十九世紀の書籍における興味深い原版と複刻版比較三例


小宮山博史 佐藤タイポグラフィ研究所・活版印刷史



 書籍における原版とリプリント版について、印刷史・活字史の上から興味深い例を書いてみようと思う。

 リプリント版が著者あるいは版元に断りもなく作られたのであれば、本展示のテーマである「真」と「偽」の関係は成り立つ。しかしこれから述べる三例のうち二例は間違いなく無許可でありながら、どうも「真」と「偽」と言うにはためらいが残るのである。

 国交もなく行くこともかなわぬ遥か遠い国で刊行された書籍を、原版と同じに見えるように作る努力がなされたとき、「リプリント版」が「原版」を超えるほどのタイポグラフィックな美しさを見せる場合もありうる。現在の複写技術を使って簡単にリプリント版を作るのとは訳が違うのである。そこには職人あるいは技術者の真摯な営為に加えて、その時代の先端技術を応用して製作したとき、原版に対するリプリント版を、別種の「原版(オリジナル)」とみなしたいという欲求にかられる。「原版」が間違いなく良いもので、「リプリント版」は間違いなく品質が劣るものであろうか。


製版本を金属活字で翻刻


 1847(弘化4)年ウイーンの王立印刷所(K.K.Hof-und Staats-Druckerei in Wien)から、Sechs Wandschirme in Gestalten der Vergãnglichen Weltが刊行された。東洋学者アウグスト・フィッツマイヤー(Pfizmaier, August)の序文には、原著は著者柳亭種彦、画歌川豊国によって「文政の18年」(文政18年は存在しない)江戸で刊行された木版印刷物であり、王立印刷所が収蔵しているもので、“beweglichen Typen gedruckt”によって翻刻されたものとある。“beweglichen Typen gedruckt”は直訳すれば「可動活字印刷」で、英語のMovable Type(活字)による印刷に相当する。

 これは柳亭種彦の絵草紙『浮世形六枚屏風』で、文政4(1821)年正月に永寿堂より上梓された。永寿堂版[図1]と王立印刷所版[図2]をくらべて興味深いのは、王立印刷所版が原版の組版(タイポグラフィ)をできるだけ忠実に再現するために連綿体の金属活字を開発したことである。連綿体の金属活字が最初に使われたのは、西暦1600年をはさんで前後20年間に刊行されたキリシタン版であるが、キリシタン追放とともにその活字は消滅してしまい、日本では連綿体の金属活字が再び登場するのは明治8(1875)年のことである。

図1 永寿堂版『浮世形六枚屏風』(1821年)
図2 ウイーン版『浮世形六枚屏風』(1847年)

 活字を発明したのは中国人であるが、漢字や仮名を近代的な活版印刷に使える金属活字として作ったのはヨーロッパ人たちであった。それは19世紀にヨーロッパで盛んとなった東洋学に関係する。ウイーン版の序文を書いたフィッツマイエルは東洋学者ではあるが、その研究範囲からみて日本学の学者といってもよい。フィッツマイエルは序文の中で、種彦の翻刻本に使った連綿活字について「日本以外でいまだかつて作られたことのない日本語の活字」と記し、これを作った所長アロイス・アウエル(Auer, Aloys)を賞賛しているが、たしかにこの時代これほど優れた姿形を持つ日本語活字はヨーロッパでは出現していない。古くはフランスの王立印刷所の彫刻師ジャックマン(Jacquemin)が1818年に彫った13ポイントの片仮名活字があるが、ウイーン翻刻版以前に作られた平仮名活字は見あたらず、またそれ以後も1854年フランスの日本語学者レオン・ド・ロニー(Rosny, Léon de)の指導で王立印刷所のマルスラン・ルグラン(Legrand, Marcellin)が彫った13ポイントと6ポイントの平仮名活字ぐらいであろうか。

 活字は一字種一字形を基本とすることで字形の持つ個性を薄める効果を生む。言葉を換えれば、くり返し出現する字種がいつも同じ字形であることで、字形によるイメージの限定が回避され、読者の自由なイメージあるいは解釈を生み出し、結果として多種多様な文章に対応することができることになる。

 それに対し原版である種彦の木版本の本文は手書きをもとにしているため、同一字種であっても字形はすべて異なっており、その上に連字もある。活字とはまったく正反対の位置にある木版本を、その面影を変えずに活字を使って再現するには、一字種多字形にしなければならず、それに活字の大きさや幅も変化させる必要があり、その結果活字の元となる種字(たねじ)の彫刻は増加し、活字組版もひどく複雑になってくる。印刷部数もそれほど多くなく、それ以上に入手が不可能に近い遥か遠い国の刊本を、面影を変えずに日本語学者や研究者に提供するには想像以上の困難があったと思われるのである。

