史料から見た御成と池遺構出土資料 |
堀内 秀樹 |
御成とは、将軍または時の権力者が家臣などの邸へ訪れることである。将軍が他家を訪れる御成は、既に鎌倉時代から行われていたとされるが(佐藤、一九七四)、式三献の儀と宴からなる公式行事としての体裁を整えた「式正の御成」の成立は室町時代からである。これは時によって様々な政治的意味合いが存在し、室町期には義満以降弱体化した足利将軍権力を高め、権威の誇示をねらう行事であったとされる。これ以降、織田信長、豊臣秀吉などの権力者によって継続されている。
前田家に対する御成は、豊臣期から入れると以下の通りである。
この中で、豊臣期のものは文禄三年四月の御成が式正の御成であったと知られる。今回は江戸で行われた三回(元和、寛永、元禄)の御成を取り上げ、元和度、元禄度の御成を概観した後、医学部附属病院地点池遺構出土資料の関連から寛永六(一六二九)年に行われた御成について考えてみる。 元和の御成元和の御成は、元和三(一六一七)年五月一三日将軍徳川秀忠が行った辰口邸への御成である。 元和度の御成の式次第は次の通りである。
この御成の中で出された献立を列挙したい。 数寄屋での御膳は将軍は杉の足折、御相伴の日野唯心・藤堂高虎は杉の平、さしみはへぎ、引物は重鉢で出されたと記録されている。
次に、書院における式三献では三方にのしと祝いの膳が出されている。
御成書院での七五三は、元和度の御成の規式の指導をした小笠原家に伝わる文書から復元した「十六式図譜」によって呈示したい(1)。
これは盛られた木具の細かな記載があり、本膳は供饗の上に、飯高盛、あえまぜ、たこ、ふくめ、しおびき、香物はかわらけに、蒲鉾、小鳥は小角に、塩、しょうがは壺に入れて盛る。箸は耳かわらけに載せる。二の膳は供饗に、貝盛、巻するめ、くらげ、からすみ、すぢはかわらけ、汁はかわらけに盛られる。三の膳は供饗に、栄螺の三つ盛はかわらけ、鴫羽盛、えび船盛は小角、汁はかわらけに盛られている。ここで使用されるかわらけ、耳かわらけ、小角は全て金箔を押したものを用い、かわらけは金箔を押した台輪の上に載せて使用されている。この他、熨斗鮑台(熨斗鮑を載せる台)、養老の島台(盃を置く)、玉の井島台(取り肴を置く)が用意され、熨斗鮑台は供饗の上に三蓋松、米高盛、耳かわらけに柳太箸、養老の島台は雲形の台に謡曲養老に因んだ飾り付けと盃として金箔かわらけを三組、また、玉の井島台は雲形の台に謡曲玉の井に因んだ飾り付けと昆布、熨斗鮑、するめを台輪の上にのせた金箔かわらけに盛っている。御相伴衆は日野唯心、水無瀬一斎、藤堂高虎、披露役酒井忠世、銚子役板倉重宗、加(くわえ)役永井尚政、通(かよい)役青山幸成、菅沼吉官、酒井忠正、鳥居忠頼で、諸役は男礼で行われている。 元禄の御成元禄の御成は元禄十五(一七〇二)年四月二十六日徳川綱吉が行った本郷邸への御成である。この御成は最もよく記録が残されている。 元禄度では
この式次第は前述のように、式三献の儀礼が賜物・献物などを行った後に位置している。これについて佐藤は「主従関係再確認の儀式が、既に形骸化され、その要を失って廃されたことは、この御成が徳川将軍の権力の絶対性が確立された世の御成であることを特徴づける」としている(佐藤、一九八四)。このときの御成に随行した人物は徳川綱豊(甲府、後の家宣)、徳川綱篠(水戸)、徳川吉通(尾張)、井伊直道、柳沢吉保、土屋政直、藤堂高久、細川綱利ほか酒井、本多、小笠原、稲葉、水野、阿部、保科、南部、津軽、仙石、金森、織田その他、徳川一門、譜代、外様等多数の大名が訪れている。 当日の饗膳は
など膨大な量にもぼり、当日だけでも七〇〇〇人以上の饗膳が用意され、前後を含めた総賄い高は三万人ほどであったという。この中で夕の三汁八菜の膳は譜代大名、老中、大御番頭など、二汁五菜は譜代大名の家来衆、一汁三菜は役者などに饗され、身分によって出された料理の内容に差別があったことがわかる。また、この御成に伴う御殿は、表書院、式台、広間、納戸、廊下、勝手など四八棟の殿舎が造営され、それらの襖、壁、戸、天井には長谷川等麟、探雪、休碩、養朴その他一流の絵師が多く動員され、贅を凝らした装飾を行っている。また、御成が終わった後、大名、旗本、門跡などを招待し、饗応を行う「後見の祝」として、合計で九回の招待を行っている。
