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[かわら版の情報社会]


図7 朝間山大やけの次第

朝間山大やけの次第

新あな
北東の間ニ
やけいつる
△七月八日昼時より
くろきどろ七ツ時までふるいまだ砂ふりしん
とうやまず近辺村町一同まつりごとをなす
いへすなにうづむ

朝間山大やけの次第 天明三年(一七八三)

  天明三年七月の浅間山の噴火を伝えるかわら版。力強い彫りで、新しい噴火口の出現、砂が降り止まない様子、村町一同祈ったことを伝える。噴火を目の当たりにして、衝撃を受けた人の手になると思われる。18世紀中期頃より、災害を題材にしたかわら版が多数出版されるようになる。本コレクションでは、これが時期的にみて最も早い事例のものである。

図7

島原大変(仮)

当三月朔日より
七日之あいだちうやをわかたず大ぢしんにて
九州九かこくならびにあまくさにいたる大ち
われることおびたたしくそのおと天地をくつがへす
いわうじまのわれ口より火入ほのうちをくぐり天
に登り人家大石大木をとばし人ハひとりも
のこらすなをうミのそこを火くぐりなミをかへし
舟ハミなしづミ
魚るいのはら
わたをかへし
大魚小魚ハ
くがに打あけ
てすざましく
右のわれ
くちより
諸物をう
づむ
八日の
あさより
少々おさ
まりたる
よしなれ
どもこれ
もいてミ
たる人々ハ
よく御そん
じなり
さてその
いわうのけ
ふりにむせ
て中ごく
の人々
大きニくるしむ

島原大変(仮) 寛政四年(一七九二)

寛政四年(一七九二)三月の島原雲仙岳噴火のかわら版。二百年まえの噴火は、雲仙岳と島原城下の間にある眉山が崩落、土砂が有明湾に流れ込み、津波を引き起こし、対岸の熊本にも被害を及ぼした。死者一万五千人にのぼる近世最大の災害である。「うミのそこを火くぐり」舟が沈み、「いわうのけふりにむせて」人々が苦しむと伝える。

図8 島原大変(仮)
図8

図9 るいせう道しるべ

るいせう道しるべ

● 御上屋敷
▲ 御中屋敷
■ 御下屋敷

るいせう道しるべ 上

頃ハ文化八未のとし二月十一日昼七ツ時一ケ谷
谷町より出火しておりふし西北風はけし
く念仏坂より二タ口になり此へんの御組屋
しき残らずかつぱ坂安龍寺京恩寺此辺
一面になり西と北との大風三方へふきちらし
それより尾張様御長屋すミ少しむかふハ
●松平摂津守様御屋しき残らず法弘寺より
四谷おたんす町坂町しほ町竹丁通ハ麹
まち十一丁目十二丁目十三丁目伝馬丁四丁目
角まで若まつ町おし丁おし原横町此辺
御組屋しき石きり横町てん王横丁くわん
おん坂蓮浄院真浄院安らく寺西念寺四
谷御門外■尾張様是より北風はげしく
石をとばすことく御堀はた通酒井様●松平
佐渡守様大久保豊前守様村松様此へん御
旗本様方あまたさめかはし坂迄残らすや
ける紀州様御屋しきへ出このときゑんゑん
として四角八めんにさんらんす巳にきのくに
坂下ふるや町ゆや町それよりあか坂御門
外よりそのつきにくわしきをしるす
後欠

図9

るいせう道しるべ 文化八年(一八一一)

文化八年(一八一一)二月一一日、江戸市谷谷町より出火し、西北風にあおられて赤坂、麻布などへ燃え広がり、武家屋敷三百、町屋二万、死者数百人を出した火事のかわら版。「親をもてる人ははやく書状にふうしこみ」めば、親は子の無事を確認できるから、「孝行の一助」だとする。こうした文言を摺りこむかわら版がこの頃より多く出版された。

江戸神田佐久間町の大火 文政一二年(一八二九)

文政一二年(一八二九)三月二一日神田佐久間町河岸材木屋の材木小屋から出火して、日本橋、京橋など江戸の中心街を焼き尽くした大火。武家屋敷、町屋を延焼丁数一里にわたり、焼死者二千八百人を出したという。この火事では、火元の材木問屋は、所払いになった。この火事のかわら版では、既成の江戸図に焼失範囲を書きこんだものが登場した。

江戸神田佐久間町の大火(仮)

神田さくま町かしより
出火折しも西北の風はけ
しく土手下へ飛火御も
ミくら近辺町家平一めん
と成る塩とめニて焼止る
其節人々東西にまよひ
親にわかれ子にはなれ
けむりにとりまかれ人々
多く死す誠ニあわれの
事とも也右之画図見る
につけても火の
用心可被成候
御屋敷町家ヲよこ
たてを諸々つもり凡
七十二里■■([虫喰])もなる
べし蔵のかず凡
千百五十戸まいの余
凡はしゆニて大はし
小はしとも二百余
おちる

図10 江戸神田佐久間町の大火(仮)
図10


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