「やきもの」考

—本郷構内出土の陶磁器・土器類について

大成 可乃




はじめに

 一三九三〇—この数字は一九九七年度までに本郷構内の発掘調査で出土した遺物が納められた天箱の総数である。このうち八割以上が近世の陶磁器や土器類で占められている。これは陶磁器・土器類だけが江戸時代の人々の衣食住に係わるモノであったということではなく、他の出土遺物に比べて残存率が良好であることに起因するものである(例えば木・金属製品などは土の中で腐食してその痕跡が残らないことが多い)。この陶磁器・土器類の残存率の良さを利用して、近世の衣食住などの文化的側面や流通・階層性などの社会経済的側面にまで及ぶような幅広い研究がなされている。

 埋蔵文化財調査室においてもその膨大な量の陶磁器・土器類を利用して様々な研究を進めてきているが、最も大きな成果の一つに陶磁器・土器類による時間軸の設定が可能になった事が挙げられる。この時間軸は本郷構内は勿論、ほかの江戸遺跡を発掘調査する際にも時間軸の指標とされている。

 そこで本稿では、これまで一般の方々に広く知らされる機会が少なかった東大構内出土の陶磁器・土器類の様相を紹介する意味合いも込めて、埋蔵文化財調査室における陶磁器・土器類の分析方法と、それに基づいて設定した陶磁器・土器類による時間軸を紹介する。また本郷構内で出土する陶磁器・土器類を胎質別、産地別に概観するとともに、出土量が多く、胎質毎の出土比率に大きな影響を与えていると考えられる碗、皿類の動向についてもその時間軸に基づいて概観した。また、そこから推測される様々な事柄についても若干触れてみたい。


埋蔵文化財調査室における陶磁器・土器類の分析方法

 埋蔵文化財調査室では、東京大学構内の各調査地点において一つの遺構から出土した陶磁器・土器類(以後、遺構一括遺物群とする)および一つの層から出土した陶磁器・土器類の様相の把握を行い、分析の基礎資料としている。その際対象となりうる陶磁器・土器類は、遺構内における器種・産地組成の把握を行うことと、年代の判断材料を多く有することでその蓋然性を高めるという二つの理由により、遺物が多量に出土した遺構を分析の対象としている。

 以下に、分類、分析方法を述べるが、詳細は東京大学構内遺跡調査研究年報二の別冊(東京大学埋蔵文化財調査室、一九九九)を参照されたい。

(一) 出土した陶磁器・土器類全般にわたり、産地、また主に器形的特徴で器種の分類を行う。
(二) 遺構一括遺物群において上記の分類毎の数量を推定個体数で提示する。
(三) 遺構一括遺物群において、ほぼ同様の器種組成をするもの=同時期の廃棄としてとらえるとともに、その組成が相対年代に位置づけるに際して有効と思われる最小単位の把握を行う。また、その組成を明らかにする。
(四) 各最小単位の相対的層序を把握するとともに、遺跡における層序、遺構の切り合いなどから各期の組列の方向を推定し、その様相を捉えていく。
(五) 主な遺構一括遺物群の年代的特徴や年代的集中を知る手がかりとして時間的な分布状況を示す。
(六) 各期の実年代推定を行う。推定は出土する量も多く、文様・器形などの変化がもっとも顕著であり、生産地での研究も進んでいる肥前磁器の碗・皿を年代比定の指標として取り扱う(堀内、一九九九)。

 各時期の年代比定に際しては、遺構一括資料における組成、東大構内の遺跡に残る災害の痕跡、層序、遺構の切り合いなどを合わせて判断材料として行う。


陶磁器・土器類の分類 図1


○胎質
J(磁器)  T(陶器)  D(土器)

○生産地
 A−輸入陶磁器E−備前系
A1 景徳鎮窯系F−志戸呂系
A2 州窯系G−常滑系
A3 徳化窯系H−萩系
A4 龍泉窯系I−萬古系
A5 宜興窯系J−大堀・相馬系
A6 朝鮮K−丹波系
A7 ベトナムL−堺系
A8 ヨーロッパM−益子・笠間系
 B−肥前系N−九谷系
 C−瀬戸・美濃系O−壺屋系
 D−京都・信楽系P−淡路系

