文明開化のメディア—巡査と異人 新聞錦絵は文明開化を宣伝するメディアであった。特に、その中に描かれた巡査と外国人の姿は、文字の読めない人々にも新しい時代の到来を感じさせた。明治四年市内警備のため官給で雇われた邏卒(らそつ)と、明治六年に置かれた民給の巡査とが、翌明治七年に東京警視庁の下で一本化されたのが巡査である。彼らは「おまわり」と呼ばれながら庶民の間に洋服姿を浸透させ、文明開化の生きた広告塔として働いた。また、開国以来、人々の関心の的である異人の姿も、写実的な表現で等身大に描かれている。 大阪錦画新聞 第一号 (車夫が追い剥ぎ逮捕に活躍) 人力車も開化風俗の一つであるが、その車夫と巡査が協力して追い剥ぎをとらえている躍動的な図である。当時の巡査の武器は、三尺棒と呼ばれた木製の棒であった。また当時の人力車は,この絵にみるように胴体に華やかな絵を描いており、「蒔絵車」と呼ばれた。 明治八年 大阪錦画新聞 第一号 東京の人力曳常吉といふもの谷中の方/よりあき車曳て黒門袴ごしへ来かかる折しも/女の泣声。こハ追剥と思案をめぐらし。眠ツた振/で客待を。はかりことトハ白浪が。剥おおせたる/衣類を背おい来かかる所を常吉が。旦那/お供とすすむれバ。根津迄やるかに滅法界/値安で定て母衣をかけ。しばりくくる細/引に。むくひハ直に人力で巡りまの早/走り。罪ハたちまち巡査の。屯所の門口で/賊々賊々と大声に。官棒ふりたて走り出る/賊ハ驚きにげんとするを。すかさす車を曳たをし/なんなくそのばで召とられしとハここちよし。/略誌画図/芳瀧 図133 大阪錦画日々新聞紙 第二十九号 (邏卒が貧しい子二人を自費で学校に) 巡査の美談である。武家出身の者が多かったためか、比較的安い給料ながら巡査には人民の保護と育成にこころを配る者も少なからずいたようだ。 大阪錦画日々新聞紙 第二十九号 明治八年四月三十日邏卒井上徳三郎ハ西成三区上福島を巡邏/する時二人の童子木梃の先を鋭くし地に投げて刺し勝負を/決す互に争ひ挑ミたるに近付き示さんとせしに早く二童逃て/其の家に帰るを慕ひけるに同村安藤佐七が倅米吉三木松なる/親へ説諭して最早八才五才の童子入学の年頃なるに/遊戯に耽らしむるハよろしからずと述るに家困究にて/学校入費行届かずとこたへるるを井上不便に/思ひ二児を同村事務/所へ連ゆき自ら金一円/差出し入校の筆墨紙を/与へ後に戸長より五十銭戻り/学に導せしに親の歓喜少からず/巡卒の深志天意に叶ひ人民保護の/有様なりと実に感賞すべきなりと/報知六百五十五号にのせたり 図134 東京日々新聞 第九百六十九号 (芸者が男装して罰金刑) 明治五年に警察が処罰する軽犯罪として、違式註違(いしきかいい)の条例が定められた。裸体または肌脱ぎになったり、股などをあらわにすること、婦人の断髪、入れ墨などが取り締まり対象となり、女装や男装も罰金を科せられたらしい。このような例を描く新聞錦絵は、身近な犯罪に注意を呼びかける効能もあったであろう。 東京日々新聞 第九百六十九号 三月十四日/小舟町の/火事の時に/紺木綿の股引はら/かけにて頭巾を/かむり麻うら草/履をはき差し子の半天を着て/美しき男があちこち火事見舞にあるき/廻る様子が何うも女らしき物腰ゆへ/或る巡査が見とがめ呼び止め住所/姓名をたゞしたるにお目きゝの通り/芸者にて元大坂町まさきや/之布袋軒とか富本/安和太夫とか/幾ツも名の/ある中村/清助と/云ふ人の養女おやまで/有つたそれから屯所へ引かれたそうだが定めし罰金だろう 図135 東京日々新聞 第九百八十一号 (巡査が亭主に姦通現場を取り押さえられる) 障子を突き破って出ている棒が、陰にいる巡査の存在を示している。いつもは人を捕らえている巡査が姦通で捕らえられた事件をユーモラスに描いている。 