絵師のみた加賀藩本郷邸

松本 裕介




はじめに

 「加賀鳶」の行列を描いた二代歌川豊国による二種類の彩色木版画(錦絵)が伝わっている。一方は本郷通り(旧中山道)を行進する加賀鳶を描き、背景に加賀藩上屋敷(本郷邸)の西面の景観を描くものである。もう一方は春日通りを進む加賀鳶と上屋敷南面の景観を描いたものである。どちらにもタイトルはなく、「加賀鳶行列の図」、「加賀鳶繰出の図」などと通称されているが、本稿では両者を仮に『加賀鳶行列図』と名付け、本郷通りを描いたものを「甲種(1)」、春日通りを描いたものを「乙種(2)」とする。

 甲種の方は比較的よく紹介されており、加賀鳶(すなわち加賀藩前田家の抱えていた大名火消(3))を説明する際にしばしば参考として取り上げられてきた。しかし、その背景に描かれている加賀藩上屋敷の方に注目した論稿は未だないようである。この図には大小さまざまな建物が描かれているが、それらの配置を当時の様子を記した屋敷図と比較したところ、両者はほぼ一致することがわかった。そこで、『加賀鳶行列図』を手掛かりとして江戸後期における加賀藩上屋敷の外観について記してみようと思う。


『加賀鳶行列図』について

 まず、この図の制作年代を明らかにしなくてはならない。作者である二代豊国は初代豊国の門人で、初代の没した文政八(一八二五)年に豊国の号を継いだ。本郷春木町に住んでいたために「本郷豊国」とも称される絵師である。没年は明らかではないが、天保六(一八三五)年頃に何らかの理由で筆を絶っており、この年あたりに没したとも考えられている。また当図(甲種)中に文政一〇年に建立された赤門(現存)が描かれていることを併せて考えると、制作時期は文政一〇〜天保六(一八二七〜三五)年の九年間に絞り込まれる。『加賀鳶行列図』はその頃における上屋敷の景観を描いているものとみて間違いない。加賀藩上屋敷を描いた錦絵は外にも十数種を確認したが、この『加賀鳶行列図』はそのなかで最も古いものである。

 次に、『加賀鳶行列図』の背景に描かれているのが上屋敷のどの部分かであるが、上屋敷西側(甲種)および南側(乙種)がほぼ網羅的に描かれている。初代広重による錦絵『狂句合 本郷(4)』なども上屋敷の本郷通り側の様子をよく描いているが、描写範囲は御住居(藩主夫人の居所)にほぼ限られ、その南側の藩主御殿は半分しか画面に収められていない。しかも実長二〇〇メートルほどの部分を一枚の絵に収めているため、横方向に押し縮められている。それに対して『加賀鳶行列図 甲種』は総長一・九メートルほどの横長の紙(大短冊五枚続)を使っているので描写のひずみは少なく、広重の作品では半分しか描かれていない藩主御殿の全体や、その南側に続いていた二〇〇メートルほどの築地塀なども画面に収められている。この築地塀は本郷通りに平行するひと筋東側の裏通り(日影町通り)に沿って建っていたもので、本郷通りからは町屋の影になっていたために他の錦絵には一切描かれていない。また『加賀鳶行列図 乙種』は春日通り側から上屋敷を描いた唯一の錦絵である。『加賀鳶行列図』は他の錦絵と較べて圧倒的に広い範囲を描いているのである。


『加賀鳶行列図 甲種』にみる上屋敷西面の景観 図1





図1 『加賀鳶行列図 甲種』建物のみを模写したもの

 『加賀鳶行列図 甲種』は五枚続の錦絵であるが、これを右側(すなわち南側)から順に第一葉〜五葉とよぶことにする。描かれた建物を比定する上では金沢市立図書館蔵『江戸御上屋敷惣御絵図』(以下『上屋敷絵図』と略す(5))を使用する。建築の建立・焼失年代などはことわりのない限り『加賀藩史料(6)』による。([ ]内のアルファベットは図中のものと一致している。)

 第一・二葉に描かれるのは日影通りにあった築地塀(7)である。第一葉右端には春日通りにたっていた辻番所[a]の屋根がみえ、築地塀ごしに春日通り側の表長屋(西端の妻飾)[b]や火之見櫓(8)[c]が描かれる。この火之見櫓は邸内に二基あったうちの南側のもので、櫓の下には火消役所があり加賀鳶が常時ここに待機していた。火之見櫓の北側には塀ごしに木々が見えるが、塀内には藩士用の馬場[d]がとられていた。

