はじめに
錦絵は多色摺りの版画で、江戸時代を代表する庶民芸術である。一般には歌麿の美人画、豊国らの描く江戸のブロマイドとも言うべき役者絵、広重や北斎による風景画が、錦絵の代表的なジャンルとして思い浮かぶ。江戸時代末期となると、その技術は極限まで高められて出版される量も益々増え、錦絵は更に多くの人々に親しまれた。
錦絵を含む庶民出版物の内容は、幕府によって江戸時代中期から統制されていた。十九世紀前半の天保改革では、錦絵は贅沢品として特に厳しい統制を受け、使用する色数・内容・値段・販売方法が大きく制限された。このような中、江戸の人気絵師・歌川国芳は改革に対する風刺を込め、三枚続きの錦絵「源頼光公館土蜘作妖怪図」を描く。この作品は国芳が最も得意とする画題の武者絵でありながら、水野忠邦の圧制を暗に批判したものであるとの噂が立ち、大評判となった。版元・絵師は、為政者を風刺する場合は、実在の人物をそのまま描くのではなく、見立物にしたり、戯画的表現を巧妙に使ったのである。錦絵によって、一般庶民に手の届かない幕府上層部の人々への風刺が行われたことで、錦絵の新たな表現領域が拓かれた。
事件・世相を描く錦絵
歌川芳虎の画による「道化武者御代の若餅」(嘉永二年閏四月)は、信長・秀吉の築いた統一政権を奪取した家康、つまり徳川政権の成立過程を戯画的に描いた錦絵であったが、摘発を恐れた版元によってわずか半日で自主的に回収されたという。天保改革失敗以降は、権力者たちを巧妙に風刺したもの以外に、江戸の突発的事件も錦絵化された。市井の噂話・事件を印刷物で伝えることを幕府は堅く禁じており、こうした錦絵類も「戯画化」や「見立」という婉曲表現が採られた。
事件・世相を描いた錦絵は、摺り・彫りともに粗末なものが多い。中には無検閲・作者不明のものもあり、従来の研究史ではかわら版と混同する向きもあったが、形態的には明らかに錦絵である。幾つかの工程を省略したため、早く、大量に流通させることが可能となったのである。描かれた事件の内容の理解を助けるため、絵の周辺には大量の文字が書かれ、以前からある絵草紙などによく似た画面構成となっている。そこでは事件を速報的に伝達すると共に、その解釈もなされている。これは「錦絵の瓦版化」ともいうべき状況であった(吉原健一郎『落書というメディア』教育出版、一九九九年)。このような江戸の世相や事件の経過を描いた錦絵は、「鯰絵」にみることができる。
鯰絵の画題変化の意味するもの
安政二年(一八五五)十月の江戸安政大地震の後、約二ヵ月間にわたって、鹿島大明神と地震鯰の俗説を題材とする、いわゆる「鯰絵」の大流行現象が見られた。鯰絵には様々な図のものがあるが、鹿島神が地震鯰(これは地震を図像化したものである)を叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震鯰を殴っているものが目に付く。ところが一方で、地震鯰が地震で仕事の増えた職人たちに歓迎されたり、地震鯰が金持ちを懲らしめている絵柄のものもある。このように鯰絵には、地震鯰に対する扱いが全く逆のものが見られるのである。これは、以下のような地震後の江戸社会の状況に原因があると考えられる。
余震は十月には頻発し、その恐怖は江戸とその周辺に居住するすべての階層の人々に共通であったことが、当時の史料から知られる。そのため、鹿島神に地震鯰の鎮圧、つまり地震の鎮静を期待した「護符的鯰絵」が地震直後には多く出回ったと推定される。この様な「護符的鯰絵」は、地震の張本人である地震鯰が明確に「悪者」として描かれ、鹿島大明神が地震鯰を平伏させたり、鹿島神宮の御神石「要石」を以て抑え込んでいる画面構成となっているものが多い。そして、災厄よけのための呪文である「さむはら」や、地震よけの歌も書き込まれているのである。余震が頻発する中、鯰絵には地震よけの護符としての役割が期待されたのだ。
