本郷キャンパスにおける発掘調査の成果

—東大構内出土「古九谷」と生産地論争—

大成 可乃  堀内 秀樹




はじめに

 本郷構内における発掘調査は、一九八四年の山上会館・御殿下記念館地点を皮切りに、今日に至るまで六〇件近く行われている。埋蔵文化財調査室では、発掘調査を重ねる毎に、大量の遺物を発見すると同時に、様々な新しい事柄も明らかにし、研究成果として発表している。そのような成果の一つに、それまでの研究論争に対して一石を投じることになった「古九谷」の陶片の発見がある。

 「古九谷」という名称を聞いて一体どのようなものなのかが頭に浮かぶ人は、おそらくさほど多くはあるまい。しかし少しでも陶磁器に興味をもって調べられている人であれば、一度はどこかで目にしているであろう美術的評価の高い有名な陶磁器である。そのような有名な陶磁器が伝世品や窯からの出土品以外で見つかったことは無かったことであり、しかも「古九谷」を生産していたとされる窯の所有者であった大聖寺藩の江戸藩邸で見つかったということもあり、当時はマスコミなども巻き込んで大きな話題となったのである。

 本稿では埋蔵文化財調査室創設十周年を記念した展示に際して、改めて「古九谷」が本郷キャンパスより出土した意義について考えてみようとするものである。(大成)


「古九谷」とは 図1,2


 
図1 色絵花鳥文皿 江戸時代前期、直径43.2cm、出光美術館蔵

 
図2 色絵亀甲文獅子花鳥文皿 江戸時代前期、直径34.7cm、出光美術館蔵

 一般的に「古九谷」と呼称されているものは図1、2のような色絵磁器皿であることが多い。このような色絵磁器皿が「古九谷」と呼称されたのは、この皿が加賀の旧家に多く伝世していたことから、加賀で作られたやきもの=加賀の大聖寺領内の九谷で焼かれたものということになったものであるらしい。今日ではその独特な色使い、絵画的な筆致から、極めて高い美術的評価を得ている製品である。

 そのような「古九谷」の中に、有田製のものがあるという指摘が昭和一三年に北原大輔氏によって提起されて以後、「古九谷」の生産地問題が様々に議論されるところとなる(西田、一九九〇)。とりわけ、昭和三〇年代以降の肥前古窯の発掘調査で伝世古九谷と類似する陶片が出土したことにより、「古九谷」は有田の窯で作られた製品であるという意見が一層クローズアップされるようになったのである。

 このような「古九谷」の生産地問題は、単に学問的なレベルとは別に陶磁器としての評価などが絡むデリケートな問題でもあった。本郷キャンパスの発掘調査で「古九谷」と考えられる陶片が見つかった当時、既に胎土、様式、型式、文様等による可視的な部分での議論は出尽くした観があったが、陶片の発見により再び生産地論争が大きく取り上げられることになった。

 以下では「古九谷」の生産地と考えられている九谷と有田、それぞれの窯での遺物の出土状況などについて述べる。(大成、堀内)


九谷古窯とその出土遺物 図3,4,5



図3 九谷1号窯全景 石川県埋蔵文化財センター提供


図4 色絵、瑠璃釉破片
九谷1号窯、朱田(上段中一点)出土。左下作品の上下8.4cm、石川県埋蔵文化財センター蔵、写真は株式会社小学館提供

 
図5 色絵破片、同 裏面(拡大)
九谷1号窯跡下方出土、縦2.5cm、石川埋蔵文化財センター蔵、写真は株式会社小学館提供

 石川県山中町に所在する九谷古窯は、昭和四五(一九七〇)年から五次にわたり調査され、白磁、青磁、染付などの他、陶器片も出土している。器種には鉢、皿、盤、碗、壷類、香炉などがある。その他「明暦弐歳 九谷 八月」と染付で書かれた色見用の破片も出土していることから、窯は明暦年中には操業していたことが明らかとなっている(石川県教育委員会ほか、一九七二)。廃窯時期については依然として不明であるが、文献史料などから元禄期とする説が一般的である。九谷古窯廃絶後、石川県内における磁器の焼成は途絶えるが、文化三(一八〇六)年に京都から青木木米を招聘し金沢の春日山において窯業を再興させた。これが再興九谷の始まりであるとされる。その後、民山窯、吉田屋窯、若杉窯などの諸窯が開窯し、近代まで引き続き焼成される。