 では柳亭種彦の江戸刊本を活字で再現するために用意された字種と字形はどのくらいであったのか。

 ウイーン版が出版された30年後の1876(明治9)年、ウイーン王立印刷所が所有する世界の文字活字を掲載した総合見本帳ALFABETE DES GESAMMTEN ERDKREISESが刊行された。「世界の全民族のアルファベット」と題されたこの見本帳には120言語の活字が収録されており、その中に『浮世形六枚屏風』翻刻のために作られた活字の全字種と考えられるものがJAPANISCHとして載っている。ここに掲載されている活字の内訳は次の通りである。

カタカナ153字
清音・濁音・半濁音合計126字 リガチャー(合字)14字 記号・約物13字
ひらがな481字
清音・濁音・半濁音合計392字 リガチャー(合字)79字 約物10字
漢字222字
単体198字 リガチャー(合字)24字

 全部の合計は856字で、カタカナ・ひらがなの字種の多さ、特にひらがなの多さが目につく。カタカナ・ひらがなの字種は現在では拗促音小字を含めなければ74字と73字(JIS X 0208『情報交換用符号化漢字集合』)にすぎない。活字によって原版に近い翻刻を試みれば、カタカナで2倍、ひらがなで6.5倍の字種を用意しなければならないことになる。

 たとえばカタカナでは「ミ」は7種類、「マ」で5種類が用意されている。ひらがなの場合は同音の変体仮名も含まれるが、「は」は「は・ハ・者・盤」で15字形あり、そのうち「ハ」が9種ある。次に多い「つ」は「つ・徒・川・津」で14字形である。カタカナの1字種1字形が43字に対し、ひらがなでは1字種1字形は1つもなくすべてが複数字形を持っており、最少は1字種3字形である。ひらがなの合字は「し」または「じ」を含む2字連字がもっとも多く58字ある。

 漢字は135字種ありそのうち24字種が合字で、たとえば「嶋之助」のように名前を合字で作っている例が多い。音「yo」は「世・四・夜」があり全部で7種、音「ko」は「子」5種、「小」3種の計8種でこれがもっとも多い。

 ウイーン版の活字は原版の連綿体にすこしでも近づけるために、それぞれの文字の終筆と始筆の脈略部を活字幅のほぼ中央に置き文字が連続して見えるように工夫されている。歌川豊国の絵や端書などはzinko-lithographirtつまり亜鉛版によるほぼ完全な再現であるが、本文のレイアウトは原版とは違い、また1頁に入っている文章量も異なるが、原版の面影は充分に再現できている。

 活字制作といい図版の再現といい、当時のオーストリアいやヨーロッパの日本語学の水準の高さと、再現に従事する技術者のレベルの高さがなければ、この『浮世形六枚屏風』の翻刻は不可能であったはずである。たとえ活字は作れたとしても、それを文選し植字するのは誰であったのか。1字種が数種の字形を持つとき、いかに原版を参考にしたとしても字形の細かい差異を識別し、それらを適切に使い分けて組版するのは至難の技であったろう。たしかに文章も絵もそっくりそのまま使っていることは、著作権を侵害する違法なコピーであるには違いない。しかしその翻刻を可能にしたバックグラウンドを考えると、永寿堂版『浮世形六枚屏風』とウイーン版Sechs Wandschirme in Gestalten der Vergänglichen Weltは「原版」「リプリント版」というように単純に割りきってしまえるものではなく、両者はまったく表現の異なる別の書籍と思われるのである。

 余談ながら、ウイーン翻刻版を作るために制作された活字は本国ではすでに隠滅しているが、原版の出版国である日本に9本が現存していることはあまり知られていない。

 ウイーンで作られた連綿体活字は、後年フィッツマイヤーの助力もあって1870(明治3)年に亡くなったベッテルハイム(Bettelheim, Beruard Jean)の遺稿を組むことになる。ウイーンのアドルフホルツハウゼン印刷所(SATZ. DRUCK. HOLZHAUSEN)から出版された日本語訳聖書『約翰伝福音書』『路加伝福音書』(1873年刊)『使徒行伝』(1874年刊、図3)の3冊がそれであるが、『浮世形六枚屏風』翻刻のために作った活字では聖書を組むのに必要な漢字が足りず、「天・神・聖・血・経」などを補刻して組版をおこなっている。

図3 『使徒行伝』アドルフホルツハウゼン印刷所(1847年)

