写された大名屋敷 |
角田 真弓 |
近年はまさに、古写真ブームである。しかし多数の古写真が明らかになりつつある反面、いまだ研究史料として扱われることは少なく、どちらかといえば、写真の芸術性のみで語られたり,イメージを補助するヴィジュアル情報として紹介されているに過ぎない。写真に写されていることはすべて真実だとして、そのまま鵜呑みにすることに危険性が伴うのは確かであり、写真は単にあるがままの姿を写しているのではなく、写す側の意図や目的を含めて成立していることを忘れてはならない。しかし、そのことを十分に考慮した上で扱えば、写真ほど雄弁な史料はないのではなかろうか。 一口に古写真と言って、仮にその範囲を写真機導入から大正末までと限定したとしても、そこには数十年の隔たりがある。まず始めに日本に於ける写真師の活動状態を、撮影意図と写された建築という視点から分類して整理する(1)。 (一) 欧米の写真師による記録写真日本に初めて写真機がもたらされたのは一九世紀半ばのことであり、ベアト(F. Beato)を始めとする欧米の写真師達が日本を訪れた。彼等の当初の目的は、日本で起きた事件や風俗を本国へ伝える為の記録写真を撮影することである(2)。 (二) 外国人旅行者の土産物として製作された記念写真さらに一八七〇年代に入ると、産業革命以降のツーリズムの波に乗り、日本を訪れる外国人旅行者の土産品として、焼付に彩色がなされたいわゆる「横浜写真」が登場する。この「横浜写真」は明治中期には最盛期を迎え、錦絵に代わるかのごとく普及するが、明治の幕切れとともに姿を消してゆくこととなる。これら商品としての写真は、あくまでも外国人を対象とした異国の風俗を紹介するための、いわば記念写真であった。横浜、長崎などの港町をはじめとして、外国人達にとって既にお定まりの観光コースとなっていた江戸(東京)、京都、奈良の社寺や城郭、日光、箱根、鎌倉、江ノ島などが好まれて写された。 (三) 国内の「古器旧物」記録写真一方国内では、明治四(一八七一)年の太政官の布告による「古器旧物」記録写真の撮影が始められる(3)。翌年には、関西地方の古建築宝物調査である壬申宝物検査が行われるが、これら調査の目的は、国家の「宝物」保護であり、対象となったのは明治三〇(一八九七)年の古社寺保存法制定からも解るように、社寺が中心であった。 (四) 個人的趣向の強い記録・記念写真写真師が不特定多数の観衆相手や第三者からの依頼により撮影するのではなく、あくまでも個人的趣向もしくはより細分化された個別の目的のために撮影されたプライベートコレクション。幕末期には写真機を持つのは写真師や一部の特別階級の者のみであったが、明治後期に入ると、技術の進歩により写真機が庶民の手に届くものとなることで、より多くの写真が撮影される。
ここで、加賀藩前田本郷邸表長屋の写真も含まれる東京大学工学系研究科建築学専攻所蔵の「東大建築古写真群」のうち明治末に撮影された写真群「東京市内建物」を検証してみたい(4)。現在までのところ、写真に写された加賀藩前田本郷邸は、明治元年に大半が焼失したためか、残念ながら長屋以外には明らかになっていない(5)。長屋のみで屋敷全体をイメージすることは不可能であるが、絵図や絵画史料の情報を補うことは確かである。この「東京市内建物」であるが明治四三(一九一〇)年、当時の東京帝国大学工科大学造家学科教授であった中村達太郎により、壊される危惧のある東京市内の建築を撮影したものと言われている。事実、大半を占める洋風建築には、大正期に入ると保存運動が起こる。さらに、この写真群には加賀藩前田本郷邸長屋以外にも、長屋を写した写真が確認されており、これらの長屋写真は一連の洋風建築同様、何らかの意図の元で写されたと考えるのが妥当であろう。まずこの二枚の写真を紹介しつつ、これらの長屋がなぜ写されたのか考えてゆこう。 ◆二枚の長屋写真一枚の写真に写されているのは腰海鼠壁塗屋造の二階建長屋である(図1)。障子は破かれ、蒲団は窓からはみだしており、誰かが住んでいるというよりも、むしろ廃虚に近い状態である。隅の柱にはいくつかの看板が掲示され、その中から「愛宕町三丁目」という住所表示が読み取れる。明治二〇年東京五千分之一実測値によると、愛宕町三丁目に長屋が存在するのは、旧陸奥三春藩秋田安房守の屋敷跡地に建つ「三田英学校」敷地のみである(図2)。
