i 発端
文化人類学教室が東京大学に発足したのは第二次大戦の終結後の一九五四年のことであった。創設者であった石田英一郎教授と泉靖一教授は、江上波夫教授らと共に、新旧両大陸における文明起源の比較研究という壮大な研究プロジェクトを発足させた。
新大陸文明には二つの中心がある。メキシコ・グアテマラ・ホンジュラスにまたがって発展したメソアメリカと、南アメリカのペルーとボリビア北西部に発展した中央アンデスの地域である。旧大陸の文明起源の研究は、古代オリエント文明の発祥の地であるメソポタミアでの調査からはじめることになった。これに対して新大陸文明の場合、メソアメリカとアンデスのどちらを選ぶか。
研究推進の中心者であった泉教授はアンデスを選んだ。泉教授は一九五七年にたまたまペルーを訪れたことがあり、そこで独自に古文化遺物の収集と研究をしていた実業家天野芳太郎氏と知り合い、その案内で海岸地方の遺跡などを見てまわった。そのときの印象と天野氏との個人的友誼がアンデスを選ばせたのであろう。
一九五八年、第一次東京大学アンデス地帯学術調査団が編成され、石田教授を団長としてまずはペルーにおもむいた。文化人類学の石田、泉、寺田和夫、大林太良、地理学の安芸皓一、佐藤久、小堀巌など、東京大学の研究者が主体となり、現地では、ペルー考古学の父と呼ばれるフーリオ・C・テーヨの高弟たち、サン・マルコス大学の学生などが加わった。
東京大学が調査したアンデス高地の主要遺跡年表(1958-1996)(太字は遺跡名、枠内は時期名) |
この第一回目の調査は、ペルーを中心にエクアドル、ボリビア、チリなどの周辺の国にもまたがっての広域一般調査であった。まずは広く中央アンデス地帯をまわって、できるだけ数多くの遺跡を実地に検分し、各地にある博物館や大学の収蔵品を見て、アンデス文明の概要を理解し、その上で本格的な調査のための遺跡を選定しようというわけである[挿図1]。
[挿図1]アンデス北高地の景観 |
ただし、単に広域調査をするだけでなく、小規模な発掘も短い期間を利用して行っている。ひとつはペルー北海岸の最北部トゥンベス市の郊外にあるガルバンサルという遺跡である。ここでは、特徴的な高杯をもつガルバンサル文化の存在をはじめて明らかにした。また、中部海岸のカスマ谷の南の海岸近くでラス・アルダス遺跡の試掘も行った。中心部だけでも幅一〇〇メートル、長さ六〇〇メートルにもなる大きな遺跡である。ここでの発掘では小さな土偶などが出土し、紀元前二千年紀にさかのぼる時代に大規模な建築活動があったのではないかと予想された。
アンデス文明の起源の解明ということになると、どうしても年代的には紀元前二千年紀から一千年紀の前半にかけての遺跡を調査しなければならない。当時の段階では、アンデス文明のはじまりは北高地南部の山中の遺跡チャビン・デ・ワンタルにあると考えられていた。それはテーヨの学説であり、ペルーやアメリカ合衆国などのほとんどの学者が定説としていた考え方であった。
チャビン・デ・ワンタルは立派な石造建築、石彫、黒光する上質の土器あるいはときによく磨いた赤色の土器などを有する遺跡で、ここに中心をすえたチャビン文化はこれらのほかに、おそらくは金細工とすぐれた織物、そしてトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、インゲンマメ、トウガラシ、カボチャ、ピーナツなどの農業生産などを発達させていたと考えられた。そしてこの文化が高地と海岸の各地に文明の基礎を広げていったというのである。いわば、チャビン文化はアンデス文明の母胎であり、その中心がチャビン・デ・ワンタルの神殿であった。
しかしながら、標高三二〇〇メートルという高度、しかもアンデスの山の中の深く狭い谷底に、どうしていきなりチャビン・デ・ワンタルの建築が出現したのか。土器や金細工、農業が、その発達の前段階抜きでいきなりチャビン・デ・ワンタルに現れるなどということがありうるのか。アンデス文明を支えた農作物のなかには、チャビン・デ・ワンタルの高度では育たないものがいくつもある。農業の起源がそこにあるとは思えない。
