対談 菅野松太郎×太一郎
聞き手:坂村健
インタビュー 菅野公子
聞き手:坂村健・常石史子
インタビュー 小津ハマ
聞き手:坂村健・森田祐三
対談 川又 ×山内静夫
—— 川又さんは、どうして映画の道に入ろうと思われましたか?
聞き手:坂村健・常石史子川又 まあ本当に映画が好きで、学校休んで観に行ってたわけです。見つかって、ブン殴られて、1週間教員室の掃除させられたような作品は覚えてますよね(笑)。『伊那の勘太郎』(滝沢英輔監督、長谷川一夫主演、昭和18年)でしたか。小津映画に最初に憧れたのは、中学の4年頃、『戸田家の兄妹』っていう映画を観た時で、小津さんの名前も、キャメラマンの厚田さんの名前もその時はじめて知ったんだけれど。あとは僕なんかやっぱり、だいぶ後になりますが、沢島忠(東映、昭和32年デビュー。後年「時代劇のヌーヴェルヴァーグ」と称される)なんかに憧れましたね。厚田さんにそんなこと言ったってわかんないですけど。厚田さんも若い時代は僕と同じように、憧れた監督がいたと思うんですけどね。どうせ戦争で死ぬんなら、好きなことやれっていうことで、俳優養成所みたいなところに入ったんですが、たまたま劇映画の手伝いをしてたんですね。小津さんはシンガポールに行ってましたが、終戦になって厚田さんが一足早く帰ってきて、小津さんも昭和21年には帰ってこられて。先輩の助手が、「おまえ、そんなに小津さんの映画好きなら、厚田っていうキャメラマンについてると、小津さんにつけるぞ」ということで、それがきっかけではじめからずっと厚田組です。で、最初はたいへん重宝がられてやってたんだけれども、戦争が終わってどんどん帰ってくるわけですよ、戦地から。撮影助手が10人くらいになっちゃってね。俺はいつになったらキャメラマンになれるんだろうって、考えるんですよね。そのうち、やっぱり辞めていく者も多いし…
—— キャメラマンになるには、ふつうどの位かかります?
川又 早い人は、4、5年でなったんじゃないですか。覚える基礎技術もたいしてなかったし。
—— 厚田さんとは、通算何年くらいお仕事を?
川又 助手では12年かな? 今は松竹で一番古くなちゃって(笑)。もういい加減、引退しなくちゃいけないんだけど。劇映画は通算で88本撮ってます。テレビドラマは、僕やりませんけど、テレビドキュメンタリーを5本ぐらいやってます。人の行けないようなビルマに行ってみたり、雲南省に45日ぐらい行ってみたり… もうできないですね。
—— 山内さんが大船撮影所に入られたのは?
山内 昭和23年です。『風の中の牝』がちょうど封切ったとこで、あんまり評判が良くなかったんですよ、世間的にね。で、あんまり先生ご機嫌良くなかったんだけれども、すぐに挨拶に行ったんです。私ははじめは宣伝部で、宣伝担当というのがありましてね、組にそれぞれ付くんですわ。みんな小津組を嫌がるんですよ、うるさいから。それで、あいつ入ったばかりだけども、なんかコネあるらしいから、あいつ付かせろってことになって、昭和24年に私は『晩春』に付きました。宣伝部なんていうのはスタッフから見れば、半スタッフみたいな中途半端なもんで。こっちも全然わからないから、なるべく現場について先生の撮影をつぶさに見るということで。まあ、それで自然と厚田さんと知り合っていくわけですけれども。
川又 厚田さんと小津さんの関係というのは本当に特殊で… キャメラマンにはだいたい3つのタイプがあると思うんですよ。一つは、監督がイメージで描く映画を作るタイプ。二つ目は、監督と徹底的にディスカッションして撮るタイプ。それから三つ目は、監督が完全にキャメラマンにおんぶしちゃう場合。僕は二つ目のディスカッションしてやるっていうのが一番良いと思うんですけどね。それはまあ、いろいろな監督とやってきたんですけれど。小津さんと厚田さんの場合は、まあ一つ目のタイプでしょうけど、ほんとに特殊ですよね。厚田さんはたいへん謙遜して「俺はキャメラ番だ」なんて言ってたけど、とんでもない。あれだけのライティングできる人ってのはそういないし、特に夜の日本間を撮らしたら、今までああいう名キャメラマンはいないんじゃないかと思いますね。厚田さんの偉いところは、キャメラマンの絵をつくらないってことですよね。あれだけの技術を持っていながらね。撮影監督の絵をつくらないで、監督の絵をつくってやれと。撮影監督というのは、映像部門、技術部門の代表責任者であると、そういうことに徹底してたと思うんですよね。僕が野村芳太郎さんなんかとやってた時は、逆に押しつけちゃったことがずいぶんあるんですよ。この方がいい、絶対いいですって。だから今、反省してます。それがやたら批評家の方に受けたようなところもありますけどね(笑)。それが厚田さんに一番強烈に仕込まれたところじゃないかと思いますね。まあそれも小津組みたいに、固定されたスタッフで撮る場合ですけど。
—— そうすると、厚田さんは小津監督以外の作品つくられる時は、また違ったことを?
川又 ちょっとウキウキしすぎちゃって、別なことをやってみたくなっちゃうわけですよね(笑)。それで失敗して。短気なもんだから、自分が付けたポジションを監督がちょっと直したぐらいで、パッと家へ帰っちゃう。その頃は大船だから良かったですけど。僕が迎えに行くんですよね。するとおばあちゃんがね、一生懸命言うんですよ、「ごめんね、ごめんね」って。もう間に合わないんだけれど。まあ、一本気ですよ。
—— 川又さんは、厚田さんに殴られた最後の方っていうことですが…
川又 そんなこと忘れましたよ(笑)。
—— 痛いですか? こう、ポコンと…?
川又 そりゃあ、もう… まあ、戦争中は僕は運動部にいましたからね、そんなのぐらい平気だったんですけどね。
—— どういう時に怒られるんですか?
川又 たいへん古い方ですから、ちょっと照明技師に逆らったとか、そういうことですよね。
—— 小津監督にしても厚田さんも、みんな上の人たちはやることを通すわけですね。
川又 名スタッフってのはみんなそうですよ。でもまあ撮影のチーフなんてのは、一番わりが悪いでしょうね。だけどその過程を踏まないと、キャメラマンになれませんし。それより僕が撮影助手で辛かったのは、残業手当が一銭も入ってこなかったことですね、3ヶ月間ねえ… だいたい3時になると、「おい、そろそろミルクの時間だ。やめようか」なんて調子ですからね。まあ、たいへんなミルクですけど…
山内 私なんかアフターファイブのほうが付き合い多いほうで(笑)。もっぱらミルクのお相手ばっかりしてたんだけれども。小津組の仕事っていうのは、非常に厳しいっていうのかな、現場が怖いとか、そういう印象がみなさん強いと思うんだけど、たしかにそういうとこはありますけれども、何か先生も厚田さんも厳しいだけじゃなくて、ときどきはみんなの気持ちふっとほぐすとか、笑わすとか、そういうことにはものすごく神経使ってくれてたって気がしますね。厚田さんが、小津組のスタッフをどっかで束ねてたんですね。先生のことよくわかってたんだよね。厚田さんを通して先生の意志が隅々まで伝わっていくっていうかね、そういう役割は非常に大きかったと思うし…
川又 厚田さんていうのはほんとに口下手で、技術で見てくれというようなタイプでね。まあ、たいへんな職人だと思います。だから、はじめの頃の私の技術なんてのは認めてくれなくて、たいへん辛かったけど(笑)。でも以外と頓知にとんだ方で、小津先生に面と向かっては言わないんだけど、適当にからかってたとこありましたね。適当にバカやりながら…
山内 ときどき突拍子もない冗談言って、お酒を飲むとまた非常に馬鹿馬鹿しくおかしくて…
川又 小津さんは僕が酒飲めないって知ってるもんで、僕にはほとんど野球と技術のことだけで。撮影が始まって1週間から10日たつと、「どうだ、今度の厚田の現像の上がり具合は?」ってなこと、毎作品、僕に聞きましたね。まあ、小津親父っていうのはたいへんな野球好きで、やたらスタッフのなかに野球部出身のやつを入れたがるんですよ。僕が名キャメラマンの宮川一夫さんと一番最初に会ったのは『晩春』の時、京都で。製作主任に、「京都で一番強いチームを探してこい」って言うんですね。で、宮川さんのチームと下鴨神社の植物園のグラウンドでやったんですね。NHK賞もらった時に、前の年の受賞者が翌年の受賞者に渡すんで、宮川さんが来てくれて、「あの時のピッチャーが僕です」って言ったら、びっくりしてね(笑)。僕は山内さんのことも松竹入る前から知ってましたよ。鎌倉で野球やったからね。そういえば小津組のユニフォームまで作ってましたね。僕がキャプテンやってる時に、小津さんが自分でデザインして「松竹大船スタジオ」だから「SOS」というマークを作ったんですね。松竹が弱いんならいいんですけど、神奈川県で1、2を争うチームだったんですよ。「いくら何でも監督、このSOSだけは勘弁してくれ」って言ったら、「そうか」ってね。
鎌倉シネマワールド、『東京物語』セット(再現)にて撮影 —— 小津監督もなさるんですか?
川又 そう、下手ですけどね。好きなんですね。
—— 厚田さんも?
川又 厚田さんは出ないんです。原田さんは応援団長です。野次専門。フィルム缶叩いてみたり(笑)。
—— お二人とも、昨夜(9月7日)の黒澤明監督のお通夜に行かれたそうですね。
川又 そう。今村昌平が、小津さんには表へ出さないエネルギーの素晴らしさを感じると言ってました。
山内 「潜熱」とかって言葉使ってたな。
川又 ええ、それで黒澤さんは表へ出すエネルギーだと。今村も小津組は3本ばかり助監督やってましたからね。黒澤さんも小津さんのLDを見ながら、「ああ、小津さんてのはすげえなあ」って言ったって話もあるね。
山内 色合いは全然違うけれども、1カット1カット、ディテール一つに至るまで自分色に染めなきゃ気が済まないってところは黒澤さんとも同じですね。本来1コマ1コマつないでいくんだから、どのコマも同じだけの神経使ってなきゃおかしいのは当然かもしれませんけどね。そうでない映画があるから、逆に目立っちゃうんだけれど。
—— セットの小道具や衣装は、全部監督がご自分で選ばれたんですか。
山内 それはもう全部ですよ、全部。1点たりとも自分の目を通らないものはないですよ。ケチな茶碗なんか使ってませんから。
—— 映画に出てくるお茶碗が、実際に小津さんが使われてたものだったりもするんですよね?
