描かれた大名屋敷

金行 信輔




描かれなかった大名屋敷

 「自分は長年、武家住宅の研究に従事してゐながら昔の大名屋敷の外貌を知らんとして其資料の貧弱さに驚いてゐる。その昔江戸に構へた三百諸侯の屋敷も今となっては、旧雲州侯の表門・加賀の赤門・旧島津の装束屋敷の門・旧池田侯の表門等々が僅かに残されてゐるに過ぎない。そこで泥絵といふものが自分の眼に映ったのだ。前にも云った通り、可なり荒っぽいものではあるが、たまたま有る写真や昔の図と較べて見ると写生の息はかゝってゐて、こんなもので有ったかといふ事は感得出来るのである。だから泥絵といふ興味の外にも参考となるものと思ってゐる」(『泥絵と大名屋敷』大塚巧藝社、一九三九年(1))。

 戦前の建築史家、大熊喜邦(一八七七〜一九五二(2))の文章である。彼は江戸の大名屋敷の「外貌」、すなわち建築の外観を伝える史料の乏しさを、きわめて率直な言葉でつづった。おそらくその裏には、百年も経っていない過去の建築さえも明らかにできないことに対する、研究者としての歯がゆい思いがあったに違いない。

 そうした中で、大熊の目にとまったのが、「泥絵」という種類の絵画である。泥絵には、大名屋敷を描いたものが数多く残っていた。粗雑な描写ではあるのだが、「写生の息」がかかっていて、ほかに史料の少ない大名屋敷の外観を知るための、「参考となる」のではないか、と彼は言う。

 泥絵については、後ほど詳しく触れることにして、その前に大熊の言う大名屋敷の「外貌」に関する史料の「貧弱さ」について少し説明しておく必要があるだろう。

 明治維新(一八六八年)とその後の欧化政策、関東大震災(一九二三年)、戦災(一九四五年)と、東京という都市は、まさに江戸建築に対する破壊の歴史を辿った。大名屋敷に関して言えば、先の文章を大熊が記した一九三九年の時点においても、すでにほとんどの遺構が失われていた。大熊があげた当時の現存遺構は、松江藩松平家上屋敷(赤坂)の表門、加賀藩前田家上屋敷(本郷)の赤門、薩摩藩島津家中屋敷(外桜田)、鳥取藩池田家上屋敷、岡山藩池田家上屋敷(ともに大名小路(3))の表門のわずか五つの建物にすぎない。なお、今では、赤門と鳥取藩池田家の表門を残すのみとなった(他はいずれも戦災焼失(4))。

 とすれば、大名屋敷の外観を知るには、その建築を記録した史料が不可欠になってくる。戦前、大熊の時代は、いまだ旧大名家の史料が公開されておらず、その中の夥しい数の屋敷絵図が研究者の目に触れることはなかった。しかし現在、公開された大名家史料の屋敷絵図を閲覧に行っても、建築の外観に関する情報を得ることは難しい。なぜならば、そうした屋敷絵図のほとんど全てが、建築の平面情報を表した図面=平面図・配置図であって、立面図が見つかることは滅多にないからだ。加賀藩前田家の場合、上屋敷(本郷邸)に限っても一八〇点もの絵図が確認されているが(5)、外観についてそれを正確に記録した図面は皆無なのである(6)

 いきおい私たちは、江戸期の絵画に頼らざるを得なくなる。

 現在、大名屋敷が描かれた絵画史料として、もっともよく知られているのは、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)であろう。寛永期(一六二四〜四四)の江戸を細密に描いたその屏風絵の史料性に関しては、多くの研究者によって論じられ、描かれた建築の分析も行われてきた(ちなみに冒頭の大熊の文章は、戦後「江戸図屏風」が発見される以前のものである)。だが、残念なことに、江戸時代を通して見ても、「江戸図屏風」のように多数の大名屋敷を細密に描写した屏風絵は、ほかに見いだされていない(7)。こうした史料的な制約から、大名屋敷の外観に関しては、初期よりも、むしろ後の時代のほうが分かりにくいという、いわば歴史認識上の転倒が生じているのである。

