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[かわら版の情報社会]


江戸本郷辺大火(仮) 弘化三年(一八四六)

弘化三年(一八四六)正月一五日本郷丸山の御家人屋敷から出火、本郷、湯島、神田辺、日本橋、江戸橋、佃島まで延焼丁数一町以上という。かわら版の内容は、武家地はもちろん、町地も含め、家が焼けたか焼けないかという程度の簡単なものであって、死者の数などは載せていない。かわら版業者みずからが自己規制して、出版差し止めになるような情報は控えた結果である。

図11 江戸本郷辺大火(仮)
図11

江戸本郷辺大火(仮)

頃ハ弘化三丙午
正月十五日八ツ
時頃本郷丸山
辺より出火致シ
菊坂辺阿部様
下屋敷本郷通り
加賀様少々焼湯島六ケ
町御茶水聖堂焼ル神田
明神残ル外神田旅籠町
仲町辺佐久間町一丁目にて
留ル昌平橋焼落駿河台へ
飛火致シ御旗本様多ク焼ル
筋違内伊賀様土井様左ヱ門
尉様小川町稲葉様神田橋
通本多豊前守様其外御旗
本様多ク焼ル内神田三河町辺
大工町辺多町辺須田町通り
東神田小柳町白かべ町お玉ケ
池此辺不残新石町なべ町かぢ町紺屋町
新土手下のり物丁今川橋通り本銀町通り
本石町通り小伝馬町壱丁目ニて留ル牢屋敷
残ル本町通り大伝馬町弐丁目ニて留ル室町通り
日本橋焼落瀬戸物町駿河町両がへ町品川
町魚がし此辺平一面ニなり江戸橋荒布橋焼
おち小舟丁堀留堀江丁親父橋焼おちふき
や丁よし丁大坂丁辺とうかん堀安藤様下やしき
尾張様蔵屋敷小網丁通り箱崎土井様久世
様伊豆様北新ぼりみなと橋焼おち御舟手
組屋敷ニて留ル南北新川はま丁大川ばた辺
其外れいがん島十八ケ丁焼ル越前様むかい
将監様組屋敷ニて留ル高橋亀島橋やけ
おちかやば丁薬師八丁ぼり残らず久鬼様
越中様細川様下やしき焼海賊橋しんば橋松屋橋弾正ばし
中の橋いなり橋ミな焼おちる本八丁堀通り南八丁堀通り本多様
堀くら様かもん様下やしき遠江様少々阿波様下やしき鉄砲洲稲荷焼
湊丁船松丁十けん丁細川のとの守様松平長門守様ニて留ル佃島へ飛火して焼ル
又一ト口ハ四日市青物丁辺左内丁小松丁しんば肴かし通り本材木丁八丁目迄
日本橋通りハ壱丁目より南伝馬丁三丁目まで八丁両かわ焼ル西中通りハ
西河岸よりたゝみ丁迄東がわ焼ル西がわ残ル京橋きわまでやける
よく十六日九ツ時すミ丁竹がしにてやうやうしづまり人々あんどの思ひをなす

焼失 御大名様上中下御屋敷三十五ケ所
御旗本御屋敷九十軒余
町数 三百六十ケ町余
橋数 弐十ケ所
本郷丸山より鉄砲洲迄
道法凡壱里十六丁余
神田
佐久
間町
江戸橋
四日市
八丁堀
松屋丁
右三ケ所江窮民御
救小屋取立候間類
焼困窮成者勝
手次第御小屋入
可願出もの也
正月十七日

信濃国大地震 火災水難地方全図 弘化四年(一八四七)

弘化四年(一八四七)三月二四日信州上水内郡の虫倉山辺を震源とする地震が発生した。犀川流域にある虚空山の半分が崩落、その土砂が川を堰き止め湛水後決壊、千曲川に洪水をもたらした。善光寺の開帳に来た多くの人々も、地震後の火事で焼死、全体では約一万人以上の犠牲者が出た。地方(発行場所;稲荷山)でもこうした大災害を伝える摺物が出版された。