山内 そうそう、小道具さんの出した物が気に入らない時はね、撮影の途中でもバーッと取りに行って、家から持ってくるというようなこと、よくありましたよ。これで間に合わせとこうか、という精神が、一番嫌いなんじゃないでしょうか。
—— 厚田さんがロケハンの時にお撮りになった写真がたくさん出てきてるんですけれども、ご一緒に行かれました?
川又 最初はライカの詰め替え要員で、それからファインダーが大きいときは荷物持ちで(笑)。『東京物語』で、1日荒川の土手歩いた時なんかは、相当しんどかったですよね。元気なんですよ、厚田さんも小津親父も。
—— ロケハンは、小津組総動員みたいな感じですか。
川又 そうですね。小津組は余裕があるから、そういうことにも全員で行けるんですね。小津さんの場合は、シナリオは第1稿が決定稿で、直しがないですしね。僕のやったプログラム・ピクチャーでは、野村さんが一生懸命シナリオ直してる間に僕がロケハンに行って、写真判定ですよ。 —— 小津組は事前準備が長いわけですね。
川又 そりゃそうですね。温泉で一杯、お盆浮かして飲みながら、台詞口ずさんで書いてるわけですから。プロデューサーがそうとう泣いてるんじゃないですか(笑)。書き出すと早いらしいですけど、コンストラクションができるまで時間食うみたいですね。だいたい一升瓶が30本か40本空くっていうんでしょ、コンスト書いてる間に。最初、鎌倉シネマワールドができた時、小津の監督室をありのままに僕がつくったんですよ。一升瓶コロコロ転がして、スルメ置いてみたりね。そしたら「あんなに汚くする必要はないんじゃないか」って苦情が来たんですね、ある批評家から。だから一升瓶全部はらって、きれいな監督室にしちゃいましたけどね…
—— 小津さんの場合は、脚本にチェックが入ったりということはなかったんでしょうか。
川又 そうね、ただ『父ありき』の頃なんかは、映画監督には一番つらい時代でしょ。軍の圧力みたいなのが、少しずつきてますよ。ちょっと遠慮する、こういきたいけどまずいかな、みたいなことは考えてるんじゃないですかね。小津さんがシンガポール行って、ビルマ侵攻の映画つくるような話があったくらいですからねえ… 結局、幻になったわけですけど。
—— キャスティングなどはいかがでした?
山内 脚本段階からほとんど決まってるから、早めに交渉できるし、小津組の仕事ですって言って、まず断る人はないでしょう? 二つ返事ですよね。キャスティングでこちらから提案して、小津さん嫌がったけれども「いいですよ。きっといいと思いますよ」と言って、「じゃあ、やってみるか」って成功したのが、『秋刀魚の味』の岸田今日子ぐらいなもんだね。新劇はだいたい嫌いなんですね、元来。杉村春子とか中村伸郎を除けばね。でもやってみたらものすごく岸田今日子が良かったって言ってくれました。まあですから、小津映画は我々プロデューサーの立場からいわせると、キャスティングにはまったく苦労がないんです。それに、以外にスケジュールは狂わない人ですね。
川又 そうですね。まあ、たっぷりとってあるってとこもある…(笑)
山内 それもあるわね。セット撮影が多いってこともあるし。それから、台本で3ページでも1日でできるところもあれば、2行でも1日かかるってところがありますけど、進行やってた清水さんがそういうことはよく呑み込んでるから、あんまり狂わない。残業なしでやるし。全体的にみると、ふつうの大作、ものによっては三流映画なんかよりもお金かかってませんでしたよ。木下惠介さんの映画はあの時分ね、やっぱりロケーション多いし、お金かかった…
川又 それに小津さんでびっくりするのは、ラッシュ。音楽入れる前に総ラッシュっていうのをやるわけですけど、普通の監督だったら、40分短いとか、50分長いとか、そんなのばっかりなんですよ。50分長いってことは、1日のノルマがだいたい5、6分として、10日以上のマイナスになっちゃうわけですよね。労働組合だってたいへんですよ。それが小津さんの場合、1分と違わないですからね。偉いですねえ。だからシナリオの段階で金かけて、山内さん泣いたって、たいしたことないんですよ、それは。
—— ところで、ローポジションっていうのは、厚田さんの好みですか?
川又 いや、小津さんでしょ。でも慣れてくと、そういうポジションに自然と入っちゃうんですよね。小津さんは「俺は豆腐屋だから豆腐以外つくれないよ」ってことを、よく冗談で言ってたんだけれども。徹底してるんですよね。レンズも50ミリよりほか使わない。三脚にしても、例のカニでもまだ高すぎるらしい。子犬が椽側のところからパッとこう、首だけ出してお菓子をねだるとか、あの目の位置なんですよ、小津さんのは。スクリーンを下から見てるお客さんに俺は一番親切なんだ、客は見下しちゃいかんぞ、というようなポジションですよね。
—— なるほどね。当時の映画館の構造は…
川又 2階席はずっと後ろの方で、傾斜がなくて、ごく一部です。ほとんどが1階席で、見上げた感じになりますね。
—— すると、今ビデオで見ると、ちょっと様子が違っちゃいますね?
川又 ビデオにも寝っころがって見られる便利さはありますけどね。でもやっぱり、空気感を受け取るようなことは、できないんじゃないでしょうかね。
—— アングルについては、川又さんのお考えはまた違ってました?
川又 僕は見やすいように撮ろうと思ってたんですよね。だから、ローポジにそうこだわらなかった。富士山の頂上行って、ローポジでアップを撮ったっていう監督がいますけど… 単に家の屋上で撮ればいいんですよね、そんなの(笑)。
—— ほかに小津作品の特徴というと?
川又 人物配置に相似形が多いんです。こう、笠智衆さんと東山千栄子さんが同じ方向見てしゃべってるというようなのが多いですね。でも僕が一番勉強になったのは、小津さんのキャメラのすぐ脇に僕が一番長い時間座ってられたことですね。ああいう「待ち」の間に教えられましたね。ぱっと笠さんなんかを見かけると、「おい、川又。実力のある脇役がほんとうの主役なんだ」というようなこと言われました。
—— それから、カラーのことをうかがいたいんですが… 木下監督と比べて、小津監督のカラーへの移行はかなり遅いんですけれども…
川又 ええ、『彼岸花』をやる時にね、小津さんはどっちのフィルム使うかで悩んでたわけですよね。アグファの赤はちょっと朱色になるし、ほんとの赤はコダックのほうが出やすい、そのかわり、コダックは空が変に青くなる。これも露出しだいで十分変わるんですけどね。
山内 テスト両方やったりした?
川又 ええ。結局、アグファってことになったんですけどね。
山内 小津映画に合ってたんじゃないですかね? 結果的には良かったでしょ?
川又 そうですね。ただ、独特の赤いヤカンとか、一番強調する赤をね、もう少し出せたらなあと思ってましたけどね。
—— 私たちにはあの朱色がかった赤こそが小津調みたいに思えますけど、それは不本意だったんですか?
川又 やっぱり不満残ってますよ。ただ、コダックにすると、空がもっと青くなる。小津さんの場合は、ブルーから紺にかけてのシアンにずれる色は、一番印象悪い色だと思ってるわけです。そのために、アグファにもってっちゃったわけですよね。
—— 川又さんが小津組にいらした頃っていうのは、どんな雰囲気だったんですか?
川又 それは意気軒昂ですよ。あの安月給でがんばってるんですからね。よその組の悪口言うんではなしに、あいつらには必ず勝ってみせる、という感じね。
山内 氏 川又 氏 —— 勝つっていうのはどういう意味で? 観客動員数とか、評判がいいとか?
川又 評判でしょうね。作品的な評判。
—— 興行成績とかそういうものは、監督は意識されてたんですか? あるいは、そういうのはどうでもいいとか…
山内 いやいや、興業成績もそれは気にしましたけども、あまりお耳にいれることがないからね。新聞の批評とかってのは気にしましたよ。一番入った『彼岸花』が昭和34年で、33年が日本映画のピークだとすれば、その先は映画界も体力が弱ってる状況なんですよ。それは先生よくわかってるしね。あまり無茶なことばっかりやって、会社に迷惑かけてもいかんと。会社も良し、自分の映画も良しってふうにならにゃいかんってことは、よく理解してた人ですよ。
川又 よく言われたのは、伝統のないところに芸術は生まれないと。
—— 当時の原動力とはいったい、どういうものだったんでしょう?
山内 やっぱり周りを見るとね、すごい監督がすごい作品作ってるっていう、列強があった時代じゃないですか。互いに切磋琢磨する精神が、映画を作るとき一番大事なもんだという気がしますよ。今はないでしょう。木下惠介なんて先生から見れば後輩だけれども、映画はボンボン当たるし、日の出の勢いですよ、その時分はね。内心ではそうとう競争意識があったに違いないと思う。そういうところは普通の人ですよ。セット1つだって、いいセットを誰が早くとるかっていうことは、たいへんな競争ですよ。それは製作の親玉が配分するんだけども、できるだけ早く行って、これこれこういう理由だから第3ステージがどうしても欲しいんだと言ってみんながやり合う。各パートの人たちが、みんな戦争なんですよ。そういうものの集積が、小津映画であり、木下映画なんですよ。
—— 川又さんはいま、古いフィルムの修復などもなさってるんですよね?
