26 複製の流布域が国家の輪郭を決定する!





 切手や貨幣の流通域は国家の地理的な広がりと一致する。国内各地の遺跡から出土する銅剣、銅鐸、銅鏡などの遺品について、それらの存在理由が様々に論じられてきた。複製権の管理と、複製されたモノの分布という考えに立つと、オリジナルと同一のモノすなわち複製物の所持や携帯は、その前者を管理する権力者の権威の代理執行にも等しい。遠隔地にまで及ぶ銅鏡の分布は、中央の権力がその地域にまで及んでいたことの証である。


26-1 三角縁波文帯盤龍鏡
青銅、万年山古墳(大阪府枚方市枚方町三矢)出土、径22.0、東京大学総合研究博物館人類先史部門


26-2 三角縁銘帯六神四獣鏡
青銅、万年山古墳(大阪府枚方市枚方町三矢)出土、径22.0、東京大学総合研究博物館人類先史部門


26-3 三角縁獣文帯三神三獣鏡
青銅、万年山古墳(大阪府枚方市枚方町三矢)出土、径22.0、東京大学総合研究博物館人類先史部門


26-4 三角縁獣文帯三神三獣鏡(断片)
青銅、万年山古墳(大阪府枚方市枚方町三矢)出土、径23.3、東京大学総合研究博物館人類先史部門


26-5 三角縁銘帯四神四獣鏡
青銅、万年山古墳(大阪府枚方市枚方町三矢)出土、径20.1、東京大学総合研究博物館人類先史部門


 日本列島に国の原形がまさに誕生しょうとしたその時に、多くのコピー・複製品が、国家の形成に重要な役割を果たしていた。国家形成において、また、その社会においてコピー・複製品が果たした役割とはどんなものであったか、そのおよぼした影響も含めて考えたい。

 日本古代国家の成立を律令国家ができあがる7世紀後半に求めるならば、中国の史書に倭の五王と記録された大王たちが、官人組織や軍隊組織を芽生えさせ、対外活動にのりだす5世紀や、2世紀末の倭国の大乱の収集過程で卑弥呼という女王が共立され政治的なまとまりができ、未熟ながらも官人組織や兵士・租税制が認められる3世紀の邪馬台国を、長い日本の古代国家形成過程における重要な画期と位置づけることができる。国という体制を維持するうえで、多くのコピーや複製品が用いられ、重要な役割を果たしてきたのである。3世紀と5世紀に最も重要な役割を果たしたと考えられるコピーについて、考古資料用い考えてみよう。とりわけ「三角縁神獣鏡」と「前方後円墳」を例にしたい。

1 「三角縁神獣鏡」研究史

 富岡鉄斎の長男で京都大学の講師であった富岡謙蔵は、銘文(「銅出徐州 師出洛陽」)の解読と形式編年を組み立て、最初に三角縁神獣鏡が魏代の鏡で、卑弥呼に下賜された銅鏡であると提唱した[1]。それは、梅原末治の分析と「景初三年(238)」「正始元年(240)」などの紀年銘鏡の新発見により補強された。終戦前後に大阪府紫金山古墳(10面)、福岡県一貴山銚子塚古墳(8面)、京都府椿井大塚山古墳(32面)、岡山県車塚古墳(11面)と立て続けに三角縁神獣鏡が多量に発見された。小林行雄は、同笵鏡(同じ原型または同一の鋳型によって鋳造された鏡)の分有関係を分析し、椿井大塚山古墳を中心に分有関係が成立していることを明らかにし、同古墳の被葬者が各地の首長に対して自己の管理する同笵鏡を分与した結果であり、各地に古墳が出現したのは、三角縁神獣鏡の配布に示される政治的関係の成立が契機になったと論じた[2]。また、小林は、三角縁神獣鏡が大型で、規格性があり、図像文様を分割する目印として乳を加えていることや、同じ型で作った同笵鏡が多数存在することから、短期間のうちに多量の鏡を作る特別な事情があったと特鋳説を唱えた[3]。現在、三角縁神獣鏡は、約400面が確認され、その文様の種類は約140種におよび、多いもので9面の同笵鏡が発見されている。西田守夫は三角縁神獣鏡が神獣鏡と画像鏡を基本に、獣帯鏡や盤龍鏡などの要素を部分的に取り入れていることを明らかにした[4]。三角縁神獣鏡が魏の領域(中国)から一面も発見されないことから、森浩一・古田武彦らにより国産説が説かれた[5]。中国の王仲殊は、神獣鏡や画像鏡が魏と敵対関係にあった呉に多い形式であること、中国から出土していないことなどから、呉の工人が海を渡って日本列島で製作したと論じた[6]。折しも実在しなかった年号の「景初四年」銘竜虎鏡が京都府広峯一五号墳より発見された。現在の平壌を中心とした楽浪郡には、日本の鏡群に共通した斜縁二神二獣鏡や画文帯同向式神獣鏡・飛禽鏡・「上方作」銘半肉彫り獣帯鏡などが中心的に分布し、両者のあり方の類似から三角縁神獣鏡の楽浪群製作説が北野耕平・岸本直文・西川寿勝らにより説かれるに至った[7]