このような疑問がわきおこる学説の検証のためには、チャビン・デ・ワンタルに近い高地の遺跡を調査することが必要である。テーヨもまたチャビン文化の起源はどこかほかにあるだろうと考えていた。その探求の上で重要な鍵を握るのはコトシュかもしれないとテーヨは述べたことがある。
一九五八年、泉教授はコトシュを訪れた。コトシュ遺跡は北高地南部、ワヤガ川のほとりにあるワヌコ市の西およそ五キロのところにある。遺跡を見たのち、ワヌコ市の高等学校が保管していた若干の土器片を見せてもらった。明らかにチャビン・デ・ワンタルに関係する特徴的土器のほかに、それとは異なる刻線模様の土器片も多かった。それらはチャビン文化の後に現れる赤地白彩土器とはちがっており、チャビン文化よりも古くなるように思われた。テーヨの予想が当たっているとの確信を得た泉教授は、集中的な発掘調査はこのコトシュで行うべきであると決心した。
ii コトシュ発掘(一九六〇・六六年)
コトシュは、ワヤガ川支流のイゲーラス川の右岸にある直径一〇〇メートルほどのマウンド遺跡である。この頂上部から西の斜面にかけての長いトレンチの発掘から調査の仕事ははじまった。泉靖一、曾野寿彦、渡辺直経、貞末尭司が考古・人類学、前川文夫が植物学、佐藤久と岩塚守公が地理学、ほかに文化人類学の大学院生の大給近達と大貫良夫が発掘を、担当した[挿図2]。
[挿図2]現場の泉先生(左端) |
石造建築はいくつもの時代にわたって作られては壊され、埋められてきていた。その重なりを見極めつつ、発掘は次第に深さを増していった。それとともに時期によって遺物とくに土器のちがいが見分けられるようになっていった。そしてやがて明らかにチャビン文化に属する土器を出す地層と建築が出てきた。
しかし建築はまだそれより下にも埋まっていた。それらを掘ると、土器の特徴は一変した。刻線の幾何学的模様をもつ鉢が多くなった。その刻線の内部には、土器を焼いた後に赤、白、黄色の顔料が擦り込まれていた。この技法はポストコクションというものである。また、赤地にグラファイト(黒鉛)をポストコクションで区画内に塗った装飾もあった。そのような土器のなかには、鼓のような形をした鉢で、胴部に五つの人間の顔を描いたものがあった。五面土器とよんだものである[挿図3]。
[挿図3]コトシュ発掘、一九六三年 |
こうした土器を出す層の下からは、さらに別の様式の土器が現れだした。幅一センチほどの帯状の区画を刻線で描き、その内部を細かい斜めの刻線で埋め、そこに赤い顔料のポストコクションを施すことを装飾の技法とした土器である。上から見ると角を丸めた正三角形になる鉢も多かった。
チャビン文化に先立って洗練された装飾を有する土器の時期がふたつも見つかったのである。こうしてコトシュではチャビン文化をはさんでその前と後の時代区分ができあがった。放射性炭素年代測定も行い、コトシュの時代区分すなわち編年は次のようなものになった。
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コトシュ・イゲーラス期
コトシュ・サハラパタク期
コトシュ・チャビン期
コトシュ・コトシュ期
コトシュ・ワイラヒルカ期
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しかし驚くべきことに、コトシュには、これらの下にまだ立派な石造建築が埋まっていた。一九六〇、六三、六六年の三度におよぶ発掘の結果、それらの石造建築は先土器時代に属する、公共的祭祀の目的をもった建築すなわち神殿であることが明らかになった。年代測定の結果は必ずしも正確とはいえなかったが、紀元前の一八〇〇年頃かそれよりも古いことはほぼまちがいなかった。そこでこの時期はコトシュ・ミト期とよぶことにした。なお、一九六三年からは狩野千秋、松沢亜生、友枝啓泰、六六年には藤井龍彦が加わった。