 昭和3(1928)年、京城大学教授奥平武彦は日本語聖書を出版したアドルフホルツハウゼン印刷所(ウイーン市カンドル街19番地。現在もここにある)を訪ね、活字そのものが保存されているのを確認したあと、約40本の日本語活字を購入している。奥平は昭和12(1937)年2月に「維納の日本活字」という文章を発表したが、それを読んだ日本語聖書収集家であり研究者の門脇清は昭和15年9月、ソウルの奥平の自宅を訪ね活字の譲渡を嘆願し、許された。門脇は約半分を奥平から譲られたが、ソウルからの帰途大阪在住の聖書蒐集家上田貞次郎にその半分を贈っている。上田に贈られた活字は昭和20(1945)年3月の空襲で焼失し、奥平の活字もたぶん敗戦の混乱の中で失われ、門脇の手元に残った九本の活字だけがかろうじて生き延びたのである。昭和46(1971)年門脇文庫が山梨英和短期大学図書館に寄贈されることになり、9本のうちの6本が同図書館に入り、残りの3本は昭和53(1978)年関西大学図書館に寄贈され、いずれも貴重資料として大切に保管されている。

 どのようなルートを経てウイーンの王立図書館に収蔵されたかわからない柳亭種彦作『浮世形六枚屏風』が、ヨーロッパで盛んになった日本語学研究により活字での翻刻が企画され、そのために作られた日本語の連綿活字が150年を超えて本国ではなく日本に現存することじたい、奇縁のように思われてならない。


金属活字本を整版で覆刻


 1856(咸豊6、安政3)年中国の寧波で『地球説畧』が刊行された[図4]。著者リチャード・クウォーターマン・ウェイ(Way, Richard Quaterman 嚥理哲)は1819(文政2)年12月ジョージア州リバティ郡で生まれたが、幼なくして孤児となった。はじめ長兄のもとで薬学を学んでいたが、1年後計画を変えてサウスカロライナ州コロンビアの神学校に学び牧師に任命された。ウェイは北米長老教会海外伝道部の承認を受け、1843(天保14)年11月13日ボストンを出航、バタビア、シンガポール、マカオなどを経て寧波に入った。彼は1853(咸豊3、嘉永6)年から1858(咸豊8、安政5)年の間、寧波のミッションプレスの責任者であったが、『地球説畧』はその期間に刊行されたものである。この世界地理書は、1848(道光28、嘉永元)年に刊行された自著の『地球図説』を改訂増補したもので、構成は「亜細亜大洲」「欧羅巴大洲」「亜非利加大洲」「澳大利亜大洲」「亜美理駕大洲」、「亜美理駕大洲」として「北亜美理駕大洲」「南亜美理駕大洲」に分けて地理をはじめ人・物産・技術を地図・イラストレーションを加えて説明しているが、いわゆる地理入門書に近い内容である。

図4 寧波版『地球説畧』(1847年)扉

「亜細亜大洲」の中の「日本国図説」は1丁半のスペースをとっているが、冒頭は日本という島国の説明で、当時の外国人(中国人からの情報であろう)がどのように認識していたかがわかり興味深い。

 日本本係四座海島。北名葉沙島。又名対馬。中島至大。名業中島。又名長崎。南有二島。一名式可可島。一名玖岫島。又名薩馬。

日本を形作る4島、北にあるのが「葉沙」yè shaエゾであるが「対馬」としており、真ん中の大きな島は「業半」yè bànジャパンで、又の名を長崎と記しているのは、いずれも日本の中で対外国と関係が深い場所(対馬は朝鮮、長崎はオランダ・中国)で絶えずその名が人々の口にのぼることから、このような誤認になったのであろう。次に南にある2島、一つは「式可可」 四国。もう一つは「玖岫」 九州で、別名は「薩馬」 薩摩とある。九州を薩摩とするのも藩が独立不覊の雄藩であり、かつ琉球を経由して極秘裏にではあるが、頻繁に中国と交易をおこなっていたことから、九州イコール薩摩となったのではないかと思われる。

 このウェイの『地球説畧』は、ウェイが責任者となっていた北米長老会の印刷所「華花聖経書房」から活版印刷で出版されたもので、判型は25×15センチ、全114丁袋綴じ本である。この原版が刊行された4年後の万延元(1860)年、江戸竪川三之橋で「舶来蕃書類」を扱う書肆老皂舘から木版による覆刻版『地球説畧』が出版された[図5]。覆刻版は全3巻本で、判型は25.6×17.5センチ、全111丁で、原版より3丁少なくなっている。校閲し訓点を施したのは蘭方医で蕃書調所教授箕作阮甫。

図5 老舘版『地球説畧』(1860年)扉

 蕃書調所は洋学教授と洋書翻訳をおこなう幕府が作った学校で、はじめ洋学所と称し1856年蕃書調所となり、1862年洋書調所、63年開成所と変わり明治に至り東京大学となった。覆刻版が出版された時代はまだまだキリスト教禁教が生きていたから、西洋人が著した本を翻訳出版するには細心の注意をはらっていたはずである。では箕作阮甫の校閲のあとをすこしだけ追ってみよう。