この御成にかかった費用はこれら全て含めて、二十九万八〇〇〇両であったと記されている。 寛永の御成寛永度の御成は、後述する医学部附属病院地点の池遺構の出土資料に関連する御成であり、その記録は直接、考古遺物と対比できる史料として重要である。しかし、寛永の御成の記録は元和度、元禄度と比べて少ない。ここで知られるところを拾ってみると、寛永六(一六二九)年四月二六日に徳川家光(資料66)、同二九日に秀忠(資料65)が相前後して御成しており、これに随行している人物は御相伴衆として徳川頼房(水戸家)、藤堂高虎(資料68)、立花宗茂(資料67)らが随行している。その他、数千人規模で訪れていると推定されるが確認できない。これに対して前田家側は当主利常(資料64)、長男光高、次男利次(富山藩祖)、三男利治(大聖寺藩祖)、長女(森忠広室)、次女万姫、三女富姫、母千代の方以下、御目見として、家臣本多安房守、横山山城守他一二名などである。式次第については、家光は加賀藩史料にはないので、秀忠の時を記す。
となっているが、この中にはいくつかの重要な儀礼、儀式が抜けており、また、出された料理等の記載もない。これを推定するため、元和度と元禄度の式次第の比較をしてみたい。両者の最も大きな違いは、元和度では最初に茶室で茶事を行ったのに対して、元禄度では最初に奥書院にて長鮑を献上する儀式に変化していることであろう。元禄度では、この長鮑の献上ののち、表書院に場所を移して式三献を行っている。この順序は元禄一一年に行われた尾張家への御成の際にもみられ、最初に御成書院にて熨斗を奉り、次いで賜物、献物が行われており、式三献の儀礼は表書院にて一門家臣からの献物を受けた後、再び表書院に場所を変えて行われている。寛永度の御成では最初に露地より茶室に入り茶事を行っていることから、元和度の御成に近い饗応形態で行われた可能性が強いだろう。
医学部附属病院中央診療棟地点の調査は、一九八四年一〇月から八六年五月まで行われた。調査区東側江戸時代の最下層からかわらけ、木製品を多量に含む遺構が確認された(口絵11)。調査によって遺構は人為的な池状の掘り込みであることが確認されたが、この中から出土した遺物は多量の白木の折敷、箸、かわらけなどと木簡、かまぼこ板などの木製品、焼塩壺などが含まれていた(資料69—71)。白木の木製品、かわらけは儀式の際に使用する道具であり、また、木簡には「寛永六年三月」、「雁」、「ます」、「あゆ」、「高岡」、「富山」など年代、食材、地名を示す文字が書かれており、寛永六年四月に行われた御成に関する考古資料であると判断された(図1)。
木製品出土した木製品は、折敷(足打)、箸、木簡、へら、栓、かまぼこ板、楊枝、下駄、提灯などである。このうち多量に出土しているものは折敷、箸である。 折敷は、四角を隅切りにしており、縁および脚が二基付くものである(図2)。脚は中央部に数ミリ程度の孔を穿ち、先端を尖らせた棒状の支えを二脚の孔間に渡している。これは、足付折敷または足打と称されるものである。法量は一尺二寸から三寸半まで確認できた。計測できた膳は、大型の一尺から一尺二寸のものが一一三膳、八寸が二七膳、七寸が一三膳、四寸半が五膳、三寸半が一七膳であった。
箸は、折れて細片になってしまっていたものを含めて約三〇〇〇本を数えたが、このうち完形及び半分以上の破片で一四八〇本確認できた。形態は、箸と中央部が同じ太さのもの、端の片方が先細りになるもの、両端が 土製品かわらけは、計測できたもので六三四個体確認された。その九割以上が手づくねである。法量は口径三寸半から四寸のものが四百四十二個体(一一〇ミリ前後一五一、一一五ミリ前後一五一、一二〇ミリ前後一三五)、四寸半から五寸のものが一二三個体確認された。表面は摩耗がひどいが、小破片に金箔の施された製品も入っていた。また、考古学的には手づくねのかわらけは、京都を中心とした分布を示しており、南関東地域の中世以来の伝統的なかわらけの系譜上には位置づけられないものである。また、胎土も白色系で、成形技法同様に理解される。一方、地元の金沢では、元和から寛永期にほぼこれと同様のかわらけが出土しており、金箔が施された事例などと併せて勘考すると地元または京都などから運ばれてきた可能性は高い。 耳かわらけは出土していない。 これらと元和度の饗応史料と比較してみたい。史料から確認できる木具は、数寄屋では将軍が足折、相伴衆は平を使用している。その上に載った料理が何に入っていたかの記載はない。次に式三献で使用されたものは熨斗鮑が三方(おそらく供饗(くぎょう)を使ったと考えられ、この三方は慣用的な表現であろうと推定できる)、初献から三献までに使われた器具は不明である。七五三の饗応では将軍は供饗と呼ばれる大型の膳、小角、太箸、金箔かわらけが使用されている。一方、出土資料には供饗にあたる三方類、太箸、耳かわらけ、金箔かわらけなどが出土していないか量的に極めて少ない。