余震もやがて終息し、地震直後から始まった江戸の再建は、一時的に復興景気を生んだ。瓦礫撤去・土はこびを中心に多くの江戸庶民に仕事の口が増え、俄大工も生まれた。これに伴い、鯰絵の内容は大きく変化する。一時的であるにせよ、復興景気をもたらした安政江戸地震は、結果的に「善きもの」であると多くの人々に認知され、鯰絵の中の地震鯰は「世直し鯰」として描かれ、中には「流行神」的な扱いを受けているものさえ見受けられる。つまり、地震鯰は「災厄の象徴」から、福をもたらす「世直し鯰」へと変わったのである。 このように、鯰絵を丹念に読み解いていくと、地震による破壊から復興景気の進展という一連の事件の推移を、「ニュース」として、多くの人々に伝えていく効果があったと推測できる。「地震は世直しであった」という意識は、鯰絵を買った多くの人々に共有されたのである。しかしまた、鯰絵には復興景気を謳歌する人々への痛烈な風刺も見られる。地震で大損をした人々は、このような鯰絵を見ることで溜飲を下げ、儲けた人々も自分たちの俄景気は、生命や財産を失った多くの犠牲者によって得られたものだということを読みとったと考えられる。
錦絵のちから
鯰絵大流行のあとにも、江戸の世相を巧妙にとらえた錦絵が出された。特に文久二年(一八六二)の、江戸での流行病を題材とする「麻疹絵」は、麻疹の民俗を巧妙に取り入れて大流行した。麻疹絵は護符としての役割や、病気治療の情報の提供に重点が置かれており、実用性が重視されていた。麻疹絵も鯰絵に劣らぬ多様性を持ち、人々は多くの麻疹絵を買うことで、麻疹に効く食べ物を用いた民間療法や、麻疹神にうち勝つためのまじない・麻疹よけの歌などの情報を集めていったのである。
さて、維新期の幕府と薩長政府の政争に題材をとった戊辰戦争期の風刺画も、近年注目を浴びている。例えば、子供たちが遊んでいる様子の中に、権力上層部の政争を巧みに描き、庶民に伝えたものなどである。描かれた子供達の服には各藩を表す意匠・特産物などが描かれ、江戸の人々はそれぞれの意匠を見ただけで、その意味がわかったのであろう。ここでも政治権力にかかわる情報は戯画的表現や、子供たちが遊んでいる絵への置き換えによる婉曲表現を使って伝えられている。版元は、この様な伝統的ともいえる手法をとらなければ、政治的情報の流布は不可能であると判断したと考えられる。逆に、その様な表現をとった錦絵であれば、当時の人々は敏感にその意図を察知し、何かの隠された情報があると見て、こぞって買ったのであろう。幕末期の政治的混乱を題材とした戊辰戦争期の風刺画は、無検閲・作者や版元不明のものが大半であり、現存するものだけでも優に百種類を超える。政治的な題材を扱かった錦絵がこれだけ出されることは、過去にはなかった。一点ごとの情報では政局・戦局の情勢は見えてこないが、次々に出版される数多くの錦絵を見ていくことで、当時の江戸市民は情報を理解していったのであろう。
錦絵による事件の描き方は、現代の我々から見れば、荒唐無稽に思えるものも少なくない。江戸時代、平穏な生活を脅かす事件が起きた場合、錦絵はそれを伝達することで、事件の解釈の手がかりを与え、時には呪術的な対応策すら示した。情報は直接的には書かれていないが、同じ事件を扱った錦絵を幾つか読み解くことで、事件を解釈する精度は上がっていく。人々はこの様な回路を経て事件へと対応し、日常性を回復した。幕末期には錦絵の情報が、そのような大きな役割を果たしたと考えられるのである。