第一部

記載の世界




刷る

近代的な印刷技術の確立する以前には、文字の印刷に版木が使われていた。版木は各版ごとに準備しなくてはならないが、その反面、版木が磨耗しきるまで、何度でも刷り増すことができる。そのため、活字による印刷が可能になってからも、長い間にわたって、版木は廃れることなく利用され続けた。とくに用字数の多い漢字文化圏では、版木の利用価値が高かったのである。



  デジタル画像システムによる画像復元と文化財保存
西野嘉章+神内俊郎



  デジタル画像システム(DIS:Digital Image System)とは、コンテンツの入力から出力までのプロセス全体を一貫してデジタル処理するシステムの総称である。この新技術はこれまで眼にすることのできなかったオリジナル画像の仮想復元を可能にするものであり、結果として歴史的・芸術的な文化財の保存・修復に大きく寄与する。

  本研究はいまだ緒に就いたばかりであり、いまだ具体的な成果を問う段階に至っているわけではない。しかし、今回の展示を機に研究の進捗を報告しておくことも、あながち無駄ではないだろう。


  様々な画像処理技術とそれらの応用可能性
  絵画、写真、図面、学術標本、貴重書など、歴史的・学術的・審美的な価値の認められるコンテンツを超高精細デジタル画像としてコンピュータに取り込み、使用目的に応じて様々な画像処理を施し、そのデータをマルチメディア・データベースとして恒久的に保存すると同時に、デジタル・ネットワークを利用して情報発信したり、高精細表示装置から超高精細画像を自在に引き出したりできる応用システムを構築する、というのがわれわれの狙いである。

  デジタル画像システムでは、現在のところ、以下のような画像処理が可能である。すなわち、

画像拡大 —— 超高精細画像を表示機器の能力に応じてデータ変換し、劣化のない拡大画像を表示する。

修復復元 —— オリジナル画像に付着した染みや汚れ、あるいは損傷といったものを除去し、できるだけ制作当時の状態に近いものを復元表示する。

色調復元 —— 経年変化で退色し、劣化した画像を、制作時の色調に復元して表示する。

視点変更 —— オリジナル画像に対し、視点変更処理を行い、異なる角度からみた画像を生成表示する。

画像合成 —— 複数の画像を結合し合成画像を生成表示する。

  こうした技術を実現するデジタル画像システムは、それらを単独で適用するか、さもなければいくつかの技術を複合させることで、以下のような博物館事業に寄与することができる。

  たとえば、デジタル画像アーカイヴもこの応用例の一つである。それは、コンピュータへオリジナル・ソースに関する情報を遺漏なく取り込み、超高精細にして高精度なデジタル・データへ変換し、それらを経年変化の虞のない画像データベースとして永久保存するというもの。これはデジタル情報の特性を活かすもっとも単純な方策と言える。

  また、情報発信にも適用可能である。すなわち、高精細画像データを圧縮して通信回線を介して発信することでもって、世界各地の博物館施設や学術情報センターとの情報交換業務を行い、結果として情報発信源としての社会的な役割を高める。

  さらに、マルチメディア・プレゼンテーションに応用するとどうか。データベースからの検索をインタラクティヴに行い、音楽やナレーションなどのデジタル音響効果をつけ、高精細モニターや大画面ディスプレイに再生してみせることができる。また、高画質プリンターと接続することで、高品位のレプリカ作製やカタログ印刷など、幅広い応用も可能となる。


  デジタル画像システムの具体的な応用例
  伊能忠敬が寛政一二(一八〇〇)年に幕府の命を受けて作成を始めた『大日本沿海輿地全図』は、日本人が近代的測量技術を用いて作り上げた最初の日本地図として知られている。しかし、その地図が実際にどのようなものであったのかを知っている人は、ごく少数の専門家を別にすると、あまり多くないはずである。なぜなら、伊能忠敬の製作した地図は、原図はもとより、その模本もまたごく僅かしか残されておらず、しかもそれらは容易に開陳し難い大きさを有しているからである。国内を覆うすべての部分図が仮に揃っていたとしても、実際にはその全貌を総覧することができない。こうした巨大地図は、おそらく城内の大広間のようなところに広げられ、人々はその周りを経巡り歩きながら地図を眺めたに違いない。そのためだろうが、地図にある文字はすべて周縁から読めるような角度で記載されている。しかし、地名に関わる文字はどれも細かすぎて、地図の周りに立っただけではその内容を読みとることができないのである。要するに、この地図は全貌を「観る」(マクロ視)には大きすぎ、細部を「読む」(ミクロ視)には細かすぎるという、自己矛盾を本質的に孕んでいるのである。

