模型は様々な学問分野のなかで教材として利用されてきたが、実物の再現の迫真性という点で医学標本に勝るものはない。それらの制作者のなかには、優れた芸術家と肩を並べるほどの技術的水準を達成した名工も多く、利用目的を別にすると、芸術品と見間違わんばかりのものもある。ここでは「芸術」と「科学」が踵を接している。 30-1 鈴木常八製作、人頭解剖模型(桂川甫周が製作させた) 檜材に胡粉、彩色、奥行21.5、幅15.5、高21.5、1974年(寛政6年)、「鈴木常八作之、寛政寅十月」の墨書あり、桂川家旧蔵、東京大学大学院医学系研究科・医学部標本室蔵 寛政6年5月和蘭陀商館長から贈られたフランス製蝋細工模型を、幕府官医桂川甫周(1754−1809)が職人鈴木常八を使って模造させたもの。檜材を寄せ木し、胡粉の地塗りの上に岩絵具で彩色が施してある。両眼には仏像に使われる玉眼が用いられている。頭の表皮を剥ぎ、浅層筋と静脈を表現している。 30-2 各務文献製作、頭蓋骨模型 木と紙に胡粉、彩色、1810年(文化7年)頃、東京大学大学院医学系研究科・医学部標本室蔵 文化7(1810)年頃大阪の開業医各務文献(かがみぶんけん)(1765−1829)が工人に命じて作らせた等身大骨格の頭蓋骨模型。「各務木骨」と通称される。木と紙で下地を作り、顔料を混ぜた胡粉で実物通りの色を出している。真骨の所持が禁じられていたため、医学教育にはこうした模型が利用された。 30-3 長安周一製作、天然痘ムラージュ模式標本 蝋製、長47.0、幅22.0、厚13.5、大正時代、東京大学大学院医学系研究科・医学部標本室蔵 蝋を人体の型どりに用いて作るムラージュは皮膚科疾患の記録として有用であった。とくに、現在のようにカラー写真やコンピュータ・グラフィックスによる記録保存が実用化される以前においてはそうである。ムラージュは患部から直接石膏の雌型を取り、これにパラフィンと蝋の混合物を流し込み原型を得て、それに彩色を施したものである。明治31年から大正15年に医学部皮膚科学教授を務めた土肥慶蔵(1866−1937)はドイツ留学時代に医学教育におけるムラージュの有用性を認識し、それを国内にもたらし、伊東有や長安周一などムラージュの名匠を育てた。「天然痘ムラージュ模式標本」は、1980年の根絶宣言をもって病気それ自体が地球上から完全に駆逐されているため、本標本を通してしかもはや症状を観察することができない。東京大学にはほとんど見られなくなった珍しい疾患を記録したムラージュがいまも約500点残されている。 30-4 伊東有製作 角皮模式標本、蝋製、縦25.5、横38.5、厚13.0、大正時代、東京大学総合研究博物館医学部門蔵 中国で見いだされた特異な症例である。言葉による説明では容易に納得し難いような現実も、こうした症例標本をもってすれば一目瞭然である。 30-5 頭頸部リンパ系統、ムラージュ模式標本 蝋製、縦45.0、横27.0、厚17.5、フランス、19世紀後半、東京大学大学院医学系研究科・医学部標本室蔵 脈管系は血管とリンパ管からなる系統で、体内に液体(血液とリンパ)を循環させる輸送路であるから循環系とも呼ばれる。血管は脈拍を計ったり、静脈注射などで直接触れることができるが、リンパ管壁は非常に薄く細いので、部位によっては肉眼的に確認が困難である。ここに展示されている模型は、遺体の末梢細リンパ管から水銀を注入して立体的に剖出し、これを蝋で鋳型をとり復元された精巧な蝋模型である。体内にくまなく張り巡らされているリンパ管とリンパ節と、各部位の血管や臓器なども正確に整えられている。 30-6 厚澤銀次郎製作、義眼模型(六点一揃い) ガラス製、径6.5、1931年(昭和6年)、東京大学総合研究博物館医学部門蔵 昭和6年に厚澤銀次郎が作った義眼製作模型である。中泉行正の指導の下に工夫を重ねオーダーメイドの義眼制作法に成功した。これによって美容上の効果は進歩した。これ以降、戦勝の増加などによる需要の増加に対応して行く。 |
前頁へ | 表紙に戻る | 次頁へ |