【序文】

テッラ・コグニタとテッラ・インコグニタ

既知なる世界と未知なる世界

青柳 正規
東京大学文学部教授



 紀元前三三一年にアレクサンドロス大王が着手したアレクサンドリアの港湾施設と都市の造営事業は、ディアドコイの一人プトレマイオス一世ソテルによって継承され、エジプトを支配するプトレマイオス朝の都として整備されていった。プトレマイオス一世はこの新たに建設された都市の三分の一近くを占める王宮地区(バシレイア)のなかに、図書館、博物館、動物園、植物園のような施設を擁する学術研究総合センターとしてのムセイオンの設置に着手したのである。現代のスミソニアン・インスティテューションのようなセンターである。

 紀元前三世紀初頭に学術研究総合センターとしてのムセイオンが生まれた理由としては以下のような社会的、文化的状況が考えられる。まず第一に、アレクサンドロス大王はギリシア本土はもとより、小アジア、シリア、パレスティナ、エジプト、リビア、さらにはメソポタミアやペルシアからアフガニスタンにまでも足跡をのこし、ごく短期間にギリシア世界の範囲を以前とは比べようもないほどに拡大した。この新たに生まれたギリシア世界つまりオイクメネ(ギリシア人が認識する世界)の全体像を把握するため、その範囲に生息し、存在するあらゆる動物や植物を集めるだけでなく、そのなかに含まれる文化が生み出したさまざまな文物も蒐集し、具体的かつ明確な世界像をつくるためと考えられる。

 二番目の理由は、哲学ではソクラテス、プラトン、アリストテレスらがすでに輩出し、三大悲劇詩人のような天才による文学が確立しており、美術においてもフェイディアスをはじめとする巨匠が数多くの傑作を生み出していた。これら過去の文化水準を凌駕することはもはや困難というよりも不可能にちかく、むしろそれらを蓄積し分類することこそがつぎなる文化の活力を生み出すための最良の方策と考えたのではないかと推定される。もちろん、その背景にアレクサンドロス大王の後継者としての地位を確立しようとするプトレマイオス一世の政治的企図があったことはいうまでもない。

 以上のような状況と目的があったとはいえ、ムセイオンのような施設が突然に出現したわけではない。ムセイオンが出現するまでに、その雛形ともモデルともいえる施設がすでに紀元前六世紀の半ばころからギリシア世界には存在していた。それがピナケスを収納しておく倉庫という意味をもつピナコテケであり、いわば宝物館のような施設である。ピナケスは現在でいえばタブロー画のような絵画もしくは浮彫で、日本の神社で見かける絵馬のようなものである。ギリシアの神殿や聖域ではさまざまな祈願の際、あるいはその祈願が成就した際、神々への奉納品を神殿に納めた。この奉納品のなかに絵馬のようなピナケスがあり、それらを収蔵しておく場所がピナコテケであった。初期の段階ではピナケスを収蔵しておくだけの機能しかもっていなかったが、やがて、そのなかの名品や貴人が奉納した由緒あるものを選び出して展示もするようになったのである。

 展示をするにはピナコテケにある膨大なピナケスを分類整理する必要があり、その任に当たったのが市民のなかでも名声のあるヒエロポイオスである。実際の作業はその配下の神殿奴隷が行ったと推定されるが、ヒエロポイオスが中心となって、奉納品を受領するごとに寄進者の名前と出身地、寄進された日付、奉納品の種類、材質、寸法、重さなどが記載され、分類されてピナコテケに納められた。つまり、現在の博物館における学芸員の仕事に似たことが古代のギリシアではすでに行われていたと考えることもできる。

 このような奉納品がもっとも多く、またもっとも広い範囲から集まったのがデルフォイのアポロン神域である。ギリシア本土はもちろんのこと、地中海域や黒海沿岸の広範な地域に植民活動を展開したギリシア人は、開戦や終戦、植民者の新たな派遣などあらゆる重要なことがらに関してはデルフォイの巫女に伺いを立て、神託を授かった。つまり、ギリシア人が住む広大な範囲からの重要なできごとの情報がデルフォイに集まり、しかも、何月何日にどこどこと戦争を開始したといった情報もデルフォイには蓄積されていった。デルフォイではそのような情報を集積・分類するだけでなく、神託を授かる際に納められた奉納品も同様に分類整理されていた。整理の方法は基本的にはどこの町(ポリス)のものかということが基本になっている。つまりポリスの名前に従ってさまざまな情報や奉納品が整理分類されていたのである。

