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[ニュースという物語]

ニュースという物語

佐藤健二


「ニュースの誕生」という主題をもって描きだすべき〈ニュース〉とは何か。ニュースが日常の会話に気軽に使われる普通の言葉であることが、かえって問題を扱いにくいものにしている。歴史社会学的な分析においては、さまざまな概念すなわち言葉の誕生それ自体が、メディアの歴史的な重層がつくりあげる情報空間のなかで実証的に解明されなければならない現象である。ブルデューがその方法論の著作で指摘した通り、時代に縛られた常識的で直観的な説明の無自覚な還流を批判しつづける「認識論的な切断」の明確な戦略なしには、概念そのものの歴史性を対象化するのはむずかしい。

〈ニュース〉概念をどう設定するかについて、じつはこの図録に参加している人々のあいだでも、理解に隔たりがあるだろう。一方には「事実性」「速報性」「定期性」を歴史的に確立させてきた新聞ジャーナリズムの情報世界との連続性を踏まえ、ニュースの誕生を新聞的なるものに対する認識の成長と重ねあわせて明らかにしようとするとらえ方がある。他方にはむしろ現代のわれわれが空気のように呼吸している新聞紙経験と報道システムの自明性の強い連続性の外に自覚的に出る戦略を方法的に追求しない限り、ニュースとは何かを問う問題そのものが成立しないだろうと考える立場がある。

ぼく自身の解釈では、ニュースは、事実の速報とか「新しく聞き知ったできごと」というメッセージレベルの規定に還元できるものではなく、また新聞のようなメディアレベルの概念と単純に結びつけられるものでもない、それ自身がひとつの「できごと」である。エドガール・モランが女性誘拐の「オルレアンのうわさ」を、「できごと」の社会学の分析対象としたのとほとんど同じような意味において、である。

「ニュースになる」ということは、われわれが感じる以上に、複雑なメディアや制度の作用の重層のうえにはじめて成立している。ニュースという単語の本来の語義は、文字通り新しさの名詞形でしかないが、しかしそれだけでこの「できごと」の形や質をとらえるのは単純にすぎる。ある情報がニュースとして、何を媒体にどんな感覚論的な形式を与えられ、どのように伝えられ、あるいは伝えられず、どのような主体に受け止められ、またどのような身体から作り出されるか。それらひとつひとつが、あらためて測定されなければならない社会生態学的な観察課題である。ニュース誕生の現場から多方向に引かれうる論理の補助線を丹念にたどるなら、事件という概念を彩る「新しさ」の感覚そのものの歴史的な存立構造を明らかにすることすらできるかもしれない。

だが問いは、まだ問われ始められたばかりである。かわら版を疑似号外として新聞史の前史に位置づけ、新聞錦絵を多色刷りの疑似新聞もしくは新聞亜種として創世期のエピソードにとどめる。そうしたいわば新聞史中心主義的な歴史記述が不十分であることは明らかだが、その不十分さを批判した先に、いったいどのような描き直しが可能なのだろうか。

ニュースという「できごと」の創造をささえる〈物語〉の視点は、その重要な補助線のひとつである。

かわら版の物語

かわら版の「嚆矢」といわれてきたものが、『大阪物語』という戦いの物語と深く結びついているのではないかという北原糸子氏の発見(本図録「かわら版のはじまり」参照)は、じつに興味ぶかい。かわら版が伝えたであろうニュースと、物語と呼ばれたものとの強い関連を暗示するものだからである。さらに模刻という形で絵が引用され、くりかえし発行されたことも見落とせない重要な事実である。

かわら版による情報の「伝達」をささえた物語は、書かれ印刷された文芸であるという以上に、技をもつ声によって読まれ演じられた場の芸能のなかにやどるものではなかったか。読売(もしくは呼売)というかわら版の販売形態を、リテラシー(読み書き能力)の低い社会における情報商品のありようとのみとらえるきらいがあるが、声というメディアそのものが立ちあげる読者の想像力の場の問題として、物語という視点から解読することも重要であろう。書かれ刷られたもの(印刷文字の文化)と語られたもの(声の文化)との関係は、俗流マクルーハニズムが描いてみせるほどに単線的に切断された発展段階を構成してはいない。

それは、相互に転移し増殖し融合し重層しつつ、ダイナミックに展開する身体的・集合的な言語文化の多面体として、われわれの歴史のなかに現れる。その対象化の営みを芸能研究と名づけてしまうのは不用意だとしても、口説や歌謡から講談・漫才の舌耕、見せ物の口上、流行り言葉づくりまでをつなげつつ、物語の力を論ずる用意は必要である。未完成にとどまったとはいえ発生期の民俗学が「口承文芸史」として、あるいは「新語論」として論じようとしたのは、そのような場を含みこんだ言葉の根元性であった。ニュースという物語への問いは、そうしたコミュニケーション史の声の地層を浮かびあがらせるのである。錦絵文化の明治的な展開である新聞錦絵において、戯作者たちが工夫した文章のいくつかは、声の読解力の利用を計算に入れているようにみえる。

