付編

加賀藩本郷邸を描いた絵画史料の紹介

松本 裕介



 江戸時代における加賀藩前田家上屋敷(本郷邸)の様子を示した屋敷図については、すでに『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4 第3分冊考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇)の中で分析が行われている。我々は屋敷図を通して江戸時代中〜後期における本郷邸の平面構成についてはあらかたのことを知ることができる。しかし、残念なことに藩邸内の建築の立面に関する情報、すなわちどのような外観の建物がならんでいたかということを教えてくれる図面は伝わっていない。また明治元(一八六八)年の火災で御殿など主要建物の大半を焼失してしまったために、往時の様子を伝える古写真の存在も絶望的である。そのような状況の中で、江戸後期から明治にかけて制作された彩色木版画=錦絵は、加賀藩邸の外観を偲ぶ上で貴重な手掛かりを与えてくれる。従来の加賀藩上屋敷の建築に関する研究で中心として使用されてきたのは屋敷図である。史料としての信頼性を考えれば当然のことであるが、屋敷図に欠落している立面=外観についての情報を補う上で錦絵は有効活用されるべきであろう。限られた時間の中で、なるべく多くの錦絵を収集するよう努めた結果、錦絵に類する絵画作品も併せて一八種類の存在が明らかとなった。

 表1・2に挙げたのは今回の調査で存在が確認できた絵画作品である。表1は錦絵で、制作時期別にみると、江戸後期のものが八種、明治初期のものが二種、明治中期に懐古的に描いたものが三種(『徳川盛世録』挿図を含む)である。表2には本郷邸を描いた泥絵を挙げた。泥絵とは江戸後期に西洋の油絵に似せて顔料を胡粉と混ぜて描いた量産品の絵画で、おもに土産物として売られていたものをいう。本郷邸を描いたものは三点を確認した。なお、ここでは割愛したが一七世紀半ば頃の本郷邸(当時下屋敷)が国立歴史民俗博物館蔵『江戸図屏風』の中に描かれている。

 表に挙げた作品について全体的な特徴を述べると以下の通りである。

一、邸内を描いたものはなく、屋敷外から描いたものである
二、本郷通り側(西面)を描いたものが圧倒的に多く、春日通り側(南面)を描いたものは一枚のみである
三、本郷通り側を描いたもの全てに赤門が描かれる
四、描かれた時代は全て文政一〇(一八二七)年の溶姫御殿(御住居)造営以降である

 また、屋敷図との比較検討の結果、明治初期までの作品は比較的正確に同時代の本郷邸の景観をうつしているのに対して、明治中期になってから江戸時代の様子を懐古的に描いた三作品は明治初期頃の景観を元にして想像で失われた建築を補ったものらしく、景観描写の正確性は著しく下がる。今回確認した全ての作品について、作品名、作者、落款、版形/寸法、版元、出版年、所蔵者/所載図書、解説、の八項目を記す。時間の都合上、調査が間に合わなかった事項もあるので御了承願いたい。

■1

作品名:『(狂句合)本郷』 作者:歌川広重(初代) 落款:応需 廣重画 版形:大判横一枚 寸法:未確認 版元:藤岡屋慶次郎(藤慶)、川口正蔵(川正) 出版年:天保末年(一八四〇頃)[極] 所蔵者/所載図書:日本浮世絵博物館=『広重 江戸風景版画大聚成』一七二頁、所蔵者不詳=『ぶんきょうの歴史物語』表紙 解説:初代広重(寛政九〜安政五)は歌川豊広門。文化九(一八一二)年九月に歌川広重と号する。当図は本郷通りを行き交う人々を前景に配し、背景に加賀藩上屋敷を描く。空には旭日が輝き、二羽の鶴が飛んでいる。鈴木重三『広重』(日本経済新聞社、一九七〇、一四〇頁)の解説によると、初版には画面上部に「狂句合 本郷のみそは氷室とかうじ室」という文字があったが、狂句のうち「本郷」の文字のみを残した後摺があり、この方には太陽を半円形にかえたものがあるという。日本浮世絵博物館蔵版は「本郷」以外の文字を削除したもので、『ぶんきょうの歴史物語』所載版は旭日の下半分を雲で隠して半円形にしたもの。当初記されていた狂句の意味であるが、「氷室」は『東都歳時記』に将軍家に毎年六月一日に氷(雪)を献上したという話の伝わる加賀藩上屋敷の氷室をさし、「かうじ(麹)室」は本郷通りの大店・高崎屋のものをさしていると思われ、本郷の見所が加賀藩上屋敷と高崎屋であるということであろう。