Z−不明

○器種
1.碗2.皿3.大皿4.燗徳利5.鉢
6.圷7.猪口8.仏飯器9.香炉・火入れ10.瓶
11.御神酒徳利12.油壺13.蓋物14.筆立て15.壺・甕
16.急須17.燗鍋18.合子19.水滴20.蓮華
21.植木鉢22.花生23.片口鉢24.灰落し25.鬢水入れ
26.茶入れ27.水注28.溲瓶29.擂鉢30.餌入
31.火鉢32.柄杓33.鍋34.土瓶35.戸車
36.ちろり37.薬研38.手焙り39.おろし皿40.油受け皿
41.油徳利42.行平鍋43.十能44.ひょうそく45.瓦燈
46.カンテラ47.ほうろく48.七輪49.涼炉50.五徳
51.塩壺52.燭台53.蒸し器54.懐炉55.泥面子・芥子面
56.碁石形製品57.玉58.鈴59.笛60.人形
61.ミニチュア62.面型00.蓋
図1 東京大学構内出土の陶磁器・土器類の分類

 埋蔵文化財調査室では、前述した分析方法を用いて陶磁器・土器類一点一点について、胎質・産地−器種−小器種の三項目で分類している。胎質は磁器(J)、陶器(T)、土器(D)に分類した。産地は胎土・釉調・器形などの特徴から分類し、国内の主要生産地一六カ所、国外八カ所、産地が不明なものや特定できないものについてはZ群とした。器種は、器形的特徴から六二器種に分類している。小器種は第二項目までの分類では不十分であると判断したものについて設定している。詳細は先述した東京大学構内遺跡調査研究年報二の別冊(東京大学埋蔵文化財調査室、一九九九)を参照されたい。なおこの分類は、良好な遺構一括資料の増加や研究の進展に伴い随時改訂してしている。


各期の様相

 埋蔵文化財調査室では陶磁器・土器類を以上のように分析・分類し、年代的指標となりうる器種を特定、その存在の有無により九つの段階を設定した。ただし現時点でその時期の様相を特定できるような良好な遺構が検出されていないものについては、その廃棄時期が明瞭に特定されている他遺跡の遺構一括遺物群を参考資料としている。

 以下では指標とした遺構、陶磁器・土器類を明示しつつ、各期の概略について触れる。

 なお、各期の実年代の推定に当たっては、出土量も多く、生産地での研究も進んでいる肥前・および瀬戸・美濃系の磁器碗・皿の編年を参考にしつつ、紀年銘資料や発掘調査で明らかになった災害、土地利用なども判断材料として総合的に推定している。今回、推定年代を明示しておくが、これは当調査室員 堀内秀樹が発表したものを使用させていただいた。


I期の様相

 遺物群に肥前系磁器を含まないものを本期としている。

 本郷邸の変遷では大久保時代と前田下屋敷時代が含まれ、前者をIa期、後者をIb期としている。

 Ia期と比定される遺構・遺物は東大構内においては現在まで確認されていないが、当概期に比定されるものとして大久保の国元である小田原のIIIa期の資料が挙げられる。小田原IIIa期の資料は唐津・志野を当概期の指標としている。

 Ib期についても該当する遺構は少なく、当概期の全体的な様相を述べることは現段階ではできないので、該当遺構の遺物出土状況を述べるのみとする。薬学部新館地点SE六七や医学部附属病院中央診療棟地点の池の出土資料がそれにあたる。詳細は東京大学構内遺跡調査研究年報一を参照されたいが、SE六七からは中国青花や瀬戸・美濃系の志野釉が施釉された碗・皿、またIa期にはみられなかった織部の製品が出土している。焼塩壺は「三なと久左衛門」の刻印のあるものが出土している。池遺構は将軍御成の宴会に伴う廃棄遺構とされ寛永六(一六二九)年銘の木簡や大量の木製品とともに、カワラケが大量に出土している。そのカワラケはほとんどが手づくねである。

 本期の実年代は、Ia期は徳川家康が関東に国替えされる天正十八(一五九〇)年から大久保忠隣が改易になる慶長十九(一六一四)年まで、Ib期は前田家が本郷邸を拝領した元和二〜三(一六一二〜一三)年から一六二〇年代を中心とする年代が与えられている。


II期の様相(資料18)

 御殿下記念館地点五三二号遺構出土遺物などを指標としている。

 磁器が初期伊万里と称される肥前系磁器と舶載磁器で構成されるのが本期である。

 カワラケはI期で見られたような手づくねの製品はほとんどみられなくなり、ロクロ成形のもので占められるようになる。底部に見られる糸切り離しの痕跡は、右回転のものと左回転のものとが一:二ぐらいの割合でみられる。塩壺は輪積成形で、刻印が「三なと藤左衛門」の製品がみられる。

 本期の実年代は、本期の遺構に含まれる肥前系磁器の様相と生産地の製品の様相を比較して一六三〇〜四〇年代を中心とする年代が与えられている。


III期の様相(資料19)

 肥前系磁器碗・皿類の高台断面が三角形を呈するもので構成される段階を本期としている。IV期の指標となる高台断面が「U」字状を呈する製品が含まれる割合と、塩壺の様相差から、さらにIIIa、IIIb期と細分している。