川又 ええ。小津さんのは、1993年の生誕90周年フェアの時に、全部新しいデュープ起こして、マスターもとってあります。一番困るのは『東京物語』。ご存知のように、オリジナル焼かれちゃいまして、16ミリよりほか残ってなくて、それをブローアップしてるわけです。最近は、1942年の『日本の母』(原研吉監督、葛城文子・佐分利信主演)という映画が、偶然に元熱海の映画館に勤めてた方の物置の中から出てきまして、「捨てようと思ったんだ」って電話がかかってきて。「ちょっと捨てるの待ってくれ。今取りに行くから。あんまり危ないところに持ち出さないように」と。可燃性で、いつバッていくかわからないですから、埃が心配なんですよね。これはやっぱり復元がたいへんですわ。もう、目崩れしちゃって、進まないんですよね。やっとできたんですが、200万くらいかかっちゃうわけですよ。よその映画会社だったら、東宝さん以外、なかなか出せないでしょうけどね。よく松竹が出したと思います。こういうところから、若い人たちが映画を見直してくれるようになるといいんですけどね。
—— 山内さんが今までなさったお仕事で、「やった」っていう実感が一番強いのはどの作品ですか。
山内 やっぱり、プロデューサーとしてはじめて1本まるまるやった『早春』が一番今でも印象に残ります。『彼岸花』とか『秋日和』あたりのところはね、興業的には良かったけれども、少し安泰すぎたかなっていう気がしないでもないんですね。戦前の蒲田時代には新進気鋭の、いわばヌーヴェルヴァーグだった人でしょ。それが大家になってしまった居心地の悪さっていうのは、先生自身の中にあったに違いないんですよ。そうとう本人は模索して、別のものやろうか、別の脚本家と組もうかとかいう思いはあったんだけれど、最終的には、まあこっちの方が無難だなと。もう失敗は許されない時代と、許されない立場になってたってことはいえるでしょうね。
—— プレッシャーがあったんですね。
山内 あったと思いますよ。俺の写真が当たらないっていうことは考えられないっていうようなね。若い頃は1本ぐらい失敗があっても、それはトライアルだっていえるだろうけども… 先生は27年に北鎌倉に越して、それから鎌倉とかかわっていくわけですけど、これは先生の歴史のなかでは一つの大きな転機でしょうね。晩年になってからずいぶん変わりましたよ。厚田さんも盛んに言ってたけどね。厚田さんに対する態度もね、ずいぶん違ってきたような気がしましたよ。はじめはかなり厳しいこと言ったりしたけど、晩年は「どうだ、厚田ケー?」って、言い方も優しかったっていうかな。やっぱり、人生の終わりが近かったってことでしょうか…
対談 菅野松太郎×太一郎
—— 今日は厚田雄春さんのお孫さんにあたられる、菅野松太郎さん、太一郎さんご兄弟をお招きしまして、いろいろと厚田さんのお話を伺いたいと思います。お二人は双子でいらっしゃるんですね?
聞き手:坂村健松太郎 そうです、一卵性の双子です。
—— 今、お幾つですか?
松太郎 26になりました。私たちが生まれたときには祖父はもう60近くで、キャメラマンとしては退いておりました。
—— お母さまは厚田雄春さんの末っ子ということですが、何人兄弟でいらしたんですか?
松太郎 3人なんですが、全員女の子で、おじいちゃんもちょっと寂しいとこがあったようですね。ですから私たちが行きますと、嬉しそうな顔して、こう…
—— ご一緒に住んでらしたわけではないんですね?
松太郎 私どもはずっと鎌倉で、祖父の家が浅草橋の方にありますので、月に何回か会いに行くという形でした。祖父は一番上の娘と一緒に住んでまして。
—— 厚田さんとのことは、いつ頃から覚えてます?
松太郎 小学校5年生のときに初めて親とは別に、2人で会いに行くようになったのを覚えています。
—— 厚田さんがお亡くなりになられたのは平成4年ですから、よくお話なさったのは、11、12から20歳頃ということですね。小津さんが亡くなったのが昭和38年ですから、それから20年くらい生きてらしたんですね。
松太郎 そうですね。
—— 小津監督が亡くなってからもうお仕事なされなくなっちゃたというのは本当ですか?
松太郎 ええ。自分は小津監督に始まり小津監督に終わるんだと言っておりました。
—— 小津監督と撮られた映画が15本…
松太郎 そうですね。助手時代を含めると、小津監督の作品はほとんど全部ですね。いろんな監督に付いてはみたようですけれども、やはり独特のカメラアングルですし、小津流というのが身についてましたから、それを他の監督にあてはめてしまうと、やはりぶつかる部分があったんでしょう。ライトひとつにしても… それで、少しづつ退いていったという… あとはやはり、モノクロで育ちましたから、カラーの時代にはだいぶ難しいところもあったみたいですね。
—— お二人は今、写真をご職業になさっているということですが、それはやっぱりおじいちゃまから受けた影響が強いんですか?
松太郎 ありましたね。
太一郎 自分で写真というものを職業に選んで外に出ていますと、最近になってつくづく、おじいちゃんが言ってたことがよくわかったりするんです。
松太郎 晩年、写真の大学に私たち2人が入った時にですね、まずここまでは2人仲良くやってきたが、こっから先はお互いにライバル同士だと言われました。これからは、松太郎は松太郎の、太一郎は太一郎のそれぞれ違う個性が出てくる、だからお互いがライバル同士になってそれを高めていくことで、良いものができあがる、それを絶対忘れるなと。あとは「常に眼はカメラマンの眼でいろ」と。いえ、というよりむしろ、自然にそうなってしまうんだよって言ってましたね。
—— カメラマンの眼っていうのは?
松太郎 例えば、喫茶店で女性がコーヒーを飲んでるとすると、それをぼーっと見てるんではなくて、常にどういうアングルから、どういう部分を撮ったら良い絵になるかを考える、自然にそういう眼が養われていくはずだと、しきりに言ってました。
太一郎 カメラに魅入られて、カメラマンになろうっていう選択をすると、その時からそういう眼になるんだよと。町を歩いてても、そういう眼とそういう意識で常にものを見るようになってほしいって…
—— どうしたらその美を最大に引き出せるかということを、生活のレベルで考えるわけですね。
太一郎 あと電車に乗ってるときに、座ってないで常に立ってろと。会社の行き帰り、毎日同じ景色だけれども、その中にもまた違ったものが見つかるんだと。
—— 発見があると?
太一郎 ええ、そういうところを見逃さずに、景色からいろんなことを感じとりながら毎日通うと、また違ってくると言われまして。そのうち小津先生の本を読んでましたら、電車のドアに寄り掛かりながら、小津先生が一生懸命見ているっていう写真があったんで、あ、これなんだなあと…
菅野松太郎 氏 菅野太一郎 氏 —— 「眼で」見るためには訓練が必要で、ただ漠然と見てたんじゃダメだということですね。学校に入って撮られた写真については、何か言われませんでしたか?
松太郎 いえ、自分の作品を見せる機会はなかったんです。今思うと非常に残念なんですけれども… まあ、決して他人をけなす人ではなかったんですが。特に孫に対しては、ちょっとかわいいおじいちゃんを演じてたみたいで、ほんとに優しくて… まず声を張り上げるってことがなかったんです。怒った顔というのを見たことがない。ほんとに人がいいというか…
—— 厚田さんのお若い頃の写真を拝見すると、似てるよね、松太郎さんなんか特に。確かに恐いって感じはしませんね。現場では恐かったらしいけど(笑)。
松太郎 僕らには想像がつきませんね(笑)。器用ではないから、器用ではないからって言ってました。だから一生懸命やるしかないんだと。一つのこと言われたら、普通なら1日で済むところを、えんえんやってたんじゃないかなと思うんですけどね。
—— 今度の展覧会では、厚田さんが撮られた家族写真などを展示させていただくんですが、普段から写真がお好きだったんですね?
松太郎 ええ、常にカメラ持ってました。その撮り方がですね、僕らの記憶のなかでは、常にこう、言葉が汚いんですけど、ウンコ座りしなが撮ってるんですよね。ローアングルが癖になってるんですね。子供心に、何でおじいちゃん、いつも座って撮ってるんだろって…
—— なぜか座っちゃう(笑)。
太一郎 子どもを撮る時は子どもの目線で撮るということだったんでしょうね、自分で撮るようになってからわかったことですけど。何か人形が置いてあるのを一生懸命見てる、その後ろ姿を撮ってみたりとか。まあ、アップの写真もありましたけど、常にまわりの風景があって、その中で子どもが何かを見てる、それが一つの絵になってるんですね。「はい、ポーズ」で「ピース」っていうような写真は一枚もないですね。
—— なるほどねえ。他にも何か、そういう思い出ありますか?
松太郎 そうですね。晩年になって、蓮實先生との共著という形で『小津安二郎物語』(筑摩書房、1989年)という本を出したときに、読み終わってからおじいちゃんのところに行きまして、後悔していることはありますかって聞いたんですね。そうしましたら、いや、それはないって言うんです。
—— じゃ、もう言い尽くしたんだ。
松太郎 そうですね。でも、欲をいえば2つだけあるって言うんですよ。僕、すごく興味ありましてね。まず、時代劇ですね。時代劇を撮りたかった。で、もう一つはと聞きますと、女性の体。つまりヌードですね。今でしたらカラーも豊富で、いろんな表現ができるんでしょうが、それをモノクロで、と言ってましたね。その2つをどうしても撮りたかったと。僕もはじめて聞いたんですけれども。
—— それは写真でしょうか?
松太郎 いえ、映画だと思うんですが、どういう物語になったんでしょうかねえ。世の中に溢れているヌードに対して異義があったみたいで、女性の体とはそういうもんではないよ、こういうもんだよと…
—— 芸術として、人間の体っていうものにチャレンジしたかったんですね。
松太郎 そうですね。作られたものではなくて、女性の体のほんとの美しさとはこういうものだっていうのを、多分撮りたかったんだと思うんです。それを、こう2つだけポツリと言ったのが印象に残りましたね。
—— お会いになると、やっぱり写真とか映画の話が多くなるんですか?
太一郎 そうですね、私たちが大学に入って写真始めた頃、ほんとに短い間だったんですけど、そういう話は結構しました。悔いのないような写真を撮りなさいって言われましたね。撮ってから、ああすれば良かった、こうすれば良かったではなくて、撮って出来上がったときに、これだけできたんだって思えるようなのを作りなさいって言われました。
—— なるほどね。太一郎さん、今、女性の体撮ってるんですか?