 第三葉は上屋敷の中枢の部分で、藩主の公用のための施設群を描いている。この辺りの建築は享保一五(一七三〇)年の火災後の再建であるから、築後約百年を経たものを豊国は描いている。中央には大御門[e](いわゆる表門)があり、左右両側に長屋[f]がつく。右側長屋にある出格子(一種の出窓)のところが門番所[g]である。大御門は通りからセットバックして建てられており、通りに沿って低いが設けられていた。柵内右手には外繋(とつなぎ、門外に馬を繋いでおくための施設)と腰掛をあわせた建物[h]、左手には柵番所(門前の柵に附属する番所)[i]がある(9)。大御門の奥にある大きな建物が表御殿[j]で、正面には玄関がつき(当図には描かれない)、内部には接客儀礼用の広間などがあった。その左奥には御殿よりやや遅れて元文三(一七三八)年に再建された大書院[k]が雁行して建つ。大書院は通り側を正面としており、襖を開け放つと白洲ごしに能舞台が設けられていた。大書院左手前に見える屋根は能舞台の楽屋[l]のものであろう。能舞台・楽屋も大書院と同時の再建である。なお本郷邸内にはもう一つ能舞台があり、私的な目的で使用されていたものと考えられているが、こちらは発掘調査で遺構が確認され、音響のために床下の土を漆喰で固めていたことが明らかになった(10)。大書院向いの能舞台にも同様の仕掛けがあったのではないだろうか。第三葉右端にある小門は猿楽門[m]といい、能楽師が楽屋へ出入りするための通用門である。

 第四・五葉に描かれるのは、文政一〇(一八二五)年に将軍家より前田家へ嫁いだ溶姫(藩主斉泰夫人)の御殿=御住居である(11)。御住居は本郷通りに面して表門と裏門の二つの門を構えていた。南側(第四葉中央)にあるのが表門[n]、すなわち現存する赤門である。屋根が入母屋造で描かれているが、実際は切妻造である。この点に関しては豊国の記憶違いであろう(12)。赤門も大御門同様に通りから後退し、門前左右それぞれに外繋・腰掛[o]を対称に建て、通り側にを設置している。赤門背後の建物は藩主夫人の御殿(御住居)[p]である。赤門南側には塀ごしに白塗りの御土蔵[q]がみえ、その奥には富士山(13)(富士権現旧地)[r]の樹々も望まれる。赤門北側には裏門(第五葉中央)[s]があり、門内には長局(ながつぼね)[t]、すなわち溶姫の侍女たちの居所があった。長局の屋根越しに高く聳える一群の樹木は庭園「育徳園」内の栄螺山(さざえやま)[u](14)である。さらに北側には通りに面して二階建の御物見(おものみ)[v]がある。御物見とは邸内の人々が通りを眺めるための施設で、本郷通りを通過する行列や祭礼などの見物が行われたことと思われる(15)。御物見の手前には辻番所[w]があり、遠景には北側の火之見櫓(16)[x]もみえる。


『加賀鳶行列図 乙種』にみる上屋敷南面の景観 図2



図2 『加賀鳶行列図 乙種』 所蔵者不詳、『加賀松雲公 上巻』より転載

 上屋敷南面(春日通り側)には西寄りに長屋門=南御門[A]が設けられる以外は延々と同じ意匠の表長屋[B]が続いていた。この全長一五〇メートル強の長屋には窓が全くなかったことから「盲長屋(17)」と俗称され、非常に有名なものであったようだが、この長屋のもつ迫力を描ききった作品はこの一点のみしか知らない。長屋は東側で奥(北)へ折れ曲がって更に続いており、角のところには辻番所[C]が建っていた。道一本隔てた東側には現在よりも広い境内を有していた麟祥院[D]が接していた。なお、南御門の奥に火之見櫓[E]がみえるが、甲種・第一葉に描かれていたのと同じ南火之見櫓である。湯島通り側の景観は本郷通り側に比して変化に乏しいが、長屋が延々と続く様は異様であり、それはそれとして興味深いものである。


むすび

 以上が『加賀鳶行列図』に描かれた加賀藩上屋敷の全容であるが、ここには屋敷内に立ち入ることも、屋敷図を目にすることも許されなかった当時の庶民が知りうる限りの加賀藩邸の姿がとどめられている。この作品には確かに描写の明らかな誤りもあるが、注意して眺めさえすれば往時の加賀藩上屋敷の外観を窺い知る絶好の史料といえるだろう。