 IIIa期は御殿下記念館地点六七八号出土遺物などを、IIIb期は医学部附属病院中央診療棟地点H三二—五出土遺物などをそれぞれ指標としている。

 塩壺はIIIa期には輪積成形で刻印が「天下一堺三なと藤左衛門」のもの、および板作成形で「イ津ミ ツタ 花塩屋」の刻印をもつものがみられるようになる。IIIb期には輪積成形で刻印が「天下一御壺塩師堺見なと伊織」のもの、および刻印が「御壺塩師堺湊伊織」のもの、板作成形で、底部と体部を二つの部品から成形(以下、二ピースと省略)し、刻印が「泉州麻生」のものがみられるようになるなど、バリエーションが豊富になる。

 本期の実年代は、発掘調査の成果から下限には天和二(一六八二)年の火災が与えられる。さらにIIIa期は器種構成や成形技法などを窯の資料と比較して一六五〇〜六〇年代、またIIIb期はIIIa期より後出する柿右衛門様式の製品を含むことから一六七〇年代を中心とし、下限を一六八二年としている。


IV期の様相(資料20)

 IV期は肥前系磁器碗の高台高が高く、高台断面が「U」字状を呈する碗を含むもので構成される段階を本期としている。この碗にはやや大降りで高台径が大きいものと、やや小降りで高台径が小さいものの二種類がみられ、両者には出現期の前後関係があることが確認されてる。大振りの碗を中心に構成される時期をIVa期、小振りの碗を中心に構成される時期をIVb期としている。

 IVa期は医学部附属病院中央診療棟地点F三四−一一出土遺物などを、IVb期は医学部附属病院中央診療棟地点K三〇−一出土遺物などを指標としている。

 塩壺はIV期には輪積成形製品がほとんど見られなくなり、板作成形の製品が主体となる。IVa期は前段階からの二ピースで刻印が「泉州麻生」のものに加えて、底部を粘土紐と粘土塊の二つのパーツを用いて、板作りの体部と合わせるもの(以下、三ピースと省略)で、刻印が「御壺塩師堺湊伊織」が見られるようになる。IVb期は二ピースおよび三ピースで刻印が「御壺塩師堺湊伊織」、二ピースで刻印が「泉州麻生」などがみられる。

 本期の実年代は、発掘調査の成果から下限には元禄十六(一七〇三)年の火災が与えられる。さらにIVa期には遺物の様相から一六八二年〜一六八〇年代中心、IVb期には一六九〇年代〜一七〇三年が与えられている(1)


V期の様相(資料21)

 肥前系磁器にいわゆる「くらわんか」と呼称される製品が登場する段階を本期としている。また本期の中で、青磁染付、筒形碗、蛇の目凹形高台の低いタイプなどを伴わない段階をVa期(2)、伴う段階をVb期と細分している。

 Va期は医学部附属病院中央診療棟地点F三三−三の出土遺物などを、Vb期は医学部附属病院外来診療棟地点SK二九〇の出土遺物などをそれぞれ指標としている。

 塩壺は前段階よりさらにバリエーションが豊富になっている。Va期では板作成形の製品で占められる。二ピースおよび三ピースの「泉州麻生」、三ピースの「泉州麻玉」、「御壺塩師難波浄因」「難波浄因」、二ピースの「泉湊伊織」、「サカイ 泉州磨生 御塩所」などがみられる。Vb期も板作成形の製品で占められる。二ピースで刻印が「泉湊伊織」、「泉州麻生」「サカイ 泉州磨生 御塩所」がみられる。

 本期の実年代はVa期は一七一〇〜二〇年代、Vb期は一七三〇〜四〇年代が与えられている。


VI期の様相(資料22)

 肥前系磁器に青磁染付が伴う段階を本期としている。いわゆる初期伊万里の中にも青磁染付は見られるが、それとは区別されるものである。本期はいわゆる小広東碗を伴う段階をVIa期、伴わない段階をVIb期と細分している。

 VIa期は医学部附属病院外来診療棟地点SK一五二の出土遺物などを、VIb期は医学部附属病院中央診療棟地点E二二−一の出土遺物などをそれぞれ指標としている。

 塩壺はVIa期では板作成形の二ピースで、刻印が「泉湊伊織」「泉州麻生」のものと、ロクロ成形で刻印が「大極上壺塩」のものがみられる。VIb期にはVIa期にみられたものに加えて、ロクロ成形で刻印が「播磨大極上」のものと、ロクロ成形で刻印のないものもみられるようになる。

 本期の実年代はVIa期は一七五〇年代〜六〇年代、VIb期は一七七〇年代を中心とする年代が与えられている。


VII期の様相(資料23)