 まず扉だが、下の出版年1856の上にある出版元を比べてみると、

 原版「寧波華花聖経書房刊」
 覆刻版「寧波華花  書房刊」

覆刻版では「聖経」という文字を削除していることがわかる。覆刻版は原版を版木に裏がえして貼り丁寧に凸刻したものであるから、版木に貼りつける段階で削除し2字分のアキを詰めたはずである。同じような比較を序文でも試みてみたのが図6である。上下に太い線と細い線の子持ち罫がついているのが原版で、その左部分が削除された文字で、当然といえば当然だが「天国」とか「天地万物皆神所造」、「耶降世」などは使えるはずもない。ウェイは牧師であって文章中には神を称える文言がかなり見受けられ、それを削除して文章をつないでいった結果原版にくらべて本文が3丁少なくなったのである。

 たとえば本文最初の「地球円体説」は、地球は丸いということを船の進行や月蝕によって説明し、直径を27,692里、円周を87,192里と記したあと、「若問地球誰造。是一無所不能之真神。造而管理之也。」という文章でこの項目を結んでいるが、箕作阮甫校閲の覆刻版ではこれを削除し地球の円周の長さで終わりにしている。第一章の「亜細亜大洲図説」では「神」や「福音」「耶経」「天主教」などキリスト教に関わる語を含む短いセンテンスの削除がほとんどだが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地パレスティナを含む3丁の「土耳其国図説」(トルコ)では大幅な削除と語句の改変をおこないながら文章をつなげたため、原版とはイラストレーションの位置も変わるほどの変更がなされている。箕作阮甫の苦心のあとを見てみよう。右行が原版、左行が覆刻版で傍点が改変部分、空白は削除。

 ○所述之教。昔真神選択之民。曰猶太人。
 ○所述之教。        曰猶太人。
 居於国之南土。其人皆崇拝真神。逮我救主
 居於国之南土。其人皆崇拝洋教。逮西洋教
 耶生長於此。宣講福音真理。至昇天後。
 主生長於此地。宣講西洋教旨。至昇天後。
 其門徒遂於是国伝授耶聖教并設立聖公会
 其門徒遂於是国伝授西洋諸教并設立 公会
 其多。閲数百年後。希臘教。回回教。入是
 其多。閲数百年後。希臘教。回回教。入是
 国。而国人又信之。至今人民所重有四教。
 国。而国人又信之。至今人民所重有四教。
 曰猶太教。曰天主教。曰希臘教。曰回回教。
 曰猶太教。曰別洋教。曰希臘教。曰回回教。
 又東北亜爾美尼亜地方。其民有半奉耶
 又東北亜爾美尼亜地方。其民有半奉西洋教
 者。
 者。
 
「土耳其国図説」にはこのあと268字の削除がなされているが、その主要部分は「耶路撒冷」エルサレムとイエスのゴルゴダ丘の上の十字架での刑死の130字である。原版も覆刻版も半丁——洋装本で言えば1頁——に入っている文字数は260字であるから、ここでは1頁以上の削除がおこなわれたことになる。

図6 寧波版(右行)と老舘版(左行)の序文比較

 幕末、徳川幕府と深く関わったフランス、それに対し西国雄藩に肩入れしたイギリス。その両者における削除は宗教について述べる「所述之教」の文節だけで、「仏蘭西国図説」の全3丁のうちの112字、「大英国図説」の「英蘭」イングランドでは67字、「蘇各蘭」スコットランドで9字、「愛耳蘭」アイルランドでは31字の合計107字にすぎない。英国の記述はほぼ5丁半であるが、その内容は産業革命以降の工業力の充実が中心でイラストレーションの中には木製の印刷機(ハンドプレス、原文は「印書架」)や汽車(原文は「火輪車」)がある。

 この『地球説畧』の原版と日本での覆刻版の関係で興味深いのは、覆刻版は原版に使われている漢字活字をかぶせ彫りでその癖や欠点までも忠実に再現していることである。かぶせ彫りは原本をばらしてそれを1丁ごとに裏がえして版木にかぶせて彫る方法であるが、字句の変更・削除がない場合は原本どおりに彫ればよい。しかし箕作阮甫による大幅な削除と変更が加えられた覆刻版は、削除部分の前後を空白を作らずにつなげていかなければならず、原本とは異なる行構成頁構成を版下作りの段階で強いられるので、その繁雑さは想像にあまりある。その繁雑さをおしてでも出版しようとするのは、欧米各国が推し進める中国への侵略の波が日本にもさし迫っているという危機感のあらわれであろうか。

 原版を組んでいる金属活字は2種類である。一つは序文である「引」を組むDouble Pica 24ポイント活字、もう一つは本文に使われているTwo-line Brevier 18ポイント活字である。Double Pica活字はロンドン伝道会宣教師サミュエル・ダイア(Dier, Samuel)によって1830年代後半から制作が開始され、彼の死後アメリカ長老会のリチャード・コール(Cole, Richard)がその作業を引き継ぎ、1851年にはほとんどの文章が組める約4700字種が完成していたという。この活字が開発された目的は、中国に展開する宣教師たちの伝道活動、つまり漢訳聖書やトラクトを印刷し間接伝道をおこなうためである。