もう一枚の写真には、両側に出格子付番所を持つ長屋門が写されている(図3)。両側の長屋は腰下見塗造の二階建であろう。しかし写真からは、これ以上の具体的な情報を得ることができない。唯一の手がかりは、写真の台紙に走り書きされている「赤羽造兵廠長屋門」のみである。この言葉が正しいのであれば、この長屋門は旧久留米藩有馬家屋敷のものとなる(図4)。そこでベアト撮影の「久留米藩赤羽根上屋敷(6)」と見比べてみると、同じ長屋門が写されている。
では、この二つの長屋は明治四三年には、いったいどのような状況であったのだろうか。 旧陸奥三春藩秋田家屋敷地に開学した三田英学校は明治一三(一八八〇)年慶応義塾により設立された私塾であるが、二二年には神田錦町へと移転する。この移転の際も長屋は取り壊されることなく、その後は三田英学校の創始者林謙三が所有し続ける(7)。商店等の表示もあることから、おそらく林名義のまま借家経営を行っていたのだろう。この三春藩秋田家長屋は、大正一二年の関東大震災で焼失するまで残ると考えられるが、写真を見る限り撮影された時点で、既に放置され「壊す」という結論を待っている状況であるといっても過言ではない。一方の旧久留米藩有馬家屋敷地には、明治五(一八七二)年兵部省武庫廠が設置された。その地に、明治四四(一九一一)年明治天皇の勅語により済生会が設置され、済生会病院が大正四(一九一五)年に開設される。つまりこの両敷地に関しても、洋風建築同様、明治四三年頃に変革期を迎えていたということができるであろう。 ◆加賀藩前田本郷邸長屋そもそも大名屋敷の外周はぐるりと塀と表長屋で囲まれているのが通常であり、これは防禦上の対策というよりはむしろ、詰人たちを狭い敷地内に収容するための策であった。しかし加賀藩前田家の場合、広大な土地のおかげか、表長屋が現れるのは藩邸南部と東部のみである。そして一連の発掘調査とそれに伴う文献調査により、近年長屋の姿が明らかになった(8)。 ◆盲長屋とさかさ柱加賀藩の表長屋といえば、やはり盲長屋が連想される。本富士通り(現春日通り)に面した藩邸南部の長屋(南御長屋)は、黙阿弥の歌舞伎「盲長屋梅加賀鳶」で有名な盲長屋であるという(9)。盲長屋と呼ばれる所以は、旗本平塚組の近藤登之助が登城する際、長屋から捨てた水が近藤の行列にかかったとか、二階の窓からあざ笑う者がいたとか、事の定かは解らないが、ともかく近藤との確執により、長屋の通り側の窓が塗りつぶされたためと言われている。確かに絵図を参照すると、この南側の長屋には他とは異なり開口部が描かれておらず、ここに「盲長屋」と呼ぶに相応しい長屋が存在していたことは確かなようである。この南御長屋は、明治元(一八六八)年の本郷春木町三丁目から出火した火災により、被害を受けた可能性が高い。 しかし、東側にあるもう一つの表長屋(東御長屋)はこの火災の火の手から逃れることができた。こちらの長屋には、下級の同心か足軽が居住していたものと考えられている(10)。そして、ここにも「物語り」が残されていた。この東側の長屋の角の部屋には「さかさ柱」というものがあったらしい。 「角の室は十四畳ばかり、今はがらくたをつめておく。竜岡町へむいたところに窓が一つ。この窓はむかし下級の士分が切腹し、また打首にされた室だ。昔あの辺一帯、夜になると灯もない淋しいところであったさうな。向こう側は麟祥院夜な夜な狐がこの寺から加賀屋敷にしのび込む。この通路になったのがあの角の室の屋根。それで臆病な侍は、今の小学校のあたりからぬきみでやってくる角へくると。狐、狸か死者の魂がふらふら見ゆる。やっと切り込んだ跡が今この柱にありありと残る刀刻である(11)。」 ◆写された加賀藩前田家長屋この前田家本郷邸表長屋の写真として、幾度となく紹介されてきた経緯のある二枚の写真について、もう一度検証を行ないたい。八〇年以上前の焼付は保存状態の関係もあり劣化が激しく、また紙焼の限界により、そこから読み取れる情報量は限られる。そのため、写された場所の確定は積極的にはなされてこなかった(12)。そこで今回、新たに見つかったガラス乾板をデジタル画像として解析を行うことで、この長屋写真の場所の確定を試みることとする(13)。 