 景初3年(239年)12月、魏の皇帝は、倭の女王卑弥呼に詔書を下し、「親魏倭王」に冊封したうえで、献上品の見返りとして様々な織物類のほか、金8両、5尺の刀2口、銅鏡100枚、真珠と鉛丹50斤を下賜した。そして「還り到れば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀しむを知らしむべし。故に丁重に汝に好物を賜うなり」[8]と命じた。

 卑弥呼が魏王から賜った銅鏡100枚が三角縁神獣鏡であるか否かはともかくとして、初期大和政権にとって、三角縁神獣鏡はたいへんもてはやされた鏡である。

 三角縁神獣鏡はいくつかの共通した特徴、規範をもっている。一、面径が平均22.3センチメートルで、20〜25センチメートル内に大半の鏡が入ることから、大きさが均一で中国鏡の中では大型鏡に属する。二、鏡背の内区に東大父や西大母などの神仙と龍虎などの霊獣が配される。三、縁が三角形状に肥厚している。ことなどがあげられる。四、一見して同じ鏡なのであるが、背の図像の配置や神像・獣像を対比してみると多様な変位がみられ、異なる鏡であるの特徴である。

 三角縁神獣鏡は画文帯神獣鏡と共に、背の図像は、不老長寿を願った神仙思想をデザインしたものである。当時の指導者層にもてはやされ、それを共有することが、大和政権を中心とする首長達の秩序維持に役立っていたかのようである。

2 鏡の製作技法

(1)線彫り
先のとがった棒状の工具で、鋳型に直接主紋様を線彫りする。方格規矩鏡・獣帯鏡・鳥紋鏡・唐草紋鏡など
(2)平彫り
先が平らな工具を使い、鋳型に直接紋様を平彫りする。連孤紋鏡・獣首鏡・き鳳鏡・双頭龍紋鏡・四鳳鏡など
(3)平彫り・線彫り
平彫りした紋様の隙間を線彫りで銘文や紋様を充填する。
(4)半肉彫り
鋳型にスプーン状の工具を用いて紋様の輪郭を半肉彫りし、紋様の細部を線彫りで充填する。三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡・画像鏡・龍虎鏡・飛禽鏡・獣帯鏡・四獣鏡など
(5)ロウ型技法
蜜ロウなどにより紋様を原型に貼りつけ、原型を鋳型に転写して鋳造する。
 線彫りから平彫りへ発展し、線彫りと平彫りの双方を用いた表現から、より立体的な半肉彫りへと展開している。やがて、量産化が見られるようになるとロウ型技法が導入され、原型のコピーを鋳型に用いるようになるといった変遷が考えられる。[9]

3 鏡の複製方法

(1)同型鏡・同笵鏡
同じ原型または同一の鋳型によって鋳造された鏡で、小林行雄は一つの笵で製作可能な枚数は最大5枚で、三角縁神獣鏡は五面一組の箱に納められていたと考えた。八賀晋氏は、紫金山古墳出土の三角縁神獣鏡の彫り直しが長光寺古墳例で行われているのを確認し、笵を補修しながら鋳造し、同じ笵で10枚近くを鋳造することを想定した[10]
(2)踏み返し鏡
製作された鏡をもとにそれを原型にして踏み返して鋳造された鏡。摩耗し紋様が不鮮明で、傷などが転写される。小林行雄氏は、紫金山古墳出土の三角縁神獣鏡において鋳型の剥離を指摘した[11]。真土型による踏み返しを想定した。
(3)
踏み返しによって製作された鋳型を彫り直す。これはコピーであるが、オリジナルな部分が付加されたことにもなる。
(4)倣古鏡(復古鏡)
古の鏡を模倣し、復古した鏡を製作すること。大概は三国時代以降にみられ、鏡が最も発展し充実した漢代の鏡を模倣している。これは、三国時代から南北時代が、中国において一種の動乱期にあたり、各地が分裂割拠し、地域的な違いが顕著になったことや、鏡製作の要素に地域性や工人集団の個性が入り込み、鏡が本来もつ宇宙観を欠いたことが考えられる。本来の意味が問われる時、先祖返りを行う必要があったのであろう。[12]

4 鏡の原料

 原料の分析は鉛同位体比法によって類推できる。銅剣・銅鐸は、朝鮮半島から中国北部の銅を材料とし、舶載鏡については、中国各地の原料を使用している。三角縁神獣鏡には、「銅出徐州」の銘により、材料である銅の産地は、徐州が有力な候補に掲げられるが、踏み返しや銘文の模倣などが考えられ、即断はできない。古墳時代の鏡は、中国産の銅製品やスクラップ、古銅の使用するため、大陸各地の様相を呈し、原料から産地を同定するのは難しい。国産の原料の使用は、奈良時代の青銅器から開始されている。[13]