 もう一方のTwo-line Brevierはパリの王立印刷所の種字(たねじ)彫刻師マルスラン・ルグラン(Legrand, Marcellin)が活字の元となる父型(ふけい)を彫ったもので、フランスの東洋学者ポティエ(Pauthier, Jean Pierre Guillaume)が老子の『道徳経』を中仏対訳で出版するために作られたものである。ポティエのこの活字は分合(ぶんごう)活字という偏と旁、冠と脚を別々に作っておいて使うとき組み合わせて1字にするシステムで、1837年には完成していたと思われる。

 ヨーロッパ人による漢字活字の開発は、一つはヨーロッパにおける東洋学の隆盛であり、もう一方は中国へのキリスト教伝道活動のためであった。

 二つの目的で作られた2種類の活字で組まれた『地球説畧』を製版で覆刻した老皂舘版は、図6を見てもわかるとおりそのかぶせ彫りの丁寧さで原版とほとんど変わらないおもかげを見せている。細かく見ればそれは彫刻であることがわかるし、かつ内容に削除・改変があり、体裁も両者では違っているけれど、それを差し引いても老皂舘版は活字本の原版と同じものと思いたくなるような作り方になっている。


金属活字本を別の金属活字で複刻


 明治2(1869)年正月「日本薩摩学生」の名で『和訳英辞書』が刊行された。24.5×17センチ洋装本700頁の堂々たる英和辞書で、印刷は上海のAmerican Presbyterian Mission Press美華書館である。美華書館は2年前の1867(慶応3)年にヘボン(Hepburn, James Curtis)の『和英語林集成』(A Japanese and English Dictionary with an English and Japanese Index)を印刷したところであり、上海にある印刷所の中でも抜きん出た設備と技術を持っていた。

 明治2年の日本にはまだ欧米の近代的な活字印刷術は導入されておらず、ヘボンや薩摩学生の辞書を活字で組んで印刷することはできなかった。薩摩学生は英文序文の最後に、本書の美しいタイポグラフィ(組版・印刷)は上海の北米長老会印刷所のおかげであり、英単語の正確な発音は所長のギャンブル氏が親切にもチェックをしてくれたと謝辞を記しているし、2年前に『和英語林集成』をこの印刷所で印刷したヘボンも、長老会のラウリー(Lowrie, Walter Macon)1866年12月7日付書簡(『ヘボン書簡集』高谷道男編訳、1979年第4四刷、岩波書店刊)で、

 (前略)ガンブル氏の印刷技師としての腕前と天分とがなかったら、全くできなかったでしょう。これまでのところではあらゆる障害を超えることができたのです。彼が最も美しい日本字の活字を銅製の母型に作り、一揃いの日本字の活字を鋳かためた(引用者註、鋳造)のです。英語大文字、アクセントのついている母音や、イタリックなどがないし、上海でそれらを得ることができないので、ガンブル氏自ら母型を作って、必要なだけ鋳かためました。これだけお話したら、印刷がどれ程むずかしいものかおわかりになるでしょう。このために一ヶ月以上を費やしたのです。わたしどもは着々と仕事を進めております。僅か活字をならべるだけに五人の植字工を使って、二日に八ページの印刷をしあげたいと思っております。(後略)

 ガンブル(Gamble, William)は長老会印刷所美華書館の第6代目館長で印刷技師である。ガンブルの前任者は第2章に書いた『地球説畧』の著者R・Q・ウェイ。ここで言われている「日本字の活字」はカタカナ活字で、『和英語林集成』にはひらがなは使われていない。また「英語大文字」はスモールキャピタル(Small capital)と呼ばれる小文字Xの高さの中に入る小さな大文字であろう。

 美華書館はすでにSmall Picaサイズの小型漢字活字を持っていたから、この漢字活字と同じサイズでカタカナ活字を開発したのである。『和訳英辞書』もこの活字があったから印刷が可能であった。

『和訳英辞書』の英文タイトルはTHIRD EDITION第3版で、和文序には「改正増補和訳英辞書」とある。「改正増補」としてあるのは、序に

 コレヨリ先ニ堀先生英ノ字典ヲ訳スルニ我皇国ノ語ヲ以テ此学ニ志ヌル者ノ羽翼トセリシカレトモ往丶謬語欠字等逃アリテ且遺漏ナキニシモ非スサルヲ堀越先生其謬誤ヲ改メ畧語ヲ加ヘタリ