  われわれの企ては、マクロ視とミクロ視を同時実現する方策を提示すること、すなわち、製作を指揮した伊能忠敬でさえ眼にすることがなかったはずの画像を、デジタル画像システムの先端的な技術を応用することでもって獲得してみせることにある。

  伊能地図は三つの異本の存在が確認されている。それらなかでもっとも重要なものとされていたのは、伊能家伝来のものとされる旧東京帝国大学蔵本の八舗組『大日本沿海輿地全図』、通称「伊能中図」と呼ばれるものであった。しかし、不幸なことに、この地図は大正一二(一九二三)年の関東大震災に被災した。たまたま「関東部」が大学図書館に展示されており、他の貴重図書とともにそれが焼失してしまったのである。爾来、不完全本として旧総合研究資料館に受け継がれ、現在は総合研究博物館地理部門の管理下にある。

  今回、総合研究博物館の西野研究室は株式会社日立製作所と協力して、東大本の欠損部を東京国立博物館蔵本の同一箇所でもって補うかたちで地図の全体像をデジタル画像として復元することにした。また同様に上記地理部門の所蔵になる開成所印行版本『官版大日本地図』(四舗一組)、通称「伊能小図」の全体図も併せてデジタル画像復元することによって、両者の比較検討材料を広範な層に提供することにした。

  なお、今回の共同研究には地理学の専門家の参加を仰ぐことができなかった。ために、地図の見方や地図に関する専門的なデータについては、素人の判断、知識をもって充当せざるを得なかった。しかし、われわれの研究課題は、デジタル処理技術による画像復元の可能性と文化財修復・保存の課題について研究を行うことにある。したがって、伊能地図は、あくまでこの研究課題を追究する上での、利用可能な事例の一つに過ぎないということを予めお断りしておきたい。


  「伊能中図」のデジタル画像復元
  現存の東大本「伊能中図」は、32aからわかる通り、日本列島とその周辺地域を都合八つの部分に分割している(「関東部」は東博本のそれを補填してある)。これら八枚の部分図を用いて一枚の全体図を復元するにあたっては、原図の有する画像情報をできるだけ良質のフィルム媒体に移し替えねばならない。われわれは8×10インチと4×5インチにょる八部分それぞれの全図カラー写真計十六カットと、さらに4×5インチによる部分カラー写真百カット以上を用意し、それらをデジタル・スキャナーで読み込み、元データとすることにした。

  これらの元データはデジタル画像システムによって貼り合わされることになった。そのさい、特殊な処理技術を使って画面を加工する必要が生じた。すなわち、明らかに後代のものと思われる汚れやシミを除去し、さらに退色した部分の色彩を補うことになったからである。また、保存状況の違いによって、とくに画面の周辺部などに傷みや退色が見られたため、これらについても全体との調和を考えながら色補正を行った。

  画像レベルでのこうした加工や補正の処理は、現代のデジタル技術をもってすればいかようにも実行可能である。しかし、ことが文化財の画像保存ないし画像復元ということになると、かなり微妙な問題を孕んでいる。すなわち、良質の画像を得るためには加工や補正が必要であるとする積極的な考え方がある一方で、加工や補正をすることによって最終的に得られる画像がオリジナルからますます遠ざかることを危倶する考え方も当然あり得るから。こうした、考え方の相反は、従来から行われている伝統的な修復の現場においても起こることであるが、しかし現実には、いまだに明確なコンセンサスを得るに至っていない。

  要は、同じ問題がデジタルの画像処理においても生じるということである。われわれの選択は画面のレタッチを最小限に留めることであったが、それでも結果的にはかなりの加工処理を施さねばならなかった。というのも、表具のなされている東大本は地図面の一部が縁に隠されている箇所、あるいはそれが裏面にまで回っている箇所がかなりあり、したがって、現状のままでは個々の部分図を結節できないからである。そうした箇所については、色の調整を計る技術と、変形箇所の位置合わせをする技術とを併用する必要が生じ、最終的にはそれによって画像の合成を行った。元データに以上のような画像処理を行って得られた全体復元図が32a、bである(なお、この図は未だ未完成の状態にあり、今後さらに東大本と東博本の色調の差異を補正したり、合成痕を修正する作業が残されている)。


32a、32b(関東部)
32a 『大日本沿海輿地全図』(七舗)
江戸時代
紙本に着色
総合研究博物館地理部門蔵
32b 『大日本沿海輿地全図』(関東部一舗)
デジタル画像原寸復元図
協力=日立製作所
総合研究博物館蔵

32c/32d
32c 『大日本沿海輿地全図』(全図)
一五〇インチ・デジタル・ディスプレイ一台による画像復元
協力=日立製作所
32d 『大日本沿海輿地全図』(全図)
二一インチ・デジタル・ディスプレイ三台による画像復元
協力=日立製作所