 九谷古窯出土製品の特徴は、ぬめりのある釉調、胎土が完全に磁器化していないものが多い、貫入が認められるものが多い、ハリ支え痕のないものが多いなどである。

 石川県内で該期に磁器を焼成した窯は九谷古窯しか確認されてない。そのような窯の生産規模を示すかのように、「古九谷」が出土した消費遺跡もわずか数カ所であり、石川県の八田中遺跡、木之新保遺跡、耳聞山遺跡、八間道遺跡、九谷A遺跡と、東大構内の病院地点(大聖寺藩邸跡)からの出土例しかないようである。また消費地から出土する製品の量も種類も極めて限られたものであり、染付碗、白磁皿などが各遺跡から一、二点確認されているにすぎない。(大成)


山辺田窯とその出土遺物 図6,7,8



図6 山辺田4号窯全景
有田町立歴史民族資料館提供




図7 山辺田2号窯跡出土色絵皿
有田町立歴史民族資料館蔵




図8 山辺田4号窯跡出土色絵皿
有田町立歴史民族資料館蔵

 有田における色絵技法は、文献資料や発掘調査から一六四〇〜五〇年代頃には始まっていたとされるが、その中でも「古九谷」のような色絵の大皿類を多く焼成していた窯が山辺田窯である。

 佐賀県西松浦郡有田町に所在する山辺田窯では、昭和四七年から五〇年にわたって発掘調査が行われ、操業時期が異なるものの全部で八基の窯からなることが明らかになっている。出土遺物には染付、青磁、白磁などの他、陶器もあり、器種をみると磁器、陶器ともに皿類・鉢類・碗類などが中心となっている。

 色絵素地と考えられるものは三号窯をはじめ複数の窯から出土している。

 また実際に上絵付を施した陶片も表面採集品ではあるが確認されおり、その中に「古九谷」の青手と類似するような製品も確認されている。

 なお今回展示している五彩手の陶片は、山辺田窯の南側に位置している山辺田遺跡から一九九八年の発掘調査で出土したものであるが、その調査を担当された有田町歴史民俗資料館の村上伸之氏からは、山辺田遺跡は山辺田窯の恐らく工房跡であったのであろうとのご教示を受けた。(大成)


本郷キャンパスから出土した「古九谷」と生産地問題の経緯 図9



図9 医学部附属病院地点出土陶片
1〜7は中診L32-1、9は中診2号組石、10は中診7号組石
8は中診F27-1、11は外来SK171より出土。

 「古九谷」と考えられた陶片は、本郷キャンパス内の医学部附属病院中央診療棟地点より出土した。特にL三二−一とよばれる天和二(一六八二)年の八百屋お七の火事によって廃棄された地下室からは、多くの「古九谷」と考えられる陶片が出土している。ちなみにこの遺構からは、「古九谷」の陶片の他に多くの舶載磁器と肥前系磁器が出土している。L三二−一以外に、二号組石、七号組石、E二二−一、F二七−一などからも「古九谷」と考えられる陶片が出土している(図9)。

 調査室では、出土した「古九谷」が大聖寺藩邸から出土していること、天和二(一六八二)年の火災資料であること、美術的に高い評価を受けている製品と近似している点から良好な資料であり、かつ破片資料であることから分析する必要があると判断した。そこで、出土資料の中から青手古九谷陶片五点を名古屋大学名誉教授である山崎一雄氏に分析を依頼した。分析に対する報告は、一九八七年に「大聖寺藩上屋敷と『古九谷』—東京大学医学部附属病院中央診療棟第I期建設地点の調査より—」において公表されるが(東京大学遺跡調査室病院班・山崎一雄、一九八七)、これより前の一九八七年五月一五日に新聞紙上に発表された記事を巡って小木一良氏、河島達郎氏から意見が出される(小木、一九八七、河島、一九八七)。肥前産か九谷産かの判断となる酸化チタン含有量〇・一%の境界に対しての是非である。

