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[かわら版の情報世界]

災害とかわら版
—その歴史的展開—

北原糸子


災害かわら版は小野コレクションのなかで約四割以上を占め、圧倒的に多い。これを江戸のかわら版史の一般的状況が反映されたものと捉える理由については、すでに述べた。ここでは、災害かわら版の歴史的展開を中心に述べることにする。

さて、かわら版とは、人々の関心や記録が社会化された形で表出したものであるから、むしろ、ここでは、災害がそれらを生み出したというより、近世社会の変化、特に都市社会の変化がそれらを生み出す条件を作ったと考える。

では、その変化とはなにか。江戸を事例にこの点を考えてみよう。

一七世紀も終わろうとする元禄年間、江戸で馬の物言いという事件が起きた。馬がものをいったという噂が広まった一種の流言事件である。町奉行所は、町々の悉皆調査をして、流言の張本人を捕らえ、処刑した。この事件のかわら版が出たとする記録は残されていない。

また、この頃、相州小田原の町が壊滅的打撃を受けた元禄小田原地震(一七〇三年)、日本列島の太平洋岸を襲った宝永地震津波(一七〇七年)、同年の富士宝永山噴火など大規模な災害が連発した。この時も、幕府は「虚説」を触れ歩く禁令を出すが、出版物の禁止を出してはいない。災害が発生するとかわら版が発行されるという災害情報伝播のパターンが認められるようになるのは、これから半世紀以上を下った一八世紀後半である。明和九年(一七七二)の目黒行人坂大火がかわら版の本格的発生の画期とされている(中山栄之輔『かわら版選集』人文社、一九七二年)。

この間の都市社会の変化とは、流入する人々の量的拡大によってもたらされた都市内部の社会構造の変化である。もはや、この段階では、流言の根源を町々の悉皆調査を通して突き止めるようなことは考えられない時代になっていた。それだけではない。江戸の人口の約半分を占めた武士たちも、家禄という生活保障をもとに、都市生活者としての規範をみずから作り出していくが、出奔や犯罪を犯す落伍者も目立つようになる。要するに、都市に生活するものの間にそれまで存在した身分や階層の枠内で共通する価値観が失われつつあった時代だということである。こうした時代には、身分や階層を越えたところで、共通の関心事を軸に狂歌や俳句の連にみられるような新しい結合が形成されたが、また、一方では、あらゆる人々の間に共通する汎階層的な客観的情報が必要にもなる。災害や事件を報ずるかわら版の本格的成立が、この時期にあたることの歴史的背景は以上のようなものであった(平井隆太郎「かわら版のゆくえ」『かわら版・新聞、江戸明治三百事件』平凡社、一九七八年)。

さて、一八世紀後半、洪水、噴火、凶作と災害が連続して日本社会を襲った。いや、日本ばかりではない、小氷河期といわれる世界的規模の気候変動の時代であった。小野コレクションのうちで、災害かわら版の最初の事例は、天明三年(一七八三)の浅間噴火である。四種類のものが残されている。実際の見聞に基づくと考えられるものもあるが(図7)、他のコレクションのものを含め大半は、伝聞情報によったものである。島原の雲仙普賢岳の噴火(一七九二年)を伝えるかわら版も伝聞情報に基づいて、大坂などで発刊されたと推定される(図8)

火事は江戸の華といわれたが、その何割かが放火によるといわれているように、都市特有の災害としての側面が強い。これを報ずるかわら版も都市の出稼ぎ奉公人が国元にそのまま送れるように手紙の形式で刊行されるものや(図9)、これを送れば、親孝行になると刻した押し付けがましいものも出される。以後、この形式は災害かわら版の付帯文言として幕末まで引き継がれて行く。かわら版がどのような人々に、どのように使われたかを示していて興味深い。

