「あい剥ぎ」とは一枚の紙を薄く二枚に剥ぐ技術のことを指し、「あいはぎ」ないし「あいへぎ」と読む。この特殊な技術は厚い紙を掛幅や巻子に表装する場合に使われる。表装にさいしては絵の描かれた紙(本紙)の裏に強度を増すため肌裏、増裏、総裏など裏打ち紙を貼り付ける。そのため、本紙が厚いと巻いたときに紙への負担が増し、本紙が裏打ち紙から剥がれて浮き上がり易くなる。そこで本紙をあい剥ぎして薄くする。また、両面に字などが書かれているものの損傷を修復する場合にもあい剥ぎは用いられる。虫食いや焼け焦げで損傷を受けた紙を修復するためには、損傷部分に紙を継ぐか紙の繊維を充填するかして、叩いて裏打ちをして補強する。しかし、この場合、裏打ちをしたのでは片面が隠れてしまうため、あい剥ぎしてその間に補強用の紙を挟む。これを「中打ち」と言い、冷泉家の『明月記』の修復のさいにはこれが使われた。近年図書館などでは劣化した資料を修復保存するため、東欧圏から紹介された「中打ち」と同じ原理の修復技術が使われているが、こちらの方は「ペーパー・スプリット」と呼ばれる。また、古文書や手紙など掛幅に表装するさいなどにも、両面の生かせるあい剥ぎ法が用いられる。 あい剥ぎしたあとに残される、図様の写った下層の紙を「あい剥ぎ本」と呼ぶ。あい剥ぎ本を作るには、絵具が下層にまで染み込んでいることが前提となる。紙の繊維には種類によって疎密があり、疎であるほど水分が染み込み易い。といっても、たとえば岩絵具のように顔料の粒子が粗いものは繊維のなかへ浸透せず、紙の表面に附着した状態になっているため、あい剥ぎ本を作ることができない。紙の下層にまで染み込むのは墨や淡彩絵具に限られる。また、滲み止めに礬水(どうさ)引きしてある紙も不向きである。紙を二枚に剥ぐことは、原理上はどのような場合にも可能であるが、繊維の長さなどによって剥ぎ易さに違いが生じる。長繊維の代表は和紙の原料としてつとに知られる楮、短繊維のそれは木材チップや青檀である。繊維はセルロースという強靭な質料から成るため、容易に断ち切れない。したがって、繊維の長いものは結びつきが強まり、剥ぎ難い。 以上のように、あい剥ぎ本を作るには、紙の繊維が短く、疎らであり、かつ墨が染み込み易いという条件に適うものでなければならない。近代の文人画家富岡鉄齋(1863−1924)が愛用していた玉版箋は、この条件をすべて満たしている。玉版箋は中国の安黴省宣州で古くから生産されている書画用の高級紙である。墨が染み込み易い上、厚いため墨をたくさん含んでも破れ難い。そのため、墨を筆にたっぷり含ませて描く鉄齋のような画人にとっては、たいへん重宝な紙であった。なお、玉版箋は鉄齋だけでなく広く文人画家に使われていたようで、岸田劉生の紙本墨画淡彩の作品などにもこの玉版箋が使われている。もっとも玉版箋なら良いかといえば、そう簡単なものではない。作品に捺される印章の朱泥は紙に染み込まないため印を偽造しなくてはならないし、墨の水分が少なくて下層まで染み込まなかった部分に補筆をする必要も生じるからである。実際、今回展示されている富岡鉄齋の『普陀落山観世音菩薩』のあい剥ぎ本『観音大子像』には、偽印が捺され、補筆がなされている。二枚に剥ぐだけでもう一枚の「真作」ができてしまうというほど、単純なものではないのである。 (早川章弘) 4-1 富岡鉄齋『普陀落山観世音菩薩像』(あい剥ぎ本・甲) 掛軸、紙本淡彩、縦146.5、横40.0、1920年(大正9年)、清荒神清澄寺蔵 紙の上に描かれたオリジナル作品を上下二層に剥ぐ高度な職人業で、甲・乙二枚の「真作」が現出する。これらは古くから「あい剥ぎ本」と呼ばれてきた。当然、下層本が墨色や印影は薄くなるが、絵柄に違いはない。両本のうち上層本が珍重されるのは、フェティシズム的な偏愛以外のなにものでもない。このように「あい剥ぎ本」が二点揃うケースはめったにない。 4-2 富岡鉄齋『観音大士像』(あい剥ぎ本・乙) 掛軸、紙本淡彩、縦134.3、横40.1、1920年(大正9年)、清荒神清澄寺蔵 偽印が押され、補筆がなされている。 4-3 半田達二・木下千春両氏の共同制作による墨絵淡彩あい剥ぎ本 本展覧会のため特別に準備されたもの あい剥ぎとは紙を薄く二枚に剥ぐことで、厚い紙に描かれた作品を表装するさいに、それを薄くする必要があるのでやむを得ず剥ぐ場合や、両面に何か描かれている紙が損傷を受けて修復するさい、裏打ちができないので二枚に剥いであいだに補強の紙を挟む場合(「中打ち」という)などに使われる。ある限られた条件の下では墨などが紙の下層にまで染み込み、二枚に剥ぐとほとんど同じ図様が下層の紙に現れることがある。これに印を補ってオリジナルのように偽装した例があり、「あい剥ぎ本」や「ヒコーキ」などと呼ばれる。 4-4 あい剥ぎの紙見本十点 早川章弘製作 紙は植物の繊維が重なり絡み合ってできているの。二枚に剥ぐということは繊維どうしの結合を離していくことであり、理論的にはどんな紙でも可能である。ただし原料とする植物の種類によって繊維の長さが違い、繊維が長くなるほど繊維どうしの結合は強固になり、剥ぐことが難しくなる。 4-5 墨の染み込みに関する見本 早川章弘製作 日本画に使われる岩絵具は粒子が粗いため紙に染み込まないが、墨や淡彩絵具は粒子が細かいため染み込みが良い。しかし、それも繊維の疎密によって程度の差があり、繊維の疎らな紙でないと紙の下層までしっかり染み込まず、「あい剥ぎ本」を作ることはできない。また、礬水(どうさ)引きなどの表面加工を施してある紙には染み込まない。 |
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