太一郎 そうですね、ヌードではないんですけど。ですからおじいちゃんの言ったことが、近ごろほんとによく浮かびますね。例えばロケハンですね。小津先生って方はほんとによく歩いて、1日何十キロも歩いてロケハンするって話を常に聞いていまして、どういうものかなあって思っていたんです。で、自分で実際にロケハンに行くようになって、ふと思うんです。おじいちゃんがよく言ってたんです。歩いてロケハンしなさい、そうすれば細かいところまで目が行き届くんだと。まあ、最低限の移動は電車でいいけど、電車の中も立って、表を見て… 車とかで行くと見過ごすことがあるからと。
—— 小津さんの映画って、一見あまりに当たり前のことがずっと連続してるようにも思えるけど、実はあんまり当たり前じゃないんですよね。緻密な事前調査をものすごくなさってるし。
松太郎 ええ。晩年のおじいちゃんが、すっごい嬉しそうな顔して自慢するんですね。電車の窓からの風景のシーンで、東京駅からどこまでの間はカメラをこれだけ外に出しても柱がぶつからないというのを計算して、それを自分で撮ったんだよと。で、今観ますと、映画にそんな場面が必要かって、正直言って疑問なんですね(笑)。あれはどうも、小津監督がですね、厚田が一生懸命に見てきて、これがいい、これが撮りたいって言ったんで、しょうがない、1カット入れてあげようかって、そういう感じだったみたいですね。
—— じゃあ、小津さんに言われたことをやるばかりじゃなくて、こちらから提案もなさって、それが取り入れられたことも結構あったわけですね?
小津監督が非常な信頼を置く、重要なキーマンだったわけですから…
松太郎 そうですね。監督が望んでなかった部分もある程度押し通したんじゃないかなって思うんですけど(笑)。共同作業の中で、それぞれの個性が出たっていうことでしょうか。
—— 松太郎さん、原節子さんのことを、おじいちゃまにうかがったことがあるんですって?
松太郎 はい、よく覚えてます。私も原節子さんという方は非常に好きな女優さんでして… まだ18、19の頃でしたから、「おじいちゃん、原節子さんてどんな人? きれいだった?」って、ちょっと興味本位で聞いてみたんですね。そうしましたらね、それまで普通に話してたのが、急に黙り込みまして、スッとタバコを置いて席を立ちまして、自分の部屋に入っていくんです。私もそこで止めればいいものを、追いかけましてね。「おじいちゃん、原さんてどういう人?」って後ろから言ったら、やっぱり部屋の中で背中向けたまま、そこにポツンと座りましてね。「どんな人? どんな人?」って言うんですけど、いっこうに話してくれない。目も合わせてくれない。触れてはいけない部分だったのかな、と今にして思うんですけれども…
—— 他の話は聞けば何でも答えてくれるのに、原さんのことだけは何もお答えにならなかったと…
松太郎 はい。何があったのか…
—— 何か強烈な思い出があるんでしょうね。小津さんと原さんのことが世間でいろいろ言われてますから、お二人をかばいたい気持ちもおありだったんでしょうか。
小津安二郎と原節子 松太郎 そうですね。その話には一切触れない、というのが後々わかりましたけれども…
—— それでその後はどうなりました?(笑)
松太郎 振り向くまで待ってたんですよ、そこで。おじいちゃん振り向くの。プッと振り向いて、突然、美空ひばりさんの話を一生懸命しましてね(笑)。美空ひばりさんの作品をいくつか撮ったことがあるんですが。
—— ああ、もう全然話題変えちゃって(笑)。
松太郎 はい、変えちゃいまして。もう、ひばりが、ひばりがって言ってました。「いやあ、かわいかったよー」とか、「撮っててよかったよー」なんて… で、私もまた懲りずに「原さんは?」って言うんですが、また一生懸命、言葉をかぶせるようにして…
—— ひばりがいい、ひばりがいいって(笑)。
松太郎 そうですね。それまであんまり美空ひばりさんの話をしなかったもんですから… それで今でも覚えてるんです。
—— 原さん以外の方のことは、小津監督がどんな方だったとか、そういう話は皆さんによくなさったんですか?
松太郎 そうですね。ただ小津監督が亡くなってからも、亡くなったという感覚がなかったみたいですね。お互い違うとこに住んでて、腰が悪くなったりだとか、頭が痛くなったりして、ちょっと会えないだけだっていう、そういう感覚で… 決して亡くなったっていう感覚じゃないんですよね。撮影終わってどこそこに飲みに行ったなとか、銀座はよく小津オヤジと行ったなとか、そういうことをよく言ってました。晩年、あの、ドーナツがすごく好きでして…
—— ドーナツ?
松太郎 パンとコーヒーとドーナツがものすごく好きで、毎日のように…
—— どうしてだ(笑)。やっぱり撮影の合間にそういうの食べやすいからかな?
松太郎 「銀座のドーナツ屋さんに行くか? 行くか?」って。遊びに行くと、「今から行くか?」って。
—— 銀座までドーナツ買いに行くってのはなかなか…(笑)
松太郎 そうなんです。それもただのダンキン・ドーナツなんですよ。近くのお店でもいいんじゃないかなと思うんですけど、それはダメみたいですね。銀座のダンキン・ドーナツ、っていうのがすごく大事なんです。そして、オールドファッションていう、いちばんシンプルなやつしか食べないんです。なんかやっぱり、こだわりですかね。
—— 小津監督も食べるものにはこだわってたみたいだけど。とんかつは「蓬莱」とか。でもそのドーナツは、ちょっと小津監督のこだわりと違うね(笑)。
松太郎 違いますね。ちょっとあれだけは… 物心ついた頃は、遊びに行くと自分の前にドーナツがありましたね。しまいには、遊びに行くときは、来る前にドーナツ買ってきてくれと言われて… 他のもの買ってくると、なんか手をつけないんですねえ。銀座のそのお店はなくなってしまったんで、残念なんですけど…
—— 晩年の厚田さんは、映画は見ておられました?
松太郎 いえ、最近は映画を見てない、見たいと思う映画がなかなかないとよく言ってました。でも、最後に、ほんとに亡くなる1週間か1カ月くらい前でしたか、見たい映画が久しぶりにあるんだって言うんですよ。松竹の、野口英世を描いた『遠き落日』という映画(神山征二郎監督、1992年)で、主演が三田佳子さんと三上博史さん。あの映画をどうしても見たい、久しぶりに観たい映画が僕の前に出てきた、悪いけど連れてってくれるかなと。
—— で、連れて?
松太郎 じゃあ、おじいちゃん行こうかって約束して、それも銀座だったと思うんですけれども… そしたら結局、果たせずにそういうことになってしまって…
—— ご覧になれなかった?
松太郎 そうですね。残念なことになりました。一緒に行ったら何て評価をしてたかなって…
—— ご覧になりました?
松太郎 見ましたね、やっぱり。わかるような気がしました。まあ、野口英世ですから、あんまり派手な映画ではないですけどね、何となくおじいちゃんが好きそうだなって映画でした。最後に唯一、名前をあげた作品だったと思います。
—— 晩年の厚田さんを主役みたいにして、ヴィム・ヴェンダース監督が『東京画』を撮りましたけど、そのことを通じていろいろと親交があったんですか?
松太郎 はい、ありました。あとは蓮實先生の『小津安二郎物語』って本に携わったり、脚本に携わったり… 晩年は、どれだけ自分の真実を伝えられるかっていうんで必死だったみたいです。本当のものだけを伝えて、違うものは違うと… ほんとにいい方たちに恵まれましたから、かなり吐き出せたんじゃないかと思うんですが。
—— 厚田さんに対する世界的な評価というのは、わりと近年のことですよね。それにしても、ヴェンダース監督といい蓮實先生といい、どちらも手強い相手ですよねえ(笑)。
松太郎 そうですね。最後の頃は、勉強しなきゃ、勉強しなきゃって言ってましたね。そういう人たちと会話することがまず大変なんです。もう70過ぎて、結構辛かったんじゃないかと思うんですよね。恥ずかしくないように、自分を高めなければいけないっていうのがあったようで。映画界の現状ですとか、もうしきりに本を読んでましたね。普段は、頭より感覚という人ですから、言葉で語るっていうことは難しかったと思います。 —— 菅野さんご一家からは、今回、写真以外にもずいぶん貴重な品をお借りしているんですが…
松太郎 小津監督が使われてた、単位がインチになっている巻き尺がありますね。まあ15センチか20センチぐらいのものですけれども、それを僕らが小っちゃい頃に、勝手に持ち出したんだか、おじいちゃんが使っていいよって言ったんだか、ちょっとわからないんですけれど、それを釣りみたいにバーッと出したり、くるくるくるって丸めたりして、部屋で遊んでたんです。おじいちゃんが座って、遠くからじーっと、ニコニコしながら見てるんですよ、2人の子の姿を。ダメだよそんなことに使っちゃとは言わないんです。私たちもそれ、小津監督の遺品だとは知らずに遊んでましたから… 今になりまして、それが遺品として展示されておりますとね、何ということをしたかと…
—— 博物館に入るもので遊んでたんだ。今回も展示させていただきますが(笑)。小津監督が亡くなられたショックは大きかったでしょうけど、晩年はいろんな方とお会いになったり、松太郎さんや太一郎さんも大きくなられて、いい話し相手になられて、思えばお幸せでしたね。
松太郎 そうですね。私たちも仕事の部分でも少しは話ができるような歳になりましたので… 遊びに行くとほんとに笑顔で迎えてくれました。こっちで意見を言っても、それが間違ってるとか言われることは一切なかったですね。それを呑み込んで、遠回しに優しく言ってくれる人でした。そういえば、ほんとに小さな頃は、行くたびにお小遣い貰ってたんですが、そのお小遣いっていうのがですね、これまた一つこだわりがありまして、全部500円玉なんですよね。
—— 何なんだ、それ?(笑)
松太郎 例えば、3000円分のお小遣いなら、2人に500円玉で6枚ずつ(笑)。
—— あ、それはかなりこだわらないとできない…(笑) 何でですかね?
松太郎 さあ。小っちゃい袋をいつも用意してまして、お釣りなんかで500円玉が出てきたらその中に入れて、その袋をこう持って、チャリチャリ渡すんです。あれはいっぱい入ってるっていうごまかしなんですかね?(笑)お小遣いっていえば500円玉、というのはもう決まってました。何で500円玉なんだか、私たちも聞きもしなかったですけれども。
—— そういうお話聞いてると、生活が自堕落じゃないというのか…
松太郎 そうですね。何でもいいってことはなくて、一つ一つこだわりが必ずありましたね。タバコの開け方から…
—— タバコの開け方?