一枚目の写真を見てまず気がつくのが、電信柱に書かれた番地である(図5)。ここには「本富士町」と書かれている。次に、左上に写る塔屋部分を見てみると、この塔屋は現在の本部庁舎あたり、つまり東御長屋のすぐ内側に建てられたレンガ造二階建の医科大学付属医院外来診察室の時計台だということが解る。ここで、この建物は明治四三年六月に建設され関東大震災により崩壊するため、写真はその間に撮影されたものだと確証を得ることができる。この時、東御長屋は大学敷地内で壊されることなく残されていた。長屋の梁間間数も、幕末期の様子を描いた絵図と一致しており、この写真は他の写真と同じく明治四三(一九一〇)年、前田本郷邸の東御長屋を撮影したものということができる(図6)。
そしてもう一枚の写真であるが、こちらに写されている長屋門には、場所の確定のたよりとなる情報は何も写されていない(図7)。そこで、織田一磨の石版画「本郷竜岡町」(図8)と比べてみると、同一の長屋門であることが解る(14)。先の長屋写真と共に残されていた経緯からしても、この長屋門は「東御門」ということになるであろう。
東御門を挟む形で残されていた長屋であるが、大学移転後はどのように使われていたのであろうか。明治初(一八六八)年の火災で加賀藩邸は殆ど焼失したと考えられていたが、実際にはこの東御長屋は焼失を免れている。この地に最初に移った東京医学校の校舎として再利用された大聖寺藩邸(15)という例から考えても、藩邸東部に関しては、いくつかの建物が燃え残った可能性が高い。次々と大学が移るスピードに、校舎建設がついていけるとも限らない。大学という、急ピッチで行われたいわば大規模再開発は、使えるものは使えばいい、邪魔になったら壊せばいい、その程度の曖昧さを含んでいたに違いない。おかげで、東御長屋は数十年間変わりゆく東京の街に残される結果となった。そして、明治という時代のなかで、かつての大名屋敷を偲ばせる名所であったがために、様々な「物語り」を産み、絵画のモデルとなったのであろう。 実際に大学移転当初、東御門は大学の通用門として使用されており、東御長屋も物置きとして使われていた(16)。だが残す意思のないまま、偶然の産物として残されていたこの東御長屋は、いとも簡単に結末を迎えることとなる。明治四四年三月、大学側は手狭になった敷地拡大の為、鉄門前の龍岡町二一番地を購入する(17)。ここでせっかく敷地を広げたとしても、横切る長屋があっては活用は難しい。当然のことながら、この時点で長屋の運命は決まってしまう。拡大した敷地に耳鼻咽喉整形外科病室建設のために、まず大正一二年東御長屋上墳が失われ、残された東御長屋下墳は、昭和六年頃に撤去される(18)。この際、一部を移築して残しておいたのであろうか。すでに失われたはずの長屋が再度姿を見せるのは、昭和九(一九三四)年に行われた建築学科主催の家屋燃焼実験であった。残された二棟の長屋は、無惨にも実験家屋として最後を迎えることとなる(19)(図9)。わずか二〇年弱の間で、長屋は記録すべき建物から単なる不要建築へと変わってゆく。どちらの判断も専門家である建築学科の教授のものであった。
この「東京市内建物」写真群は、崩壊の危機にある建物に対し、保護を求めるために撮影されたと考えられている。しかし、実際に保護が唱えられた建築は、明治初期に建設された洋風建築のみであった(20)。写された長屋に対し、保存運動がおきたという記録は見当たらない。ここで撮影指示者中村達太郎は、大名屋敷の遺構である長屋も洋風建築同様、写真を撮影する時点では、保護の対象として俎上に載せようしていたと考えることはできないだろうか。錦絵や横浜写真からも解るように、社寺同様大名屋敷も、江戸そして東京の名所であった。しかし、明治初期における「古器旧物」つまり国家の「宝物」に始まる社寺保存や、その後の「国宝」保護からも、さらには大正期に起きる近過去の建築に対する保存運動からも、長屋は外されてしまう。保護の対象とならない建築は、単なる古い建築としか扱われなかった。その両者の違いは「文化財」という枠組みだけであろう。結果、大名屋敷の長屋が表舞台で語られる機会は減り、人知れずいつの間にか東京という都市から消えていくこととなるのである。 |