神殿建築はひとつではなかった。上中下の三段で構成される基壇のそれぞれの上に、正方形の独立した建物を建てていた。上段の基壇はかなり以前に大がかりな盗掘が行われて、その際に破壊されてしまった。発掘できたのは中段と下段の基壇上の建築であった。
コトシュ・ミト期の代表的な神殿は「交差した手の神殿」である[挿図4]。一辺が九メートルの正方形、高さ二メートル、内部は壁も床も黄白色の土で上塗りされ、なめらかでつやつやした仕上げになっていた。床中央には灰の詰まった炉があり、入り口を入った正面の壁には、上塗りの土を盛り上げて作った、腕を交差させた形のレリーフがふたつ取りつけてあった。向かって左の交差した手のレリーフは腕が太く、右は細かった。おそらくは男女の差を表したものであろう。
[挿図4]コトシュ、交差した手の発掘、一九六三年 |
このような神殿建築は少なくとも三度の改築を行っていた。改築のたびに古い建物は壁が壊され、あるいはそのままそっくり埋められて、その新たに盛った土の上に新しい神殿が建てられた。基壇を支える土留め壁もその度に高くなった。基壇と基壇をつなぐ階段も作り替えられた。
チャビン文化の前に、少なくともコトシュのあるワヌコ盆地では、先土器時代に大がかりな石造神殿の建築が発達し、つぎに洗練された土器を製作する時期がふたつあった。それは紀元前二〇〇〇年頃にはじまる歴史であり、チャビン文化は少なくともそれよりも一〇〇〇年後、場合によれば一五〇〇年も後に生まれたことになる。
コトシュの発掘はアンデス文明の起源に関して、従来の定説を大幅に書き換える成果をもたらし、また文明起源の比較研究においても、理論的な見直しを迫ったのである。
iii その他の調査
コトシュの発掘に平行して、ワヌコ盆地の遺跡の分布調査や小規模ながらいくつかの遺跡発掘が行われ、コトシュでの編年や先土器時代の神殿建築の存在などに関して、コトシュの成果を補強するところとなった。一九六九年には中部海岸のラス・アルダス、サンタ川支流の近くにあるラ・パンパでも発掘を行った。また、ワヌコ市の中にあるシヤコト遺跡の発掘では、コトシュ・ミト期の神殿が放棄された後の、ワイラヒルカ期とコトシュ期において、特別の人物の墓を神殿の床上に築いたことがわかった。いずれも土器や磨製石斧、石炭製の鏡などを副葬品としてあった。
i ラ・パンパの発掘
一九七五年、新たな研究計画のもと、ラ・パンパ遺跡二回目の発掘が行われた。泉靖一教授が一九七〇年に急逝し、五年の空白の後、寺田和夫教授が新たに調査団を組織したのである。新しいメンバーとしては丑野毅と加藤泰建が参加した。
ラ・パンパでもチャビン・デ・ワンタルに関係すると見られるラ・パンパ期の建築が見つかり、さらにその下からは、イェソパンパ期と名付けた時期の存在が明らかになった。ただしその土器はコトシュの場合と異なり、むしろラス・アルダスの神殿遺跡から出土する薄手の無頚壺などに共通する特徴を備えていた。
ii ワカロマの発掘
一九七九年からは、調査の場所を北高地のカハマルカに移した。カハマルカ市のある盆地は三方を山に囲まれた標高二七〇〇メートルほどの谷間で、ここには長い期間いわゆるカハマルカ文化が栄え、最後はインカ帝国に統合された。最後のインカ皇帝がスペイン人に捕らえられ、殺されたのもカハマルカであった。
カハマルカ盆地の形成期の様相はほとんど何もわかっていなかった。幸い、地元出身の考古学者たちの協力で、市のすぐ外にあるワカロマ遺跡が形成期の層をもつらしいことを教えられ、表面調査の後ここを発掘することにした。ラ・パンパ発掘のメンバーのほかに松本亮三と関雄二が加わった。