松太郎 ビリッと破るんではなくて、タバコが出てくるところだけをハサミできれいに切りまして、だから、ほかは全部ビニールかぶってるんです。
—— すごい… 作風も丁寧、絵づくりも丁寧ってことで、みんな丁寧なんだな(笑)。
松太郎 今思うと、癖などもありましたね。『東京画』のインタビューでもそうですが、机なんかありますと手をつきましてね、こう、しょっちゅう口元を手で覆って、なで下ろすみたいにするんですね。会話しながらでも、タバコを持ちながらでも、癖なんですね。それを弟がやるんですね、今でも。
—— 弟さんが同じようなことやるの? 無意識に?
太一郎 無意識にですね。
松太郎 母が見ると気持ち悪いっていうんですけれど。
——小っちゃい頃見てたんで、なんかDNAに入っちゃたんじゃないの?(笑)やっぱりハサミでタバコ出す?
太一郎 僕はやりません(笑)。
—— やっぱりお話聞いてると、映画だけじゃなくて、日常生活も、厚田さん独特の眼で見ておられたんだね。
松太郎 そうですね。そういうすべてがカメラの眼だったんでしょうかね。レンズを通して見るというのか…
—— プロフェッショナルだね。職人っていうかね。そういう人、だんだん少なくなりましたからね。
松太郎 おじいちゃんの部屋に入りますと、小津監督の写真が飾ってありまして、そこに白いピケ帽が置いてあるんです。小津監督の詩も載ってました。で、それを毎日、朝夕必ず見て、手を合わせて。欠かさなかったですね。そういう部分と、亡くなってはいないんだという強い気持ちが両方あったんですね。ほんとは矛盾してるんですけど、どちらも本当のこととして、交互してたんじゃないかなと思います。
インタビュー 菅野公子
聞き手:坂村健・常石史子
写真1 写真2 —— お父さまの厚田雄春さんが撮影された家族写真には、たいへん興味深い「小津的」な部分があるとうかがっております。公子さんは、その被写体となった経験がおありの一方で、ご自身が写真家でもいらっしゃいます。その二つのお立場から、厚田さんの家族写真の世界を、具体的に紹介していただければと思います。
公子 父は私たちが幼い頃から、まったく気ままに、自分が撮りたい時に私たちを被写体にするところがありました。撮るのに非常に時間がかかりまして。まず太陽の光線具合を見るんですね。で、光線状態が悪いと、いつまででも被写体を立たせて。じーっとシャッターが切れるまで待ってるわけですね。母などは慣れてまして、「まだですか? まだですか?」とよく催促していたんですけれども。
—— 拝見しますと、カメラ目線のものが一つもないんですね。
公子 そうなんです。すべて横向きで、カメラ目線を外してます。その時は、なんでなのかなと思いましたけれど、写真の勉強をして自分が撮影する立場になりますと、普通のスナップ写真でも、カメラ目線のものは非常に面白くないと思うようになりました。いかにもカメラで撮りますよ、ハイ、撮りましたというような写真は… 周りの雰囲気にしても、やはりちょっとカメラ目線を外しますと、ずっと良くなるんですね[写真1]。たとえばこれ[写真2]は、石廊崎だったと思いますが、父も母も私もとても気に入った作品で、しばらく額に入れて飾っていました。やはり前を向かせない、横の目線ですね。家族写真だというのに、ほとんど風景でしょう(笑)。岩場が多いその場の雰囲気を捉えてるんですね。私などは最初にこれを見た時は、なんで真ん中に人が入ってなくて、脇に寄ってるのかしら、なんてそういう感想だったんですけど。若い時は、あまりそういうことはわからなくて…
—— ほかに特徴といいますと?
公子 そうですね、連続的だということですね。子供の写真でも決して1カットだけじゃなくて、その場の情景をつかむということで、さながら映画のカットのようなんです。これ[写真3]は私なんですけれども、遊んでいて、おもちゃに飽きて、障子を破りはじめて。普通の親でしたら、障子を破りましたら、そのへんでダメダメって言うんでしょうけど、父はそれをあえてカメラで追って、面白みを出してるんです。それから、これ[写真4]は私の息子の太一郎ですけれども、父が七十幾つの時に、大好きな大好きな銀座に出かけていきまして、子供を一人で自由にさせておいて、父がカメラで追ってるんです。でも、すべては「小津調」というんでしょうか、子供だと、もう全部ローアングルなんですね。銀座に出てって、風船をどこかでいただいて、浅草へ連れて行き、その風船が壊れてしまったという、ちょっとしたストーリーがあるんですね。よく捉えているなと思います。
写真3
写真4 —— 面白いですね。1枚じゃなく、組写真なんですね。それはそういうふうにしろって言われるわけですか。演出があるんでしょうか。
公子 そういうことはありませんでした。私たちを観察して、そういうストーリーになるように、頭の中で組み立てて撮ってるみたいですね。こちら[写真5]などは、私が小学校に上がる時に、姉のお友達を呼んでですね、わざわざ撮影のために両国橋まで行ったんですが…
—— かなり作りこんでますね(笑)。
写真5 写真6 公子 そうですね。ときどき気が向くと、こういう写真を撮るんですけど。構図が独特というのか… 横向けとか、顔を下げてとか上げてとか、そういうような指示をさかんに出しました。こちら[写真6]なんかは、手の置き方も目線も、この顔の向け方も、みんな父が指示したものですね。独特のアングルだと思うんですけども、どうも映画のスチールを見ているような気がしますね。ちょっとモデルさんは良くないですけれども(笑)。
—— 後ろにウィリアム・ホールデンが写ってますね。こんなところもまさしく「小津調」ですが… これは室内ですが、照明に凝りまくられる厚田さんとしては、どんな感じだったんですか?
公子 これはですね、写真電気を使っていたような記憶があるんですが。よく撮影所のカサを一つ持って来ましてね。
—— 中心に光が当たってる感じですね。
公子 結局、今のフラッシュと同じですよね。ただ、フラッシュみたいにレンズのすぐ後ろになくて、ちょっと角度を変えてライト当ててるから… どうもこのライト見ると、ベタ光に近くて、影と光っていう区分けがないですね。だから、スチールみたいにきれいに見えるのかもしれませんけど… 父にしては、こういう撮り方は珍しいですね。たいがい光と影を作るようなライティングですから。
—— 厚田さんご自身が、お入りになっている写真はないですか?
公子 ええ、撮る専門で。好きじゃなかったんですねえ、写るのは。たいへんな照れ屋だったんです。映画の完成記念写真なんかでも、たいていちょっとポーズ撮ってますしね。父を撮るとすると私ですけれど… あ、これ[写真7]が父と母ですね。これは私が撮ったショットなんですけれども、ほんとにこういう写真は珍しいですね。
写真7 写真8 写真9 写真10 —— これはどうやら真正面から捉えてますね?
公子 これはもう… 父の意図とは違いますね(笑)。中学生の私が撮った…
—— まだフィルムが高価な時代でしょう?
公子 そうですね。アルバムにしても、今だったらもっとスペースの中にぎっしり詰めていくような貼り方をなさるかもしれませんけれども、当時としては写真は貴重でしたから、小さな写真を大袈裟なアルバムに貼りまして、1ページに1カットだけ入れるとか、そんな感じでしたね。あと、これ[写真8]はほんとに「小津調」の、特に『晩春』なんかで見る感じのワンシーンですね。そっくりそのまま真似たんではないかと思います。これもやっぱり父が逐一指示をしたものですね。それからこれ[写真9]は、ほとんど最後の家族旅行の時のものです。カラーはあまり得意ではなかったんですけれども、時代の流れで、否応なく父もカラーを撮っていました。79歳の頃ですね。父も母もほんとの晩年で、母を撮った写真ではこれあたりが最後じゃないかなと思います。
—— ところで、厚田さんていうのはいったいどんな方だったんでしょう? というのも、蓮實先生の『小津安二郎物語』が、晩年のたいへん温厚な厚田さん像を生んだわけですが、現場での厚田さんを知る方は、弟子を殴り飛ばしたりするとても恐い方だとおっしゃいますので…
公子 まったくそうだと思います、若い頃は。いちばん殴られちゃったのが川又さんですけどね。家では、たいへんな子煩悩でした。三人姉妹なんですけれども、特に私は一番下で離れていましたし、戦争でしばらく会えなかった時がありましたので、帰ってきてからは溺愛されましたね。撮影所から帰って来る時は、必ず「不二家」のケーキか、新橋の「小萩堂」のあんこか、どちらかを買ってくるんですね。まあ嬉しいんですけど、戦後のなかなかそういうお菓子など手に入らない時に、何でこんなに毎日買ってくるのかな、って子供心に不思議に思った記憶があるほど… 甘いものが好きで、お酒も好きでした。晩年になって、撮影中にちょっと体の具合が悪くなったから、もう絶対お酒はやめようってことで、ほんとに次の日からは一滴も飲まないってような、そういう人でしたけど。その代わりコーヒーを飲みました。好きだからちゃんと豆を引いてとか、そういうんじゃなくて、ほんとにインスタントでいいんですけど、ただひたすらコーヒーを毎日飲むという、何杯も飲むという、そういう「好き」でしたね。
—— 撮影のない時はどうしていらっしゃいました?
公子 撮影が終わるとしばらく帰ってこない… 何をしてるかというと麻雀、ひたすら麻雀なんです。強いならいいんですけどね、あんまりにも弱いんで有名だったんです。いつもネギ背負ってカモになってたようですけど。
—— わざと負けてたんじゃないんですか?
公子 いえ、ほんとに弱かったんでしょう(笑)。たまに勝ちますと、帰れないんだそうです。申し訳なくて。結局は損するまでは家に戻れないんです。撮影所の守衛さんに聞きますと、「撮影はもう終わってんですけどね。厚田さんは… 麻雀屋さんを探して下さい」って、そんなふうに言われたようですね。子煩悩な父と麻雀狂いの父と、私の中には共にございますけど。
—— 公子さんが写真家としてお仕事なさる中で、お父様の影響というのはいかがですか?