 VII期は法文地点E七−三号土坑出土遺物などを指標としている。

 肥前系磁器碗にいわゆる広東碗を伴う段階を本期としている。本期からは肥前系磁器に加えて再び舶載磁器がみられるようになる。

 塩壺はロクロ成形のものだけになり、刻印がないものが大半となる。

 本期の実年代は文献資料や発掘調査から、その下限を享和二(一八〇二)年の梅之御殿造営に伴う屋敷改編とし、上限を広東碗の出現時期(3)の一七八〇年代としている。


VIII期の様相(資料24)

 瀬戸・美濃系磁器が伴う段階を本期とし、瀬戸・美濃系磁器碗・皿類の搬出状況から更にVIIIa期からVIIId期の四期に細分している。

 VIIIa期は医学部附属病院中央診療棟地点AJ三五−一の出土遺物を、VIIIb期は医学部附属病院外来診療棟地点SK八一の出土遺物などを、VIIIc期は医学部附属病院外来診療棟地点SK三九二の出土遺物などを、VIIId期は新宿区払方町遺跡五九六号の出土遺物などをそれぞれ指標としている。

 VIIIa期は瀬戸・美濃系磁器碗と肥前系磁器の広東碗が伴う段階、VIIIb期は瀬戸・美濃系磁器の端反形碗と湯呑形碗が伴う段階、VIIIc期は瀬戸・美濃系の端反形碗と幅広高台をもつ湯呑形碗が伴う段階、VIIId期は寿文皿などの木型打込み皿や篆書文の端反形碗が伴う段階である。

 塩壺はロクロ成形の、刻印がないものだけとなる。

 本期の実年代は、東大本郷構内の遺跡から年代的定点になりうるような資料がまだみつかっていないことから、他の江戸遺跡の資料と比較して以下のような実年代をあてている。すなわちVIIIa期が一八〇〇〜一〇年代、VIIIb期が一八二〇〜三〇年代、VIIIc期が一八三〇〜四〇年代、VIIId期が一八五〇〜六〇年代を中心とする年代とされている。


IX期の様相

 IX期は医学部附属病院中央診療棟地点AL三七−一の出土遺物を指標としている。

 肥前系磁器や瀬戸・美濃系磁器の染付顔料に西洋コバルトやクロムなどを用いる製品が伴う段階を本期としている。

 本期の実年代は、瀬戸・美濃系磁器の近代の絵付技法や使用顔料の研究成果から一八七〇年代を中心とする年代としている(4)


 以上のように埋蔵文化財調査室では各段階での様相を把握し、実年代の推定を行うことで、江戸という大消費地における自律した時間軸の設定を可能としたのである。

 そこで以下の章では、この時間軸を利用して陶磁器・土器類がどのような動きをしていたのかを、胎質別、産地別に概観した(図2-a、b)。また全時期を通じて出土量が多く、その動向が陶磁器・土器類全体に対して影響すると思われる碗と皿についても、産地別と小器種における組成比率を概観した(図2-c・d、図3)。なお、各段階の陶磁器・土器類の数量提示をするにあたり、今回は細片を除いて底部が一/二以上残存するものの底部破片数をカウントした。またVIIId期の指標としている払方町遺跡五九六号の出土遺物については、報告書に実測図が掲載されているものをカウントしたものであり、参考までに掲載した。


胎質毎の動向 図2,3








図2 東京大学構内出土の陶磁器・土器類の動向(1)(( )内は総底部破片数)







図3 東京大学構内出土の陶磁器・土器類の動向(2)(( )内は総底部破片数)

 胎質別に量的変化をみたのが図2—aである。これをみると幾つかの注目すべき動きがあることがわかる。以下では胎質毎に各段階の動向を概観しつつ、その動向が一体どのような背景によるものなのかをみてみたい。なお、動向の背景を探るにあたっては、出土量が多く、その動向が陶磁器・土器類全体に対して影響すると考えられる碗・皿の産地別構成比(図2—c、d)を参考にした。


磁器の動き

 II期では全体の二割ほどを占めるに過ぎないが、IIIa期になると五割近くを占めるまでになる。IIIb期になるとやや減少するが、Va期までは全体の約四割を占める状況が続く。ではIIIb期の一時的な磁器の減少は何が原因しているのか。碗・皿の産地別構成比に注目すると、磁器皿は前段階より更にその比率が増加しているが、磁器碗の比率は大きく減少していることがわかる。従ってこの時期に磁器の量がやや減少するのは、磁器碗の占める割合が減少することにあると考えられる。そしてその要因は、この時期に急激に出土量が増加した肥前陶器碗であることも読みとれよう。

