第二部

活字の世界




駿河版銅製活字

慶長一二(一六〇七)年駿府に隠居した徳川家康が、林道春(羅山)と金地院崇伝に命じて造らせた金属活字。総数は約十一万本強と推定される。これらは国内で最初に造られた銅活字である。木製の種字から父型をとり、銅を流し込んで鋳造された。鋳造は慶長一一(一六〇六)年から元和二(一六一六)年にかけ、三度に亘ってなされた。鋳造技術は貨幣鋳造のそれと共通している。家康没後火災に遭って焼けたが、一部が紀州徳川家の南葵文庫に伝えられ、昭和一五年に凸版印刷株式会社の所有するところとなった。現在、銅大字一箱八百六十六個、銅小字十七箱三万一千三百個、木活字五箱五千八百十三個、銅罫線八十八個、銅輪郭十八個、摺板二面が保存されている。




34a 駿河版銅大活字一箱(国指定重要文化財)
慶長一一(一六〇六)〜元和二(一六一六)年
活字標準寸法縦一・六cm、横一・二cm、高一・八cm
凸版印刷株式会社蔵


34c 駿河版摺板・銅罫線・銅輪郭一揃い(国指定重要文化財)
慶長一一(一六〇六)〜元和二(一六一六)年
縦二四・六cm、横三五・七cm、厚三・七cm
凸版印刷株式会社蔵
34b 駿河版銅小活字一箱(国指定重要文化財)
慶長一一(一六〇六)〜元和二(一六一六)年
活字標準寸法縦一・二cm、横〇・八cm、高一・八cm
凸版印刷株式会社蔵

34d [不掲載]
駿河版銅活字製作過程(百瀬宏による復元)
タッチ・パネル式展示
総合研究博物館製作

35 駿河版『群書治要』(全四十七巻のうち四十一巻)
元和二(一六一六)年
徳川家康刊
縦二七・三cm、横一九・〇cm
凸版印刷株式会社蔵

「駿河版」として知られる古活字本には、本書の他に『大蔵一覧集』(全十一巻、一六一五年)がある。本書は八行十七字詰、細字双行。唐の魏徴等の選になる『四書五経』他の多くの古典のなかからとくに政治と関わりのあるものを抜粋し、抄録、集成したもの。家康はこうした儒教書を大量に印刷し、李朝にならって儒教思想による国家統一を企てていた。中国では宋の時代に散逸したと言われ、一部も現存していない。日本に将来されたのは平安初期で、本書もまたそれを底本としている。全五十巻からなるが、第四、第十三、第二十の三巻は編纂の時点ですでに失われていた。



  駿河版銅活字 —— その歴史的・技術的由来の探索
百瀬 宏


  日本最初の銅活字誕生の記録
  日本で最初に鋳造された金属活字は、一五九〇年代に初めてキリシタン版用に鋳造された鉛活字であるが、次に現れたのが一六〇六年に鋳造された銅活字であった。

  豊臣秀吉が朝鮮に出兵した翌年、文禄二(一五九三)年に手中にした李朝銅活字が日本に持ち帰られた。秀吉はこれを後陽成天皇に献上したが、その後徳川家康がこの朝鮮銅活字にならって慶長一一(一六〇六)年から元和二(一六一六)年にわたって十一万余個の銅活字(一部木活字)を作った。これは後世駿河版活字と呼ばれ、その三分の二は失われたが、銅大字八百六十六個、銅小字三万千三百個、木活字五千八百十三個と銅罫線、輪郭、摺板などが、現在に伝承されている(展示番号34参照)。

  これは日本で最初に鋳造された銅活字であるばかりではなく、これで印刷された駿河版『大蔵一覧』や『群書治要」に見られるような江戸時代初期の大出版事業を生み出す原動力として、歴史的、文化的に特別の意義を持つものとなった。


  『慶長日件録』
  慶長八(一六〇三)年二月、徳川家康は征夷大将軍となり、幕府を樹立した。慶長年間はこの意味から、一般的には日本の歴史にとって政治的、社会的に重要な年となった。しかし同時に家康は英明好学な後陽成天皇のご意向に共鳴して、文化面からもこの時代を象徴的なものにした。