■2

作品名:『東都本郷月之光景』 作者:歌川広重(初代) 落款:廣重画 版形:大判竪三枚続 寸法:未確認 版元:上州屋金蔵(上金、池ノ端仲丁通) 出版年:弘化二〜嘉永五(一八四七〜五二)年[『広重 江戸風景版画大聚成』による] 所蔵者/所載図書:東京都立中央図書館[東京誌料 0451-C18]、神奈川県立博物館、日本浮世絵博物館=『広重 江戸風景版画大聚成』一〇二頁 解説:資料5の解説頁参照。

■3

作品名:『絵本江戸土産』より「本郷通」 作者:歌川広重(初代) 落款:廣重画、印「一立斎」(巻末の挿絵にのみ落款があり、「本郷通」の図中にはなし) 版形:和綴小本、見開一頁 寸法:一八×一二センチ 版元:金華堂 出版年:嘉永三(一八五〇)年[初編序]〜 所蔵者/所載図書:東京大学総合図書館(全九編)[(絵本江戸土産)F30-605、(絵本東京土産)F30-502] 解説:資料6の解説頁参照。

■4

作品名:『江戸名所 本郷の景』 作者:歌川広重(初代) 落款:廣重画 版形:大判横一枚 寸法:二四・二×三五・二センチ[文京ふるさと歴史館] 版元:山田屋庄次郎(山田屋) 出版年:嘉永七(一八五四)年四月[改印] 所蔵者/所載図書:文京ふるさと歴史館、日本浮世絵博物館=『広重 江戸風景版画大聚成』 解説:駕籠に乗った女性など本郷通りを行き交う人々の姿を前景に配し、背景に加賀藩上屋敷を描く。『江戸名所』については鈴木重三『広重』(前掲、一三八頁)に解説がある。山田屋のほかに丸甚版・山口屋版もあり、嘉永六年から安政元年・安政五年にかけて出版、総数は四〇枚。折本仕立ての合綴にした『風流人物 東都名所続画全』にも「本郷の景」は収められるという。

■5

作品名:『東都三十六景 本郷通り』 作者:歌川広重(二代) 落款:廣重画 版形:大判竪一枚 寸法:三七・二×二四・五センチ[文京ふるさと歴史館] 版元: 下  谷相ト 出版年:文久二(一八六二)年六月[改印] 所蔵者/所載図書:東京都立中央図書館[東京誌料 0451-C21]、文京ふるさと歴史館 解説:資料7の解説頁参照。

■6

作品名:『江戸名所道外盡四十六 本郷御守殿前』 作者:歌川広景 落款:廣景画 版形:大判竪一枚 寸法:三四・六×二四・五センチ[文京ふるさと歴史館] 版元:辻岡屋 出版年:文久元(一八六一)年[改印] 所蔵者/所載図書:文京ふるさと歴史館、所蔵者不詳=『ぶんきょうの歴史物語』口絵 解説:歌川広景は初代広重門人、生没年不詳、作画期は安政〜慶応。『江戸名所道外盡(どうけづくし、道戯盡とも記す)』三一枚揃は代表作である。「本郷御守殿前」は本郷通りで肩車をしながら傘をさしたり、空いた俵をかぶったりして雨をしのぐ男達の様子をユーモラスに描いている。背景には御守殿の赤門・腰掛・土蔵などが描かれる。

■7

作品名:『加賀鳶行列図』(加賀鳶繰出の図) 作者:歌川豊国(二代) 落款:歌川豊國画 版形:大短冊横五枚続 寸法:各一七・〇×三八・〇センチ[演劇博物館] 版元:不詳 出版年:文政一〇〜天保六(一八二七〜三五)年 所蔵者/所載図書:早稲田大学演劇博物館(一・四・五の三枚)、所蔵者不詳(二〜五の四枚)=『加賀鳶と梯子登りのあゆみ』口絵、酒井睦雄氏(一〜五)=『江戸っ子』九号 解説:本郷通りを進む加賀鳶の行列の背後に、加賀藩上屋敷が描かれる。屋敷の様子のみでなく、加賀鳶の風俗を知る上でも重要な史料。三枚目右端に「売買不許」とあるので、頒布以外の目的で刷られたものか。資料4の解説頁も参照。