 全体の四割を占めていた磁器はVb期にその割合を急激に減らし、一割強を占めるにすぎなくなる。図2—cからは、この時期に磁器碗の割合が大幅に減少していることから、それが一因となっていることがわかる。また、その時期に瀬戸・美濃系陶器碗と京・信楽系の陶器碗の割合が大きく増加していることがわかる。

 この後、磁器はまた増加傾向に転じ、VIIIa期には再び五割近くを占めるようになる。これはこの時期に登場してくる瀬戸・美濃系磁器の影響であることがわかる。


陶器の動き

 II期は磁器と同じく全体の二割を占めるが、IIIa期には一割程度に落ち込んでいる。これはIIIa期の磁器の急激な増加によるものであろう。

 しかしIIIb期には、全体の四割を占めるまでの急激な増加をみる。これは前述したように陶器碗の増加にその要因があるのだろう。

 その後Vb期まで四割前後で推移し、その割合はほぼ一定している。ただし、IVa期だけはやや他の段階に比べて陶器の割合が少なくなっていることがわかる。IVa期には磁器碗の割合が増加し、陶器碗のそれは減少している。特に瀬戸・美濃系陶器碗が占める割合は大きく減少している。

 VIa期には五割程度まで増加し、VII期までは五割前後で推移している。

 VIIIa期には磁器の急激な増加に伴い四割前後に減少し、VIIId期までその量は一定している。IX期には、再び磁器の急激な増加のため三割前後にまで減少する。


土器の動き

 概観すると、II〜IX期にかけて徐々に減少する傾向が窺える。

 II期には五割以上を占めるが、IIIa期は磁器の増加により四割程度まで減少する。さらにIIIb期には陶器の急激な増加により二割程度にまで大幅に減少している。

 IVa期からVIb期の間は三割前後で推移している。しかしVb期だけは、全体の五割を占めるまでの急激な増加を示している。この時期、陶器の比率は前段階とほぼ変化がないが、磁器の比率は大きく減少している。図3—iの土器の器種別量比を見ると、塩壺の量が急激に増加している。ただしVb期のこのような土器の様相は少し注意を必要としよう。Vb期を除けば、多少の増減があっても土器の割合は徐々に減少していく傾向があることはすでに述べた通りである。そのような全体的な傾向の中にあって、Vb期SK二九〇の土器の占める割合が大きく増加しているのは特異な傾向であり、この土器の様相はSK二九〇という遺構の性格が反映した可能性も考慮する必要があろう。従ってVb期の土器の様相については、他のVb期に該当する遺構との検証が必要であり、今後の課題としたい。

 VII期からVIIIa期までは磁器と陶器の増加により、一割前後で推移する。VIIIb期からVIIId期まではやや増加し、二割前後で推移するが、IX期には再び一割程度になる。


磁器と陶器の出土比率

 以上のように胎質別に各期の様相を概観すると、細かな変化を繰り返している様子が窺える。しかし磁器と陶器の比率ということでみると、大まかに四段階の変化をしていることがわかる。一、II期では一:一の比率であったが、IIIa期には四:一と磁器が四倍に増加している。二、IIIb期〜Va期には再び一:一となる。三、Vb期には陶器が逆転し一:二となり、この傾向はVIII期に瀬戸・美濃系磁器が登場するまで続く。しかし瀬戸・美濃系磁器が登場してもその比率は一:一になる程度である。四、再び磁器の比率が陶器のそれを大きく上回るのはIX期になってからである。

 前述したような出土比率の変化がみられる背景の理由を探るために、出土量の多い碗・皿のなかで胎質組成比を概観した(図2-c、d)。皿類では多少の増減はあるものの、磁器皿がほぼ六割以上を占め、陶器皿を上回る傾向は一貫している。すなわち皿類の中では磁器製品の浸透が進んでいたことが読みとれる。次に碗類をみると、皿類のような一貫した磁器製品の優勢は認められない。特にIIIb期、Vb期には磁器碗の割合が陶器碗のそれを大きく下回っている。従って、前述したような磁器と陶器の出土比率の変化には碗類の組成比率の変化、それも特に陶器碗の動向が大きく関与していることを指摘できよう。


碗の動向 図3,4



図4 東京大学構内出土の陶器碗

 前章において、磁器と陶器の出土比率には陶器碗の動向が大きく関与していることを指摘した。そこで、本章では碗類の中での胎質別の動向を更に詳しくみることにする。特に陶器碗については、主要生産地であり出土量も多い肥前系、瀬戸・美濃系のいかなる器種の動きが反映されているのかも概観した。