東京日々新聞 第九百八十一号 高輪南町の小泉と云ふ茶屋の亭主/栄蔵ハ四月七日の夕がた余所から返ツて/見ると妻のおたけがゐしきの一件たと見えて/制服制帽で大きな長い棒を持た長野政吉/と云ふ巡査に押へ付けられて居る様子に付き/オや手前ハ何が悪い事をしたかとつかつかと立寄れバ/巡査ハ驚ろき姦棒を引堤て遁んとするをイヤ/此奴ハ好い事をして居たナ太い奴めと打て掛れバ/女房ハなき出す野郎ハ飛び出すジタバタどさくさ/大騒ぎと成りたる折からに巡査原雪これを見認め/て巡査トおたけを拘引したり其とき亭主栄蔵ハ/手早く妻おたけが寝床の辺りに取り散したる/白紙を拾ひ取り/大区へ持参し/たる由/なれバ/慥かに何かの証拠に成る処が/あると見える笑しな咄しだ/アハハハアハハハアハハハアハハハ 図136 郵便報知新聞 第五百七十六号 東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵 (乗馬の芸者に蹴散らされた翁を助ける巡査) これも、違式註違(いしきかいい)の条例の中の、乗馬してみだりに疾駆してゆく人を触れ倒す者という項目に該当したため、二十歳過ぎの芸者二人が巡査に引っ張られたのである。国民国家の下での良妻賢母教育に繰り込まれてしまう前の、明治はじめのおきゃんで元気な女性の姿がここには見られる。 郵便報知新聞 第五百七十六号 ワーライで転ぶ弦妓の半黙許」と誰が/口号みし川柳か何だか訳も和漢蘭な/がらに夫と読たれど「往来で爺爺を弦妓が/転バしだ」是ハ捩りのとんちんかん所ハ嘘か/本所の内ではあれど外手町しかも一月三十日/午後一時に両人の婀娜者技も姿も葭/町に評判高きおきんに小濱年ハ二十を二ツ/三ツ四ツの足掻を早めつつ泥路蹴たてて/直驀墨田に白く消残る雪の跡さへ/ありやなし我思ふ人に追付ばやと行手/の路の出合頭六十の翁の身を避るにも/暇なきを物の美事に素転倒ハツト思へ/ど夫なりに往んとするを目捷き巡査翁/を援けて之を起し二人ハ馬より卸れて/跣ながらに左り褄とりて屯へひかれたり 図137
新聞錦絵は文明開化を宣伝するメディアであった。特に、その中に描かれた巡査と外国人の姿は、文字の読めない人々にも新しい時代の到来を感じさせた。明治四年市内警備のため官給で雇われた邏卒(らそつ)と、明治六年に置かれた民給の巡査とが、翌明治七年に東京警視庁の下で一本化されたのが巡査である。彼らは「おまわり」と呼ばれながら庶民の間に洋服姿を浸透させ、文明開化の生きた広告塔として働いた。また、開国以来、人々の関心の的である異人の姿も、写実的な表現で等身大に描かれている。
(車夫が追い剥ぎ逮捕に活躍) 人力車も開化風俗の一つであるが、その車夫と巡査が協力して追い剥ぎをとらえている躍動的な図である。当時の巡査の武器は、三尺棒と呼ばれた木製の棒であった。また当時の人力車は,この絵にみるように胴体に華やかな絵を描いており、「蒔絵車」と呼ばれた。
東京の人力曳常吉といふもの谷中の方/よりあき車曳て黒門袴ごしへ来かかる折しも/女の泣声。こハ追剥と思案をめぐらし。眠ツた振/で客待を。はかりことトハ白浪が。剥おおせたる/衣類を背おい来かかる所を常吉が。旦那/お供とすすむれバ。根津迄やるかに滅法界/値安で定て母衣をかけ。しばりくくる細/引に。むくひハ直に人力で巡りまの早/走り。罪ハたちまち巡査の。屯所の門口で/賊々賊々と大声に。官棒ふりたて走り出る/賊ハ驚きにげんとするを。すかさす車を曳たをし/なんなくそのばで召とられしとハここちよし。/略誌画図/芳瀧
(邏卒が貧しい子二人を自費で学校に) 巡査の美談である。武家出身の者が多かったためか、比較的安い給料ながら巡査には人民の保護と育成にこころを配る者も少なからずいたようだ。