御成では将軍以下身分に応じて異なった膳が用意されているはずで、元和度では数寄屋では将軍は足折であるが、書院では将軍は最も格式のある供饗(四方)が用いられており、おそらく寛永度においても、少なくとも七五三の膳ではこういった腰高の大型膳が使用されたと考えられる。これらから、池遺構の出土資料は三通りの推測が可能であろう。第一は、将軍を含む七五三の膳以外の饗応の中で足折を膳として使用した。第二は、将軍を含む三方を使用する饗応の中で小角(供饗の上にのせる足付膳)として使用した。第三はやや身分の低い人たちの饗応に使用した。しかし、三方類、太箸、耳かわらけ、金箔かわらけ等の出土状況から第三の可能性が高いように思える。または、これらの組み合わせである事も考えられようが、いずれにしても元禄度の用意された膳数と比較すると池資料が寛永度の御成に使用された木具・かわらけ類の一部であろうと思われる。また、記録にはないが先述した「後見の祝」が行われたと想定すると、それに使った可能性をも視野に入れるべきであろう。
豊臣秀吉の晩年、慶長二(一五九七)年頃から置かれた五大老・五奉行制は、秀吉とその子秀頼を中心とする最高政務機関である。五大老には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(のちに上杉景勝)、五奉行には石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家が任じられていた。しかし、慶長三(一五九八)年、豊臣秀吉が伏見城で没すると、徳川家康と石田三成との対立が深まり、石田三成は秀吉恩顧の有力大名であった前田利家を担ぎ徳川家康と対抗した。慶長四(一五九九)年、三成側の旗頭であった前田利家が死ぬと急速に徳川の威勢が高まった。こうした中、家康暗殺に加担した嫌疑を掛けられた前田利長が釈明・陳謝のため、自身の隠居、母芳春院の江戸下向、徳川秀忠の娘珠姫の嫁入りをもって事態を収拾した。これは「慶長の危機」といわれている。この際、芳春院が江戸に下った事例は証人制度の嚆矢として位置づけられている。このあと、寛永八(一六三一)年、金沢城の修理などが原因で謀反の嫌疑がかけられるが、当主利常の隠居、富山・大聖寺藩への分知などの対処を行い、事なきを得た。これは「寛永の危機」といわれている。徳川の前田に対する警戒は、一時覇権を争った経緯や石高の多さなどから非常に強く意識されていたと考えられ、徳川政権がある程度固まった寛永年間においても、こうした事態を招くに至っている。 こうした反面、官位、将軍拝謁順序、江戸城内の席次など大名首位として前田家を優遇していた。官位は前田家は初官が正四位下少将、五〇歳以後参議、六〇歳以後従三位と御三家を除くと最も極官が高位に定められている。将軍拝謁順は御三家の次、江戸城の伺候席は大廊下下之部屋で、これも御三家に次ぐ家格として位置づけられている。この他にも、「松平」賜姓、殿上元服、賜諱なども許されていた。また、歴代の夫人をみると、
と初期の利家、利長、夭逝が連続し兄弟相続が続いた一一代治脩、幕末の慶寧を除き徳川将軍家や連枝と婚をかわしている。しかし、こうした優遇措置は前田家の他に島津家、伊達家など徳川家にとって特に注意を払うべき一部の有力外様大名にも与えられており、これらが徳川家のこれらの大名に対する政策の一環であったことが窺える。今回取り扱った御成も、将軍の権威と幕藩体制の確立する寛永期頃まではこうした大名に対して、政治的意味合いの強い一大イベントであったろうと考えられる。 |
【註】1 このあたりの経緯は小笠原清忠氏に御教示をいただいた。[本文へ戻る] |
【参考文献】東京大学遺跡調査室、一九九〇、『医学部附属病院地点』東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇、『山上会館・御殿下記念館地点』 藤本強、一九九〇、『埋もれた江戸』、平凡社 前田育徳会、一九三二、『加賀藩史料』 伊勢貞丈(島田勇雄校注)、一七六三〜八四、『貞丈雑記』(『東洋文庫』)、平凡社 小笠原清務、一九〇三、『十六式図譜』 小笠原清信、一九七九、「武家料理の歴史—饗膳と本膳—」、『定本日本料理』、一九二〜一九七頁、主婦の友社 熊倉功夫、一九九八、「日本料理における献立の系譜」、芳賀登・石川寛子監修、『全集 日本の食文化』第四巻、一五〜四〇頁、雄山閣 佐藤豊三、一九七四〜八六、「将軍家「御成」について(一)〜(九)」、『金鯱叢書』、徳川黎明会 |
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