図12

信濃国大地震 火災水難地方全図

弘化四丁未年三月二十四日夜亥刻頃信濃国七郡
大地震にて城下在町の民家一時かなり潰し即刻山々火所々
焼失圧死焼死不知数同刻山平林字岩倉虚空蔵山崩れ
犀川に落入川上村々水湛ミ湖のことく丹波島河原水
渇て陸のことし渉るに踵をぬらさす其外所々山沢崩落
て水行不通四月十三日申之下刻一時に秡崩シ波高き
事数丈水声雷のことく川中島より千曲川辺民家
尽く漂流し溺死するもの幾千といふをしらす扶桑略記曰
光孝天皇仁和三丁未年七月晦日信濃国大山頽崩六郡
城處払地漂流牛馬男女流死成丘云々自仁和丁未至弘
化丁未こゝに九百六十一年又如斯天災を見る唯当国
のミにあらす善光寺如来開扇によりて諸国の旅人
数を尽して死失す  附にいふ
遠境の諸友より右の実説を問ふ事しはしはにて
いちいち筆にまかせかたきをもてあらましをしるして
梓にものするになん尚足らさるハ見る人ゆるし
為へ
稲荷山住  宮匠
{朱}ミな月未つかた彫成いまた昼夜に
五七度震やます

信州二度目大地震 弘化四年(一八四七)

弘化四年の信州の地震は、一般に善光寺地震と呼ばれる。この地震の余震の際に地方で出たかわら版。彫りといい、山崩れの表現方法といい稚拙ではあるが、地震による地変の凄さを伝えようとする意欲が感じられる。

図13 信州二度目大地震
図13

信州二度目大地震

信州
    大地震
二度目
同月 二十九日晦日
岩倉山
一方ハ
三十丁

八十丁
くずれ落ル
近辺の山より
石おひ
ただしく
落おぼるる
村かず
しれず
さい河まだまだから川となり
川上湖水と成
水落口なく
越後の国江流ル
善光寺{四角囲みの内}
此辺またまた
じしんはげしく
丹波嶋同
はげしく
此辺
じしんはげ
しく
いい山{四角囲みの内}
此あたり
しらうみに
なる
松代{四角囲みの内}

雷神場所付 嘉永三年(一八五〇)

嘉永三年八月八日夜、激しい雨と共に江戸府内各所に雷が落ちた。災害かわら版のなかにも、自然現象の突発的な異変は陰陽の気の不正常な状態から発生すると説明するものが見られる。雷は陽徳なので、陰気を払い、豊作をもたらすとしている。「雷神御下り場所」一覧が雷の落ちた場所である。

図14 雷神場所付
図14

雷神場所付

{右下枠内}
夫天地不時の変どふハ陰陽あいたいして
混するゆへ陽気いんにツツまれて地に入て
地しんとなる陰気のこり陽にさそハれて
天に昇りて雷となりて音をはツす是等ハ
ミな豊年のきさし也時に嘉永年戌八月
八日の雷ハ江戸表をはじめ関八州其外国々共ニ
らいでんはたらきおびただしく稲妻大地ヲツき
ぬくごとく光りかがやき女子供ハおそれさわぐといへ
どもじツハ出来秋のミ入よしとぞおもハれケる抑
雷ハ陽徳なれバ陰氣を拂ひ邪気をさんずる
此故に田畑に生ずる五こくハ更也もろもろのやさい又ハ
なりくだ物にいたる迄熟してミのりよしとかやされバ
此秋天幸ひを万民に下し給ふ所なれバ喜びの下りし
場所を小紙にしるして豊年をツぐるもの也
鳴神御下り場所
一日本ばしくぎ店 一同元大工丁 一京ばし五良兵衛丁 一尾はり丁 一芝口三丁目 一ろふげツ丁 一宇田川丁うら通 一ツきぢ 一柴井丁うミ手 一神明丁うミ手 一かハらケ丁 一もりもと 一あたごした 一青松寺山 一天とく寺 一芝まツ本丁 ○此所天ぐいしや 一赤ばね 一七まがり 一白金台町 一伊血子樹木谷 一ふる川 一はま丁
一麻布百姓町 一同ひろを 一青山二十ケ所 一牛込弐ケ所 一小石川弐ケ所 一内壱ケ所ハらいぢう御屋敷ニて生取 一赤坂よしなき坂上 一神田多町 一いづミばし向 一下谷二ケ所 一ゆしま 一妻乞坂上 一本郷元町 一四ツ谷菊川丁
一浅草もりした 一せいげんじ 一本所竪川三ケ所 一同きく川丁 一同石原弐ケ所 一うまや堀此所ニてもらいぢうをからめとる也 一深川きた川丁 一同六ケん堀柳川丁 一同ごぢんが原弐ケ所 一番丁へ九ケ所 一飯田町 一同中坂此所雷獣をとりおさへしが逃した■ 一権田ばら 一八丁ぼり 一霊かん橋かやば丁 一千駄がや
一浮田雷火にて少々やケる 一品川の海沖中へ三ケ所 一舩堀二ケ所
〆百二ケ所
かくのことくなれとも人民にケがなきも太平
の御■とくと忠孝のいたす所也 千秋万歳万歳

