的であるとしても、オリジナルとは異なる材料・技法で作られていること、細部の作りに相違がみられることから研究の資料としての利用価値は必ずしも高くはない。つまり実測図や写真に留まらずレプリカ製作という方法を用いた理由が見当たらないのである。この点は収集に対する欲求とでもしか説明し得ないのではないだろうか。

 男茎形製品の類例収集とレプリカ製作にある程度の手間と時間を費やしたであろうにも関わらず、報告書には資料(1)の図や写真が掲載されず、またその後原田や駒井によって男茎形製品が単独で論じられることもなかった。そしてその後数十年間にわたってこれらの資料が所蔵されているという事実自体公にされることがなかったのである。その背景にはこれらの資料に関する研究がタブー視される性質のものであり、それに関する研究も公開しにくかったという社会的状況の存在が推測される。その理由としては、これらの資料がかなり写実的に性器を模しているという点に加えて、性具・張形という用途が問題であったと考えられる。春成は日本考古学における性象徴の研究が低調であったことを指摘しているが、性具の研究に対してはなおさらであったといえる。これには実証的な研究を行うに足る資料の不足という側面ももちろんある。だが、性具と性象徴遺物の判断基準も確立されているとは言えないことと、未公開の資料が存在する可能性を考えれば、一概に資料不足のみが原因とはいえない。本資料の公開が今後の研究の進展のきっかけになれば幸いである。
(高橋健)




【註】

[1]男根を模した製品に対しては、男茎(おはせ)形、陽物(ようぶつ)形、オハゼ形などの呼称が用いられているが、本稿では男茎形製品としておく。[本文へ戻る]

[2]これらの使用法の名称と内容は西川裕信『艶女色時雨』に詳しく描かれている(田中前掲、50−52頁)。[本文へ戻る]


【文献】

小池創之介『性具と性風俗』五光社、1952年。
田中優子『張形——江戸をんなの性』河出書房新社、1999年。
中国社会科学院考古研究所編『満城漢墓発掘報告』文物出版社、1980年。
中野栄三『珍具考』第一出版社、1951年。
中野栄三『珍具入門』雄山閣出版、1969年。
原田淑人・駒井和愛編『東京城』(東方考古学叢刊甲編第五冊)、東亜考古学会、1939年。
春成秀爾「性象徴の考古学」、『国立歴史民俗博物館研究報告』、第66集、1996年、69−160頁。



前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