【註】

1 『加賀鳶行列図 甲種』 付編「加賀藩本郷邸を描いた絵画史料の紹介」7参照[本文へ戻る]

2 『加賀鳶行列図 乙種』 付編「加賀藩本郷邸を描いた絵画史料の紹介」8参照[本文へ戻る]

3 加賀鳶については雑誌『風俗画報 第百七十九号(江戸の花 上編)』(明治三一年一一月二五日)や新聞『日本』(明治四一年一二月七・八日)などの記事にそのいでたちが詳しく記される。[本文へ戻る]

4 『狂句合 本郷』 付編「加賀藩本郷邸を描いた絵画史料の紹介」1参照[本文へ戻る]

5 『江戸御上屋敷惣御絵図』は一八四〇〜四五年頃の上屋敷を描いたものとされる。口絵4参照。[本文へ戻る]

6 『加賀藩史料』中の江戸屋敷に関する記事は『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書4 東京大学本郷構内の遺跡 山上会館・御殿下記念館地点 第3分冊 考察編』(東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇年)に「資料3「加賀藩史料」江戸藩邸関係綱文抄」(徳川冬子・宮崎勝美・森下徹氏による)として整理されている。[本文へ戻る]

7 現在もこの築地塀の基礎であったと思われる石垣が大学の煉瓦塀の下に転用されて残っている。[本文へ戻る]

8 南火之見櫓は享保三(一七一八)年に設置、同一五年に焼失・再建。その後、弘化三(一八四六)年にも類焼している。[本文へ戻る]
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9 大御門および番所など附属建築の平面構成は文政二年写の『御殿向惣絵図』に比較的詳細に描かれるが、『加賀鳶行列図』のものとほぼ一致する。ただし大御門と長屋の間にあった繋塀を『行列図』は省略している。[本文へ戻る]

10 発掘された能舞台については口絵12参照。[本文へ戻る]

11 溶姫は将軍家斉の娘で、加賀藩主前田斉泰(なりやす)への輿入れが決まったのは文政六(一八二三)年のことであった。その後、同八年より本郷にて溶姫居所の普請が始まり、同一〇年に完成、同年一一月二七日に輿入れが行われた。なお、将軍の娘が大名家の夫人となると、夫人およびその居所を御守殿(ごしゅでん)もしくは御住居(おすまい)と称した。御守殿は嫁ぎ先の大名の位が三位以上である場合の呼び方で、溶姫の場合は斉泰が入輿時には宰相(正四位に相当)であったから御住居と称された。安政二(一八五五)年に斉泰が権中納言(従三位)に昇進すると、その翌年に溶姫(とその居所)を御守殿に改称することが許された。『加賀鳶行列図』にはまだ御住居と称されていた頃の溶姫の居所が描かれている。[本文へ戻る]

12 大御門・御住居裏門も入母屋造として描かれているが、実際には切妻造であった可能性が高い。[本文へ戻る]

13 富士山は現在経済学部の建物がある辺りにあった築山で、明治期には椿山とも称した。駒込富士神社が旧在していたとされる。[本文へ戻る]

14 栄螺山は螺旋状の登り道のある築山で、海抜約四十メートルの頂上からは江戸湾や富士山が望めたという。育徳園心字池(いわゆる三四郎池)を掘った際の土砂を積み上げたもの、金沢兼六園の栄螺山を模したものなどの伝を持つ。[本文へ戻る]

15 加賀藩上屋敷の御物見は本郷通り側のほか屋敷北東部の上野不忍池を見下ろす位置にもあった。本郷通り側のものは、溶姫御住居の造営時に裏門の北側に創建され、幕末(一八六三年頃)に赤門南側の御土蔵のあった場所に移された。こちらは二階建、L字平面の建物で、明治元年・同三年の大宮行幸の際には天皇の休息所として二階が使用された。[本文へ戻る]

16 北火之見櫓は、南火之見櫓よりも早くに創建されていたもので、安永元(一七七二)年二月に焼失があった。御住居北側の詰人空間に建っていた。[本文へ戻る]

17 盲長屋については雑誌『風俗画報 第三百五十八号(新撰東京名所図会 第四八編 本郷区之部 其一)』(明治四〇年二月二五日)に記事がある。[本文へ戻る]



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