 では、江戸後期から幕末にかけて多数描かれた名所絵の類はどうだろうか。その代表例である『江戸名所図会』(天保五(一八三四)年刊)を見てみよう。しかし、一覧すればわかるように、同書に収められた景観は、ほぼ例外なく寺社と町屋によって占められていて、大名屋敷はほとんど画面に登場しないのだ。また、膨大な量の江戸の風景画を残した歌川広重(一七九七〜一八五八)の錦絵にしても、大名屋敷の建築が描かれたものは、寺社や町屋に比べれば圧倒的に数が少ない。

 つまり、大名屋敷の外観に関する史料が「貧弱」であるという状況は、今日でも変わっていないように思えるのである。

 だが、ここで諦めずに、大名屋敷の外観を検討する手がかりとなりうる絵画史料を、もう少し根気よく探してみることにしよう。

 そこで以下では、まず大熊が紹介した泥絵について概観し、ついで、歌川広重が描いた錦絵を取り上げ、大名屋敷を描いた名所絵という観点から若干の考察を試みる。実は広重の錦絵も、丹念に見ていくと、意外に大名屋敷が描かれているものが少なくないことが判明したからである。

 泥絵や錦絵は、今まで絵画史料として十分に活用されてこなかった。泥絵は建築史の分野では、長らく忘れられていたし、錦絵に描かれた建築が注目されたこともなかった。建築史における大名屋敷研究は平面図が大部分を占めるという屋敷絵図の史料的制約に規定されるかたちで、御殿や屋敷の平面・配置に関する分析ばかりに偏向してきたのである。だが、巨大都市江戸の大半を占めた大名屋敷の都市景観における意味を問うことが、建築史・都市史の重要な論点であることは言をまたないであろう。


泥絵・錦絵

 では、泥絵とはなにか。

 胡粉や白土を顔料に混ぜてつくった泥絵具によって描かれた絵画が、泥絵である。江戸後期から幕末にかけて盛んに描かれた名所絵の一種で、題材は、大名屋敷、寺社の景観あるいは風景に限られる。職人絵とされるが、絵師や制作年代について、詳しいことはわかっていない。なお、維新後もしばらくは命脈を保ったらしく、芝日陰町では、明治の前半期まで泥絵を売る店があったという(8)

 確かに、大熊が言うように、泥絵における建築の描写は、正確とは言いがたい。細部は描かれず、形態のデフォルメも甚だしい。しかしながら、描かれた屋敷の種類の豊富さは、他に類を見ないのである。

 どれだけの数の屋敷が画題となったのか、これまで管見に触れた範囲で列挙しておこう(以下、カッコ内は屋敷所在地。屋敷の種類は、紀州藩徳川家が中屋敷のほかは、いずれも上屋敷(9))。

米沢藩上杉家、長州藩毛利家、彦根藩井伊家(以上、外桜田)、福岡藩黒田家、広島藩浅野家(以上、霞ヶ関)、佐賀藩鍋島家、白河藩阿部家(以上、山下門内)、延岡藩内藤家(虎ノ門)、郡山藩柳沢家(幸橋)、中津藩奥平家、龍野藩脇坂家(以上、汐留)、鳥取藩池田家(大名小路)、姫路藩酒井家(大手前)、田辺藩牧野家(海賊橋)、磐城平藩安藤家(中洲)、水戸藩徳川家(小石川)、尾張藩徳川家(市谷)、紀州藩徳川家(赤坂)、久留米藩有馬家(赤羽橋)、篠山藩青山家(筋違橋)、秋田藩佐竹家(三味線堀)、加賀藩前田家(本郷)(以上、二二箇所)

 こうした泥絵は、大名屋敷の建築そのものがモチーフとなっている。すなわち表門を中心に、表長屋、そして玄関に相当する御殿の屋根を描くという構図がふつうである(図1)。また、それぞれの屋敷について、若干構図が異なる複数の泥絵が残っている場合が多い。加賀藩前田家上屋敷(本郷邸)を描いた泥絵も現在のところ、三種類を見いだしている(資料2、3)。


図1 泥絵 久留米藩有馬家上屋敷(江戸東京博物館所蔵「泥絵画帖」より)(U)