とあり、最初の「堀先生」の辞書は欠点があり、それを「堀越先生」がその間違いを直し略語を加えたが、

 ハシメニ比スレハイトヨロシクハナリタレト学者ノ輩ニハ猶アカヌ所アルヲ以テコノタビアメリカ教師等ニ倚リ更ニ改メ正シ今世不用ノ英語ヲ省キ必用ノ文字ヲ補ヒ加ヘ且口調ヲ誤ランカ為吾片仮名ヲホトリニ属ケヌ吾漢字ニモ施シテ童蒙ニ便宜ヲ得セシメサテコノ書ノ要トスルモノハ徒ニ英文ノ解訳ト我通辞ニ利アルノミニ非ラス当時要用ノ語ヲ増加シタレハ頗ル学者ノ遺漏ヲヲ滅スト爾云

「堀越先生」の辞書は前にくらべれば良くなったが、まだ不備もあったのでアメリカ人教師などによって正し、不用の語を削り必要な語を加え、英語の発音をカタカナで振り日本語の訳にもカタカナでルビ(Ruby 5.5ポイント)を振ったとある。

『和訳英辞書』が第3版とするのは、「堀先生の辞書」を第1版、「堀越先生」の改訂本を第2版としたことによる。「堀先生」とは堀達之助であり、この辞書は文久2(1862)年洋書調所刊『英和対訳袖珍辞書』で、欧文は金属活字で組み和文は木版である。「堀越先生」は堀越亀之助、堀越の改定本は慶応2(1866)年開成所刊の『改正増補英和対訳袖珍辞書』である。第3版の『和訳英辞書』は文明開化でもり上る英学熱もあり、また出版部数も少なくかつ不備もあったので、明治4(1871)年10月同じ美華書館の印刷で第4版となる『大正増補和訳英辞林』を「薩摩学生 前田正穀 高橋良昭」名で再版している[図7]。

図7 薩摩学生版『大正増補和訳英辞林』(1871年)扉

 明治2年11月から翌年3月までの4ヶ月間、長崎製鉄所頭取本木昌造たちは美華書館館長ガンブルを長崎に招き、活字製造、活字印刷を学んだが、『大正増補和訳英辞林』が刊行された明治4年にはこのような辞書を組むための良質の活字は日本にはなく、印刷技術もまだ未熟であって、国内ではいかんともしがたく上海で印刷する以外方法はなかった。

 しかしこのような状況を苦々しく思っている日本人もいたのである。

 明治6(1873)年12月日本橋瀬戸物町の東京新製活版所の天野芳次郎は、『稟准和訳英辞書』を刊行する[図8]。金属活字による印刷で洋装本、22.7×16センチ、790ページである。1頁の「改正増補和訳英辞書序」[図9]には本書の刊行目的と苦心が記されており、新興国日本の意気盛んな様子が感じられ興味深い。

図8 天野版『稟准和訳英辞書』(1873年)扉
図9 天野版『稟准和訳英辞書』序

 皇朝従前活字ノ製作法精シカラス輓近洋学盛ニ行ハル丶ト雖トモ器械未タ具ハラズ支那ノ上海ニ就テ原本ヲ製造セシムルカ或ハ上海ノ活字ヲ贖ヒ求メナトシテ自国ニテ製作スルコトハ未ダ之ヲ聞カサリシヲ開化ノ今日ニ在テハ誠ニ憾ムヘキノ甚キナリトシ三年前ヨリ精苦ノ思ヲ積ミ西洋ノ方法ニ効ヒテ漸ク其器械ヲ発明セリ因テ明治已巳ノ春鹿児島学生ノ開版辞書ヲ我ガ発明ノ鉛字器械ニテ公世センコトヲ  官ニ乞ヒシニ  稟准ヲ得タリ爾後数万字ヲ製シテ遂ニ其エヲ竣ヘタリ希クハ看官我苦心ヲ諒察セラレンコトヲ

 前から活字製法がわからない上に、洋学が盛んになった今でも印刷関連機器は揃っていないので、上海で本を印刷するほかない。上海から活字を買ってでも日本でやろうという人もいない。この文明開化の時代にあってこんなことでいいのかと天野芳次郎は憤慨する。

 天野はこのような情況を打破するため3年かけて——明治3年あるいは4年か——その機器を使って「明治已巳」つまり明治2年薩摩学生の「開版辞書」の複刻を申請し、許可を取って必要な活字数万字を鋳造し刊行したと書く。たしかにこの時代自力では活字を作り本を印刷することは想像を超える大事業であったはずである。年代的にはガンブルから教えを受けた本木昌造の新町活版所か勧工寮の活字がある程度で、それも整備中で『和訳英辞書』や『和訳英辞林』を組んでいる小型のスモールパイカ(Small Pica)サイズの活字の完全なセットを持っていたとは思えない。