5 紋様の表現

 古来、中国では自らの姿を見るのに容器に水を盛り、それに写る姿を見て鏡、「水鑑」としていた。銅鏡の開始は、斉家文化期から始まる。甘粛省広河斉家坪の墓葬から鏡の背に文様の無い環状の鈕をもつ「素鏡」が出土している。また、青海省貴南乃馬台二五号墳からは、鈕のを中心に七角の星を描いた「七角星文鏡」が出土している。周縁には斜線の線刻で充填されている三角形の文様ができ、その部分だけ見ると、圏帯によく見られる三角文の素形に思われる。斉家文化、伝甘粛出土の「三角紋鏡」は鈕の外側を二重の圏帯で囲み三角文を配している。外縁部に見られる圏帯の三角鋸歯文は、星の表現に起因したものであろうか。初源の文様のあり方は、その後の展開を考えると非常に重要である。殷代の河南省安陽殷墟婦好墓からは、鏡の内区を縦に分割し、区画内を葉脈のような文様でうめた「葉脈文」や六重に圏帯を巡らし中に刻みを入れた「多圏凸弦文鏡」などの四面の銅鏡が出土し、銅鏡の鈕・圏帯・内区などの文様を刻む構成は、初源期より形作られている[14]

 中国鏡は殷・西周時代になると背面に鳥獣文が描かれるようになる。鈕を中心に星を表現した文様は、鋸歯文や鏡の背に宇宙観を反映した文様へと変化していく。春秋戦国時代はそれらの文様が発展し、鳥獣の種類が増えたり、雷文など象徴化された文様が大胆に背面を構成するようになる。天空に展開する様々な日・月・星・自然現象・鳥獣が象徴化され登場する。文字による背面の宇宙観の説明はなく、怪異で奇巧な造形と文様構成になる。漢代になると図像は多様化する一方で、作者や鋳造の理由、吉祥が銘文として鋳られ、説明がつくようになる。鏡の背面の文様も理論的に完結した宇宙観で表現され、意味を持つようになっていた。つづく三国時代から南北朝時代は、神獣鏡類、変形四葉文鏡類、凰鳳文鏡類、瑞獣鏡類と製作鏡式も減り、製作された銅鏡の種類がいくつかに限られ、新たに創案された鏡も少なく、漢代の復古鏡や踏み返し鏡などのコピーが製作されるようになる。また、地域差も著しく生じるようになっていった[15]

 三角縁神獣鏡の図像は、『山海経』[16]の伝説にも掲載されているように、神仙とそれらに使役される獣を表し、この鏡を使うものに長寿と昇仙を約束する内容であった。その創出には、画文帯神獣鏡と画像鏡をモデルにつくられたと考えられている。

6 銘文の表現

 中国の鏡に初めて文字のようなものが刻まれるのは陝西省鳳翔県南指揮四六号墓より出土した素鏡の下方に鋳出している。双円に山の字が合体したような表現が描かれている。想像をたくましくして言えば、この○は天空、言いかえれば天の空間、空圏を示すのではなかろうか。昼と夜の天空であろうか。また、日が横になったとも見えるが、日は太陽の形に実体を表す小点加えたもので、その表現からするとやや異なる。双円の中央に接して、山の字が描かれるがこれは、戦国時代に盛んに作られる「山字鏡」をほうふつさせる。「山字鏡」どの型式の鏡にも共通の要素として、鏡の縁の円圏に山の最も長く伸びた中央の端部が接している点があげられる。私は、先にあげた双円の中央に接して、山の字が描かれる最古の文字のようなものとこの「山字鏡」をつなげる接点がここにあると思う。「山」字形の文様については、梁廷楠、駒井和愛らは、雷文の変形である山形文が変化したものと考えた。また、孔祥星、劉一曼らは殷周銅器にみられる鉤連雷文との関係を示唆している。駒井和愛は、山の字を表したと理解し、山は不動、安静、養物などから吉祥の意味を含んでいると解釈した。地表に突出する山の象形とは字体も異なる。双円の天空から伸びた山形の文様は鏡の縁の円圏から伸びた山形の文様と性格は同じと考えたい。鏡の円圏は天空を表し、接しない山の字の両端は内側または外側に突出する。雷文は渦巻き状の雲をかたどった文様のみが強調されるが、この山の字形の文様も、天空から激しく大地にそそがれる稲光、雷文を表したと考えられる。中国の鏡が当初より鏡面が現実空間の森羅万象を映す側であり、背は天空の空間を象徴的に表している[17]

 中国鏡の大きな画期は、漢代にある。文様構成が多様化すると同時に、銘文が確立し、盛行している。漢代には、多種類の銅鏡が製作され、星雲鏡類・四乳禽獣文鏡類を除く、ほとんどの種類に銘文が鋳られるようになる。それらは、鏡の文様に拘束されることなく、同じ吉祥の銘文が踏み返し、用いられるのが特徴である。後漢の銘文は七言句、四言句、三言句の形をとり、数種類のテキストがあり、それに基づいて適時省略、改変して長寿・子宝・出世・財産が銘文を創出している。神獣鏡類の代表的な銘文には、「五帝天皇 白牙弾琴 黄帝除凶 朱鳥玄武 白虎青龍」があげられ、画像鏡類には、「尚方作竟四夷服 多賀国人民息 胡虜殄滅天下復○風雨時節五穀熟 長保二親得天力」、「長宜子孫」、「上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗」、「尚方作竟真大巧 上有仙人不知老」があげられる。