相模国大地震之図 嘉永六年(一八五三)

嘉永六年(一八五三)二月二日小田原城下に被害をもたらす地震が発生した。数年前の善光寺地震の記憶は強く、六年正月に起きた善光寺地方の地震情報も載せている。これ以降、大地震が連続発生する時期を迎える。地震の原因について、「天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となり、地にいれバ地しんをなす」が、神仏の力では如何ともしがたいと認識し始めている点が興味深い。

図15 相模国大地震之図
図15

相模国大地震之図

夫天地不時の変動ハ陰陽混して雷雨となる地に
いれバ地しんをなすアゝ神仏の慈護も是を納事
かたし頃ハ嘉永六丑どし二月二日ひる九ツ時より
相州小田原大久保加質守様御領分御城下万町青物
町板はしりやうし町すハ丁寺町御城角やくら並ニ
町家をはしめとして東ハ田村川辺伊勢原あつ木
萩の山中大久保長門守様御領分陶綾郡神戸井こ
大磯宿平つか宿中村金子すゝ川ミのけ辺大山大に
そんず石尊御社ハ別条なし子安かすやのへん
人家のこらず大住郡近辺山々上村谷村おか本早
川石ばし山二子山此辺ことごとくそんじひたち
の国の同者十三人けがある箱根湯本をはじめ
湯場七ケ所畑しん家辺のこらず同所権現御山内
尤御社ハ別条なし同所湖水あふれさいの河
原辺大にそんず豆州海辺山々真鶴網代海尻
峠ノ岩渡峠とうバ峠あたミ伊東しゆぜん寺此外所々
ミしま宿ハ大にそんじ焼失すするがの国ハぬまつ御城
下原かん原よし原辺も中々のひゝきなり又小田
原堂龍権現の御山大ニそんじ御社ハ別条なし
愛甲郡ハ三増はし本辺あれる津久井郡上の原
青の原とうし川辺鼠坂関野辺迄大かたのひゝき
なり又藤沢かまくら所々江のしま大にあれる甲州
ハ身のぶ山七面山大ニそんす御堂ハ別条なしはた
こや町大工町青柳小むろ其外近郷近村ことごとく
八王子辺迄も大かたのひゞきなり○又同月同日下野
の国宇都宮大ぢしんにて池上伝馬町しん石町
すべて明神下辺やけるなり尤かぬま合せんバ其外
日光道中筋近辺山々余程の大地しんなりける
が夜九ツ時過まで都合いく度といふ数を知らずと
いへども大ゆれせしハ五度にしてやうやうゆり止り
人々あんとなすよつて諸国のしんるいえん者へはやく
知らせあんぴを告んか為かくハくわしくしるすになん

○信州大地しんの記
当正月廿一日朝五ツ時信州善光寺近辺二郡すべて
二百八十ケ村程の間地しんにて人々きやうふなす
といへども人家のたをれるほどのこともなくゆり
やミしかれども六日半の間度々のことにして
やうやう廿七日九ツ半時頃まつたくゆりとゞまり
諸人あんとをなしにける


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