 一方、理学部七号館地点においても出土資料の中から五彩手古九谷の分析が行われている(長佐古・羽生、一九八八)。長佐古らは蛍光X線による分析の結果、少なくとも五彩手古九谷は肥前産であろうと見解を示した。また、「古九谷」の主たる生産窯として推定される肥前有田山辺田窯他有田諸窯に嬉野町吉田窯、不動山窯の製品を分析し、嬉野地域の製品に含有されている酸化チタンが、〇・三%以上と他の有田地域の諸窯と比較して大きいことが確認された。これら一連の成果は、次いで行った放射化分析による結果においても追認される(二宮他、一九九一)。

 病院地点でのチタン含有量の問題点は分析試料増加に伴って訂正され、医学部附属病院地点の報告では、分析試料を増やし、放射化による分析方法も加えて行われた(山崎他、一九九〇)。ここでの成果は、青手古九谷についても肥前産であることが確認されるとともに、石川の九谷一、二号窯の製品と推定された皿、及び碗が抽出できたことであろう。ここで推定されたものは、大皿類をはじめとして従来「古九谷」と位置づけられている製品群とは成形、施文、施釉などの特徴が異なる点が多いものであった。これらから従来品がどちらの製品かといった議論とは別に、九谷窯で焼成された製品群の研究といった視点も新たにうまれた。この中間的な報告の後、一九九四年に最終的な報告が公表される(山崎他、一九九四)。

 「古九谷」を通して行った化学分析との関わりから、考古学といった領域の中で化学分析による視点の有効性が確認できたと考えている。最後に、これまで触れたような問題解決のスタンスとして前掲、二宮他論文において極めて重要な指摘をしているので引用したい。「近世磁器の科学的研究において現在必要とされているのは、(一)生産地から出土した基準資料の体系的な選択、(二)その分析結果の蓄積、(三)消費地遺跡出土資料を含めて得られた分析結果の適切な解析と客観的な解釈、の三点であろう。これらの条件を満たす研究を行うためには、分析試料の選択から結果の解釈に至るまで、考古学者と自然科学者との密接な共同作業が不可欠である。」(二宮他、一九九一)

 東京大学遺跡調査室が関わった「古九谷」の生産地問題の経緯を簡単に触れたが、これと平行して行われた山辺田窯、楠木谷窯、丸尾窯などの有田町教育委員会の発掘調査や九州近世考古学会を中心とした研究が、一七世紀における色絵磁器の位置づけを大きく前進させることになった。

 ここで記述した経緯は堀内秀樹が執筆している。事実において誤りがあれば全て筆者の責任である。(堀内)


まとめにかえて

 本郷キャンパスから出土した「古九谷」の陶片が、それまで様々な研究者の間で議論の的となっていた「古九谷」の生産地問題に対して、様々な知見の集積と大きな前進をうながすことができた意義は大きいと言えよう。しかしその答えは「古九谷」が出土したというだけでは導き出せなかったものであり、考古学以外の学問領域の方と協力することがいかに重要であるのかという事を知る機会を「古九谷」の陶片は我々に与えてくれたのである。(大成)