明治八年四月三十日邏卒井上徳三郎ハ西成三区上福島を巡邏/する時二人の童子木梃の先を鋭くし地に投げて刺し勝負を/決す互に争ひ挑ミたるに近付き示さんとせしに早く二童逃て/其の家に帰るを慕ひけるに同村安藤佐七が倅米吉三木松なる/親へ説諭して最早八才五才の童子入学の年頃なるに/遊戯に耽らしむるハよろしからずと述るに家困究にて/学校入費行届かずとこたへるるを井上不便に/思ひ二児を同村事務/所へ連ゆき自ら金一円/差出し入校の筆墨紙を/与へ後に戸長より五十銭戻り/学に導せしに親の歓喜少からず/巡卒の深志天意に叶ひ人民保護の/有様なりと実に感賞すべきなりと/報知六百五十五号にのせたり
(芸者が男装して罰金刑) 明治五年に警察が処罰する軽犯罪として、違式註違(いしきかいい)の条例が定められた。裸体または肌脱ぎになったり、股などをあらわにすること、婦人の断髪、入れ墨などが取り締まり対象となり、女装や男装も罰金を科せられたらしい。このような例を描く新聞錦絵は、身近な犯罪に注意を呼びかける効能もあったであろう。
三月十四日/小舟町の/火事の時に/紺木綿の股引はら/かけにて頭巾を/かむり麻うら草/履をはき差し子の半天を着て/美しき男があちこち火事見舞にあるき/廻る様子が何うも女らしき物腰ゆへ/或る巡査が見とがめ呼び止め住所/姓名をたゞしたるにお目きゝの通り/芸者にて元大坂町まさきや/之布袋軒とか富本/安和太夫とか/幾ツも名の/ある中村/清助と/云ふ人の養女おやまで/有つたそれから屯所へ引かれたそうだが定めし罰金だろう
(巡査が亭主に姦通現場を取り押さえられる) 障子を突き破って出ている棒が、陰にいる巡査の存在を示している。いつもは人を捕らえている巡査が姦通で捕らえられた事件をユーモラスに描いている。
高輪南町の小泉と云ふ茶屋の亭主/栄蔵ハ四月七日の夕がた余所から返ツて/見ると妻のおたけがゐしきの一件たと見えて/制服制帽で大きな長い棒を持た長野政吉/と云ふ巡査に押へ付けられて居る様子に付き/オや手前ハ何が悪い事をしたかとつかつかと立寄れバ/巡査ハ驚ろき姦棒を引堤て遁んとするをイヤ/此奴ハ好い事をして居たナ太い奴めと打て掛れバ/女房ハなき出す野郎ハ飛び出すジタバタどさくさ/大騒ぎと成りたる折からに巡査原雪これを見認め/て巡査トおたけを拘引したり其とき亭主栄蔵ハ/手早く妻おたけが寝床の辺りに取り散したる/白紙を拾ひ取り/大区へ持参し/たる由/なれバ/慥かに何かの証拠に成る処が/あると見える笑しな咄しだ/アハハハアハハハアハハハアハハハ
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵 (乗馬の芸者に蹴散らされた翁を助ける巡査) これも、違式註違(いしきかいい)の条例の中の、乗馬してみだりに疾駆してゆく人を触れ倒す者という項目に該当したため、二十歳過ぎの芸者二人が巡査に引っ張られたのである。国民国家の下での良妻賢母教育に繰り込まれてしまう前の、明治はじめのおきゃんで元気な女性の姿がここには見られる。
ワーライで転ぶ弦妓の半黙許」と誰が/口号みし川柳か何だか訳も和漢蘭な/がらに夫と読たれど「往来で爺爺を弦妓が/転バしだ」是ハ捩りのとんちんかん所ハ嘘か/本所の内ではあれど外手町しかも一月三十日/午後一時に両人の婀娜者技も姿も葭/町に評判高きおきんに小濱年ハ二十を二ツ/三ツ四ツの足掻を早めつつ泥路蹴たてて/直驀墨田に白く消残る雪の跡さへ/ありやなし我思ふ人に追付ばやと行手/の路の出合頭六十の翁の身を避るにも/暇なきを物の美事に素転倒ハツト思へ/ど夫なりに往んとするを目捷き巡査翁/を援けて之を起し二人ハ馬より卸れて/跣ながらに左り褄とりて屯へひかれたり