遺跡の土層の堆積は予想以上に厚く、さまざまな時期の建築の残りが重なり合って、発掘は難渋した。また、調査が進むにつれて、小さいと思ったマウンドは隣のローマ・レドンダとよばれる別のマウンドとも関連して、結局ワカロマは三〇〇メートル四方にマウンドが配置された大きな遺跡であることが判明した。こうしてワカロマ発掘は一九七九、八二、八五、八八、八九年の五シーズンに及んだ[挿図5]。この間、カハマルカ盆地にある他の遺跡にも小規模な発掘調査を展開し、その結果カハマルカ盆地における形成期のはじめからインカ帝国時代までの、およそ三千年間の編年体系を確立することができた。また、形成期後期にカハマルカ高原に新しい土器様式とラクダ科動物(リャマ、アルパカ)の飼育を広めた、これまで未知の文化の存在を突き止め、これにライソン文化の名前を与えることになった。
[挿図5]ワカロマ発掘、一九八九年 |
これより前の形成期時代についても、ワカロマの発掘はいろいろと重要な事実を明るみに出すことになった。まずカハマルカ盆地形成期の編年が確立できた。それは次のようなものである。
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ライソン期(紀元前二五〇−一〇〇年)
EL期(紀元前五〇〇−二五〇年)
後期ワカロマ期(紀元前一〇〇〇−五〇〇年)
前期ワカロマ期(紀元前一五〇〇−一〇〇〇年)
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後期ワカロマ期では、大がかりな神殿更新が三回行われたらしいこともわかった。最後の更新でできた神殿はおよそ一二〇×一〇八メートル、高さ一二メートルという基壇の上に乗っていた。神殿本体の建築はライソン期のはじめに徹底的に破壊されたため、発掘では捨てられた壁画の断片くらいしか見つからなかった。
しかしながら、三段のテラス状にして全体で一二メートルの高さを保って神殿をのせた基壇は、かなり保存が良かった。この基壇は北西の側に幅一〇メートルの階段をもち、階段を下りた先には正方形になる半地下式広場があったようである。
さらに興味深い発見は、この大きな基壇の内部に、ひとまわり小さい基壇が埋まっていたことである。そしてその小さい基壇はさらにもうひとつの基壇を埋めたり壊したりして作ってあることも明らかになった。これはコトシュの先土器時代でも見られたように、意図的な作り替えとしか考えられず、われわれは神殿更新という慣習がかつてあったという仮説を立てた。
iii ライソンの発掘
一九八二年の調査では、ワカロマの作業と平行して、標高三一〇〇メートル、カハマルカ盆地を見下ろす山の上の遺跡ライソンの発掘も手がけた。ここでは、後期ワカロマ期の神殿がみつかったが、それは自然の凝灰岩の岩盤を削って整形し、六段のテラスにし、上下する階段もまた岩盤を整形したという、非常に変わったそしてスケールの大きな祭祀用建造物であった。最下段のテラスの壁には蛇その他の図像が線刻されていた。
この神殿はライソン期に壊され、階段は大きな石が上に置かれて行く手を阻まれるようになった。そして最上段には石英質砂岩の切石を積み上げた正方形の基壇が設けられた。おそらくここにあったはずの後期ワカロマ期の神殿は、この新しい基壇によって埋められたか破壊されたことであろう。ライソン期の基壇は一辺四〇メートル、高さ六メートルで、内部はやや荒削りの切石と土を交互に整然と積み上げて詰め物としている。主建築はこの基壇の中央に建っていたと思われるが、後世に破壊されて姿はとどめていなかった。土台部分に並んでいた石の配置からすると、直径およそ一〇メートルの円形もしくは隅丸方形の建物があったようである。そのほかに、円形の建物の土台部分の一部も残っていた。