公子 写真に関して、何かを教えてくれるとか、そういうことはほとんどなかったんですけれども。父に、写真をやりなさいなどと言われたわけでもないのですが、中学生の頃から写真を撮ることが好きだったものですから、カメラを買い与えられたんですね。父がたびたび、晴海とか手賀沼とか、日帰りの撮影旅行に引っぱり出してくれまして、その辺に、写真の道を歩ませたいという思いがあったのかなって、ちょっと思うんですけれどね。それは定かではありませんけれども。孫たちが写真大学へ行って、ついてくるようになったことはすごく喜んでました。
—— 映画のカメラマンの方の中には、スチールを全く撮られない方もありますよね。厚田さんは、スチールとムービーの違いをどんなふうに考えていらしたんでしょうか。
公子 父はよく私に、スチールの方がやさしいよねって申しました(笑)。相手が動かないものと動くものとでは、ライティングが非常に違うと言ってましたね。「お前は正面からのライティングでいいけれど、俺は人物が動いたときのライティングを考えなきゃならないから難しい」と。
—— それに対して反発はありませんでしたか。
公子 もっともだと思いました(笑)。正面からの表面的なライティングでも、私たちは非常に苦労しますからね。それがちょっと動いただけでも微妙に違ってくるというのは、さぞたいへんだろうと思いますね。よく父が言ってました。「女優さんをきれいに撮るのも、汚く撮るのも、私のライティング一つでどうにでもなる」って。今は照明とカメラマンは別々なんですけれども、当時は一緒でしたので。
—— 小津さんと一緒にお仕事している長い年月に、対立などはなかったんでしょうか?
公子 あまりにも先生が偉大すぎて、反発とかそういうのは一切なかったようですよ。ただ、先生は家庭を持っていらっしゃらないから、その辺でちょっと理解してもらえないことがあったんだよねってことは、一言だけ言ってました。
—— それだけ偉大な存在だった小津さんに対する、ただ一つの不満がその点だったとすれば、厚田さんにはほんとうに家族が大切なものだったんですね。
公子 若い時は、お仕事が始まってしまうと、長い間不在のことが多かったんです。例えば美空ひばりさん主演の『リンゴ園の少女』(島耕二監督、1952年)などでは、1ヶ月間青森に行ってしまいますし、小津先生の仕事になりますと、6ヶ月、8ヶ月ですね。そういう仕事の仕方ですから、考えてみますと、ほんとに家族思いだったのかどうかは疑問なんですけれども。明治の男性ですから、仕事にかけるのは当然だと思いますし、そんなに珍しい話でもないんですが。ただ晩年になって自分が年老いてからは、母も病気なんかしてましたし、家族の大切さのようなものはつくづく感じてたようでした。「若い時に家族をもうちょっと大切にしておけば良かったな」ってことは言ってました。温厚になってきたのもその頃からでしょうか。もちろん蓮實先生、ヴェンダースさんの影響も大きいんですけどね。
インタビュー 小津ハマ
聞き手:坂村健・森田祐三—— ハマさんは小津監督の弟さんの信三さんの奥様で、小津監督の著作権継承者でいらっしゃいますが、ほんとうに丹念に資料整理をなさってますね。いつ頃からそういうふうに思い立たれて?
ハマ 小津が亡くなったのが昭和38年で、主人がおりました時は、いろんなお問い合わせに主人がお答えしてましたから、私、全然ノータッチだったんです。昭和62年に主人が亡くなりまして、私がいろんなことにお答えしなきゃならないのに、全然わからないもんですから。で、まず日記を写し始めたんです。そしたらちょうど山内静夫さんが里見先生の資料を鎌倉文学館へお預けしたら、とても行き届いた管理をして下さるから、分散しないうちにあそこへ預けたらどうかっておっしゃって下さいましたので、それで急いで全部写しちゃって… —— コピーじゃなくて、手で!?
ハマ ええ、だってそうじゃないと頭に入りませんから。全部の整理は済んでないんですけれど、日記の部分は一応、照合しながら写してます。
—— ハマさんは、お話してますと年だけじゃなくて年月日までおっしゃいますでしょう、どうしてそんなことがわかるのかなと不思議に思っていたんですが… 日記をお写しになるっていうのは驚いた。整理するのにまず日記を見るのが一番良いだろうとお思いになったわけですね? ハマ ええ、それと皆さんがいろいろとお書き下さったご本の中からその日記に対応するところを、みんな年度別に整理してるわけですけれど…
—— すごい…
ハマ でも、ワープロなんかですとね、字をあれかこれかなんて引いているうちに、全部思考が止まっちゃいますからね。一字一字写してると、写しながら、ああこれはあそこにあった話だとか、これはこっちと関連があるとか… あとでお調べになる方が、おわかりになりやすいようにと思って。
—— ほんとに、いろいろなデータがトータルにどんどん出てくる。しかも、ベースになってるのは日記のデータで、すべてそこに関連づけられてる情報だから、これは本人でもわからないでしょう(笑)。あの、『東京物語』に関するお話はありますか?
ハマ 『東京物語』の時の日記が撮影にかかるまでしかないもんですから。撮影忙しかったんでしょうか。ただ日記が2、3冊になってることもあるんですよねえ。ポケットに小さいのを入れといて、心覚えだけちょこちょこっと書いといて、幾らか暇ができたときにお清書して敷衍しながら整理してたらしいんですけれど。時によると2日間同じことが書いてあったりすることもあるんですよ(笑)。でも無くなったのかもしれませんね。それがねえ、『人と仕事』(蛮友社、1972年)を編集なさる時に日記を全部お出ししたんですよね。そしたら返ってきた中でだいぶ不足してたんです。ともかく私、手元にあるのだけ写してましたらね、『人と仕事』のお仕事をなさった美術監督の下河原友雄さんの奥様から、こっちへ送るはずの箱が奥様の実家の物置に一つあったからって、それで何冊かいただいたんです。だから、そういうのがもっとあったのかもしれないし… それとね、昭和11年から昭和26年までの間がずっと無いのは、27年の撮影所の火事の時に部屋へ置いてて焼けたんだろうと思うんです。
—— ちょうど『東京物語』撮ってるときの分が無いってことですね。厚田さんのつけてたところが、ちょうどこの辺じゃないかと思うんですが。
ハマ ああ、そうですね。これは夏の間の撮影中ので、これは撮影ノート。こっちのは詳細な日記そのものですね… これはほんとに貴重ですね。
—— 多分、私どもが解読するよりもハマさんに読んでいただく方が意味がわかるでしょう。
ハマ 私もね、最初に鎌倉文学館へお預けする前に、わっと写したのはね、もう全然何の予備知識もないままでしたでしょ。ですから、登場人物の関わり方もわからないし、どうしてこの時にこの人と会ったのか、そういうのが全部わからなかったんですけれど、書き直しているうちにだいぶわかってきたところも多いです。
—— 何かお話聞いてると、ものすごい長編のミステリー小説の謎解きしてるような…
ハマ ほんとにね、パズル合わせみたいな感じなんです。家族が三重の松阪へ移ったときのこともね、豊田って街がありますでしょ? あすこに住んでらっしゃる方からお手紙いただきましてね。昔、松阪が、昭和26年でしたかしら、松阪大火というものがあって、その時に元の家のお蔵だけが焼け残ったわけです。義父はゆくゆくは隠居所としてそこへ生活の本拠を置くつもりでいましたから、お蔵ん中へいろいろ入ってたんですよね。で、銀行の長男が総領ですから、焼け跡の中からめぼしいものは持ってて、周りの人たちに、欲しいものがあったら持ってってもいいよって声をかけて、それで何人か見にいらした方があるんですね。それでその豊田の方は、知り合いの方が声かけられた中にいらしたんですね。その方は古文書を少し研究してらして、民俗史みたいなのに興味がおありで、まあめぼしいものはなかったけれど、手紙やなんかを拾ってきたっておっしゃいましてね。「これは私が持ってるより、ハマさんの方へいったほうが役に立つだろう」って送って下すったんです。そしたら、その中に安二郎帯祝いの、数え三つの七五三のときのお祝いを、どこからどんなものを貰ったとか、宴会料理はどうだったとか、どんなものをお返ししたとか。小津のお祖父さんが80で亡くなる前の年だったんですけどね、それを全部書いてあるのがあったんです。それと、父親が家族を松阪に移して東京と行ったり来たりしている間に、東京の留守番の番頭から松阪にいろいろなことを報告してきた手紙がかなりありましてね。商売の実体ですとか、その頃の世間の様子とかが細かくわかるんです。あれはありがたかったです。だから、ほんとにパズル合わせみたいなもんです(笑)。
—— 小津監督の作品には、実体験がヒントになっている部分がありますでしょうか。
ハマ ええ、それはもうしょっちゅう。冗談を言ってからかいながら、その反応をみんなインプットしてあるんですね。ですから、ああ、あれはあの話だなんていうのが出てきますね。ただ、いろんな話をごちゃまぜにしてますから、映画の中の人と実際の人がすっかり同じってことはありませんけどね。『麦秋』で井川邦子さんが、ご主人と喧嘩して、憎らしいから人参いっぱい食べさせたのよ、なんてところがありますでしょ? うちの主人が人参大嫌いなんですよ(笑)。
小津ハマ 氏 —— 同窓会の場面がよく出てきますけれど、小津監督ご自身もよく?
ハマ 中学のときのお友達とはずっとご縁が深くて。小津の仕事が終わるとそれを待ちかねて皆さんクラス会を計画して下さるんですね。小津が亡くなりましてから、『小津安二郎君の手紙』(1965年)っていうことで、皆さんが持ってらしたのを持ち寄って冊子になさって、それに戦前からの手紙、戦地からの手紙なんか収録してございます。『彼岸花』のときでしたかしら、蒲郡でロケしましたが、あれは少し前に野田高梧先生が名古屋の中学の同窓会で蒲郡にいらして、その話うかがってロケハンに行って、気に入って、あすこでっていうことになったんですけど。
—— 友人関係を大事になさる方だったと…
ハマ そうですね、中学が最終学歴ですから、余計。小津が東京で蒲田に入りましたときは、同級の方達が大学生になって東京に来てらっしゃっていますから、お互いに行き来なんかもありますしね。それでずっと続いてたんだと思います。
—— ハマさんも厚田さんとはお付き合いがありましたか?