 このような情報や奉納品の蓄積システムがあったからこそアレクサンドリアのムセイオンが設立可能だったのである。しかし、そこに集まる研究者にとって検索の手段が地名と日付だけでは十分な研究を推進することは困難である。したがって、アレクサンドリア図書館の便覧ともいえる『ピナケス』を著したカリマコスは、図書館に収蔵されている文献を修辞学、法学、悲劇、叙情詩、歴史、医学、数学、自然学、雑録という主題別に分類し、そのなかのどのようなものがすばらしい本であるかを詳しく記述していたという。このことはポリスの名前つまりトポス(場所)という検索項目だけでは膨大な知的情報の分類および検出が不可能となっており、主題別にも分類することが必要になっていたことを示している。したがって、十八世紀のフランスに台頭する「百科全書派」とか近代の博物学といった分野が紀元前三世紀から紀元前二世紀にかけて生まれ始めていたと考えることもできるのである。

 アレクサンドリアのムセイオンのなかでもっとも輝かしい評価を与えられていたのは図書館である。そこには四十万あるいは七十万という大変な数の蔵書がおさめられていたという。プトレマイオス朝歴代の王が蒐集に努めたからである。かれらはどこそこのギリシア都市に貴重な本があるというと、膨大な金を使ってそこに筆写生(写本をつくるための専門家)を派遣して原典から正確な写本をつくらせ、その写本をアレクサンドリア図書館におさめて蔵書コレクションを充実させていった。また、原典を売ってくれるところがあれば、大金を出してでもそれを買い求めていたようである。かれらのなかには、わざわざ筆写生を派遣して写本をつくるのは大変であるからといって、貴重書の価値に見合う金額を預託することによって原本をアレクサンドリア図書館に借り出し、預託金自体は大したことがないからと、結局、原本を返却しないままで終わらせてしまうことさえあったという。

 西洋古代世界最大の蔵書を誇るアレクサンドリア図書館は残念なことに紀元前一世紀から紀元後一世紀にかけてのあるとき、火災によってその蔵書を完全に焼失させてしまった。火災の原因と正確な年代に関して古代の文献はなにも記していないが、カエサルがポンペイウスを追ってアレクサンドリアに滞在していたときがもっとも可能性が高いと推定されている。ムセイオンの設立に関する当時の文化状況についてはすでに述べたとおりであるが、設立にいたる背景として忘れてはならないもう一つの理由がある。それは、プトレマイオス朝が成立する以前のファラオ時代のエジプトにおいて、少なくとも二度にわたるアフリカ大陸の大調査旅行が行われていたということである。

 最初はハトシェプスト女王のとき、したがって紀元前一五〇〇年頃、紅海を南下して現在の東アフリカと推定される「プントの地」まで航海し、その地の没薬や黒檀それに珍獣などを持ち帰ったという。二度目はファラオのネコス(ネコ)がフェニキア人の船団に、紅海を南下してアフリカ大陸を一周し、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)から地中海に入ってエジプトに戻ることを命じた航海である。この航海の際、リビア(アフリカ)では太陽が右手にあったとヘロドトスは記している(『歴史』第四書四十二節)。そのことは、北半球では太陽の運行が天頂の南、つまり左側を通るのに対して、南半球では天頂の北側、つまり右側を通ることを指しているものと推定され、その新知見こそがアフリカ大陸周航が実際に行われた証拠であるとみなす研究者もいる。また、紀元前四八○年頃、カルタゴのハンノはすでに交易関係にあったモロッコを周航して現在のセネガル川のあたりまで航海したようである。

 以上のような調査や航海の記録もしくは情報がファラオ時代のエジプトには蓄積されており、その情報をプトレマイオス朝時代のギリシア人が継承したことは十分考えられる。すでに多くの知識が集積されている既知の世界と、未知の世界もしくは断片的にしか判明していない土地の区別こそが、ムセイオンを設立する大きな目的であり、未知の世界に対置される既知の世界が有するさまざまな情報の集成こそがムセイオン設立の最大の目的だったのである。そのような目的を掲げる背景として、数次にわたる未知の世界への調査旅行が大きく作用していたことは十分に想像することが可能である。

 既知の世界と未知の世界を区別して認識する方法はギリシア人が生み出したものであり、既知の世界をギリシア人はオイクメネと称した。ギリシア文化の最良の生徒といわれるローマ人もこの認識法を継承し、既知の世界をテッラ・コグニタ、未知の世界をテッラ・インコグニタと称した。この認識法は新大陸が発見されてから大航海時代にいたるまで、西洋の世界を認識する方法として基本的に受け継がれていく。

 新大陸発見にいたるまでの十四、十五世紀、ヨーロッパ人は多くの新たなる航海を行っているが、そのような危険をともなう航海を可能にする航海術や観測機器の発達に大きく貢献したのが、ポルトガルのエンリケ王子が一四一九年に開設した外洋航海に関する研究所である。そこでの主な研究調査は、遠距離を航海できる高速帆船の開発、遠洋航海に不可欠な天文学、地図学の研究推進と羅針盤のような航海測量機具の実用化などである。その結果、一四四五年にはアフリカの西端のヴェルデ岬が発見され、一四五七年にはイギリスのさらに北の北緯一〇度までの航海が可能になったことである。エンリケ航海王子の功績はそれにとどまらず、研究所設置による総合的な研究の組織化と、その推進によって得られた新知識を蓄積できる制度を確立したことである。したがって、王子の死後も喜望峰に到達し、インド航路が発見されるという成果が続いた。一四九二年のコロンブスの新大陸発見は、このような組織的準備がなされていた結果である。

