西洋からの借用は近代日本のお家芸でもあった。とりわけ美術やモードの専門誌のように、ヴィジュアル面で時代の潮流に敏感でなくてはならないものについては、その傾向が強く、今日でもその流れは続いている。日本の美術界を先導してきた美術雑誌のカバーには、フランスの美術雑誌のそれからの「コピー」と思われるもの時折登場した。前者をデザインの「剽窃」とするなら、後者は意匠の「借用」と言える。元本との「時差」に、時代の違い、情報伝達のスピードの違いが顕れている。 29-1 『モンパルナス』 第9年21号、1923年3月、縦33.0、横25.0、パリ 29-2 『モンパルナス』 第10年37号、1924年12月、縦33.0、横25.0、パリ 1914年にポール・ユッソン、ジョルジュ・シャルル、マルセル・セイの3人が創刊した贅沢な文芸雑誌で、第一次世界大戦を挟んで通巻58号を数える。詩人ギョーム・アポリネール(1880−1918)の詩「カリグラム」、セルゲイ・ディアギレフ(1872−1929)のロシア・バレー、レベデフ(1874−1934)の木版画などを紹介したモダニズム雑誌として知られる。 29-3 『マロニエ』 第1巻第5号、大正14年(1925年)10月、縦36.0、横26.8、東京、マロニエ社 29-4 『マロニエ』 第2巻第1号、大正15年(1926年)1月、縦36.0、横26.8、東京、マロニエ社 第一次世界大戦後の好景気のなかで多くの日本人美術家がパリへ渡った。帰国後彼らはフランスの美術雑誌を模した雑誌を国内で刊行する。この『マロニエ』をはじめ、『セレクト』や『日仏芸術』は編集から記事まで、同時代のフランス美術雑誌とそっくりである。 29-5 『カイエ・ダール(美術手帖)』 第2年第1号、1927年、縦31.7、横24.8、パリ、カイエ・ダール社 29-6 『カイエ・ダール(美術手帖)』 第2年第2号、1927年、縦31.7、横24.8、パリ、カイエ・ダール社 29-7 『カイエ・ダール(美術手帖)』 第2年第6号、1927年、縦31.7、横24.8、パリ、カイエ・ダール社 29-8 『カイエ・ダール(美術手帖)』 第2年第10号、1927年、縦31.7、横24.8、パリ、カイエ・ダール社 1926年にクリスチャン・ゼルヴォスがパリで創刊した美術雑誌で、1960年の終刊まで全35巻96冊を数える。20世紀におけるモダン・アートの展開を領導したと言っても過言でなく、毎号色変わりのカバー・デザインもまた多くの美術雑誌に影響を与えた。 29-9 『新興藝術』 第1号、昭和4年(1929年)10月、縦21.0、横18.0、東京、藝文書院 29-10 『新興藝術』 第2号、昭和4年(1929年)11月、縦21.0、横18.0、東京、藝文書院 29-11 『新興藝術』 第3号、昭和4年(1929年)12月、縦21.0、横18.0、東京、藝文書院 29-12 『新興藝術』 第4号、昭和5年(1930年)1月、縦21.0、横18.0、東京、藝文書院 昭和初期のモダニズム思潮の旗手のひとりであった板垣鷹穂(1984−1966)の主導で創刊された総合芸術雑誌。昭和4年から2年間で都合6冊を数える。表紙は小山内薫(1881−1928)の創設した築地小劇場の創設メンバーの一人で、舞台美術、写真、デザインなどを手がけた吉田謙吉(1897−1982)。ゼルヴォスの『カイエ・ダール』のデザインを、当時の国内の出版物としては珍しい角判に近いフォーマットに当てはめるかたちで借用している。 29-13 『新興藝術研究』 第1号、昭和6年(1931年)2月、縦23.0、横20.0、東京、刀江書院 29-14 『新興藝術研究』 第2号、昭和6年(1931年)6月、縦23.0、横20.0、東京、刀江書院 『新興藝術』が廃刊になった翌月に創刊された後継雑誌。全体としてソヴィエト寄りの路線が鮮明になり、事実上の編集主幹であった板垣鷹穂が「一身上の都合」で任を降り、3号で廃刊となった。 29-15 『造形藝術』 第5号、昭和15年(1940年)1月、縦30.0、横22.5、東京、造形藝術社 29-16 『造形藝術』 第6号、昭和15年(1940年)2月、縦30.0、横22.5、東京、造形藝術社 29-17 『造形藝術』 第8号、昭和15年(1940年)4月、縦30.0、横22.5、東京、造形藝術社 29-18 『造形藝術』 第12号、昭和15年(1940年)8月、縦30.0、横22.5、東京、造形藝術社 大正末期から『アトリエ』、『中央美術』、『みづえ』など重要な美術雑誌の編集において中心的な役割を果たしてきた編集者藤本韶三(1896−1992)が、理想の美術雑誌のあり方を追求すべく創刊した雑誌。昭和14年9月から昭和16年8月の「第一次雑誌統合」によって廃刊を余儀なくされるまでに通巻24冊を数える。東洋と西洋、専門性と一般性、美術と工芸と建築、さらには雑誌の視覚的な体裁まで、用紙の配給の乏しいなか、また内務省警保局の検閲の厳しいなかで、奇跡的なバランスを保っており、戦前の美術雑誌出版の金字塔と言ってよい。 29-19 『美術手帖』 第1号、昭和23年(1948年)1月、縦21.0、横15.0、東京、日本美術出版KK 29-20 『美術手帖』 第2号、昭和23年(1948年)2月、縦21.0、横15.0、東京、日本美術出版KK 29-21 『美術手帖』 第3号、昭和23年(1948年)3月、縦21.0、横15.0、東京、日本美術出版KK 29-22 『美術手帖』 第4号、昭和23年(1948年)4月、縦21.0、横15.0、東京、日本美術出版KK 戦前に『みづゑ』を刊行していた春鳥会は、戦中の美術雑誌統合時代を経て、戦後日本美術出版株式会社として再生を果たし、昭和23年に『美術手帖』を創刊する。以来半世紀を超えるこの雑誌の出版史は戦後美術の展開と不離付則の関係にある。創刊当初はその誌名に示される通りゼルヴォスの『カイエ・ダール』のカバー・デザインを借り、そこにピカソやマティスなど時代の求めるモダン・マスターのデッサンをあしらうという体裁を取っていた。しかし、その小型の版型や貧しい用紙から、いまだ敗戦の傷の癒えない時代の出版状況を見て取ることができる。 29-23 『デリエール・ル・ミロワール(鏡の裏側)』 第14/15号、1948年11・12月、縦38.0、横18.2、パリ、ピエール・ア・フ、マーグ画廊 29-24 『みづゑ』 第541号、昭和25年(1950年)11月、縦25.9、横18.2、東京、美術出版社 日本の美術雑誌は戦前と戦後を通じて、西洋の、とりわけフランスの美術雑誌の影響が色濃い。デザインの借用は日常茶飯事であったし、また特集などの内容面でも後追いという現象は枚挙にいとまがない。もちろん、今日のように情報のやりとりが迅速に行えたわけではなかったから、海外から資料や雑誌を持ち帰る美術家や出版人、あるいは美術雑誌の輸入代理店などを通して入手した資料を基に、海外の美術動向を紹介する記事が組まれたのである。 |
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