ワカロマでもライソンでも、形成期の終末期に現れたこのライソン文化は、家畜飼育など新しい要素をカハマルカ地方にもたらしたが、同時にこの文化は、それ以前のワカロマ文化の否定者でもあった。ふたつの遺跡において、ライソンの破壊ぶりは徹底していた。おそらくライソン文化の出現とともに、社会体制にも変化が生じたことであろう。この文化は海岸地方のモチェ谷下流にまで進出し、サリナール文化との交流を行っている。
iv EL期その他
後期ワカロマ期とライソン期の間にEL期と名付けた時期があるとわかったのは一九八二年の発掘の後のことであった。そして八九年のコルギティン遺跡の発掘でもEL期の存在が確認され、それはある時間的な幅をもったひとつの時期であることが確実となった。しかしながら後期ワカロマ期の土器の特徴のいくつかを継承しつつも、それとは異なる特徴をもち、あまり大きな建設活動は行っていない、このEL期文化の正体はかなり曖昧なものとして残された。
また、一九八五年にはワカロマとの関連をカハマルカ盆地の外に広げるべく、北高地の一般調査を行い、カハマルカから西側に山を越えたところにあるセロ・ブランコの発掘を実施した。ここでは前期ワカロマ期(セロ・ブランコではラ・コンガ期とよぶ)と後期ワカロマの文化(セロ・ブランコ期)が確認され、最後はライソン期(ソテーラ期)で終わっていた。EL期は見つからなかった。代わりに、後期ワカロマ期の堆積層の上から掘り込んだ墓が見つかり、そこには北海岸のクピスニケ文化の土器や瑠璃色をしたソーダライト製の首飾りなどを伴う男性が、屈葬の形で葬られていた。高地においてこれほど明白にクピスニケ文化の品々を伴う埋葬はそれまで報告されたことがなかった。
一方、セロ・ブランコと同じ尾根の上にあり、目と鼻の先にある遺跡がクントゥル・ワシである。一九四六年にここを発掘したペルー人研究者たちの簡単な報告を見ると、クピスニケ的土器とカハマルカのEL的土器の両方がある。クントゥル・ワシ遺跡の表面に落ちている大量の土器片のほとんどはEL様式の土器である。しかしそれはとなりのセロ・ブランコにはほとんど見つからない。こうして北高地カハマルカ県の形成期文化の解明のためにはクントゥル・ワシ発掘がどうしても必要になった。
i クントゥル・ワシ
クントゥル・ワシの発掘は一九八八年から東京大学古代アンデス文明調査団という新しい研究プロジェクトとして開始し、一九八九、九〇、九三、九四、九六年と、これまでに六回の発掘調査を重ねた[挿図6]。調査は一九九七年にも計画されている。寺田和夫教授は一九八七年に世を去り、代わって大貫良夫が代表者となった。また井口欣也と坂井正人が、さらにのちには数人の大学院生が加わるようになる。
[挿図6]クントゥル・ワシ発掘、一九九六年 |
発掘によりまず編年が明らかになった。後にさらに発掘が進み、年代測定の結果が多くなって、目下のところクントゥル・ワシの編年は次のようなものとなっている。ただしこの地方の形成期最古のラ・コンガ期はクントゥル・ワシ遺跡にはなく、セロ・ブランコでその存在が確認された。
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ソテーラ期(紀元前二五〇−一〇〇年)
コパ期(紀元前四五〇−二五〇年)
クントゥル・ワシ期(紀元前七五〇−四五〇年)
イドロ期(紀元前一一〇〇−七五〇年)
(ラ・コンガ期)(紀元前一五〇〇−一一〇〇年)
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クントゥル・ワシ遺跡におけるイドロ期の建築は部分的なことしかわかっていない。基壇と広場があったようで、基壇の石壁には厚い粘土の上塗りが施され、その表面は白く塗られていた。同じ白塗りの仕上げは基壇の上の建物の床や広場の床に対しても認められた。これらの建造物は次のクントゥル・ワシ期の建築を作る際に大規模に破壊され、あるいは一部が新しい建築の下に埋め込まれた。