 IIIa期までは磁器碗の比率が全体の八割を占めているが、IIIb期で磁器碗の比率は激減し四割程度にまで落ち込んでいる。IIIb期の陶器碗の産地別構成比をみると、瀬戸・美濃系陶器碗の量にさほど変化はなく、肥前系陶器碗の割合が増加していることがわかる。そしてこの肥前系陶器碗の器種別組成比をみると、呉器手碗(東大分類TB-1-a、図4—1)と京焼風陶器碗(東大分類TB-1-b、図4—2)の二器種で八割以上を占めていることがわかる(図3—f)。すなわち前述した磁器碗の比率が大幅に減少した要因は、肥前系陶器碗の呉器手碗や京焼風陶器碗の増加にあったといえよう。ひいてはそれが三章の末尾で指摘した、磁器と陶器の比率を再び一:一にした一因となったと思われる。

 IVa期には磁器碗の割合が増加し、陶器碗との比率が一:一になるが、IVb期には再び陶器碗の比率が磁器碗のそれを上回っている。IVa期の磁器碗の器種別組成比をみると、前段階まで主要な器種であった高台断面が三角形を呈する碗類(東大分類JB-1-c)はほとんどみられなくなり、高台径の大きい大振りの碗(東大分類JB-1-d)が全体の八割近い比率を占めていることがわかる(図3—e)。IVa期の磁器碗の中心であるJB-1-dは胎質こそ異なるが、IIIb期に大量にみられる呉器手碗や京焼風陶器碗と同様に、器形・法量が大きめの碗であることは注目される。IVb期の産地別組成比をみると肥前系陶器碗の比率は前期よりやや減少しているが、瀬戸・美濃系陶器碗の比率が大幅に増加していることがわかる(図2—c)。この時期の瀬戸・美濃系陶器碗の器種別組成比をみると、灰釉丸碗(東大分類TC-1-c、図4—4)という、呉器手碗の形状に類似した法量の大きな碗の量が増加していることがわかる(図3—g)。従って、IVb期に磁器碗の比率が減少した一因には、この瀬戸・美濃系灰釉丸碗の存在があったことがいえよう。

 Va期は再び磁器碗の割合が増加し、陶器碗のそれとの量比がほぼ一:一となる。産地別構成比をみると、瀬戸・美濃系陶器碗の比率にはあまり変化はないが、肥前系陶器の割合が大幅に減少していることがわかる(図2—c)。従って磁器碗の占める割合が増加した一因は、肥前系陶器碗の割合が大幅に減少したことにあると思われる。

 その一方で注目すべきなのが京・信楽系陶器碗の占める割合が大幅に増加していることである。京・信楽系陶器碗の器種別組成比をみると、それまでの京・信楽系陶器碗の形状や、法量とは異なる、高台径が小さく器壁が薄い小法量の半球形薄手碗(東大分類TD-1-b、図4—11)の占める割合がピークを迎えていることがわかる(図3—h)。また本期に出土比率が減少した肥前系陶器碗の器種別組成比をみると、京・信楽系陶器碗と同じく、それまで主として見られた呉器手碗や京焼風陶器の形状や法量とは異なる、器高の低い小法量の京焼風陶器の平碗(東大分類TB-1-c、図4—3)がその中心を占めている(図3—f)。

 Vb期からVIa期の磁器碗の急激な減少は、瀬戸・美濃系および京・信楽系陶器碗の占める割合の増加に一因があることがわかる(図2—c)。瀬戸・美濃系陶器碗の器種別組成比をみると、灰釉丸碗の占める割合が七割から五割ほどにやや減少するが、主要器種であることに変わりはない。また、半球形碗(東大分類TC-1-m、図4—7)や平碗(東大分類TC-1-n、図4—8)といった器高の低い小法量の碗の割合が増加していることは注目される(図3—g)。京・信楽系陶器碗の器種別組成比をみると、半球形薄手碗が相変わらず全体の四割を占める一方、器高が低く小法量の半筒形碗(東大分類TD-1-i、図4—10)の割合が増加していることがわかる(図3—h)。

 VIb期には再び磁器碗が五割を占め、磁器碗と陶器碗の比率は一:一になる。碗の産地別組成比から、これは京・信楽系陶器碗の割合が減少したことに一因があると考えられる(図2—c)。この時期の京・信楽系陶器碗の器種別組成比をみると、それまで四から五割を占めていた半球形薄手碗がほとんどみられなくなり、平碗(東大分類TD-1-h)の占める割合が大きくなっている(図3—h)。

 VII期には磁器碗は四割程度になる。産地別組成比から瀬戸・美濃系陶器碗、京・信楽系陶器碗いずれの比率も増加していることがその一因と考えられる。瀬戸・美濃系陶器碗の器種別組成比をみると、灰釉丸碗が四割を占めることに変わりないが、新しい器種としていわゆる「柳茶碗」(東大分類TC-1-g、図4—9)がみられる(図3—g)。そして京・信楽系陶器碗の器種別組成比をみると、いわゆる「小杉茶碗」(東大分類TD-1-d、図4—12)が中心となっており、前段階まで中心であった平碗はほとんどみられなくなる(図3—h)。瀬戸・美濃系陶器碗の「柳茶碗」、京・信楽系陶器碗の「小杉茶碗」の双方が、それまでには余りみられなかった形状、法量の碗といえる。