 天野芳次郎と新製活版所に関する資料は皆無に等しく、詳細はわからない。唯一記録しているのは牧治三郎で、『印刷界』昭和41(1966)年11月号の「活版印刷伝来考=一〇 鉛活字鋳造の揺籃時代(続)」の冒頭の89人の資金提供者と交わした約定書を載せており、集めた資金は4000両で印刷前に使いはたし、材料仕入れと工賃にあてる1500両を追加調達してもらったと書いている。明治4年5月の新貨条例で新貨幣の名称を円に改め、在来通貨と新貨幣の価格は1円をもって1両とすることになった(『明治事物起源五』石井研堂、ちくま学芸文庫、1997年)ので、この5500両は5500円となるが、残念ながらどの程度の貨幣価値になるのかわからず不明を恥じるばかりである。

 ヘボンが慶応3年に刊行した『和英語林集成』は1冊18両が売値で、ときには60両で取り引きされたとも言われている。天野版『和訳英辞書』が刊行された頃の他の英語辞書がいくらぐらいの価格であるか、それほど多くはないが手元にある『東京日々新聞』を調べてみた。明治7年2月12日第606号には英蘭堂島村利助が、ヘボンの小型本『袖珍和英対訳辞書』の広告(当時は「報告」といった)を出しているが、1冊3円50銭。4月4日第651号に掲載されている文部省報告5号に、柴田昌吉、子安峻の大部な辞書『附音挿図英和字彙』について「板権並製本共買上」たので、上製1部8円、中製7円75銭、下製7円50銭で「拂下候」とある。『附音挿図英和字彙』は明治6年1月日就社から出版された500余のカットを含む1548頁の英和辞書だが、文部省が買い上げた理由は筆者にはわからない。

 天野版『稟准和訳英辞書』が何部印刷され1冊の売値がいくらであったのかは記録されていない。

 天野芳次郎は序で薩摩学生が明治2年刊行した辞書を複刻したと書いているが、正確に言えばこれは明治4年10月の再版『官許 大正増補和訳英辞林』の複刻である。この辞書の英文タイトルはAN ENGLISH-JAPANESE PRONOUNCING DICTIONARY, WITH AN APPENDIX CONTAINING A TABLE OF IRREGULAR VERBS, TABLES OF MONEY, WEIGHT, AND MEASURE, AND A LIST OF ENGLISH SIGN AND ABBREVIATIONS. FOURTH EDITION REVISED.で、天野版はここからTABLES OF MONEY, WEIGHT, AND MEASUREを削除してある。明治2年の『改正増補和訳英辞書』は天野版と同様にTABLES OF MONEY, WEIGHT, AND MEASUREはないが、前述のとおり第3版であり英文扉にその旨明記されている。薩摩学生の明治2年版は好評であって、明治4年に表題を変えて再版されても人々には前の書名で呼び倣わしていたのではなかろうか。

 薩摩学生版『和訳英辞書』についていた英語のカタカナによる読み仮名は、再版『和訳英辞林』では削られているが、新たに発音符号が入り、訳語部分もルビが整理されまた送りガナや漢字の差しかえもされている。1頁の構成は版面を表罫で囲んでおり、『和訳英辞書』は縦22×横12.8センチ、『和訳英辞林』は19.2×12.7センチで狭くなっている。英語横組日本語部分縦組で左右2段組、前者は1段36行、後者は33行でともに中央に表罫を入れて分けている。『和訳英辞書』は英語部分に読み仮名を入れた関係上、左右の段で行の位置がずれており組版として見ると美しくない。再版の『和訳英辞林』にはその欠点がなく左右が揃っており、また前版に見られた1行の字詰の不備——次行へ1字だけ送られるというような——はカタカナの上下を削って前行へ収容してしまうという手間のかかる組版をおこなっている。

 それでは天野版『稟准和訳英辞書』と薩摩学生再版『大正増補和訳英辞林』を比べてみよう。

 対抗する左日本語タイトル右英文タイトルの構成はほぼ同じである。日本語タイトルは前者は四隅に大きく花葉と枝を配し両子持罫で結び、中央書名の右に「紀元二千五百三十三年」、左に「明治六年十二月」とすべて整版で印刷。後者は活字の花形で書名(木版)を囲んでいるが、年代は入っていない。

 英文タイトルは後者が4種類の活字書体——ローマン、長体ローマン万、サンセリフ(エディション表示)、スクエア(印刷所名)——で上下いっぱいに中央揃いで組んで表罫で囲んでいるのに対し、前者天野版はエディション表示までを原版を木版で模刻、地名・印刷所名・印刷年は木版での新刻でそれらを子持罫で囲んでいる。天野版は原版のTABLES OF MONEY, WEIGHT, AND MEASURE,の2行を削ったため、レイアウトが混乱し上部が空いてしまい左頁とのバランスが悪くなってしまった。また下の3行SETOMONOCHO, TOKIO:/ SHINSEI-QUATS-PAN-SHO./ 1873.はどこにも英字サンプルがなかったため、まことに下手な英字になっている。