■8

作品名:『加賀鳶行列図』 作者:歌川豊国(二代) 落款:歌川豊國画 版形:不詳 寸法:不詳 版元:不詳 出版年:文政一〇〜天保六(一八二七〜三五)年 所蔵者/所載図書:所蔵者不詳=『加賀松雲公 上巻』 解説:『加賀松雲公 上巻』に不鮮明な白黒写真で紹介されているのを知るのみ。春日通りを進む加賀鳶の行列の背後に加賀藩上屋敷が描かれる。春日通り側を描いた錦絵は珍しく、延々と続く窓のない長屋(盲長屋)の姿は迫力がある。画風は7と酷似し、同一作者によるものであることは一見して明らかである。『加賀松雲公』には「一 豊国筆加賀鳶の行列 本図絵草紙の挿画に係る。画師歌川豊国は蓋し三世豊国(国貞)なり。旧幕中加賀鳶三隊あり。茲に描く所は其第二隊にして行列の背後。鬱生せるは麟祥院。腰瓦の厦屋は前田氏本郷の上邸なり。」という解説がつくが、作者は三世豊国(国貞)ではなく二世豊国であろう。また、「絵草紙の挿画」とあるが絵草紙(絵双紙)とは「江戸時代に大衆向きに刊行された絵を主体にした出版物で、多くは仮名書きの文章が添えられている。広義の絵双紙は(略)江戸時代の大衆向きの絵入本すべて包摂するようである(略)。一方狭義の絵双紙は、触売・読売ともいい、ニュース=グラフ的性格を持つ版画で、天災地異・戦争・敵討・情死など世間的関心をよぶ事件を絵にし、それに説明文をつけて一、二枚程度の小冊子としたもの(略)」[国史大辞典]であり、この図にも何らかの短文が添えられていた可能性はある。今のところ当初の出版形態を知るすべはないが7とは一対のものとして、同じ頃に作成されたものと思われる。

■9

作品名:『東都本郷光景』 作者:歌川豊国(三代) 落款:(左・中)香蝶楼豊國、(右)一陽斎豊國 版形:大判竪三枚続 寸法:三五・八×七四・五センチ[三枚共、文京ふるさと歴史館] 版元:藤岡屋慶次郎 出版年:弘化四(一八四八)年[改印] 所蔵者:文京ふるさと歴史館、三原堂(文京区本郷) 解説:文京ふるさと歴史館の解説によると背景は歌川国政(三代)によるもの。美人三人の背後に本郷邸を配する構図は広重の『東都本郷月之光景』に想を得たものと思われる。

■10

作品名:『江戸之花名勝会』 作者:歌川豊国(三代) 落款:未確認 版形:大判竪一枚 寸法:三五・五×二四・二センチ 版元:加藤屋正兵衛 出版年:文久三(一八六三)年一一月[改印] 所蔵者:文京ふるさと歴史館 解説:本郷六丁目と題して赤門付近を描く。三代豊国には本郷を扱った作品として他に『江戸名所図会十八 本郷 八百屋お七』(嘉永二〜三年頃、文京ふるさと歴史館・静岡県立中央図書館所蔵)がある。

■11

作品名:『東京名勝本郷之風景』 作者:歌川広重(三代) 落款:□□廣重画 版形:大判竪三枚続 寸法:三五・八×二四・八(左・右)、二四・五(中)センチ[文京ふるさと歴史館] 版元:海老屋林之助(堀江町二丁目) 出版年:明治元(一八六八)年一〇月[改印] 所蔵者:東京大学史料編纂所[原本0380-54]、文京ふるさと歴史館 解説:文京ふるさと歴史館蔵版はタイトルの「東京」の二文字が白く消されている。口絵3の解説頁参照。