  舟橋秀賢の『慶長日件録』(1)には次のように記されている(抜粋編集、括弧内は原文にはない。以下同じ)。


慶長十年四月廿八日、早朝主上(後陽成天皇)番所へ出御、前大樹(家康)銅鋳一字板(銅活字)十万字、可有調之由。
七月廿五日、円光寺より銅鋳一字印、可備叡覧之由被示。
廿八日、長崎御局(禁中)へ参、高麗銅一字印、返進上之、自將軍、銅一字印、令新調可被進之由、申上畢。
慶長十一年四月朔、己亥円光寺より書状到来前大樹被仰付、銅印字、八万計出来也。
廿七日 件銅活字、備天覧之処、御感也。
六月四日、円光寺より書状到来之、銅印字令出来之間、六日七日之比、可令進上。
六日、早朝円光寺来入、今日銅印字、可令進上、禁裏へ……、午刻銅印字箱百、……即於殿上請取之。
  銅印字数覚
 本字五万五千三百六十字
注字三万五千八百九十五字
九万千二百六十一字(ママ)
右、従前將軍、禁中へ御進上
此外、種盤 五、封一通、鎖子百、鑑二、以上箱数 百。
慶長十一年林鐘初六(六月六日)
円光寺 元佶
 舟橋式部少輔殿  人々御中


  当時の状況を目の当たりに見るようなこの日記から、禁中より借用した高麗(朝鮮)銅活字を模範としてほぼ一年をかけ、日本で最初の銅活字九万余字が出来たのは慶長一一(一六〇六)年六月四日であり、家康に鋳造を命ぜられたのは、京都郊外伏見の円光寺の僧元佶(法号閑室、別に三要とも号す)であることが分かる。実際に鋳造を担当したのは後述の唐人林五官といわれるが前記日記には見当たらない。また、献上を受けた後陽成天皇が、この銅活字を使って書籍を開版したという史実もない。

  しかし日本最初の銅活字が誕生したという記録が存在し、その後の文書の記録と突き合わせると、これが後の駿河版銅活字の母体の主体であると推定できる。またその誕生には次のような前史といえる背景があった。


  文禄勅版、慶長勅版、伏見版、秀頼版
  豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文録の役で、漢城(ハンソン、現ソウル)で手中にした銅活字や摺具は、それで印刷された書籍とともに、文禄二(一五九三)年に日本にもたらされた。秀吉はこれらを後陽成天皇に献上したといわれ、同年、天皇は六条有広、西洞院時慶らの側近に命じ、おそらくこの銅活字で『古文孝経』を開版させたことが時慶の日記『時慶卿記』に次のように記されている(2)(原文は漢文)。


閏九月二十三日。 昨の如く禁中参上版考(版行)の字を撰び薄暮に及び退く。
十一月六日。 御湯殿上に於て六條と両人にて版考(版行)の字其の類々に撰び集め候直に仰せ也。
十一月十六日。 古文孝経の板(版)出来候。上より被見下候。
十二月八日。 禁中より孝経印本拝領。長橋迄御礼に参上。今度板校(版行)を被起候本也。


  これは日本での銅活字を使用した最初の印刷で、文禄勅版といわれているが、残念ながら『古文孝経』は発見されていない。

  その後後陽成天皇は慶長二(一五九七)年七月に大型木活字による勅版『錦繍段』、翌八月に『勧学文』を開版させた。後者の跋文には、「此法出朝鮮、甚無不便、因茲模写此書」とあり、朝鮮活字版にならって印刷したのだと記している。この勅版は慶長勅版と呼ばれ、慶長四年頃を最盛期として同八年頃まで続いた。

  この頃、徳川家康はこれまでの戦乱を振り返り、治世に文教の必要を認識し、伏見に足利学校の上方分校として円光寺学校を設け、庠主(しょうしゅ)(校長)の僧元信に命じて木活字数十万字を彫刻させ、慶長四(一五九九)年に成った『孔子家語」をはじめ八十冊ほどを、慶長一一年にいたる八年間に開版した(ちなみにこの木活字は約五万本が現存しており、平成四年重要文化財に指定されている)。これが伏見版で、家康が目指したのは文教政策の一環としてではあったが、秀吉が献上した朝鮮銅活字に端を発した慶長勅版の刺激もあったことがうかがえる。