 VIII期には磁器碗の割合が急増し八から九割を占めるまでになり、陶器碗のそれは一割前後になる。磁器碗の産地別組成比をみると、肥前系磁器碗の量は前段階までと変化がないことから、本期の磁器碗の増加は瀬戸・美濃系磁器碗の出現によるところが大きいことがわかる(図2—c)。肥前系磁器碗の器種別組成比をみると、本期の始めからすでにみられている端反形碗が大きな割合を占めている。この形状の碗は、今回提示できなかった瀬戸・美濃系磁器碗の中においても大きな割合を占めている。

 IX期はほぼ磁器碗で占められるようになり、産地別構成比をみると肥前系磁器碗が三割、瀬戸・美濃系磁器碗が七割と、瀬戸・美濃系磁器碗が肥前系磁器碗を凌駕するまでになっていることがわかる(図2—c)。


 以上、碗の動向について全期を概観してきたが、今後の課題として更に熟考が必要な事柄を指摘して、この章のまとめとしたい。全期を通じて碗の形状や法量には、大まかに分類して三つのタイプのものがみられる。すなわち(イ)II期〜IVb期:高台径の大きく、器高が高い、大法量の碗。肥前系陶器の呉器手碗、瀬戸・美濃系陶器の灰釉丸碗などが該当する。(ロ)Va期〜VIb期:高台径の小さく、器高が低い、小法量の碗。京・信楽系陶器や瀬戸・美濃系陶器の半球形薄手碗などが該当する。(ハ)VII期〜IX期:上記以外の様々な形状・法量の碗が中心。特にVIII期の磁器碗では端反形碗が大きな割合を占めている。

 形状や法量は、そのもののもつ「用途」に規制されるものであるから、形状や法量が類似するものは、同じような「用途」をもつものであるといえよう。従って3タイプの碗は、それぞれが異なった「用途」で使用されていた可能性を指摘できるのではないだろうか。また3タイプの碗は、各画期で完全に入れ替わるというものではなく、暫時みられなくなるものである。これは器種の消長が流行や習慣といった文化的要素や、流通経路やコストなどの社会経済的要素など、様々な要素が絡み合っているためではなかろうか。以上の事から碗の「用途や器種の消長」を考えるに際しては、陶磁器以外の遺物(漆器碗の動向など)や文献・絵画史料なども用いて、多角的な視野で検討していく事が望まれよう。


まとめにかえて

 以上、埋蔵文化財調査室における陶磁器・土器類により設定した時間軸の紹介と、実際に分析・分類した陶磁器・土器類を資料として幾つかの事象について個別に概観してみた。その中で陶磁器・土器類の動向を探るにあたっては、様々な事象を総合的にみていく必要があることが実感された。

 今後さらに発掘調査が行われ、資料が増加することでより詳細な時間軸の設定が可能になってくるであろうが、それをどのように活かしていくのか、また今回は踏み込む事ができなかった近世の文化的側面や社会経済的側面について、これらの資料をもとにどの様に復元していくかが課題として残されている。




【註】

1 堀内は宝永四(一七〇七)年以前に埋没した事が確認されている豊島区巣鴨遺跡中野組ビル地区1号溝の出土遺物とIVb期の遺物の様相を比較して、様相差が認められないことから遺物の様相的な下限は元禄一六(一七〇三)年より下げて考えた方が良いかもしれないとしている(堀内、一九九八)。[本文へ戻る]

2堀内はVa期が将来的に二分される可能性もあると指摘している(堀内、一九九八)。[本文へ戻る]

3堀内は天明二(一七八二)年埋め立ての旧芝離宮庭園堀からの出土資料中に広東碗が含まれることから、一七八〇年代にはすでに広東碗が出現していたと指摘している(堀内、一九九八)。[本文へ戻る]

4指標としている医学部附属病院中央診療棟地点AL三七-一が土地利用の変遷から桐野利秋邸に関連する遺構である可能性が高いことを理由に、本期の下限が明治一一(一八七八)年におけるのではないかと指摘している(堀内、一九九八)。[本文へ戻る]