【参考文献】

 東京大学埋蔵文化財調査室(旧遺跡調査室)保管の「古九谷」に関連する文献は以下の通りである。
小木一良、一九八七、「東京大学構内出土古九谷陶片の産地考」、『小さな蕾』二二九、五三〜五九頁、創樹社美術出版
河島達郎、一九八七、「東大旧大聖寺藩上屋敷出土の古九谷陶片の分析結果について」、『陶説』四一二、八五〜八七頁
河島達郎・小木一良、一九九一、『古九谷の実証的見方』、創樹社美術出版
東京大学遺跡調査室病院班・山崎一雄、一九八七、「大聖寺藩上屋敷と『古九谷』—東京大学医学部附属病院中央診療棟第I期建設地点の調査より—」、『考古学雑誌』、第七三巻一号、七九〜九七頁、日本考古学会
東京大学埋蔵文化財調査室、一九九九、『別冊東京大学構内遺跡出土陶磁器・土器の分類(1)』、二八〜二九頁
長佐古慎也・羽生淳子、一九八八、「東京大学本郷構内遺跡—理学部七号館地点出土「古九谷」の生産地推定」、『昭和六三年度日本文化財科学会大会発表要旨』、二四〜二五頁
成瀬晃司・堀内秀樹、一九八七、「東京大学医学部附属病院中央診療棟建設予定地出土の古九谷様式の色絵磁器について」、『目の眼』一三三、五六〜六四頁、里文出版
成瀬晃司・堀内秀樹、一九八八、「東京大学医学部附属病院新中央診療棟建設予定地点出土の「古九谷」」、『考古学ジャーナル』二九七、三〇〜三六頁、ニュー・サイエンス社
二宮修治・羽生淳子・大橋康二・藁科実・網干守・大沢真澄・長佐古慎也、一九九一、「放射化分析による消費地遺跡出土磁器片の生産地推定—江戸時代前期の資料を用いて—」、『貿易陶磁研究』一一、二〇一〜二三四頁
二宮修治・網干守・堀内秀樹・山崎一雄、一九九四、「東京大学本郷構内の遺跡 病院地点出土の一色絵破片の化学分析と産地判定」、『考古学と自然科学』二七、七九〜八五頁
羽生淳子・長佐古慎也・大橋康二、一九八九、「第六章第一節 理学部七号館地点出土古九谷様式磁器片の化学分析による生産地推定」、『理学部七号館地点』、四二五〜四五五頁、東京大学遺跡調査室
村上伸之、二〇〇〇、「磁器の編年(色絵・色絵素地)碗・皿・その他」、『九州陶磁の編年』、二一二〜二四九頁、九州近世陶磁学会
山崎一雄、一九九三、「江戸前期の色絵磁器の化学分析—東京大学医学部附属病院地点と山辺田二号窯址付近出土の破片—」、『東洋陶磁』二〇・二一、七九〜八四頁、東洋陶磁学会
山崎一雄・大橋康二・望月明彦・杉崎隆一・内田哲男・小山睦夫・高田實弥・藁科哲男・東村武信、一九九〇、「五章第九節 科学的分析」、『医学部附属病院地点』、九二四〜九四四頁、東京大学遺跡調査室
山崎一雄・成瀬晃司・堀内秀樹・大橋康二・望月明彦・杉崎隆一・内田哲男・小山睦夫・高田實弥・藁科哲男・東村武信、一九九四、「東京大学医学部附属病院地点出土の江戸時代陶磁器片の材質及び産地」、『考古学雑誌』、第七九巻四号、八七〜一二三頁、日本考古学会

 その他の関連文献。
有田町教育委員会、一九七〇、『佐賀県有田町山辺田古窯址群の調査』
石川県教育委員会ほか、一九七一、『九谷古窯 第1次調査概要』
石川県教育委員会ほか、一九七二、『九谷古窯 第2次調査概要』
石川県立美術館、一九九四、『九谷名品図録』
小学館、一九八三、『世界陶磁全集』九
大橋康二、一九八七、「17世紀における肥前磁器について」『伊万里・古九谷名品展』図録、七〜一三頁、石川県立美術館・佐賀県立九州陶磁文化館
嶋崎 丞、一九八七、「古九谷について」、『伊万里・古九谷名品展』図録、一四〜一九頁、石川県立美術館・佐賀県立九州陶磁文化館
西田宏子、一九九〇、「古九谷焼造をめぐる二つの説」、『九谷』(『日本陶磁体系』二二)、八五〜八七頁







資料12 色絵磁器片
医学部附属病院中央診療棟地点、L32-1ほか、肥前、17世紀後半
 いわゆる古久谷様式といわれる色絵磁器の一群である。化学分析の結果、これらは肥前産の磁器片であることが確認されている。また佐賀県有田町にある山辺田3号窯や山辺田遺跡などから、これらの陶片と類似する意匠、成形技法を用いた色絵陶片や色絵素地が出土している。

 
資料13 九谷色絵皿と久谷染付小坏
左は医学部附属病院中央診療棟地点、F27-1、久谷、推定寸法直径21.6×高さ2.4cm、17世紀後半右は医学部附属病院外来診療棟地点、SK171、久谷、推定寸法直径9.6×高さ6cm、17世紀後半
 従来「古久谷」と位置づけられている製品群と成形、施文、施釉などの特徴が異なるものであるが、いずれも化学分析の結果、九谷産であることが確認されている製品である。肉眼観察からも釉調や高台づくりなど、石川県山中町にある久谷古窯から出土した陶片と類似していることがわかる。



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