焦点の形成と情報空間

第五室の展示は、情報のカオスにはじまって、安政の大地震に向かい、鯰絵の描きだした意識の多元性を経て、やがて明治と名付けられる近代の情報空間へと展開していく。かわら版と新聞錦絵の世界を貫いて、災害と戦争という焦点を浮かびあがらせるいくつかの話題を配置しているのは、それなりの理由がある。それもまたニュースを物語として解読しようという補助線の意味にかかわると思う。

ベネディクト・アンダーソンは、新聞が「一日だけのベストセラー」であって、翌日には価値のない古紙になってしまうという、われわれの近代の日常にとっての「当たり前」それ自身の異様さを指摘した。その「当たり前」は、まるで朝の礼拝のように「虚構としての新聞を人々がほとんどまったく同時に消費(「想像」)するという儀式」の創造と、ニュースというものの「新しさ」を測る世俗的で普遍的な世界時計の国民国家における成立とに依存している。まさしくその意味において、純粋な理念型としての「ニュース」は近代の情報空間に内属している。

しかしながら、さらに誕生の起源までを問うわれわれは、物語論の示唆にそって、アンダーソンの把握をもう一段遡ってみなければなるまい。そのとき、「消費する」あるいは「想像する」という実践に一定の焦点をあたえるできごととして、災害と戦争とが情報の社会的生産および流通に果たした役割がテーマ化される。もちろん正確には、災害と戦争そのものが、という本質論的な曖昧さにおいてではなく、災害と戦争の語りかた・語られかたが、と物語論の戦略を内在させつつ論ずるべきであろうけれども。残念なことに、安政大地震や戊辰の内戦、西南戦争から日清・日露の語られかたに踏み込んで、もうひとつのニュースの誕生を構成するほどには、手元に集まった素材はぶ厚くも緊密でもない。むしろ問題提起の段階にとどまっていることを、正直に認めるべきだと思う。しかし、たとえばかわら版を通じて、あるいは鯰絵のなかの、大小さまざまな物語において語られる「事件」としての災害や、内戦から国家の戦いへと制度化していく戦争とが、共通にまなざされることで情報世界につくりあげた関心の構造は、アンダーソンの鋭い近代新聞分析の、もうひとつの基層を構成している。

引用の生産性

〈物語〉をひとつの枠組みとして、その論理の示唆にそってニュースをとらえ直す見方は、ある意味では「流言蜚語」や「うわさ話」分析の枠組みに思いのほか近づいていく。もちろんそこでのニュースと流言との関係は、マスコミ研究の一部でなされた問題設定のように、事実と虚偽という対立的な位置づけではまったくない。

話し手が関心をもった素材を、その場にあわせて自由に引用し組み合わせる流言生産の基本文法は、じつは初期新聞の自由自在の「書抜」や「引用」とも呼応している。さらには、見栄を切った芝居の舞台を思わせる新聞錦絵の話題や構図選びに重なるばかりでなく、奇談のかわら版・錦絵をつくりだしていく文化とも近しい。

新聞という新しいメディアの場が幾重にか入りこんでいる西郷星のうわさや、毒婦をめぐる物語のインターテクスチュアルな展開が見せてくれるのも、引用という主体的な行為によって織りなされた歴史的な情報世界の一断面である。文字的な「情報」だけでなく、視覚的な「表現」そのものも引用され、重ねあわせられ、複製されていくことにも注意しなければならない。それは伝達のプロセスではなく、生産の現場であった。それらの重なりあうくりかえしが作り上げる「型」ともいうべきリアリティは、ニュースという物語生成の重要な素材である。

目の感触

視覚という身体感覚のレベルからもうひとつ、論点を付け加えておこう。

いうまでもなく近代の新聞は、文字を中心に発展していった。なるほど一方で絵入り新聞をはじめとする小新聞のわかりやすい啓蒙がつけ加わった事実は忘れてはならないが、基本的には新聞は文字中心の単色のメディアであった。それに対し、新聞が開いた情報世界の断片を引用しつつ、錦絵による多色刷という複製技術を駆使してつくられた新聞錦絵の色合いは、それ自体が新しいインパクトではなかったか。とりわけ「東京日々新聞大錦」の画面を枠づける赤のインパクトは、新しいひとつのジャンルの生成を人々の目に感じさせたにちがいない。