  一方、豊臣秀吉が慶長三(一五九八)年に没し、秀頼と母淀殿の時代となったが、秀頼は家康の伏見版に刺激され木活字版『帝鑑図説』六巻六冊を慶長一一(一六〇六)年三月に開版した。挿絵入りと精美な書体の書籍として優れ、秀頼版といわれている。

  以上の流れをまとめると次の様になる。

  秀吉が後陽成天皇に献上した朝鮮銅活字により開版したといわれる文禄勅版→後陽成天皇の木活字による慶長勅版→家康が元信に命じて開版させた木活字の伏見版→秀頼の挿絵入り木活字の秀頼版。これに家康が元信に鋳造させ、後陽成天皇に献上した銅活字が続く。

  この流れには後陽成天皇を介しての秀吉・秀頼と家康の活字による開版への意欲と文教面での優位を競う政治的状況も見られる。


  『駿府記』・『本光国師日記』
  家康は慶長一〇(一六〇五)年に征夷大将軍を子秀忠に譲り同一二年七月、六十六歳で駿府に隠居した。徳川家の史書といわれる『駿府記』(3)によれば、家康は慶長一九年八月に金地院崇伝が献上した『大蔵一覧』(明の陳実が編集した大蔵経の索引的な書)の開版を翌二〇(一六一五)年三月に侍講である林道春に命じた。崇伝心の『本光国師日記』(4)には元和二(一六一六)年二月二七日に次のように記されている。

 
一、銅大字五万八千六百四十六
一、同小字三万千百六十八
  合大小字八万九千八百十四
  是は前方より百箱に入候而有之分也

  この銅活字の由来については記されていないが、慶長一一年鋳造の銅活字と同じ父型のものと推定される。特記すべきはこの八万九千余字では不足として、『大蔵一覧』のために一万三百余字を新鋳したことで、同月記にはこれについて次のように記してある。

一、銅大字八千八百四十四
一、同小字千五百十四八
一、同丁付字
  合大小一万三百六十八
  是は駿府に而大蔵一覧板器之時仕立候而前方之百箱之内に加入申候

  このようにして合計十万百八十二本の銅活字で、『大蔵一覧』十一巻百二十五部は慶長二〇年六月に完成した。この駿府での開版には、校合、字彫、植手、字木切など十八人の版木衆と五、六人の僧衆が作業したといわれているが、なぜか活字鋳造の具体的な記録はないようである。


  家康が大阪夏の陣から駿府城に帰還したのは元和元(一六一五)年八月下旬である。豊巨氏も滅んで一段落し、『大蔵一覧』の出来栄えにも気を良くしていた家康は、つづいて『群書治要』の開版をふたたび林道春と金地院崇伝の二人に命じた。

  『群書治要』は唐の大宗が魏徴に命じて、群書から政治の要領を、収集編纂させたもので、為政者にとって非常に参考になる書であった。この開版には道春、崇伝が京都より木切、彫手、植手、摺手などの職人二十人と、校合のために五山の僧衆らを呼び、また駿府の僧も動員した。

  『群書治要』に用いた銅活字は計算上では『大蔵一覧』開版に使用した十万百八十二本とさらに不足分を、新鋳した一万三千本を加え、計十一万三千百八十二本である。前者十万余本については『本光国師日記』に次のように記されている。


  右是は群書治要板器被仰付候時。駿府西之丸御納戸より取出し。於三之丸改相渡申候者也。伽如件。
 元和二年丙辰二月廿三日
 寿学代 都筑安右衛門
 金地院内春蔵主
 道春


  後者一万三千本については、


  急度令啓達候。今度群書治要板行被仰付候付而。鋳字之儀。五官に被仰付候。然ば役者三四人京より呼下度由。五官申候間。……
 二月廿五日道春
金地院


 請取申銀子之事
  合三百五十目は、但大黒丁銀也。
右是は群書治要板器之時。銅字数大小一万三千鋳立申為御作料被下候也。仍如件。
 元和二年辰卯月(四月)廿六日 庄兵衛
唐人 林五官
 (うら書)右之表可有御渡候。以上。
  道春
金地院松首主座