 三角縁神獣鏡の銘文にもこのような中国の伝統を引継、七言句、四言句、四字熟語によりかたちづけられたテキストが存在する。テキストのルーツは方格規矩鏡の「尚方作鏡真大好 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗 浮游天下敖四海 寿如金石為国保」にあると考えられ、「真大好」を「其大好」に、「上有仙人不知老」を「神守及龍虎」と具体化し、「浮游天下敖四海」を削除して三角縁神獣鏡のテキストとしている。また、方形区画に銘を刻む場合は、四字熟語「天王日月」が多く、天帝と日月のバランスがとれた理想の状態を表している[18]

 富岡謙蔵氏が指摘するように三角縁神獣鏡の銘文の中には「銅出徐州、師出洛陽」とあり、徐州の銅を用いて、洛陽の工人が作ったことが記されている。「景初三年」や「正始元年」という魏の年号を持つ鏡の存在から、魏における製作と『魏志』倭人伝の「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡である可能性は高い。400面程に達している三角縁神獣鏡の銘文には「陳氏」や「張氏」、「王氏」などの中国人の作者名があり、その製作には複数の中国人の鏡作り工人がかかわっていたことが判る。岸本直文氏は、神獣鏡の表現が鏡製作者を反映すると考え、十種類に分け、それぞれの系統を四神四獣鏡・二神二獣鏡・陳氏作鏡の主流三派にまとめ、最終的に三神三獣鏡に変わっていく変化の方向を明らかにした[19]

 岡村秀典氏は「銅出徐州」の銘等により、確実に魏で作られたことが明らかな青竜三年銘鏡や尚方銘獣帯鏡等の分析から、魏の鏡作りが、盤竜鏡や画文帯神獣鏡などの漢鏡を模倣することが基調であったことを指摘し、そうした模倣を基調とする作鏡姿勢の中で画文帯神獣鏡と画像鏡をモデルに三角縁神獣鏡を作ったと理解した[20]

 森下章司は、図像の配置と組合せ変化の過程を明らかにし、多量生産を目的に短期間のうちにさまざまな三角縁神獣鏡を作るために他の鏡式の文様を集めた結果、各文様が部分的になったが、神と獣の数や配置をかえ、笠松形文様の位置、獣の向きや銘文の方向を改変し、三角縁神獣鏡が組合せと配置に工夫をこらし、文様構成と配置を換えることで作製図案をふやすことになった論究した[21]

 そのため、東王公・西王母の配置が変化し、四神四獣の原則が破られ、琴を弾いて宇宙の調和をはかる伯牙の欠落するなど、本来、画文帯神獣鏡など、中国の鏡作りに守られている宇宙観に従った配置の決まりが放棄された。そうした、宇宙観の原則にこだわることのなくなった作鏡姿勢は、文様や銘文の一部だけを取り込むようになったり、仏像や蓮華文、ラクダ、ゾウ、サソリ、乳の捩文座など新しい図像文様を採用するようになったと岡村秀典は指摘している[22]

 ここでいうコピーは、三角縁神獣鏡という規範は逸脱しないものの、同じではない異なった文様の鏡を生み出そうとするものである。そこには変容が生じる。これは、人間の根本原理である遺伝子のあり方と類似している。遺伝子は異なる要素と合体して新たなる種を創出するが、これは母体となった親の遺伝子を半分ずつ引き継ぐものの、生み出されたものは全く新しい要素をはらんでいる。三角縁神獣鏡で、新しい鏡を多量に生産するために、試みられたモデルからの要素の抽出と文様の多様性を生み出す為の組み替えが、本来ならば拘束されるべき鏡の図像の宇宙観からの開放をうながし、神仙思想に変わる新たな仏像や西方伝来の新たなモティーフを取り込む契機になったのである。これは、新しい鏡を作るための単なるコピーの複合が、鏡背面の図像の世界観に変革をもたらし、これまでのルールからの開放され、新しい要素を取り込める契機になった。図像の宇宙観に拘束されずに、新しい要素による作鏡は、新たな鏡を生み出す契機になっていく。

7 東京大学総合博物館保管の三角縁神獣鏡

 大阪府枚方市枚方町三矢に所在する万年山古墳は、淀川を臨む天野川の河口に立地する前方後円墳と考えられ、意賀美神社の境内にあり、明治37年(1904)の枚方小学校の運動拡張工事中に偶然発見された[23]。埋葬施設は、石材が認められず、木船状の上より遺物が発見され、粘土槨の舟形木棺か割竹形木棺と考えられる。副葬された八面の鏡のうち六面の三角縁神獣鏡があり、早くから小林行雄氏によりで同笵鏡の存在が指摘されていた[24]。その分布範囲から淀川水系の水上交通を掌握した有力な首長と考えられる。意賀美神社付近は伊加賀といわれ、片野物部の祖とされる伊加色男命の居住地との伝承があり、天野川の上流の磐船神社は饒速日命の降臨伝承地とされている[25]