巨大な地図をデジタル化することでもって、これまでにない新しい視点を獲得することができる。複数の画面からなる地図を一図に合成すると、全体を瞬時にして眺めることができる。また遠・中・近と視点を変えながら地図を読むこともできるし、それぞれの視覚の水準で、地図のなかを自由に歩き回ることもできる。
  総合研究博物館にある八舗組『大日本沿海輿地全図』は伊能家伝来の貴重なものだが、不幸なことに大正一二年の関東大震災のさいに「関東部」を焼失した。本展示にあたっては、東京国立博物館蔵の異本より焼失部を補い、全体をデジタル画像として復元してある。

  場合によると、これを「復元図」と呼ぶことには異論があろうかとも思う。なぜなら、東大本と東博本は32a、bからも判る通り、伊能図と系統分類されてはいみものの、実際には描画技術や地図情報のレベルでかなりの違いを見せている。それを合体させることは、したがって、これまで存在した試しのないものを創り出すということであり、「復元」と言うには当たらないからである。しかし、現代のわれわれは、制作者本人ですら眼にすることのできなかった巨大地図の全貌を目の当たりにできるし、また、欠部のあった東大本は、東博本を基にして得られた仮想的な原寸大レプリカを補填されることでもって、「全体」の姿を整えることができる。われわれの製作した「デジタル伊能地図」は、オリジナルの復元でもなく、かといって徒な捏造でもない、その意味でまさに両者の中間に位置づけられるべき性格のものなのかもしれない。


  「伊能小図」のデジタル画像復元
  版木を基にして作られた『官版大日本地図』(通称「伊能小図」)の復元作業も、上記の方法とほとんど同じプロセスを辿った。ただし、開成所開版の東大蔵本の現状は、裏打ちがなされているとはいえ、かなりの箇所に虫損が生じており、決して良好なものではない。そのため、画像復元にあたっては、下記の通りの元版木の現存する箇所について、それらから得られた画像情報で欠落を補うことにした。

33c33b
 
33a[不掲載]
『官版実測日本地図』(「畿内・東海・東山・北陸」、「山陰・山陽・南海・西海」、「北蝦夷」、「蝦夷諸島」の四舗一組)
幕末・明治時代
紙に彩色木版
総合研究博物館地理部門蔵(s.10388/11)

33b
『官版実測日本地図』の「山陰・山陽・南海・西海」部の版木三枚
幕末・明治時代
桜材
総合研究博物館地理部門蔵

33c
『官版実測日本地図』
二一インチ・デジタル・ディスプレイ三台による画像復元
協力=日立製作所

これまでのところ古版木から印影を起こすには刷り師の手を借りるしか方法がなかった。しかし、こうした方法は、いかに注意深く行っても版木を疲弊させるものでしかない。しかし、デジタル画像解析技術の進歩によって、版木に直接手を下すことなく刷り上がりの画像を手に入れることができるようになる。この非接触型画像復元法によって、これまで以上に古版木の活用度が高まることは間違いない。

  総合研究博物館の地理部門には、「伊能小図」中の九州地域の一部を作製するさいに使われた版木が三枚残されている。33bに掲げたものはそのなかの一枚である。三枚の版木の表面はすでにかなり磨耗しており、また中央部に大きな亀裂の入っているものもある。

  われわれはまず、地図の場合と同様のプロセスで、版木の映像をデジタル化し、画像処理によって亀裂の入った箇所を貼り合わせる作業を行った。次に、その映像を左右反転させ、ハイライトを強調する(33c)。現状では、まだ明確な画像を得るまでに至っていないが、もし転写像から明確な輪郭線のみを抽出することができたなら、現存する版木を傷めることなく「デジタル版画」として小図の一部を復元することが可能になる。

  これまでのところ、古版木から印影を起こすには刷り師の手を借りるしか方法がなかった。しかし、そうした方法はいかに注意深く行っても版木を疲弊させるものでしかない。また、仮にそれを実行できるような外的条件が整っても、複数の版からなる多色版の場合には、それらの版木すべてが良好な状態で組み上がるかどうか保証の限りではない。というより、版木の乾燥が進み、版ズレの生じている場合が多い。そうした障害を伝統的な職人技術でもって克服することもいまならまだ可能だろう。しかし、伝統的な技術の廃れつつあるなかで、将来は分からない。そうしたなかで、デジタル画像処理技術によって、版木に直接手を下すことなく、刷り上がりの画像(デジタル版画)を手に入れることができる、その意義は少なくないはずである。この非接触型画像復元法が完成されたなら、これまで以上に古版木の活用度が高まることは間違いない。



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