錦絵という複製文化自体が、一八世紀後半の新しい発明であり、それがベンヤミンのいう複製技術時代の情報空間の特質形成にとってもっていた意味は、基本的に大きいものであった。新聞錦絵の新染料の赤によって強調された強い枠取りは、内容として伝えられた血なまぐさい事件の「血」の赤と共鳴しながら、その色自体がひとつのメッセージであった。その色づかいのインパクトが、たとえば双六のようないわゆる「おもちゃ」の領域に引用されていくのも、おそらくはその新しさの知覚ゆえである。かつて柳田国男は、手毬歌のような遊び歌には、すでに意味もたどれなくなった古い知識が声の形で保存されることがある一方で、存外に新しい見聞が面白さの力を求めて引用され、印象深い断片として織り混ぜられる事実を指摘している。

東京日々新聞をもとにした新聞錦絵が、そのまま引用されてミニチュア化されていることにも驚くが、冊子体で売られた新聞錦絵などは、かわら版が冊子体で流通した事実とも重ね合わせる必要があろう。さらに決まり文句のようにくりかえされた「しん板」という新しさの強調は、どんな商品性と結びついていたのか。おもちゃ絵と括られている資料群もまた、われわれが対象化しようとしているニュースという物語の誕生と無関係な領域ではない。

メディア史の興亡

新聞錦絵の誕生の経緯だけでなく、そのニュースメディアとしての終焉をいつに指定しどう説明するかも、大きな課題である。多色刷木版メディアとしての錦絵の生産力と、しだいに確立してくる新聞システムとの速報性の差異や情報容量の比較は重要な論点だが、製作者や読者がなぜそうした情報を求める姿勢をもつにいたったのかは、それ自体が独自の実証と解明を必要とする近代の物語である。

『錦画百事新聞』のような一部の新聞錦絵は、「錦絵新聞」と概念化し分類するにふさわしい定期的な報道を早い時期から志していたと思われるが、もともとが絵草紙屋の新企画であった新聞錦絵のどれだけ多くが、勃興しつつあったメディアシステムとしての新聞と対抗しうる質をその内部に形成しえたかどうか疑問である。定期性という特殊な時間意識も、その質の一つであろう。しかし同じ月の改印をもつ新聞錦絵の存在点数から類推される高い密度や、総点数と期間から割り出される平均の頻度からみて「継続性」さらには「定期性」のように見えてしまう発行の密度が、新企画商品の「流行」という実態からどれだけ踏みだしたものかも、確かめなければならない。一見継続性や定期性のように見えてしまうものが、じつは素材とした新聞のシステムに内在したそれの疑似相関(spurius correlation)でしかない危険性も混じっているからである。

しかし新聞錦絵の流行期を過ぎてなお、錦絵はニュースを描くメディアであることをまったく止めたわけではなかった。一八九八年(明治二一)七月の磐梯山の噴火は、同じ月の届を有する三枚続の錦絵を残しているし、日清と日露の戦争は「戦争錦絵」と呼ばれるようになる分野を成立させた。横山源之助が日清戦争の当時『毎日新聞』紙上に載せた社会観察の中に、絵草紙屋の店頭に掲げられた数多の錦絵を前に、戦争の話題を交わす風景がとらえられていた。職人の一人は「牛荘の戦争と来ちゃ盛んなもんだ」としゃべり、母親に連れられた娘が「オオ怖わい事、敵の国はあれほどひどい事をするの」と話しかけ、「李鴻章メ、生意気な面して居やがる畜生ッ」と小僧が気焔を吐く。横山は、それらに耳をそばだてつつ「今日の如きソラ戦争ヤレ媾和と言える大問題の現われ居る現時代において、東京生活社会の民人がこれに対する思想如何を知らんと欲す」るのであれば、「絵草紙屋の前が最も妙なり」と説く。現実の戦場を知らない人びとが消費した「戦争」のイメージのなかに、後に視覚報道の世界の中心に据えられるようになる網点の写真とは異なる、色鮮やかな戦争物語の描写があったのである。美術という概念の近代性に縛られた研究が、俗悪という周縁に追いやって見ようとしなかった錦絵の系譜がそこにある。

やがてニュースという概念を印刷メディアのうえで独占していくかにみえる新聞というメディアとの関係でも、改めて論じなければならない主題は多い。新聞付録は、まさしく付録という従属的な意義しかあたえられてこなかったけれども、それが新聞錦絵やかわら版の表現形式を飲み込み、時に号外に接していく構造も論じられなければならないだろう。

新聞という新しいメディアが、どのようにそのシステムに内在する「ニュースの近代」の特質を現実化していったか。メディアとしてのかわら版や新聞錦絵がつくった物語の世界がその立ち上がりにどのように作用したのか。まだ問われはじめられたばかりなのである。


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