■12

作品名:『江戸名所ノ内 本郷』 作者:歌川芳虎 落款:芳虎画 版形:大判竪(二枚続以上、三枚続か) 寸法:三五・五×二四・七センチ[文京ふるさと歴史館] 版元:〈与 出版年:明治初期 所蔵者/所載図書:文京ふるさと歴史館(一葉のみ)、所蔵者不詳=『ぶんきょうの歴史物語』口絵(二葉) 解説:歌川芳虎(生没年不詳)は大阪出身、国芳門、幕末〜明治に作画。『江戸名所ノ内 本郷』は前景に本郷通りを往来する人物の風俗を描き、背景には旧加賀藩上屋敷を描く。文明開化を感じさせるこうもり傘や馬車が描かれ、馬車に乗るスカートをはいた二人の女性は外国人のようである。内容的に明治初期のものと思われるが、背景にみえる本郷邸の表門・長屋・柵番所などは慶長四(一八六八)年の火災をくぐり抜けたものであろうか。11にもみえる赤門・物見所も描かれている。描写表現は稚拙であるが、明治初期の本郷邸の様子を知る上で貴重な史料。

■13

作品名:『盲長屋梅加賀鳶』 作者:歌川国政(四代) 落款:梅堂国政筆 版形:大判竪三枚続 寸法:三四・七×七〇・三センチ[三枚共、消防博物館] 版元:未確認 出版年:明治一九(一八八六)年 所蔵者:消防博物館(新宿区) 解説:五代目尾上菊五郎により明治一九(一八八六)年に千歳座で初演された河竹黙阿弥の代表作『盲長屋梅加賀鳶』を主題としたもの。菊五郎演じる主人公・梅吉のほか四名の役者を前景に描き、背景に本郷邸御守殿付近を描くが、赤門の屋根が入母屋造となるなど不正確である。

■14

作品名:『松之栄』 作者:歌川国貞(三代)落款:香朝樓国貞筆 版形:大判竪三枚続 寸法:三五・五×二三・四(右)、三四・五×二二・三(中)、三五・四×二三・五(左)センチ[文京ふるさと歴史館] 版元:尾関トヨ(日本橋区若松町十五番地) 出版年:明治二二(一八八九)年一一月 所蔵者:東京大学総合図書館、学士会、文京ふるさと歴史館、林順信氏 解説:13とは同一作者による。資料8の解説頁参照。

■15

作品名:「将軍の姫君登城途中の図」 作者:不詳 落款:なし 版形:和綴本、見開二頁 寸法:未確認 版元:博文社 出版年:明治二二(一八八九)年 所載図書(所蔵者):市岡正一『徳川盛世録』に掲載 解説:口絵2の解説頁参照。

■16

作品名:『泥絵(加賀藩江戸本邸)』 作者:不詳 落款:なし 寸法:三〇・七×四六・六センチ 版元:不詳 出版年:江戸後期(一八二七年以降) 所蔵者:石川県立歴史博物館 解説:本郷通りおよび加賀藩上屋敷(猿楽門以北)を描く。溶姫御住居建設以降の景観を示す。資料2の解説頁参照。

■17

作品名:『泥絵(本郷加賀屋敷の図)』 作者:不詳 落款:なし 寸法:未確認 版元:不詳 出版年:江戸後期(一八二七年以降) 所蔵者:文京ふるさと歴史館 解説:本郷通りおよび加賀藩上屋敷(大御門以北)を描く。溶姫御住居建設以降の景観を示す。資料3の解説頁参照。

■18

作品名:『泥絵(本郷松平加賀守上屋敷の図)』 作者:不詳 落款:なし 寸法:未確認 版元:不詳 出版年:江戸後期(一八二七年以降) 所載図書:大熊喜邦『泥絵と大名屋敷』所載 解説:本郷通りおよび加賀藩上屋敷(赤門以北)を描く。溶姫御住居建設以降の景観を示す。大熊喜邦『泥絵と大名屋敷』(一九三九、大塚巧藝社)より解説をそのまま引用する。「本郷松平加賀守上屋敷の図。加賀様の上屋敷と言へば直ぐに本郷の赤門と誰の頭にも浮かぶ程名高かった。西側は町屋が軒を並べ東側は二つの立派な門に連なって長屋はどこまでも続いてゐる。この二つの門は道から退って其の細長い広場は砂利敷になってゐた。この雄大なところを描いた版画もあるがこの泥絵も亦そこを狙ったものである。先に見えるのがこの上屋敷の表門で赤く大棟門のように描いてあるが、手前のが唐破風造り両放れ番所附の朱塗りの大棟門で御守殿とされてゐる門である。この二つの門の辺りは私の持ってゐる昔の図面と余り違ってはゐないから、昔の様子はこんなものであったのだろう。」。ただし、大熊氏の解説はあまり正確ではなく、赤門の奥に見える門は「表門」ではなく御守殿(御住居)の裏門であり、「長屋はどこまでも続いて」とあるが本郷通り側には表門左右の長屋(この図の範囲外)を除くと表長屋はなかった。