 吾作銘 三角縁四神四獣鏡[26-5]は、面径20.1センチメートルで、内区外側の乳座により神と獣像を四分割し、神像4体と獣像4匹を、神像を復像式に、獣像は笠松文を挟んで相対峙するように配置する。銘帯内に反時計廻りに「吾作明竟甚大工 上有王喬□赤松 獅子天鹿其義龍 天下名好世無雙」と七言の句が鋳られる。銘帯は鋸歯文帯と櫛歯文帯に挟まれ、外区は外向きで鋸歯文帯・鋸歯文帯・複線波文帯・鋸歯文帯の順になる。福岡県京都郡苅田町石塚山古墳・ 広島県広島市中小田一号墳・兵庫県神戸市西求女塚古墳・奈良県天理市黒塚古墳・京都府山城町椿井大塚山古墳に2面の計7面の同笵鏡が認められる。初期の作品に位置づけられる。

 陳是作銘 三角縁六神四獣鏡[26-2]は、面径22.0センチメートルで、乳により四分割され、一つの乳は形骸化した笠松形の文様を伴う。正面二体横向き一体の神像と二匹の獣像が対になって配される。銘帯内に時計廻りに「陳是作竟甚大好 □□□守及龍虎 身有文章□□□ 古□□人東王父 渇飲玉□飢食棗」の七言の句と「壽」「如」「金」「石」が鋳られる。

 日月日日銘 唐草文帯四神四獣鏡面は、径21.8センチメートルで、方形格に「日月日日」銘字が配され、静岡県磐田市経塚古墳に同笵鏡が認められる。

 君・宜・官銘 三角縁獣文帯三神三獣鏡[26-3]は、面径22.0センチメートルで、時計回りに「君」「宜」「官」の銘が配される。奈良県北葛飾郡河合町左味田宝塚古墳と同笵である。

 三角縁獣文帯三神三獣鏡[26-4]は、面径23.3センチメートルで、約3分の1が遺存している。乳に区画された中に一体の神像と一匹の獣像が配されている。

 三角縁波文帯盤龍鏡[26-1]は、面径22.0センチメートルで、角を有する龍4匹が体を曲げ、向き合い胴体を紐の下に隠し上半身が飛び出している。兵庫県揖保郡新宮町吉島古墳と奈良県桜井市池ノ内五号墳に同笵鏡が認められる。

 三角縁神獣鏡の初期の作品からかなり展開した新しい部類のものまでを一同に所有している。鏡の同笵による分有関係の相違と併せて、三角縁神獣鏡の配布のあり方が問題になってくる。

 群馬県太田市牛沢頼母子古墳から出土した[26]

 三角縁波文帯盤龍鏡は、面径21.7センチメートルで、盤龍鏡であることは判るが、銹化が著しく鏡背文様は明瞭でない。

 三角縁銘帯四神四獣鏡は、面径21.7センチメートルで、笠松形を伴う乳により四等分され、二神二獣を各々配する。外区は外向き鋸歯文帯が複線波文帯を挟んでいるという[27]

8 所有者の分析

 三角縁神獣鏡を分与、配布のあり方を考えると複雑であることがわかる。多量の三角縁神獣鏡を持った大型前方後円墳が複数有り、その古墳の鏡に中央と地方を結ぶの同笵関係のある鏡が多く含まれ、それらの鏡はそれぞれ異なった遠隔地との分有関係を持っている。このような、他地域との分有関係にある複数の鏡を持つ大型古墳の被葬者をどのように考えればよいのであろうか。そうした古墳には一つの特徴がある。大和・畿内から地方にでる河川や海上交通の要所に位置しているのである。東国では大形古墳に限られるが、瀬戸内海や北部九州では小形前方後円墳からも三角縁神獣鏡の出土が認められる。これは、水軍や水上流通にかかわるなど大陸との文物の交流や搬入に携わっている地域の首長に手厚く配慮したものと考えられよう[28]。水上交通の要の位置に所在する大形の前方後円墳では、前述した大阪府万年山古墳などもあげられように、吾作銘三角縁四神四獣鏡の同笵鏡を持つ古墳が、福岡県京都郡苅田町石塚山古墳・広島県広島市中小田一号墳・兵庫県神戸市西求女塚古墳・奈良県天理市黒塚古墳・京都府山城町椿井大塚山古墳など、広域に同笵鏡を共有しているのが常である。また、そうした古墳では同笵関係が異なる他の三角縁神獣鏡を複数所有しており、同型鏡を含めて、多くの三角縁神獣鏡を集めるかのように所有している事実が浮かび上がる。