 ついで、錦絵について見ていこう。まず取り上げねばならないのは、すべて大名屋敷を題材としたきわめて特異なシリーズ、歌川広重の「江戸勝景」(七枚の揃物、天保六(一八三五)〜天保九(一八三八)年刊(10))であろう(図2)。ここでは、大名屋敷が主景として描かれる。ただしそれ以外の錦絵は、人物の背景に大名屋敷の建築が描かれたものが大半を占める。前田家上屋敷についても、十数種類の錦絵の存在を確認しているが、広重の美人画「東都本郷月之光景」(資料5)をはじめ、人物の背景として、赤門などの建築物が登場するのである。


図2 「江戸勝景 桜田外の図」(彦根藩井伊家上屋敷、江戸東京博物館所蔵)(U)

 では、対象を広重の錦絵に絞って、どのような屋敷が描かれたのか、見ていきたい。広重の江戸風景版画を網羅的に集めた画集(酒井雁高編『広重 江戸風景版画大聚成』小学館、一九九六年)に収録された錦絵に描かれたものを列挙してみよう(以下、いずれも上屋敷)。

長州藩毛利家、彦根藩井伊家(以上、外桜田)、福岡藩黒田家、広島藩浅野家(以上、霞ヶ関)、佐賀藩鍋島家(山下門内)、延岡藩内藤家(虎ノ門)、仙台藩伊達家(汐留)、田辺藩牧野家(海賊橋)、磐城平藩安藤家(中洲)、久留米藩有馬家(赤羽橋)、加賀藩前田家(本郷)(以上、一一箇所。なお他にも、建物のごく一部が描かれている屋敷が若干あるが、それらについては省略した)。

 自ら「写真」(写実を意味する)を標榜した広重の描写は、泥絵よりも格段に細密である。ただし、こうした大名屋敷を描く錦絵は、前掲書に収められた広重の江戸風景版画全体(約一四〇〇枚)のうちの五〇枚ほどにすぎないこと、さらに、このうち伊達家上屋敷を除いて、すべてが泥絵の画題と重複することにも注意しておきたい。


名所としての大名屋敷

 とある江戸の回顧談によれば、霞ヶ関の福岡藩黒田家上屋敷の黒い門と広島藩浅野家上屋敷の赤い門は「名所」としてよく知られており、「ことに黒田の門の雪降は、広重の一枚絵にも描かれて、雪景色が何ともいえない風情」だったという(篠田鉱造『幕末明治女百話』岩波文庫、一九九七年(11))。この「雪降」の絵の存在は確認していないが、実際、黒田家の表門は、広重の「東都名所」「江戸名所」といったシリーズの錦絵に描かれている。

 前掲『広重 江戸風景版画大聚成』には、そうした名所「霞ヶ関」の錦絵が、一八種類掲載されているが、それらの構図は、次の二つの類型に分けることができる。第一類は、黒田家・浅野家両屋敷の間の坂の上から、眼下に広がる築地方面の街並みと海の眺望を描いた構図(「名所江戸百景 霞かせき」、図5ほか)、第二類は、坂の下、すなわち東の方向から、俯瞰的に黒田家と浅野家の表長屋(と表門)を描いた構図(「東都名所 霞ヶ関全図」、図3ほか)である。


図3 「東都名所 霞ヶ関全図」(福岡藩黒田家・広島藩浅野家上屋敷、神奈川県立歴史博物館所蔵)(U)


図4 黒田家上屋敷の表長屋(江戸東京博物館所蔵「温故写真帖」より)(U)


図5 「江戸名所百景 霞かせき」(株式会社集英社提供)

 ところで元来、霞ヶ関が名所とされた所以は、その場所が中世以来、歌枕にもなっている「眺望の地」だったからである(12)。享保二一(一七三六)年刊の『武蔵野地名考』には、「挙国の勝景にして、しかもその遠眺雲霞を隔つ」とあるし、『江戸名所図会』にも、「霞か関古図」と題する眺望を描いた図が載っている。すなわち、本来第一類に描かれた、坂の上から東の方角を望んだ眺望が、名所としての霞ヶ関の景観であるべきなのだ。しかし、広重の錦絵では、東側から坂の下の表長屋や表門を描いた、第二類の構図のほうが数が多い(一一種類)。つまり、眺望とは関係のない表長屋や表門という大名屋敷の建築そのものが、そこでは名所の景観として取り上げられているのである。坂の登り口、両屋敷の隅の表長屋は物見と思われる特徴的な外観をもった建築であるし(13)、黒田家側の階段状に坂に沿って並んだ表長屋も人目を引く。ちなみに、『江戸名所図会』が例外的に大名屋敷を描いているのも、この霞ヶ関の黒田家と浅野家の表長屋に他ならない。さらに、泥絵にも第二類と同様の構図のものがある。