【参考文献】

侯爵前田家編修、一九〇八、『加賀松雲公 上巻』、非売品
藤懸静也、一九二四、『浮世絵』、雄山閣
井上和雄、一九三一、『浮世絵師伝』、渡辺版画店
大熊喜邦、一九三九、『泥絵と大名屋敷』、大塚巧藝社
東京帝国大学庶務課、一九四〇、『懐徳館の由来』、非売品
平井聖、一九六八、『日本の近世住宅』、SD選書30、鹿島出版会
鈴木重三、一九七〇、『広重』、日本経済新聞社
吉田暎二、一九七四、『浮世絵事典 定本』、画文堂
酒井睦雄、一九七六、「絵巻加賀鳶」、『江戸っ子』九号、江戸っ子編集室
財団法人日本地図センター、一九八四、『参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」』、建設省国土地理院所蔵
文京区教育委員会社会教育課編・発行、一九八八、『ぶんきょうの歴史物語—史話と伝説を訪ねて』
市岡正一、一九八九、『徳川盛世録』、東洋文庫四九六、平凡社
東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇、『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4 東京大学本郷構内の遺跡 山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』、東京大学
加賀鳶はしご登り保存会(金沢消防本部内)編・発行、一九九四、『加賀鳶と梯子登りのあゆみ』、非売品
酒井雁高編、一九九六、『広重 江戸風景版画大聚成』、小学館
平井聖監修、吉田純一編集、一九九七、『城郭・侍屋敷古図集成 福井城・金沢城』、至文堂

(U)




資料1 育徳園図
作者不詳、85×44、19世紀後半、前田育徳会尊経閣文庫所蔵、16-9-チ
 「三四郎池」と呼ばれて親しまれている池は、かつて前田家上屋敷の庭である「育徳園」を構成する池であった。この図では、御殿下グランドの位置にあった「梅之御殿」が撤去され、馬場と厩ができている。「梅之御殿」は文政6〜8(1823〜25)年頃解体撤去されたと推定されているので、この絵図の景観年代はそれ以降である。また「藩末ノ調製ニ係ル」という同様の絵図が、『加賀松雲公』や『東京市史稿 遊園篇第一』に掲載されている。
 「育徳園」は、いくつかの起伏があり、廻遊しながら景色の移り変わりを楽しむことができる庭であった。江戸中を展望できたという「栄螺山」を背景とし、手前に低く池をたたえた、高低差が大きい迫力のある構成により、深山幽谷が作り出されていた。


資料2 『泥絵(加賀藩江戸本邸)』
作者不詳、30.7×46.6、江戸後期、石川県立歴史博物館所蔵


資料3 『泥絵(本郷加賀屋敷の図)』
作者不詳、江戸後期、文京ふるさと歴史館所蔵
 泥絵とは江戸後期に顔料を胡粉と混ぜることによって西洋の油絵に質感を似せた量産品の絵画で、おもに土産物として売られていたものをいう。加賀藩上屋敷(本郷邸)を描いたものは三点を確認したが、いずれも遠近法を用いて本郷通り(中山道)を南側から描いたものである。溶姫(藩主斉泰夫人)の御住居が描かれていることから文政10(1827)年以降の景観を示していることがわかる。






資料4 『加賀鳶行列図(加賀鳶繰出の図)』
歌川豊国(二代)、大短冊横三枚(五枚続中)、各17×37、出版年:文政10〜天保6(1827〜35)年、早稲田大学演劇博物館所蔵
 『加賀鳶行列図』については「絵師のみた加賀藩本郷邸」参照。早稲田大学演劇博物館には五枚続の内一・四・五の3枚が所蔵される。


資料5 『東都本郷月之光景』
歌川広重(初代)、大判竪三枚続、版元:上州屋金蔵(上金、池ノ端仲丁通)、弘化2〜嘉永5(1847、52)年、東京都立中央図書館所蔵[東京誌料 0451-C18]
 『東海道五十三次』などで知られる初代広重(1797〜1858)による大判錦絵。三枚続の各葉前景に美人を一人ずつ配し、その背景に月夜に照らされた加賀藩上屋敷を描く。