ハマ 家にお見えになった頃に主人とはしょっちゅう面識がありました。野田の家へも、厚田さんと清水宏さん、笠智衆さんは2、3回お正月にいらしてます。家でおもてなししたりしたこともございます。小津が亡くなりましてから、スタッフの方達が命日に小津会っていうのをして下さって、それに呼んで下さるもんですから、そこでいろんなお話うかがって。主人が亡くなりました後は、厚田さん、私をつかまえて放さないで、始めから終わりまでいろんなお話聞かせて下さったんです。その時に私がもっと予備知識持ってたら、もっといろんなお話が有効にうかがえたんだと思うんですけどね。その頃は私、仕事の面は全然知りませんでしたから、惜しいことしたと思いますね。
—— 小津さんが亡くなってから、小津会もずいぶんな回数になるんでしょう?
ハマ はい、一昨年、1回だけ抜けましたけれども、また始められたそうです。やっぱり寂しいからって… 今度は一人になるまでやりましょうって。33回忌にもうこれでおしまいということに、一応、なったんですけどね。
—— 小津さんの自伝的な部分が大きい映画というとどのあたりでしょうね?
ハマ そうですね、『父ありき』で父親が亡くなりますときは、笠さんにうちの親父が亡くなったときの通りにやらせるっていって、細かく指導したそうですね。寄宿舎のところなんかも、小津が中学の時に、1年から5年の1学期には寮に入ってましたから、その体験がそのままに…
—— どういうわけで寄宿舎に?
ハマ あの頃は、大正2年に深川がセメント粉塵公害で、だいぶ環境が悪かったもんですから、他にもいろんな要素があって、義父が子供達を自分の故郷の環境のいいところで育てたいと思って、家族を全部、松阪に買った家に移しまして。自分はだいたい年の半分か1/3は松阪で、あとは深川の店で仕事してという形でいましたもんですから。留守宅の義母だけですと、男の子の中学時代というのは難しいから、寄宿舎に入れたんだと思います。本家は海産物の問屋をしてたんですけど、大正3、4年頃から、不況だとかで、だんだん海産物の方が思わしくなくなったので、1万坪くらい本家で地所を持ってたんですけど、土地建物の方の事業に重点を移しはじめたんです。そうなると父もしょっちゅう東京を留守にするわけにはいかなくなって、粉塵公害の方もだいぶ改善されたので、大正12年のお正月に、義母と下の義姉とそれから末っ子のうちの主人と東京へ戻ることになりまして。
—— ご家族は、ご両親にお姉さまが2人と、お兄さま…
ハマ はい。長男の新一は銀行に行ってまして、それから安二郎で。とき、とくと女の子が二人ありまして、最後に末っ子の飛び離れて、松阪で生まれましたのが私の主人の信三で、その5人兄弟です。その当時、山の方の小学校で代用教員をしていた小津と、松阪の女学校をその年に卒業するはずになっていた上の義姉はそのまま3月まで残って、3月に父が迎えに行った時に、面白い話があるんです。義姉の方はすぐに来たんですけど、安二郎の方がいつまで待っても来ないので、どうしたのかと思ったら“カネオクレ、ナケレバカリテオクレ”って電報が来たんですって。
—— お金が無くて来れなくなっちゃたんだ(笑)。
ハマ でも学校へ勤務してるんですから、月給いただいているわけです。その年、ちょうどその山の中の郵便局で電報為替が始まったところで、その私用第1号だったっていいますから、本当にお金が来るかどうか試してみようといういたずら心で、ああやったんじゃないかと思うんです。あとでいろんな話を総合してみますとね。それで、お金を送ってもらって意気揚々と宿に来て帽子を抜いだら、あっちでいただいた餞別が山のように出てきたというんですから(笑)。まあそんなわけでまた深川に戻りまして、大家族で住んでおりました。海産物問屋というのはそもそも本家がオーナーで、小津の父は総支配人だったんですけれども、これが9年に亡くなりますと、長男が仕事をつぐものだと本家では思っていたんですけれども、まあ銀行に勤めていて、そんな気が全然なかったものですから、10年の10月頃に本家が上京してきて、それなら店を開け渡してくれって言われまして。それから義兄たち別々に借家を探し始めまして、まずは安二郎の方が高輪に家を見つけて、そこへ昭和11年の節分の日に義母と主人を連れて行きまして、上の義兄の方は自分の家族と義姉たちを連れて田園調布の方へ移りまして。
—— それにしてもよくお調べになりましたねえ。
ハマ 去年、うちの昔のことの資料が松阪の本居宣長記念館にあるはずだとおっしゃって下さる方がありまして、そちらに手紙を出してうかがいましたら、資料を送って下さいまして、それで、家の成り立ち、本家との関係がわかりまして、うちの仏壇にある過去帳に書いてあるご先祖の故事来歴も全部わかりまして。籍も複雑なんですよ。小津は本家の伯母さんて方にずいぶんかわいがられてたせいか、松阪の父の本籍のまんまでずっといまして、入営も松阪だったんですけど、その方が小津の入営中に亡くなられて、伊勢とのつながりは切れちゃったわけです。そうすると、見も知らない人達のあいだで味気ない入営生活するのはとてもかなわないというので、すぐ本籍を東京の深川の家へ移しちゃったんです。昭和10年の時には東京の連隊へ入りましたので、撮影所の華やかな人たちがいろいろと差し入れ品を持っていらっしゃるわけなんですよね。それをまた皆にバラまけば、営兵たちもいろいろと便宜を図ってくれますし。どこか中央線沿線の方へ演習で行軍に行きまして、帰りはわざと落伍して新宿の中村屋でカレーライス食べてから戻ったり(笑)。自分がそういう体験しましたもんですから、弟はやっぱり体が良くて甲種合格間違いなしだろうから、父方の本籍に置いとくとまた伊勢に行かなきゃならなくなるからって、自分の籍に入れてくれたんです、分家先に。それから12年の9月に自分が召集になりましたので、10月頃に義母も安二郎の方へ入れて。それで籍の上からも3人が一緒のわけなんです。
—— ああ、そういうことで亡くなられた後のいろんなものも引き継がれたと。
ハマ まあ、親代わりみたいなもので。うちの主人が中学卒業したのは父が亡くなった後ですから、大学への進学は義兄たちに相談したんですが、上の義兄は、もうお父さん亡くなったんだから働けって言ったんだそうですけど、安二郎の方が、大学へ行って良い友達つくれって。俺が会社から借金してでも大学の学資ぐらい出してやるからって、言ってくれたそうでしてね。もう父代わりなんですよね。
—— その頃でしょうか、厚田さんが監督をお迎えに行ったりされたそうですね?
ハマ 厚田さんが浅草の方ですから、出勤の途中に品川で降りて下さったんですね。あの頃ちょっと干されてたりで、来たがらなかったりなんかするので… それで厚田さんが応援に、引っぱり出して下すった例もあるんです(笑)。 —— 登校拒否だ(笑)
ハマ あの頃は小津の作品というのは売れなかったんですね、入りが悪かったんです。それで、城戸四郎さんに睨まれまして、だいぶ干されたりなんかしてたんです(笑)。昭和7年の『生れてはみたけれど』、8年の『出来ごころ』、9年の『浮草物語』、みんな「キネマ旬報」のベストワンになってますよね。だけども、入りは悪かった(笑)。だもんですから、松竹のおエライさんが「キネマ旬報」の方に、あんなのをトップにするくらいなら、『忠臣蔵』の方にしてくれれば良かったのに、あんなのに褒美をやると、良いと思ってまたあんなのばっかり作るから困るって言われたそうです(笑)。
—— 評判がいいからって、興業成績はまた別だから…
ハマ 『生れてはみたけれど』を作ったら、こんな暗いのだめだって、何カ月かお蔵になってたんですよね。他の映画が間に合わなくなって出してもらって、そしたらトップになちゃったんですけれども。これもずいぶんユーモラスな映画だと思いますよね。だけど、やっぱりあの頃は生活が厳しかったからでしょうね、受けとめ方が、我々が今の感覚で観るのとはまた違ってたんでしょうね。
—— 監督の出征中はお心細かったでしょうね。
ハマ そうですね。戦争中に小津がシンガポールに参りましたね。18年の6月に、小津と厚田さんとシナリオの斉藤良輔さんと、監督の秋山耕作さんが一緒にシンガポールへ。あの時には船はだいぶ危なくなってたので、陸軍の爆撃機なんかを改造した連絡機の座席が空いたときに、秋山さん、小津、斉藤さん、厚田さんの順でみんなバラバラに行って。前に陸軍省の方からうかがった話では、『遥かなり父母の国』っていうシナリオを書いたんですけど、これは戦意高揚に役立たないからって没になってたんですね。それで参謀本部の方から、インド独立軍の志士のチャンドラ・ボースの話で、東亜の人たちを勇気づけるような映画をとって欲しい、という話が出たんですって。それでチャンドラ・ボースにも会って、その意向を聞いて、いよいよ撮影にかかろうとする頃になったら、ビルマ戦線の状況が悪くなっちゃったんですね。それで、もう南方軍の方でも映画の世話どころじゃなくなっちゃったので、しばらく待てっていうことになって、だからスタッフが来るのを止めるように電報打てって厚田さんに言って、もう止めてあると思ったら、民間の電報っていうのは軍事優先だからすぐに行かなかったんですね。スタッフの2、30人が船出してきちゃって。それがもう、命からがらで、シンガポールへ直行できなくて、マニラへ逃げ込んで、ともかくシンガポールまで辿り着くことができたんですが、それが19年でしょうか。そこでもって終戦まで皆一緒にいて、だんだん状況が悪くなってきたら、後から来た人達は下士官待遇だもんですから、現地召集をされて、これはいよいよ前線へ駆り出されるのかと、皆さん心細い思いをなさっているうちに終戦になったんです。小津たち先に行った人たちは、小津が佐官待遇で、あとの人達は尉官待遇だったんですね。それまでに幾らかイギリスの捕虜を使って映像を撮ってたんですが、終戦になったら、その人達に迷惑がかかるといけないからといって、小津がすぐフィルムは燃やせって言って、燃やしちゃいまして。で、行くときに小津が、軍属だけれども給料は松竹から出してもらうようにということを城戸さんにお願いしてたもんですから、軍属をすぐ解除されて、捕虜としてじゃなく民間人の収容所に入れたんです。それにみんなが帰っても松竹に籍がありますからね。そうじゃないと失業になっちゃいます。それで、20年の末に帰還船が来たのだけれど、帰還船が全部を乗せるだけの定員の枠がないから、何人か残らなければならないということになって、じゃあくじ引きにしようっていう話になって、小津は帰れる方のくじだったんだそうですけども、俺は後でいいよって、他のはずれた人に譲ちゃって、誰か一緒に残ってくれる者いるかって、結局、助監督2人が一緒に残って下すって、ほかの人たちは年末に帰れて、小津達は翌年21年の2月11日、ちょうど紀元節の日に帰ったんです。そのあいだはもう、1年あまり生死を共にしてますでしょ? だからその他の組の結び付きとは違うんですね。そこへ川又さんだの何だの新しい人たちが入られても、皆同化させちゃうんですね。