 これらの事実から、黒田家と浅野家の表長屋や表門といった建築自体が、江戸有数の名所として認識されていたことは間違いないといえよう。いいかえれば、そこでは、名所を特徴づける要素として建築が存在していたのである。

 それでは、前田家上屋敷の場合はどうだろうか。本郷邸を描く泥絵・錦絵は、人物の背景としてそれが登場するものを含め、画面の中心はいずれも赤門である。それは、広重の「江戸名所」(付4)、『絵本江戸土産』(資料6)といったいわゆる名所絵の一枚にも入っている。文政一〇(一八二七)年、わざわざ町屋を移転させてまで、将軍の娘、溶姫の入輿のために建造された赤門こそ、本郷随一の名所だったのだろう。本郷通りの往来に面したその真っ赤な門が、物見高い江戸っ子の衆目を集めたことは想像に難くない。

 もう一例あげよう。黒田・浅野家上屋敷に次いで、広重の錦絵に多く登場するのが、赤羽橋の久留米藩有馬家上屋敷である。いずれも画面には、赤羽橋や同屋敷内の水天宮の幟が配されているものの、明らかにその長大な表長屋が主要なモチーフになっている構図が多い。

 従来、『江戸名所図会』や『名所江戸百景』に大名屋敷がほとんど描かれないことから、それらが江戸の名所であった事実は、見過ごされがちであった。首都を彩った建築としての大名屋敷は、都市景観上の重要な要素であり、人々の視線を惹きつける紛れもない名所に他ならなかったことは、再確認されねばならない。

 広重の名所絵は、人々の間に定着していた景観イメージに合わせ「名所絵の定型」(定型化した構図)を描くことで、成功をおさめたとされる(14)。そうした観点からすれば、たとえば、霞ヶ関の黒田・浅野家上屋敷では、表長屋と表門、そして前田家上屋敷では、赤門を中心とする建築の景観が、すでに定型化していたといえよう。この点に関しては、広重以外の絵画を含め、江戸の名所絵として定着していた景観イメージの中で、大名屋敷の建築がどの程度の比重を占めていたか、改めて検討してみたい。

 だがそもそも、泥絵は例外としても、名所絵には、なぜ大名屋敷が描かれることが少なかったのか。そこには、大名屋敷を正面から取り上げることへの規制ないしは禁忌の存在を想定するしかないだろう。名所絵のタイトルに大名の名前や建築の名称が使われなかったという事実が、それを示唆しているように思われる(例えば、前田家上屋敷の場合、もっぱら地名の「本郷」が用いられる(15))。絵師は、古来からの名所(霞ヶ関)や人物(本郷邸前の美人)など建築以外の画題に仮託しつつも、大名屋敷の建築的な造形そのものを、江戸を象徴する景観として写し取ったといえるのではなかろうか。

 これはいいかえれば、なぜその屋敷が描かれたのか、という画題の選択の問題にもなろう。泥絵といえども、描かれたのは数多の大名屋敷の内のほんの一握りにすぎないことを忘れてはならない。描かれなかった屋敷にも、名所として見るべき偉観を誇る建築が存在していたに違いない。そうした場所の選択は、いかなる理由によるのであろうか。広重の錦絵の画題のほとんどが泥絵と重複することと合わせ、大名屋敷の名所化とそれを伝える名所絵の流布、さらに絵師、需要者、そして社会的規制にかかわる問題として、総体的に考えていく必要があるだろう。


 幕末、大名屋敷がまさにその末期を迎えようとしている時、フェリックス・ベアトが来日する。そして彼は、目にとまったいくつかの屋敷を写真に収めた(16)。写真のリアリティは絶大である。建築に関する情報の克明な読み取りが可能となるからだ。大名屋敷の外観についても、ついに写真の時代が到来するのである。




【註】

1 この著書は、大熊喜邦「泥絵と大名屋敷」一〜三(『東洋建築』一—一〜三、一九三七年)として初出。[本文へ戻る]