 これには、三角縁神獣鏡というコピーを共有する意義について考えてみる必要がある。紀元前1世紀から紀元後3世紀、倭の国々は国家形成の胎動のなかで、中国の文物とりわけ銅鏡に付加価値を見いだし、各首長は積極的に中国に朝貢して、銅鏡の獲得と中国の政治的な後ろ盾を得ようとしたと思われる。中国所産の多様な鏡が舶載して倭国内に持ち込まれることになるのである。同じものを共有して持つことの意義を考えると、汝の好物の一つである銅鏡百枚とは、弥生時代のこれまでの倭の国々が獲得してきた多種多様な鏡ではなく、同質の鏡百枚であった蓋然性が高いと思われる。

 三角縁神獣鏡が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚であれば、『魏志』倭人伝にも記されているように朝貢して下賜された鏡などの「もの」をさらに従属する人たちに贈与することにより、自らの政治的な威信と秩序を手に入れることができたと思われる。それが、異なる鏡であれば、弥生時代のそれぞれの首長が諸国ごとに中国から入手したあり方と同じであり、質的に変わらない分与のあり方は、共通の基盤を有する国家のあり方としては弱い。むしろ、それは、三角縁神獣鏡という同じものを持つことにより、下賜する者とされる者が同じ「もの」を共有し、「まつりごと」に使用することにより、同じ社会的秩序に属し、それを受け入れることを表し、同じ「もの」を持つことにより、授ける側と受ける側の同質化が生じる、その一方で授ける者と受ける者という政治的身分の序列化が明確になったと思われる。

 共有するということは、一方で差別化が必要となってくる。共有により、同質の社会と秩序を受け入れるが、国家として機能するためには、身分や階層の序列化、組織化が不可欠となる。同質のものを持つことにより、同化する行為は、一方で矛盾を抱えるようになる。共有という同質化が生じ、他方で差別化が必要となる。近年、多くの三角縁神獣鏡が盗掘を免れた畿内中枢の大型前方後円墳で確認されている。奈良県黒塚古墳で7組み15面の同笵鏡が検出され、京都府椿井大塚山古墳に4組9面の同笵鏡が共存している例は、両古墳の被葬者が分配元の近くに位置し、しかも他の三角縁神獣鏡の共有者と差別化する為に、より多くの三角縁神獣鏡を所有する必要があったことの現れと考えられる。つまり、三角縁神獣鏡という同質のものによる政治的な差別化は難しく、差別化のためには量を抱えるほかなかったのである。

 また、三角縁神獣鏡の性格を考える上で、出土位置にも注目したい。黒塚古墳において舶載された三角縁神獣鏡は、棺外の木棺北側半分にそってコの字に形に取り囲むように鏡面を木棺側に向けおかれていたのに対し、棺内の北端には、画文帯神獣鏡がおかれ、明らかに両鏡の対応は異なっていた[29]。これは、三角縁神獣鏡が軽視されぞんざいに扱われたのではなく、両者の鏡の性格の違いと判断したい。つまり、生前故人が使用していたり、埋葬された被葬者との個人的な関係が強い、鏡は棺内に配され、公の祭儀など個人より集団の為に使われたより公共性が高い鏡は、埋納する際に個人よりも離れたところに配置されるのではなかろうか。個人所有というのではなく、地域の祭儀を司り、政治的なシステムとして共有していた鏡というものの扱い方に起因していると思われる。それも、墓に埋納され、供献されるのであるから、それを管理していたという意味で被葬者との関連が薄いわけではない。

9 「共有」から「共造」へ——三角縁神獣鏡から前方後円墳へ

 古代国家形成過程を考古学的には「古墳時代」と呼んでいる。それは、前方後円形をした墳墓、前方後円墳が倭政権の誕生と共に成立する。それが継続して営まれた時代である。前方後円墳の特徴として、一、墳形の平面形は前方後円形を呈する。二、段築により、巨大な墳丘を有する。三、墳丘上には葺石、吉備に起源をもつ祭祀用の土器や器台、埴輪を有する。四、割竹形木棺とそれを覆う割石積みの竪穴式石室等の被葬者を埋葬する内部施設を有する。ことがあげられる[30]。そして、前期の前方後円墳の中には三角縁神獣鏡を含む多数の中国鏡が副葬されていた。

 都出比呂志は、三段築成と北頭位を中国思想から新たに導入された要素と見なし、前方後円墳を頂点とした古墳祭式が、地域をこえた国の統一規格になり、古墳の形式と規模により政治的身分を秩序づけたと考えた[31]

 小林行雄は、首長の地位が世襲的に安定し、倭政権がその地位を保証することにより、首長を権威づけていた伝世鏡の宗教的意義がうすれ、首長と共に埋葬されたと考えた[32]

 私は、三角縁神獣鏡の共有と「まつりごと」での使用による共通規範が、新たな前方後円墳というコピーにより秩序づけられることにより、その主な役割が終焉したためと思う。そこには、鏡を用いた祭儀の変質も考慮する必要があろう。地域を治める首長達に新たな政治祭式的な象徴的造形物として、前方後円墳がコピーされていくと同時に三角縁神獣鏡がそれを担った首長と共に埋納されて行くのである。