焼失範囲も広範囲に及んだ火事のかわら版の場合には、既成の地図を使って、被害地域を墨や朱で塗りつぶしたもの多い。こうしたものが出された早い事例として、京都ではすでに寛文一三年(一六七三)の火事の例が確認されるが、現在残されたもののなかで圧倒的な量を占めるのは、天明八年(一七八八)の京都大火のものである(大塚隆『京都図鑑項目』青裳堂書店、一九八一年)。大坂では、寛政四年(一七九二)の大火事で、地図に焼失地域を塗りこんだものが早い事例に属する(『近世大坂の災害関係資料』1、大阪市立博物館、一九九八年)。江戸では、文政一二年(一八二九)三月二一日の大火の火災図が多く残されている(図10)。御救小屋設置場所などの情報も盛り込まれた(図11)

しかし、かわら版という言葉が予測させる支配的文化に対するサブカルチャーとしての要素を、この期のかわら版に見出すことはむずかしい。幕府が災害報道の無届出版を禁じた寛政五年(一七九三)八月の触れは、以下のようなことを述べている。

「近頃世間の噂や、火事の折に類焼場所附などを売り歩くものがいるが、版木仲間外の者が本屋仲間の改めも受けずに売り歩くのは、不届きなことである。今後版木屋家業を望むものは仲間に入らずに勝手に出版して売り歩くようなことは禁ずる。仲間に加入して商売をするように。」(『徳川禁令考』)。要するに、災害かわら版については、一切売ってはならないとはいっていない。仲間に加入して、仲間統制を受けるようにというのである。しかし、災害かわら版はその後も無届出版として出され続ける。正規の手続きを経ない出版であっても、報道の迅速さが売りものであり、社会的有用性もあったから、幕府は一概に禁ずることはせず、黙認していた節がある。災害かわら版は、かわら版の対抗文化的要素を払拭して、むしろ制度的情報としての領域を確保していたということができる。

こうした状況に変化がうまれるのは、一九世紀の後半、天保改革の失敗による出版統制の弛緩後、落書・落首などが多量にかわら版に登場した以降である(吉原前掲書)。これに加えて、大災害の連続発生、ペリー来航など、かわら版の話題となる大事件が目白押しに続いた。災害かわら版にも、従来の類焼場所附などのような被害の事実を伝える報道だけでなく、道化もの、戯画などと呼ばれる婉曲な風刺性を含むかわら版が多数出版されるようになった。

しかし、弘化四年(一八四七)善光寺地震、嘉永六年(一八五三)小田原地震、嘉永七年(一八五四)伊賀上野地震、同年の安政東南海地震、翌安政二年(一八五五)安政江戸地震と、何百、何千にという人が犠牲になった大規模な災害の連続した一九世紀後半は、災害の事実そのものが人々に衝撃を与え続けたから、大量の災害かわら版が出版された。(図12〜20)。また、こうしたもののなかには、過去の災害を年表風に振返るものや、類似の災害例を並べて出版するものなども見られる(図23)

この頃になると、江戸の災害が大坂で、大坂の災害が江戸でかわら版となって売り出された。情報が逸早く、飛脚問屋によって各地にもたらされたからである。また、彼らは得意先にこうした情報を配ったりもした。販売目的のかわら版ではないが、こうした摺物も災害情報を伝える媒体としてたくさん出回った。幕末〜明治初期再び登場する木活字を使用している点など、注目すべきだろう(図21、22)

近代以降も、依然として、江戸時代と変わらないスタイルの火事のかわら版もみられる(図24)。限られた範囲で売られたものであろう。また、出版条例に基づいて、発行人、発行所、発行月日などを摺りこむようになるが、新聞の転載記事を元に、想像で描かれる磐梯山噴火(一八八八年)の木版刷りは、いまだ、江戸時代の戯作者によるかわら版の伝統が息づいていることをうかがわせる(図25)

一八九〇年代、濃尾地震、三陸津波など再び大災害が頻発した。新聞の災害情報は、官報情報のほか、派遣記者による現地取材記事を載せるなど、充実した内容を盛り込むようになり、銅版や、小口木版など、新しい手法の災害絵図が新聞の付録となった。巷では銅版刷りや災害写真なども呼び売られ(図27)、災害口説の種本も作られていた。しかし、二〇世紀に入る頃、江戸時代の伝統を強く残すこうした災害かわら版は姿を消した。


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