 序に次いで見開きのKEY TO THE PRONUNCIATIONは両者とも同じレイアウトだが、その日本語訳「音調基表」は左横組でありながら薩摩学生版は「母音」「長短音符」「罕響音符」「二重音」「子音」の5項目が横倒しの縦組——これが当時の普通の組み方——にしてあるのに対して、天野版は画期的な左横組である。日本語を横組にしたのはヘボンの『和英語林集成』が最初だが、日本人のもので一部とはいえ左横組を使った珍しい例であろう。

 続いて1ページのEXPRLANATION OF ABBREVIATIONS.「略語之解」はいわゆる辞書中の略語表で14種が載っているが、薩摩学生版はadj.形容辞、adv.副辞、art.冠辞というようにアルファベット順に並べてあるが、天野版はs.実名辞、pl.複数、pron.代名辞、adj.形容辞という配列になっている。見出しの「略語之解」は薩摩学生版は「畧」を使い右横書だが、「形容辞」などの品詞名は横倒し縦書。天野版は左横書で品詞名は同じ横倒し縦書である。

 本文部分はいずれも表罫で囲んでおり、天野版は縦19.9×13.3センチ左右2段組、1段35行で薩摩学生版より若干広い組版設計になっている。両者とも英語横組、日本語訳は横倒し縦書の一般的組版であるが、そこに使われている書体には品質に大きな優劣の差がある。

 薩摩学生版である『大正増補和訳英辞林』を組版し印刷したのは上海にあるAmerican Presbyterian Mission Press美華書館である。美華書館の漢字書体は、ヨーロッパでの中国学の進展とプロテスタントの中国への布教活動を両輪として開発されたもので、その中でも『大正増補和訳英辞林』を組んでいるSmall Pica(11ポイント)サイズの漢字活字は今まで作られたものの集大成といってもよい完成度で、日本の本文用サイズ5号活字のもとになったものである。カタカナはヘボンの『和英語林集成』を印刷するときに作られたもので、上下幅は漢字に対して3分の2の大きさに鋳造して1行に入る字数を増やす工夫がなされている[図10]。

図10 薩摩学生版『大正増補和訳英辞林』本文第一頁

 リプリント版である東京新製活版所の『稟准和訳英辞書』は、序文にもあるように優秀は上海製活字を使わず、天野芳次郎等が開発した純国産の活字によって組版印刷されたものである。活字の大きさは薩摩学生版と同じSmall Pica(11ポイント)5号でカタカナも上下幅3分の2の扁平活字に作っているが、特に漢字の字形は活字——明朝体であるが——としての特長である縦線横線の水平・垂直化・正方形化、エレメントの定型化が未成熟で、上海製活字にはるかにおよばない。アルファベットは造型的に見て外国製のものと天野が模刻して作ったと思われる形の悪い字形のものの混植で、その上組版技術の未熟さや活字製造上の精度とも関係するが、欧文組版の基本であるベースライン上に乱れず整列するという条件を満たしておらず、文字は上下し読みにくい。またアポストロフィをカンマで代用するなど混乱も見られる[図11]。

図11 天野版『稟准和訳英辞書』第一頁

 しかし、組版や活字の質が劣ったとしても、先進欧米分化・文明に一歩でも近づこうという熱気の中で、程度に関係なく外国語辞書や入門書、会話書は売れたのではないか。天野芳次郎の『稟准和訳英辞書』もそのような時代の要求を感じとり、一方では活版印刷という将来有望な事業とからませ、かつ欧米一辺倒に対するささやかなナショナリズムを満足させるため自製の活字をもって『大正増補和訳英辞林』を複刻したのであろう。

 辞書蒐集家の惣郷正明は自著『辞書風物誌』(昭和48年、朝日新聞社刊)の中で、明治20年前後の英語入門書や会話書の乱発は、需要におされたというより英和辞書を作るのがたやすい——つまり盗用するのだから手軽に作れると嘆く『時事新報』を紹介している。

 たしかに天野の『稟准和訳英辞書』は薩摩学生版『大正増補和訳英辞林』とまったく同じである。許可を得たとしたも複製にすぎないのだが、後年のように活版印刷が日常のものとなった時代ではなく、まだまだ活版印刷の黎明期に試行錯誤をくり返し自製の活字で組版し印刷するという生半可でない努力と営為を考えたとき、単純に「複刻版」であると決めつけてしまうには躊躇がある。

 天野芳次郎の東京新製活版所はこの『稟准和訳英辞書』を出版しただけで印刷史から消えてしまい、今となってはこの辞書が売れたのか、あるいは投資額を回収することなく終ったのか、まったくわからない。



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