資料6 『絵本江戸土産』より「本郷通」
歌川広重(初代)、和綴小本、見開一頁 18×12、版元:金華堂、出版年:嘉永3(1850)年[初編序]〜、東京大学総合図書館所蔵(絵本江戸土産)F30-605、(絵本東京土産)F30-502]
 『絵本江戸土産は全一〇編(10冊)からなる江戸の地誌(名所案内)で、挿図は八編までは初代広重、九・一〇編は初代没後に二代が描き継いだもの。初〜四編は嘉永3(1850)年序、五〜七編は序文に年記がないが、八・九編は文久元(1861)年序。東京大学総合図書館蔵本は全九編からなるものて、出版は金華堂である。「本郷通」は五編に掲載され、初代広重の筆による。本郷通りを俯瞰して描いており、手前に町屋の屋根、奥に加賀藩上屋敷(溶姫御住居周辺)を配する。図の上部には「本郷通 本郷と唱ふる所廣しといへどもこの通りを以て第一とす。是より北にむかへば駒込・王子ヘの本道也。追分より西へ入りて下板橋の通路なれば中山道を上下の諸人みなこの道へかゝるなり」と記されている。


資料7 『東都三十六景本郷通り』
歌川広重(二代)、大判堅一枚、東京都立中央図書館所蔵[東京誌料 0451-C21]
 二代広重(1826〜69)は初代広重の娘婿で、初代の没後に広重の号を継いだ。前景に本郷通りを往来する人物を描き、背景に赤門・土蔵・長局など溶姫御守殿の建物を描く。色彩の美しい作品である。


資料8 「松之栄」
歌川国貞(三代)、大判竪三枚続、版元:尾関トヨ(日本橋区若松町15番地)、明治22(1889)年11月出版、東京大学総合図書館所蔵
 三代国貞(1848〜1920)は四代豊国(三代国貞)の門人、国貞を名乗ったのは明治22(1889)年のことで、香朝楼あるいは梅堂豊斎(芳斎)と号した。役者絵、特に先代市川左団次が得意であったという。『松之栄』は「旧幕府の姫君加州家へ御輿入の図」の副題を持ち、文政10(1827)年に将軍家斉の娘溶姫が藩主前田斉泰へ輿入れしたときの様子を想像を交えて描いたもの。当図が出版された明治22年は家康が江戸へ入府した天正18(1590)年から数えで三百年目にあたり、東京開市三百年祭が営まれた年であった。「松之栄」というタイトルは江戸から東京へとつながる都市の永きに渡る繁栄を表しているのではないだろうか。長い歴史の中でのお目出度い一つの事件として溶姫の入輿がとりあげられたと考えたい。ただし、溶姫が嫁いだのは62年前の出来事であり、作者の三代国貞が生まれる21年前のことである。赤門の描写があまりにも克明であるため、往時の景観が示されているような錯覚を覚えさせられるが、赤門前の腰掛や裏門北側の御物見など、文政期に存在していたはずの建物がここにはなく、敷地の凹凸も当時の屋敷図にみられる形態と異なっている。建築のみならず、11月の入輿であったならば邸内に桜が咲いているのも奇妙であるし、駕篭に乗った溶姫が御簾を上げて通りの人々に姿をみせるサービスぶりも史実に反するものと思われる。『松之栄』は史料的価値よりも、あでやかな色彩であらわされた祝祭的な雰囲気を楽しみたい作品である。明治22年は東京開市三百年祭以外にも、憲法発布や外国人雑居の決定など祝事に恵まれた年であった。そのような時代の華やぎをこの絵は伝えているように思われる。


資料9 加賀藩江戸御上屋敷長屋絵図
絵図、24×1881、19世紀、石川県立歴史博物館所蔵大鋸コレクション
 幕末期の藩邸南部の長屋を描いた絵図。本郷邸の火消組織「加賀鳶」の詰所や、南御門、家中の住まいである貸小屋を自費で改修していた様子が詳細に描かれている。