小津ハマ氏作成のノート
小津の戦争体験をめぐる記述の一部分—— なるほど、それがその後ずっと続いてくわけですね。
ハマ ええ。で、厚田さんには、おまえ、みんなの面倒をみて先に帰ってくれってお願いしたから、厚田さん責任もってみんなを引率して帰って下すったわけです。だから、思い入れが余計、普通じゃないんですね。小津が昭和2年に処女作の『懺悔の刃』で監督になった時は、厚田さんも、厚田さんの先生にあたられるキャメラマンの茂原英雄さんもちょうど徴兵で軍隊に行ってらしたんですが、除隊になって帰ってらして以来、第2作からはずっと仕事一緒なんです。歳も一つ違いですしね。茂原さんと仲が良かったので、茂原さんがトーキーの研究をはじめられたときに、俺の第1作はおまえのトーキーで撮るからなっていう約束をしたので、それが完成するまで延々待ってたわけなんです。周りから恐くってトーキー撮れないんだとか何とかいろんなこと言われても(笑)。ですからね、昭和10年に尾上菊五郎の『鏡獅子』を撮るときに、あれは舞台中継ですからトーキーじゃなきゃいけないでしょ? その時まだ茂原さんの完成してなかったんですよね。だからその時の日記に、もしどうしても約束が守れないんだったら、俺が監督辞めるしかないって書いてあるんです。それで結局、城戸さんが茂原さんにもいろいろ話されて、これは記録映画だから、小津作品じゃないから、例外としてトーキーで撮ろうということになって、それで解決して。ちょうどあの時は、『東京の宿』かなんか作ってたんですよね。そっちの追い込みと『鏡獅子』を撮って整理してってことで、2、3日徹夜が続いちゃったもんですから、高熱を発して、一晩伸びちゃうんです。で、11年の1月に撮影所は蒲田から大船に移っちゃうんですね。そっちの方は土橋式っていうトーキーで、もうそこでは土橋式の人たちががんばってて、茂原式なんていうのは撮らせないっていうんですから。それでもう、皆がいなくなった蒲田のオンボロステージで、遮音装置なんかも満足にないもんですから、国電が、その頃は省線ですよね、終電車が行ってしまって静かになっちゃった物音のしない夜中に、少しづつ撮影して。だから、そういうことでもスタッフの結合っていうのは、余計固くなるんですよね。ですから、小津が松竹で、いわゆる小津組のスタッフで撮った写真と、よその会社へ行って豪華版で作った写真とやっぱりどっか違うんですね。厚田さんがそれこそ顔色でもって判断しながらさっと動いて下さるのとは違うんでしょうね。ことに新東宝で撮った『宗方姉妹』の時にはね、あの時のキャメラマンが、小津が撮影所に入りたてでキャメラマン助手でした時の、幾らも違わないんですけど、先輩だった小原譲治さんで、ですからね、そこがうまくいかなかったんですよね。
—— それで、シンガポールから帰られて…
ハマ はい、その間、義母は高輪で、安二郎はここから出て行ったんだから、安二郎が帰ってくるまでここを動かないって言ってたのを、昭和20年の下町の大空襲を見て恐くなって、それで、いらっしゃい、いらっしゃいって言ってた義姉のとくのところへ抜け出して行ったわけなんです。で、そのままそこで終戦になりまして。うちの主人は日野自動車へ就職してたんですけれど、軍隊にとられてからは習志野の自動車隊で教官してましたので、わりに早く帰りまして、安二郎の方も翌年の2月にシンガポールから帰って参りまして、二階借りしてた義母の疎開先にそのまんま住んでたわけなんです。大きい息子が2人も帰ってきて、そこでは住めませんから、ちょうど一軒借家が空いたのに入りまして、22年に私どもが結婚する頃には、いいあんばいに隣が空いたので、そこで所帯を持つことができました。主人は終戦になってから自動車の方へ復職すると、また義母を一人で野田においとかなきゃならなくなりますので、野田にいられるようにっていうんで、義姉のところの醤油屋を手伝うことになりました。
—— 監督はお家ではどんなことなさってたんですか。
ハマ 私は一緒に住んでいたわけじゃありませんけれど、いちばんはじめにびっくりしましたのは、靴を磨いているんですよね。庭で。その磨き方を見ましたらね、ほんとに丹念で、私なんかお手伝いしましょうなんて言えないんです。ああ私、ずいぶん雑な磨き方をしてたんだなって思いました。ほんとに楽しみながら、きれいに磨いてるんですね。スボンのプレスなんかも自分でやりましたね。義母なんか歳をとってますし、親子3人での生活が長かったのでね。あとは家に帰りましてね、夜、シナリオを広げて、鉛筆舐めなめ、線を引いたり、枠を入れたりしてたんだそうですよ。で、私どもに子どもが生まれまして、子供好きの人だから、うちの子はずいぶんかわいがってもらいまして。私も、義母がそもそも長男の嫁と折り合いが悪くて苦労したおかげで、ずいぶん労ってもらいました。
—— わりとよくお家にいらっしゃったわけですか。
ハマ その頃シナリオは、茅ヶ崎館で野田高梧さんと書いておりまして、それができると一旦ちょっと家へ帰ってきまして。昭和22年の2月頃でしたか、深川の大工さんに、鎌倉の大船の監督室の中を小上がりの座敷みたいに造って、炉を切って、今度撮影にかかるときにはそこで泊まれるようにしました。そこへ撮影中は泊まって、食事なんかは佐田啓二さんの奥さんになられた杉戸益子さんの実家が、月ヶ瀬っていう撮影所の前の食堂をなさってらっしゃるので、そこでお世話になって…
—— なるほど、撮影がはじまっちゃうともうお家には帰らない。
ハマ 野田からは通えませんね、当時の交通事情じゃ。茅ヶ崎館だとか撮影なんかの時には、義母が私どもの家へ来て食事しておりました。小津も、撮影が終わりますと家でのんびり。
—— 靴磨いたり(笑)。
ハマ 昼寝ばっかりしてましたよ。よく子供と遊んでくれたんですけれど、あの、義母が迎えにくるんです。あこちゃん、来ておくれ、今日は伯父さん東京に行かなきゃならないんだけれど、起きないから起こしておくれって。で、赤ん坊を連れてって。そうすると、赤ん坊は大好きな伯父ちゃまなもんですから、布団の上に這いあがったりしまして、すると「おお来たか」って起きちゃうんです(笑)。あの頃はまだ、お菓子なんかあんまりございませんでしたけれど、小津は家に帰るときに、進駐軍の放出でナビスコのウェハースなんか買ってきまして、一枚ずつこうやって見せびらかすと、喜んで這っていくんですよね。そんなことでからかって喜んでましたけど。
—— いつ頃までお隣どうしで?
ハマ それが昭和27年の1月の15日に、撮影所の本館が火事で焼けまして。寝泊まりする監督室に、小道具に使う自分の好きなものや、本だのオルゴールだのずいぶん置いてありあましたんですけど、全部焼けてしまいまして。で、いよいよ自分の家を持たなくちゃならないということで探して、北鎌倉の家を買いました。会社からの借金で(笑)。監督室が焼けちゃったから、家買わなくちゃならないんだけども、貸して貰えるかって、高村社長さんにお願いしたら、気持ちよく貸していただけることになりましたんで、あれは5月の2日でしたかしら、義母と移りまして、自分の住みやすいように手を入れるのは深川の大工さんにお願いして、お風呂作り直したり。主人の方は醤油会社の方を手伝ってますから、結局そのままにいましたけれども、義母はやっぱり孫から離れると寂しいもんで、早く遊びに来い、遊びに来いって、手紙寄こすんですけど、そのうちにあちこちいじりはじめたら、もう毎日埃だらけで、トンカチやかましくて仕様がないから、もうちょっと待ってと申しまして。あれは11月の初めでしたかしら、私どもがはじめて泊まりがけで鎌倉に参りましたときに、ちょうどそのお風呂場が最後の仕上げのときで、まだ大工さんが、義兄がお風呂に入る直前まで脱衣所のあたり、トンカチやってたんです。
—— なるほど、じゃ、かなりこだわりのお家を造られたんですか?
ハマ いや、まあ住み易いようにというので、台所なんかを少し広げたり、納戸だとか、そんなの建て増ししまして、幾らか住み易く整えたんですね。まあそれからは私は住まいが離れてしまいますので、私がお話しできますのはだいたいこの頃のことまででしょうか。 —— 今はどんなことをおやりになってるんですか。
ハマ 小津がですね、『彼岸花』のあたりまでずっと切り抜きをボール箱へ入れてたのがあったもんですから、それなんかもみんなこう整理してくっつけております。新聞記事だの。
—— まとめて何か書かれたら、これ論文になりますね。
ハマ そんな気はもう全然ございませんから。ただ皆さんが何かお書きになるときに、お調べになるときに、間違ったことがあると困るから、お調べになりやすい形にしとこうと思っているんです。
—— それはもう、我々にとって非常に貴重だと思います。
ハマ 近ごろつくづく思いますのが、小津が大きい人だったということですね。ほんとに包容力があって、細かい気遣いを周りにして、中学だけの学歴ですけれど、その後の読書量がすごいんですね。それから、やっぱりいろんな方にお目にかかって、いろんなお話をうかがうのが身になってるんだと思います。志賀先生とか、里見先生にも、ずいぶんかわいがっていただきましたし。それがみんな教養になっていますから。私なんか逆立ちしても追っつけませんけども。