 最古の前方後円墳は奈良県桜井市の箸墓とされ、当初より同一規格で相似的な古墳が築かれている。箸墓古墳を1/1とすると、岡山県浦間茶臼山古墳はその1/2で、京都府五塚原古墳は1/3、元稲荷古墳が1/3、岡山県湯迫車塚古墳が1/6と規模を変えたコピーの前方後円墳が、政治的関係が密な地域に営まれている。大阪府伝応神陵古墳を1/1とすると1/2が奈良県コナベ古墳、1/3が兵庫県雲部車塚古墳など中期古墳においても相似形の前方後円墳は営まれ、そのあり方は、変容しながらも、後期、最終末まで続き、中央だけでなく地方まで波及している[33]

 倭国、大和朝廷は、政治的な身分秩序も同時に表せるコピー、前方後円墳をえられたのである。これは、大陸から下賜されたものを「共有」するシステムから、「共造」するシステムへの移行でもあった。

 白石太一郎氏は、「『画一的内容をもつ巨大な古墳が日本列島各地にみられる』という特徴は、日本の古墳がもっていた特殊な政治的性格を示すものと考えざるをえない」とし、播磨の竜山石の長持形石棺や讃岐の鷲ノ山石や阿蘇石製の舟形石棺など、「それぞれの地域独自の石棺が畿内やその他の地域に運ばれている。一方、葬送儀礼に欠かすことのできない銅鏡の多くは畿内中央部で製作されたものが各地にもたらされたものであり、北陸で作られた腕輪形石製品も各地に運ばれているのである。これらの事実は、日本の古墳が基本的には、各地の政治勢力が『共に造るもの』であったことを物語る」とし、「日本列島各地の古墳にみられる画一性、さらに異常ともいえるその巨大性は、こうした各地の政治勢力の間に形成されていた諸王共同体、すなわち首長連合の特殊な政治構造と関連させて、はじめて理解できるものである。」と解釈した[34]

 古代国家形成過程において、コピーは斉一的で画一化されたものを生みだし、それを共有することにより、そこに存在する共通規範が、社会や政治システムを維持するのに重要な役割を果たしていたことがわかる。真似ると言う行為は一見そのものと全く同じものを複製しているように思えるが、ほんのささいな現実への適応行為が常に伴うものである。遺伝子のように同じ概念でくくれるものを重ねてはいるものの、生み出されたものは似て非なるものである場合がある。コピーという行為の中で、現実の社会での適応という小さな変化は、後の大きな変革の誘因となり、次の時代を担う要素が含まれていると思われる。

 日本において、中国から下賜されたものを「共有」するという行為は、「共造」するというシステムに発展し、中国で三角縁神獣鏡の製作のための作鏡行為が、鏡とその背の図像が本来もっていた宇宙観からの離脱を促し、生産者側にも大きな影響を与えることになる。

 考古学では、ものにまで及んだ時代の変革を画期としている。文化においてリセットされることは、画期の要因として認識される[35]。下賜された文物であれば、それを担っていた王や首長が亡くなった際に、象徴的であったそれらのものを墳墓に埋納することによって、リセットは可能である。しかし、アジア的な古代政治文化システムといえる前方後円墳の造営ような巨大な構築物である場合、リセットも容易ではない。前方後円墳の築造は「共造」するというシステムと相まって、巨大化への道を歩み、その領域を拡大させて行くのである。
(井上裕一)




【註】

[1]富岡謙三『古鏡の研究』、1920年。[本文へ戻る]

[2]小林行雄『古墳時代の研究』青木書店、1961年。[本文へ戻る]

[3]小林行雄『古墳文化論考』平凡社、1976年。[本文へ戻る]

[4]西田守夫「神獣鏡の図像」『MUSEUM』107号、東京国立博物館、1968年。[本文へ戻る]

[5]森浩一「日本の古代文化」『古代史講座』3、学生社、1962年。[本文へ戻る]

[6]王仲殊『三角縁神獣鏡』学生社、1992年。[本文へ戻る]

[7]北野耕平「古墳時代の富田林」『富田林市史』1、富田林市、1985年。   岸本直文「権現山五一号墳出土の三角縁神獣鏡について」『権現山五一号墳』『権現山五一号墳』刊行会。   西川寿勝『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』学生社、2000年。[本文へ戻る]

[8]『魏志』倭人伝。[本文へ戻る]

[9]一瀬和夫「コラム二銅鏡をつくる」『鏡の時代——銅鏡百枚』大阪府立近つ飛鳥博物館、1995年。   西川寿勝『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』学生社、2000年。[本文へ戻る]

[10]八賀晋「製三角縁神獣鏡の研究——同鏡にみる笵の補修と補刻」学叢(第6号)、1984年。[本文へ戻る]

[11]小林行雄『古墳文化論考』平凡社、1976年。[本文へ戻る]

[12]森下章司「古墳時代前期の年代試論」古代(第105号)、1998年。[本文へ戻る]