 新大陸発見は、ヨーロッパの学問のあり方と知の認識法に大きな衝撃をもたらした。新大陸を発見するまでのヨーロッパにおける「世界」の認識法は、ギリシア・ローマ時代のそれと基本的に同じである。つまり、ヨーロッパ人がなれ親しんでいる「既知の世界」と、その外側にある中国、インドのような「未知の世界」とを区別して認識することであり、未知の世界にはその地固有の文化があり、中国人やインド人はかれらなりに植物に名前を与え、動物にも名前を与えているが、ギリシア・ローマ以来の伝統を有する西洋人のほうが進んだ文化と学問をもっているという認識であった。したがって、未知の世界ではあるが、それらの土地にはそれなりの文化があるという経験的、実態的な認識をしていたという点で相対的に未知の世界なのであり、絶対的な未知の世界というわけではなかった。

 しかし、新大陸が発見されると、そこは真に未知の世界であったことが判明する。つまり、新大陸にはヨーロッパ人が相対評価できるような状況はまったくなかった。このため、新大陸を旧来の「未知の世界」と同じように認識できる世界とする必要があり、動植物や山河にも何らかの名前を与えていかなければいけなくなった。コロンブスの『航海記』を読んでいると、小さな岬や入江にまでことこまかな名前をつけ、旧大陸では目にすることのできない鳥が飛んでいると即座に名前をつけている。動植物などに命名することによってまったく未知でただ存在するだけの土地が、認識の上で存在するようになったのである。命名されたものが存在するようになって「未知の世界」の存在がはじめて証明されたのである。つまり命名者は創造主のような絶対者として新大陸に君臨することになったのである。

 そのような作業のなかでスペイン人は南アメリカに対してキリスト教の圧倒的な優位性を証明すると同時に、新大陸はあくまでも自分たちの住んでいる世界とは違うという切り離しをしていた。たとえば新大陸に渡った人々はインディオをヨーロッパにつれてきて祭りのときなどに見せ物にするとか、自分たちとはまったく違う人間のような生き物でしかないという分類をした。また動物の場合でも、旧大陸の動物と似ている種類ではあってもまったく異なる動物として区別し、やはり見せ物の対象としたのである。それが十六世紀末までのヨーロッパの認識法であった。しかし、インディオは厳然とした人間であり、新大陸からのさまざまな植物も植物であることには変わりがないことが徐々に認識されるようになってくる。そうすると、いったい人間とは何か、植物とは何か、動物とは何かということがあらためて考察されるようになり、新大陸の動物も旧大陸の動物と同じ動物としてくくられ、そのなかで分類される必要に迫られていく。そのような本格的な分類法が模索されるようになるのは十七世紀に入ってからである。

 その後の分類学の発展に関して、多くの専門家がすでに詳しく述べているのでここでくり返すことはひかえることにする。ただし、分類学の発展にとって相対的な未知の世界からもたらされる発見が大きな契機となったことを忘れてはならない。その意味で分類学は、既知の世界の既知なるものの密度を増すシステムであると同時に、未知なる世界における新知見を蓄積・整理するシステムとみなすことも可能であり、このシステムの発展に未知の世界へ派遣されたさまざまな調査団の成果が大きく貢献したのである。そのことは、一方で、さまざまな調査団が派遣されても、その調査団が獲得した新知見を蓄積、整理し、分類されて活用できるシステムもしくは施設がなければせっかくの新知見もその価値を十分に発揮できないことになる。そのために、分類学があり、博物館が設置され、さまざまの図鑑や事典が出版されるのである。これらのシステムと施設やメディアは、未知の世界へ船出する調査船の母港のようなものであり、それなくしては結果として漂流の憂き目にあうことにさえなるのである。

 これまでのわが国が派遣した数多くの海外調査団のその多くが大学を母港としていたのは大学自体が知の蓄積装置としての機能を有していたからである。とくに東京大学は創立当初から総合大学としての枠組みを有しており、学問の現状がさらに総合的、学際的、横断的となり、融合化とシステム化を進めている現代にあって、その役割を一層強化していく必要がある。しかし、その機能のいっそうの充実のためには、還元主義の研究だけでなく分類学のような知の総体を蓄積できる学問領域のさらなる充実発展が必要であると同時に、学術情報の蓄積が情報メディアの発達によって分散化を可能としているがゆえに同じクライテリアによる個々の集積と全体を検索可能とする方策が必要となっているのである。そのような展開こそが「母港」の整備なのであり、さらに遠隔の時空にある未知なる世界への「精神のエクスペディシオン」が可能となるのである。




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