10-1

10-2
資料10 「要筐弁志年中行事」
和綴本、文化9(1812)年成立、江戸後期(19世紀)筆写、東京大学総合図書館所蔵[G26:932]
 『要筐弁志年中行事』もしくは『要筐弁志』という名で知られ、武家の諸制度を編集した書誌である。編者は不明だが、江戸後期の成立。筆写本が数多く存在しており、需要が非常に高い本であったことがうかがわれる。東京大学に所蔵されるものだけを数えても、総合図書館・史料編纂所・法学部研究室に合計14種の写本が存在しているが、それぞれ内容・表記に若干の差異がある。写本には文化9(1812)年9月の序文をもつものが含まれており、文化9年が原本の成立時期と考えることができるが、その後に増改訂を加えた版の写本も多い。『要筐弁志』には大名屋敷の門構に関する規制を挿絵入りで解説した箇所がある。当時の大名屋敷の表門は、その家の禄高などによって大きさや左右両側の番所の形式が定められており、他に火災焼失後の仮門(冠木門)の建て方なども定められていた。ただし全ての大名家がこれに従っていたわけではなく、遠慮と称して格下の門形式を採用したり、家柄を考慮して禄高に相応する形式よりも上のものを使用するすることが許されるなど、柔軟性のある適用がなされていたようである。
 資料10-1は国持大名と称される家柄(国持家・国家ともいい最高位の大名家)の屋敷門で、「放れ門」と称される長屋から独立した形式の門である。間口12間(両番所を含む)で、門の左右両側の番所の屋根が唐破風造になっているのが特徴である。明和9(1772)年の行人坂火事の以降は(棟の高い)放れ門の造営が禁止されて、国持家でも長屋門(規模・番所形式は放れ門に準じる)を使用するように定められたが、『要筐弁志』成立時においても萩藩毛利家や薩摩藩島津家などでは放れ門が引き続き使用されていた。
 資料10-2は本多下総守(近江・膳所藩、六万石)の屋敷で使用されていたという黒塗りの表門で、入母屋造・腰瓦(海鼠壁)付きの両番所が使用されていた。表門の形式としては特例に属するもので、「焼失した場合には従来の形式で再建をするべきであろうか」という旨の記述が『要筐弁志』にみられる。番所の屋根が入母屋造であった例は他の数家にもあったようで、前田家(加賀藩、百二万二千七百石)、稲葉丹後守(山城・淀藩、十万二千石)、松平越後守(美作・津山藩、十万石)、柑馬長門守(陸奥・中村藩、六万石)、板倉阿波守(備中・松山藩、五万石)が『要筐弁志』中に挙げられている。国持家である加賀藩前田家は本来ならば資料10-1の形式を採用すべきであったが、この特例的形式の門構を使用していたらしい。ただし、享保15(1730)年の火災後に再建されてから明治に至るまで加賀藩上屋敷表門は間口三間(柱間)の放れ門(薬医門か)で、出格子付番所を右側にのみに設けたものであった。よってこの図のような両番所付の形式の門を構えていたのは享保火災以前のことと考えられる。


資料11 陸奥薯伊達家汐留上屋敷表門模型
縮尺20分の1、木製、高75×幅152×奥行87(台座含)、東京大学大学院工学系研究科所蔵、撮影 大畑早苗
 建築学科旧備品台帳によると、昭和2(1927)年10月31日に伯爵伊達興宗より東京大学建築学科に寄贈された模型。その後、昭和15(1940)年の紀元二千六百年記念日本文化史展覧会に出品される。その際の藤島亥治郎の解説や、『要筐弁志年中行事』の記述、発掘調査の成果から、この表門は実在しなかったと思われる。計画案として作成されたのか、それとも後年何らかの理由により作成されたのか。製作年代、目的は現在のところ解明できていないが、19世紀に造られたものである可能性が高い。
 門の形式は、切妻造、総瓦葺、両潜付、唐破風両離番所付。『要筐弁志』などによると、国持大名クラスの典型的な門の形となるが、間口は12間なく、両側の潜戸と番所をつなぐ間板壁が省略されたものである。陸奥藩伊達家は六二万石であり、同じ国持大名であることから考えても、百万石を超える加賀藩前田家の表門を考察する上で参考となる。
 さらにこの模型の興味深い点は、屋根の一部を取り外すことができ、小屋組の部材に名称が書かれていることである。これはどう考えても単なるスタディ模型ではなく、「見られる」ことを意識した模型であろう。遺構の殆ど見られない大名屋敷の表門を検討する上で、また、模型という未開の領域を探る上で、重要な意味をなす模型である。



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