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[小野秀雄とコレクション]

小野秀雄 年譜


『回想 小野秀雄先生夫妻』、『新聞研究五十年』等に基づき作成

一八八五(明治18) 8月14日、立木神社神官小野秀圓・光榮の長男として滋賀県栗太郡草津町に生まれる
一八九一(明治24)6歳 4月、草津尋常小学校入学(二年生に編入)
一八九四(明治27)9歳 栗田郡立高等小学校入学
一八九八(明治31)13歳 4月、県立彦根中学校入学(一年生の途中、ストライキ指導の理由で退学、県立第二中学校に転入学)
一九〇三(明治36)8歳 3月、県立第二中学校卒業
9月、第三高等学校大学予科入学
一九〇六(明治39)21歳 7月、同卒業 9月、東京帝国大学文科大学(ドイツ文学専攻)入学。ドイツ演劇の研究に没頭する。卒業論文のテーマはハウプトマンなどのドイツ群衆劇について
一九一〇(明治43)25歳 7月、同卒業。劇作家を志し、親類筋の巌谷小波に相談する
一九一一(明治44)26歳 1月、萬朝報入社、イプセンの「人形の家」を『独和対訳ノラ』と題して翻訳出版、版を重ねる。他に、ゲーテの「ウェルテルの悩み」、イプセンの「幽霊」「野鴨」等の対訳本も出版、またハウプトマンの戯曲の翻訳にも携わる
一九一三(大正2)28歳 島村抱月、松井須磨子らの脚本研究会に参加、芸術座結成に協力する。劇団の内紛を目の当たりにし、演劇への夢を断つ
一九一五(大正4)30歳 萬朝報退社 9月、南北社より新しい大衆雑誌『日本一』を創刊(主筆)
一九一六(大正5)31歳 8月、川窪津ると結婚
この頃、江戸の故実家戸川残花に会い、嘉永7年の大地震大津波のかわら版を見せられる。この頃からかわら版・新聞錦絵収集に関心を持つ
一九一七(大正6)32歳 東京日日新聞社入社
一九一九(大正8)34歳 9月、在職のまま、岩崎家の奨学金で東京帝国大学大学院入学
一九二〇(大正9)35歳 4月、東京日日新聞社新聞研究会の名で『新聞研究』第一号を刊行
この頃、京都の収集家杉浦丘園を訪問し、嘉永年間の地震津波や元治元年の京やけのかわら版を多数見る
一九二一(大正10)36歳 6月、東京日日新聞社休職(一九二三年退社)
一九二二(大正11)37歳 8月、『日本新聞発達史』を出版
一九二三(大正12)38歳 7月、欧米諸大学における新聞学教育研究の調査のために洋行
一九二四(大正13)39歳 7月、帰国 9月、東京帝国大学大学院を退学 11月、吉野作造、石井研堂、尾佐竹猛らと明治文化研究会を創設 12月、『帝大新聞』と協力して「世界新聞展覧会」を開催
一九二五(大正14)40歳 2月、明治文化研究会の機関誌として『新旧時代』を刊行開始
一九二六(大正15)41歳 1月、新聞学研究会を創設、機関誌『新聞学研究』を創刊 4月、東京帝国大学文学部志願講師(無給)として世界新聞史を講義 秋、中外商業新報社主催による産業文化博覧会の新聞館の展示に協力、水谷幻花所蔵のかわら版が相当数出品される
中外商業新報社長簗田久次郎、渋沢栄一らの協力を得て東京帝大に新聞学の寄附講座開設の計画を進める
一九二七(昭和2)42歳 3月、簗田、渋沢らにより新聞学寄付講座開設のための発起人会開かれ、奨学寄附金20万円を募集する
一九二八(昭和3)43歳 3月、簗田ら、古在東京帝大総長を訪問し、新聞学講座開設のための寄附12万円を申し出る 3月、東京帝大、新聞学が「純学理上の研究」にそぐわないことを理由に奨学寄附金を拒否 3月、文学部講師規定が改正され、志願講師全員が解任される 7月、ケルンでの国際新聞学会出席のため渡欧 8月、ミュンヘンの古書店を回り、フルッグブラット十数種を含む研究資料を購入 11月、帰国
一九二九(昭和4)44歳 1月、東京帝大、12万円の奨学寄附金を受理 9月、東京帝国大学文学部嘱託、新聞研究室指導を嘱託される 10月1日、東京帝国大学文学部に新聞研究室が設置される
一九三二(昭和7)47歳 4月、上智大学専門部教授を兼務、新聞学科を創設
4月、明治大学高等新聞研究科長を兼務(一九三四年10月まで)
一九三七(昭和12)52歳 7月、外務省情報部事務嘱託
10月、内閣情報部事務嘱託
一九三八(昭和13)53歳 3月、東京帝国大学文学部講師(4月より社会学科で「新聞学」を講義)
一九四〇(昭和15)55歳 12月、内閣情報局事務嘱託(一九四三年3月まで)
正力松太郎、宣伝研究のために新聞研究室に5万円を寄附
一九四三(昭和18)58歳 9月、内閣委員(情報局担当)(一九四四年6月末まで)
一九四五(昭和20)60歳 11月、新聞及出版用紙割当委員会委員
一九四六(昭和21)61歳 3月、商工省新聞及出版用紙割当委員会委員長(同年11月に辞任)
12月、定年により東京帝国大学講師退任
一九四七(昭和22)62歳 3月、『新聞原論』を出版
一九四八(昭和23)63歳 3月、東京大学文学部嘱託退任
           4月、上智大学文学部教授
一九四九(昭和24)64歳 2月、『日本新聞史』を出版 5月31日、東京大学新聞研究所設立、特例により東京大学教授、新聞研究所長
一九五一(昭和26)66歳 3月、東京大学教授退官 4月、上智大学文学部教授、新聞学科長 6月、日本新聞学会創立、会長に選出される この頃、平井隆太郎とともにかわら版の収集調査を進める
一九五五(昭和30)70歳 10月、新聞文化賞を受賞
一九五七(昭和32)72歳 11月、セイロンでの国際新聞編集者協会会議に招かれる
一九五九(昭和34)74歳 2月、台湾国立政治大学に招かれる
一九六〇(昭和35)75歳 10月、『かわら版物語』を出版
一九六一(昭和36)76歳 7月、『内外新聞史』を出版
一九六六(昭和41)81歳 3月、上智大学文学部教授を辞任、名誉教授の称号を受ける
11月、勲三等旭日中綬賞を受ける
一九六七(昭和42)82歳 6月、日本新聞学会会長を辞任、名誉会長の称号を受ける
一九七一(昭和46)86歳 7月、『新聞研究五十年』を出版
一九七二(昭和47)87歳 7月、『新聞錦絵』を出版
一九七七(昭和52)92歳 7月18日、東京逓信病院で死去


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