【参考文献】

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堀内秀樹、一九九二、「東京大学本郷構内の遺跡統一編年試案」、『江戸出土陶磁器・土器の諸問題I』、三九〜四八頁、江戸陶磁土器研究グループ
堀内秀樹、一九九六、「東京大学本郷構内の遺跡出土陶磁器の編年的考察」、『江戸出土陶磁器・土器の諸問題II』、五〜四五頁、江戸陶磁土器研究グループ
堀内秀樹、一九九七、「東京大学本郷構内の遺跡における年代的考察」『東京大学構内遺跡調査研究年報』1、二七九〜三〇五頁、東京大学埋蔵文化財調査室
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九州近世陶磁学会、二〇〇〇、『九州陶磁の編年』




資料14 天保2(1682)年火災層一括資料
医学部附属病院病棟地点、C2層、肥前、17世紀後半、被熱
 いわゆる八百屋お七の火事で焼けた陶磁器群の一部である。表面が焼けただれ、焼けただれ、焼土や壁土が付着している。また白磁の小坏などは積み重ねられたままの形で出土しているなど、当時の火災の大きさを物語る。


資料15 元禄16(1703)年火災層一括資料
医学部附属病院病棟地点、SK03・西側焼土、肥前、18世紀初頭、被熱


資料16 享保15(1730)年火災層一括資料
医学部附属病院中央診療棟地点、L34-2、肥前、18世紀前葉、被熱


資料17 明治1(1868)年火災層一括資料
経済学部総合研究棟地点、SU107、肥前、瀬戸・美濃、19世紀中葉、被熱
 13代齊泰夫人である溶姫の御殿跡で検出された地下室から、大量の焼土ともに出土した陶磁器の一部である。

 

資料18 東大編年II期の指標磁器、塩壺
御殿下記念館地点、532号、肥前ほか、17世紀前葉
 東大編年II期の指標陶磁器の一部である。いわゆる「初期伊万里」といわれる肥前系磁器と、輪積成形で「ミなと藤左衛門」という刻印をもつ塩壺などがみられる。




資料19 東大編年III期の指標磁器、塩壼
御殿下記念館地点ほか、678号ほか、肥前ほか、17世紀中葉
 東大編年III期の指標陶磁器の一部である。肥前系磁器碗や皿の高台径が前段階よりもやや大きくなる。また高台断面の形状もシャープな逆三角形を呈するものになる。
 塩壺は輪積成形と板作成形のものがみられるようになる。また刻印も「天下一堺ミなと藤左衛門」「イ津ミ ツタ 花塩屋」「天下一御壺塩師堺見なと伊織」「御壺塩師堺湊伊織」「泉州麻生」など様々なものがみられるようになる。

 

資料20 東大編年IV期の指標磁器、塩壼
医学部附属病院中央診療棟地点ほか、F34-11ほか、肥前ほか、17世紀後葉
 東大編年IV期の指標陶磁器の一部である。IV期の肥前系磁器碗は高台高が高く、高台断面が「U」字状を呈する碗が中心になる。
 塩壺は輪積成形製品がほとんど見られなくなり、板作成形の製品が主体となる。刻印には「泉州麻生」「御壺塩師堺湊伊織」などがみられる。

 

資料21 東大編年V期の指標磁器、塩壼
医学部附属病院中央診療棟地点ほか、F33-3ほか、肥前ほか、18世紀前葉
 東大編年V期の指標陶磁器の一部である。肥前系磁器にいわゆる「くらわんか」と呼称される製品がみられるようになる。
 塩壼は前段階よりさらにバリエーションが豊富になっている。刻印には「泉州麻生」「泉州麻玉」「御壺塩師難波浄因」「難波浄因」「泉湊伊織」「サカイ 泉州磨生 御塩所」などがある。なお、これらはすべて板作成形の製品である。

 

資料22 東大編年VI期の指標磁器、塩壼
医学部附属病院中央診療棟地点ほか、E22-1ほか、肥前ほか、18世紀中葉
 肥前系磁器に青磁染付がみられるようになる。いわゆる初期伊万里の中にも青磁染付はみられるが、それとは区別されるものである。
 塩壼は板作成形のものに加えて、ロクロ成形のものがみられるようになる。刻印には「泉湊伊織」「泉州麻生」「大極上壺塩」「播磨大極上」などがある。また刻印のないものもロクロ成形製品の中にはみられるようになる。

 

資料23 東大編年VIIの指標磁器、塩壼
医学部附属病院給水設備棟地点ほか、AJ37-3ほか・肥前ほか・18世紀後葉
 肥前系磁器碗にいわゆる広東碗がみられるようになる。塩壼はロクロ成形のものだけになり、刻印がないものが大半となる。

 

資料24 東大編年VIII期の指標磁器、塩壼
医学部附属病院中央診療棟地点ほか、H21-1ほか、肥前、瀬戸・美濃ほか、19世紀前半
肥前系磁器に加えて、瀬戸・美濃系磁器がみられるようになる。




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