  注目すべきはこの時はじめて銅活字鋳造者林五官と庄兵衛の名前が、見られることである。『本光国師日記』によれば『群書治要』四十七巻が摺り上がったのは元和二(一六一六)年六月と推定されるが、家康はそれを見ることなく同年四月に病死した。部数は不明であるが百部内外といわれている。

  『大蔵一覧』、『群書治要』の二書は家康が駿府で刊行したので駿河版と称し、使用された活字は駿河版活字と呼ばれている。


  駿河版活字の罹災とその後の推移

  家康の死後、駿河守徳川頼宜は元和五(一六一九)年に駿府から紀州に転封された。この時駿河版活字と『大蔵一覧』の残部、刷り上がりの『群書治要』は、和歌山城に搬入され、『群書治要』は、ここで製本されたと推定される。銅活字は弘化三(一八四六)年に、この『群書治要』を原本にして開版した紀州版『群書治要』にも使用されたという。しかし同年七月二六日の大雷雨により和歌山城の天守閣は焼け、銅活字などの大部分は焼失した。焼け残った銅活字、駿河版『群書治要』などは、明治維新後、紀州家が東京に移ってから開設された南葵文庫に保管されていた。同文庫が昭和一五(一九四〇)年に解散するに際し、当時の日本勧業銀行総裁石井光雄(積翠)と徳富蘇峰の斡旋によって駿河版活字三万七千九百七十九箇と『群書治要』四十一巻が凸版印刷株式会社の所有となった。駿河版活字は昭和一九年に重要美術品に認定され、同三七年に重要文化財に指定された。文化財保護委員会による指定書には次のように記録されている。


 駿河版活字銅大字 八百六十六箇
銅小字三万一千三百箇 二十三箱
木活字五千八百十三箇
附銅罫線八十八箇、銅輪郭十八箇、摺板二面
銅大字   高一・八   縦一・二   横一・六
銅小字   高一・八   縦一・二   横〇・八
木活字   高一・七   縦一・一   横〇・八
摺板 縦二四・六 横三五・七 厚三・七
(一部略、高さ等の単位はセンチメートル)


  このように銅活字は家康の死後天災によりその三分の二を失い、以降再び鋳造されることもなく、出版は木活字あるいは木版の印刷に変わっていった。また日本最初の金属活字として、天正一八(一五九〇)年にヴァリニャーニと遣欧少年使節により九州に伝来したグーテンベルク方式による鉛活字も、短期間の鋳造でキリシタン禁令により印刷機とともに国外に追放された。江戸幕府の鎖国政策のため、日本は印刷技術の面で大きく遅れをとることとなった。

  ここで家康の死により終わった銅活字鋳造の流れをまとめると次のようになる。

第一次 慶長一一(一六〇六)年六月四日鋳造了
 監督 円光寺三要元佶と舟橋秀賢
 鋳造 唐人林五官(推定)
 場所 伏見円光寺学校
 数量 九万千二百六十一字
 印刷 記録なし
第二次 慶長二〇(一六一五)年三月頃新鋳了
 監督 林道春 金地院崇伝
 鋳造 唐人林五官(推定)
 場所 駿府
 数量 在庫分 八万九千八百十四字
    新鋳分 一万三百六十八字
 印刷 駿河版『大蔵一覧』
第三次 元和二(一六一六)年四月頃新鋳了
 監督 円光寺三要元佶と舟橋秀賢
 鋳造 唐人林五官 庄兵衛
 場所 駿府
 数量 在庫分 十万百八十二字
    新鋳分 一万三千字
 印刷 駿河版『群書治要』


  このような経緯から現存する駿河版活字には、一六〇六年から一六一六年にいたる三回の鋳造銅活字が含まれている可能性がある。


  駿河版銅活字鋳造の人脈的背景

  駿河版銅活字鋳造の責任者とみられるのは唐人林五官である。当時明から交易のため東支那海を航行中に暴風のため難破し、天正二(一五七四)年頃に浜松海岸に漂着した福建人で五官(5)という者がいた。彼はその時浜松城にいた家康に才能を認められ浜松に住むこととなった。浜松の『旅篭町平右衛門記録』(6)その他によれば、彼が医療をよくし、また物品の販売、運搬、銭荘(両替屋)の業に通じていたため家康は天正三年に五官に朱印状を下付し諸売買、渡海諸役一切を免許し優遇したといわれる。一方、当時明は海外貿易の増大とともに貨幣経済が大いに発達し、福建人はこの面で活躍していた。五官が銭荘に通じていたことは故国明で鋳銭の知識あるいは技術を持っていたことも想像できる。この人が林五官その人といわれている。