[13]馬淵久夫他「鉛同位体比による漢式鏡の研究(1)・(2)」『MUSEUM』(370・382)、東京国立博物館、1982年。[本文へ戻る]

[14]孔祥星・劉一曼『図説中国古代銅鏡史』中国書店、1991年。[本文へ戻る]

[15][14]に同じ。[本文へ戻る]

[16]『山海経 校譯』上海古籍出版社出版、1985年。[本文へ戻る]

[17][14]に同じ。[本文へ戻る]

[18]藤永正明「三角縁神獣鏡の図像・文様・銘」『鏡の時代——銅鏡百枚』大阪府立近つ飛鳥博物館、1995年。[本文へ戻る]

[19]岸本直文「三角縁神獣鏡の工人群」『史林』72—5、京都大学、1989年。[本文へ戻る]

[20]岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999年。[本文へ戻る]

[21]森下章司「文様構成・配列からみた三角縁神獣鏡」『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』京都大学文学部博物館、1989年。[本文へ戻る]

[22][20]に同じ。[本文へ戻る]

[23]梅原末治「河内枚方町字萬年山の遺蹟と発見の遺物に就いて」『考古学雑誌』7—2、   後藤守一『漢式鏡』雄山閣、1926年。[本文へ戻る]

[24]小林行雄『古墳時代の研究』青木書店、1961年。[本文へ戻る]

[25]森浩一「第三章 古墳文化と古代国家の誕生」『大阪府史』第1巻、1978年。   瀬川芳則「枚方台地の古墳」『日本の古代遺跡11 大阪中央部』、1983年。[本文へ戻る]

[26]橋本博文「頼母子古墳」『太田市史』通史編(原始古代)、1996年。   後藤守一『漢式鏡』雄山閣、大正15年。[本文へ戻る]

[27][26]に同じ。[本文へ戻る]

[28]井沢洋一「那珂八幡古墳と副葬の三角縁神獣鏡について」『考古学雑誌』72巻1号、1986年。[本文へ戻る]

[29]『黒塚古墳 調査概報』学生社、1999年。[本文へ戻る]

[30]近藤義郎『前方後円墳の時代』岩波書店、1983年。[本文へ戻る]

[31]都出比呂志編『古墳時代の王と民衆』講談社、1989年。[本文へ戻る]

[32]小林行雄『古墳時代の研究』青木書店、1961年。[本文へ戻る]

[33]第4回東北・関東前方後円研究会大会〈シンポジウム〉前方後円墳の築造企画、1999年。[本文へ戻る]

[34]白石太一郎「アジアの中の日本の古墳」『日本考古学協会第67回総会研究発表要旨』、2001年。[本文へ戻る]

[35]人間本来の機能としても、根本原理としてコピーを作るという行為があげられる。遺伝子である。クローン羊ドリーの場合は、寿命が非常に短かった。それは、テレメアが短かったと考えられている。染色体の端の部分には、テロメアという繰り返しパターンの遺伝子がある。細胞分裂の際に遺伝子が複製されるが、端の部分までコピーすることはできず、細胞が分裂を繰り返すとテロメアがだんだん短くなり、そして、ある程度までテロメアが短くなった細胞は分裂しなくなる。人間の細胞の場合、約70回が限界と言われている。テロメアの短縮化は、動物の老化現象と密接に関連し、生殖細胞ではテロメラーゼという酵素の働きでテロメアが再生されるため、分裂回数の限界はリセットされる。次世代の子供の細胞は再び分裂を開始できるのである。  考古学では、ものにまで及んだ時代の変革を画期としている。文化においてリセットされることは、画期の要因として認識される。下賜された文物であれば、それを担っていた王や首長が亡くなった際に、象徴であったそれらのものを墳墓に埋納することによって、リセットは可能である。しかし、対象が前方後円墳のような大形の構築物であるとリセットは容易ではない。仏教伝来とともに方墳に変化させたり、造墓自体を規制し、前方後円墳の築造を廃止させるのである。コピーするために機能しているテロメア的なものとは、歴史学でなんであろうか。コピーを打ち消す機能とともに種、文化としての普遍性を維持する為の機能とも考えられる。[本文へ戻る]


【文献】

孔祥星・劉一曼『図説中国古代銅鏡史』中国書店、1991年。
王仲殊『三角縁神獣鏡』学生社、1992年。
大阪府立近つ飛鳥博物館『鏡の時代——銅鏡百枚』、1995年。
岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999年
車崎正彦「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か」『卑弥呼は大和に眠るか』文英堂、1999年。
小林行雄『古墳時代の研究』青木書店、1961年。
小林行雄『古鏡』学生社、1965年。
小林行雄『古墳文化論考』平凡社、1976年。
近藤喬一『三角縁神獣鏡』東京大学出版会、1988年。
西川寿勝『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』学生社、2000年。
富岡謙蔵『古鏡の研究』丸善株式会社、1920年。
樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、1992年。
樋口隆康『三角縁神獣鏡新鑑』学生社、2000年。
京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、1989年
埋蔵文化財研究会『倭人と鏡 日本出土中国鏡の諸問題』、1994年。



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