クントゥル・ワシ期の祭祀建築は、三つの基壇をU字形に配置し、正方形の半地下式広場を囲むものであった。広場には暗渠式のカナルの入り口が設けられ、カナルは広場や基壇の床下を通過して山の斜面へと導かれていた。基壇と半地下式広場の組み合わせはクントゥル・ワシ遺跡の小山の頂上部全域でいくつか見出されている。
中央の半地下式広場に面した階段からはジャガーの顔を浮き彫りにした石彫が二点、階段の一部として本来の位置にあるままで見つかったのである。これらの石彫はそれまでまぐさ石(dintel)と考えられていたが、実はそうではなく階段の石であった。
クントゥル・ワシ期に建設された中央基壇の床下にはいくつかの特別の墓が作られていた。このうち四つの墓には、金細工はじめ石や海産の貝のビーズや土器が伴い、遺体には朱が撒かれていた。金製品には冠、耳飾り、胸飾りまたは鼻飾りなど、形が大きく、非常に洗練された打ち出し模様があり、高い芸術性を備えた逸品である。
クントゥル・ワシ期に続くコパ期では、U字基壇と広場複合は継承され、しかも何回かの更新を繰り返した。コパ期の土器はクントゥル・ワシ期のようなわかりやすい図像を使う模様構成は少なくなり、幾何学模様が圧倒的になる。そしてその特徴こそがカハマルカ盆地のEL期の土器と共通する。つまりカハマルカ盆地のEL期とは、クントゥル・ワシのコパ期の文化だったのである。
コパ期に関しては一九九六年の発掘で新しい発見があった。頂上部南隅の基壇の下からコパ期の土器を伴う墓が四基見出され、そのうちの二基からは金の装身具が出てきた。またこれら二つの墓には朱が撒かれていた。金製品は冠、首飾り、耳飾り、毛抜きなどであった。
これらコパ期の墓に接してもうひとつ、クントゥル・ワシ期の墓も見つかった。そこには蛙を象った赤・白・オレンジの色を塗った鐙形壺と直径二三センチの円盤状の金製の胸飾りがおかれてあった。
ii クントゥル・ワシ博物館の建設
一九八九年、クントゥル・ワシの出土品とくに金製品や墓の副葬品の保管をめぐって、クントゥル・ワシ村、近くのサン・パブロ市、そしてペルー国政府との間で意見の違いがあらわになった。われわれは遺物の重要性に鑑み、保管の安全を図るとともに、発掘の成果を地元にも残す方向を模索した。その結果、クントゥル・ワシ村に博物館を建設し、出土品を展示し、クントゥル・ワシ調査の成果を地元に還元することにした[挿図7]。一方、金製品についてはレプリカを作成し、地元にはそれを展示し、本物は安全のためリマの国立博物館で保管展示することで、地元ならびにペルー政府の了解を得た。こうして一九九四年一〇月一五日、クントゥル・ワシ博物館はアルベルト・フジモリ大統領出席のもと、開館を迎えた。
[挿図7]クントゥル・ワシ遺跡と麓の博物館 |
博物館の運営は、クントゥル・ワシ村の農民が行っている。すでに二年半経過し、維持に要する資金以外には大きな問題がなく、運営と管理はきちんと行われている。またカハマルカ、チクラーヨ、トルヒーヨその他三十以上の市町村の大学や学校、役所などの場所で、クントゥル・ワシ農民を講師とする講演会が開催されてきている。
博物館は、クントゥル・ワシの村人を結束させ、そのアイデンティティを強化し、自分たち自身に誇りと自信を与えた。クントゥル・ワシ遺跡は単に過去の遺跡ではなく、現代のクントゥル・ワシ村の統合と誇りのシンボルとなった。村人は一致してクントゥル・ワシ遺跡を盗掘から守ることの重要性を認めている。外部から盗掘者が入り込むことは不可能である。また、自ら遺跡の周囲に耕作限界線を設け、遺跡の保存を実行している。
クントゥル・ワシ博物館は、遺跡と考古学調査が地元社会に対してもつ意味について、また、遺跡保存への地元住民の参加の重要性について、また住民の積極的参加を基礎にした地域開発のあり方に関して、研究者や国の行政機関に多くのことを示唆しており、今後しばらくのあいだその経過を見守ってゆかねばならない。