  五官に対し、三要元佶(一五四八頃〜一六一二)、林道春(一五八三〜一六五七)、金地院崇伝(一五六九〜一六三三)の三人は家康の信任あついブレーンであった。駿河版開版を中心に考えれば、朱印状を受けた五官とその発給権をもっていた元佶、黒衣の宰相といわれて外交文書の役を司り、元佶や家康の鋳貨御用で駿府の金銀座取締後藤庄三郎と関係が深かった崇伝、書や政治に博識で家康の侍講となった道春、彼らが物流、貨幣行政、鋳銭関係に通じている五官と銅活字鋳造について相互に糸で結ばれていたことは不自然ではない。このことから五官はその名が記録として残されている元和二年の鋳造まで、最初の慶長一一年の鋳造以来、責任者として遡って考えることも可能といえよう。


  駿河版銅活字鋳造の技術的背景

  鋳銭技術
  銅活字鋳造技術の土台となっている主要なものに銅銭鋳造技術が考えられる。銅活字の源流は、既に一二〇〇年代には鋳造されていたといわれる高麗活字である。そのなかには高麗通貨(青銅の海東通宝)と同材料(7)(9)といわれるものがあり、銅、錫、亜鉛を主成分とし、少量の鉛、極少量の鉄、燐、砒素からなるという。また李朝活字乙亥字は銅、錫を主成分として少量の鉛、亜鉛、鉄と極少量のマンガンを含むと報告(8)されている。高麗朝、李朝の活字は粘土、ツゲなどに彫刻した父型の複数箇を砂に押しつけてつくった母型である下鋳型と枝状の湯道や湯口(湯とはここでは溶融した銅合金の意)を備えた上鋳型による砂の合わせ鋳型(7)(9)で鋳造され、その技術は文字があり大きさも近似する鋳銭からきているという(9)。当時の朝鮮活字の高さが比較的低い理由の一つはこの辺にもあるように思われる。

  日本においては和銅開珎が和銅元(七〇八)年に鋳造されて以後約二百五十年つづいた皇朝銭時代がある。これらは中国古代、日本古墳時代からの銅鏃(やじり)鋳造技法(10)である枝状の湯道をもち、その先に何個かの鏃をつける方法(挿図1)からきているので枝銭とも呼ばれている。それは長期の渡来銭時代を経た後、江戸時代の寛永三(一六二六)年から再び鋳造されはじめた銭貨、寛永通宝の鋳造にも現れている(挿図2、3、4)。この文字のある母型(鋳型)、銅合金などの鋳銭技術の主要部が銅活字鋳造の土台となった可能性が高い。


挿図1 銅銭の粘土鋳型(中口裕「改訂銅の考古学」より)挿図2 銅銭上型概念図

挿図3 型締めした合わせ型に注湯の鋳銭概念図 挿図4 海外渡来銭(一四〜一五世紀明朝銭/左・中央)・古寛永通宝(右)

  慶長、寛永の銅鉱山、鋳銭と銅活字
  後陽成天皇に献上された李朝活字に触発されて実現した日本の銅活字鋳造の背景を探るには、まず原料の銅そのものの、当時の状況を知る必要がある。例えば和銅元年に発見され、慶長年間に最も栄えたという銅山に黄銅鉱、方鉛鉱、セン亜鉛鉱、赤鉄鉱などの鉱床をもつ秋田の尾去沢(おさりざわ)鉱山がある。また島根の石見(いわみ)銀山も慶長、元和、寛永年間が最盛期で、幕府は慶長六年に石見銀山奉行に大久保長安を任命した。長安は数年後には銀山奉行に任ぜられ、その支配下には前記銀山のほか、慶長、元和の頃に盛況を極め、銀、銅、鉛、亜鉛、錫を含む鉱床をもつ兵庫の生野銀山や明延鉱山もあったと思われる。これは前記の人脈的背景の項に属するが、崇伝と駿府金銀座取締後藤庄三郎は同じ駿府居住の大久保長安宅に家康の命で病気見舞いに訪れたといわれた間柄で、長安は銅活字鋳造の原料の調達に最も近い立場にあった人物と考えられる。