【註】1 古写真を史料として扱う上での基礎参考文献として、以下の本をあげておく。小沢健志『日本の写真史』、ニッコールクラブ、一九八六年。 吉田光邦「描かれ写された日本」『明治ジャパン(風俗編)』、トーアフォート、一九八三年。 『写真の黎明』、東京都写真美術館、一九九二年。 『写真とメディアIII−名所はいかに伝達されたか』(リーフレット)、東京都写真美術館、一九九七年。 また、他にも肖像写真が伝来初期より広く撮影されていた。 木下直之『写真画論』、岩波書店、一九九六年に詳しい。 [本文へ戻る] 2 一八六三年来日したベアト以外にも、当時日本を訪れた写真師は、一八五四年のペリー艦隊に同行したブラウン・ジュニアをはじめとして、一八五九年のフランス人ロシェ、一八六〇年のアメリカ人フリーマン、一八六二年のイギリス人ソンダース、一八六三年のイギリス人パーカーなどが確認されている。[本文へ戻る] 3 池田厚史「明治の文化財記録−横山松三郎・小川一真」『日本写真史全集九 民族と伝統』、小学館、一九八九年。[本文へ戻る] 4 清水重敦「建築写真と明治の教育」『東京大学創立一二〇周年記念東京大学展学問の過去・現在・未来 第一部学問のアルケオロジー』、二五二〜二六三頁、東京大学、一九九八年。[本文へ戻る] 5 東御長屋の写真は、他にも文京区教育委員会発行の一九九七『わたしの文京アルバム』に、大正年間に区民によって撮影された写真が掲載されている。[本文へ戻る] 6 ワーズウィックコレクション所収(PPS通信社所蔵)。[本文へ戻る] 7 『地籍地図』、東京市区調査会、一九一二年による。[本文へ戻る] 8 「文献・絵画史料から見た加賀藩本郷邸」『発掘調査報告書四 東京大学本郷構内の遺跡山上会館・御殿下記念館地点』、東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇年。 田中政幸「加賀藩上屋敷本郷邸における長屋類型と詰人空間構成」、『東京大学史紀要』一三号、一七〜五四頁、一九九五年。[本文へ戻る] 9 『風俗画報 第三五八号(新撰東京名所図会 第四八編本郷区之部其一)』、一九〇七年。[本文へ戻る] 10 前掲「文献・絵画史料から見た加賀藩本郷邸」[本文へ戻る] 11 「消え行く江戸の面影 さかさ柱の刀刻の由来」『帝国大学新聞』、一九二五年一一月九日。[本文へ戻る] 12 稲垣栄三「加賀鳶と盲長屋」『木葉会名簿』、一九九九年、において本郷邸盲長屋と大名火消加賀鳶に対し考察が行われている。[本文へ戻る] 13 ガラス乾板に対し、直接専用機器によりスキャニングを行い、保存、情報化の二側面から画像をデジタルデータ化した(協力株式会社堀内カラー)。[本文へ戻る] 14 織田一磨(一八八二〜一九五六)東京生まれ。版画家。浮世絵の研究者としても有名。『東京風景』は当初、会員を募り毎月二枚発行二〇枚完結の予定で一枚一〇円で頒布するが、会員はわずか五人程度であった。完結後、永井荷風の序文をつけ、帙入にして出版するが、これも数部売ったにすぎない。結局六〇部製作のうち、一割も売れなかった。代表作は他にも『大阪風景』がある。[本文へ戻る] 15 宮崎勝美「御殿下のルーツを探る」『東京大学史史料室ニュース第九号』、一九九二年。[本文へ戻る] 16 東京大学施設部蔵「東京大学キャンパス変遷図集」(「東京帝国大学一覧」「東京大学一覧」の付図を集めたもの)には、長屋部分に物置と、東御門には通用門と書かれている。[本文へ戻る] 17 医学校の門であった通称鉄門もこの時期撤去された。大学の正面が南向きから現在の本郷通りに面した西向きへと変わった変革期である。[本文へ戻る] 18 前掲「東京大学キャンパス変遷図集」より判断した。[本文へ戻る] 19 「木造家屋の火災実験に就て」『建築雑誌』五九七号、一九三五年。[本文へ戻る] 20 鳥海基樹「我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究」、東京大学大学院工学系研究科修士論文、一九九五年、に詳しい。[本文へ戻る] |
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