2 大熊喜邦は、戦前における近世建築史研究の第一人者であり、「近世武家時代の建築」(『岩波講座日本歴史』七、岩波書店、一九三五年)、『江戸建築叢話』(東亜出版社、一九四七年)などの著作がある。[本文へ戻る]

3 ただし当時はそれぞれ、高輪御殿、高輪岩崎邸に移築されていた。[本文へ戻る]

4 『戦災等による焼失文化財[増訂版]建造物篇』(便利堂、一九八三年)。[本文へ戻る]

5 「文献・絵図史料から見た加賀藩本郷邸」(東京大学埋蔵文化財調査室『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書』、一九九〇年)。[本文へ戻る]

6 なぜ伝存する立面図が少ないのか、その理由を考えてみたい。むろん設計段階では、立面図はつくられたに違いないが、それが残らなかったのは、建築工事の時以外は必要がなかったためであろう。一方で、平面図や配置図は、地図的な用途で建築関係者以外にも使われたことは容易に想像できる。絵図の用途についての考察は、金行信輔「屋敷絵図を読む—江戸遺跡と建築史の接点」(『江戸の都市空間』江戸遺跡研究会、一九九六年)を参照されたい。[本文へ戻る]

7 同じく寛永期の江戸を描くとされる「江戸名所図屏風」(出光美術館所蔵)は、町屋や寺社の描写が主体で、大名屋敷はごく一部にしか描かれない。大名屋敷まで含んだ屏風絵としては、文化六(一八〇九)年の鍬形斎「江戸一目図屏風」(津山郷土博物館所蔵)があるが、その描写は、「江戸図屏風」の細密さには及ばない。[本文へ戻る]

8 泥絵については、以下の文献がある。『江戸の泥絵展』(日本美術館企画協議会、一九七七年)、小野忠重『ガラス絵と泥絵』(河出書房新社、一九九〇年)、佐藤守弘「トポグラフィアとしての名所絵—江戸泥絵と都市の視覚文化」(『美学芸術学』一四、一九九八年)。[本文へ戻る]

9 典拠は、大熊喜邦『泥絵と大名屋敷』(前掲)、『江戸の泥絵展』(前掲)、『参勤交代—巨大都市江戸のなりたち』(江戸東京博物館、一九九七年)。[本文へ戻る]

10 「江戸勝景」に描かれるのは、「桜田外の図」(彦根藩井伊家上屋敷)、「芝新銭座之図」(仙台藩伊達家上屋敷)、「よろゐの渡し」(田辺藩牧野家上屋敷)、「虎之門外之図」(延岡藩内藤家上屋敷)、「大橋中洲之図」(磐城平藩安藤家上屋敷)、「山下御門之内」(佐賀藩鍋島家上屋敷)、「日比谷外之図」(長州藩毛利家上屋敷)、の七つの屋敷である。以上のうち「芝新銭座之図」は、会津藩松平家上屋敷とする説もあるが(内田實『広重』岩波書店、一九三〇年)、東京都埋蔵文化財センター・斎藤進氏の御教示などにより、伊達家上屋敷と判断した。[本文へ戻る]

11 ただし原文では、「安芸様(今の外務省)の黒い門と薩州の赤い門」となっているが、明らかな誤りである。話者の記憶違いか、あるいは編者の誤記であろう。[本文へ戻る]

12 保垣孝幸「地名考—永田町と霞ヶ関」(『is』八一、一九九九年)。[本文へ戻る]

13 維新後、外務省となった黒田家上屋敷の表長屋は、戦災焼失するまで残っていた(図4)。[本文へ戻る]

14 大久保純一「広重に見る江戸名所絵の定型」(『美術史』一四五、一九九八年)。[本文へ戻る]

15 「江戸勝景」七枚のタイトルも屋敷主名ではなく、地名が使われている(前掲註10参照)。[本文へ戻る]

16 現在、ベアトの撮影とされる写真には、熊本藩細川家下屋敷(高輪)、島原藩松平家下屋敷(三田)、秋月藩黒田家上屋敷(三田)、久留米藩有馬家上屋敷(赤羽橋)がある。ほかに愛宕山から周囲の大名屋敷を写したパノラマ写真はよく知られている。これらは例えば、『幕末・明治の東京』(東京都写真美術館、一九九一年)、『参勤交代—巨大都市江戸のなりたち』(前掲)に所収。[本文へ戻る]



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