  銀は自然銀から採るほかは主に黄銅鉱から得た粗銅から得ており、粗銅に含まれている銀を、鉛を利用してとり出す方法を「南蛮絞り」(11) (12)といい、泉州堺の蘇我理右衛門が慶長のころ、南蛮人から習得した技術といわれる。貨幣では慶長六年五月より発行された徳川氏の慶長丁銀、豆板銀がある。これらは同年に伏見に創設された銀座で発行された。ちなみに慶長一一年には駿河にも銀座が置かれた。この丁銀、豆板銀の成分は銀八百と銅二百(13)といわれ、銅も相当量使用された。

  一方鋳銭では前述の寛永通宝が寛永三年以降各地の銭座で鋳造された。

  このように慶長、寛永年間は、金属精錬上も、貨幣鋳造上からも密接な関係がある銅と銀の鉱山、精錬技術が、発達した時代であった。従って時期的に慶長丁銀と寛永通宝の発行の間に行われた銅活字鋳造には、貨幣鋳造のための銅鉱石採掘、精錬、鋳造などの技術と、それを監督する幕府機構、人脈が共通して機能していた可能性が高い。


  活字成分から見た駿河版銅活字
  
現存する駿河版銅活字の成分については、昭和六二(一九八七)年二月二一日のNHKテレビで凸版印刷株式会社総合研究所の非破壊分析検査の状況とともに放映された(14)
  大字の佛、人、化、小字の也、之、泉については、主成分が銅、鉛、錫で、少量成分としてケイ素、鉄が含まれていたが、これらは前記の全活字から、検出された共通成分である。またアルミニウム、硫黄、亜鉛、砒素などを含む活字もあった。

  同研究所では寛永通宝(古寛永)の成分も分析したが、それは駿河版銅活字にかなり近いもので、特に主成分を含む共通成分の種類は同じであった。これは駿河版銅活字鋳造と寛永通宝鋳造との親近性を示すものになると思う。


  銅活字の鋳造方案と組版・印刷工程の探索

  鋳造方案と活字の形状的特徴
  駿河版銅活字の高さがその大きさ、幅よりも高い腰高の形状からいって、枝銭的な鋳造法そのままが応用されたとは必ずしも言えない。腰高活字の文字面を父型に最も忠実に出すような鋳造方案を現代の技法からある程度推察することが可能である。文字をくっきりと出すため湯の圧がよくかかるように、文字面を下向きにして、鋳造し易い湯口、湯道、堰、活字部分などの資料モデル的な配置の概念図と、それに基づいて行った鋳造実験品の写真を挿図5、6に示す。これは駿河版銅活字の外観を観察して、全く新規に実物と近似な形状と寸法に桜材を加工、彫刻した父型を元に樹脂父型を複製し、砂鋳型から鋳造したものである。実験用銅合金には前記の駿河版銅活字の分析結果の平均に近いものを使用した。なお鋳造は銅合金小物の鋳造技術のある東日本金属株式会社(東京)において、平成五(一九九三)年三月同社代表取締役小林容三氏により行われた。写真のように六箇取りであるがより多数箇取りに展開することも可能である。

挿図5 鋳上がり鋳造物で示す各部名称

挿図6 鋳造実験概念図とその鋳造品

  次に駿河版銅活字の形状的特徴は挿図7、8から分かるように薬研彫(やげんぼり)に彫刻された文字面とV字形の底にある。両者とも伏見版系初期木活字を踏襲したものと推定される。薬研とは往時薬の原料を粉末にするのに使用された道具の受け皿の形状から来た名称と想像されるが、山脈の山襞ように深く肩に彫刻刀を入れられた形状は砂鋳型から活字の父型を文字面を損なわずに抜き取るのに適した形状である。また印刷時文字以外の部分に余分なインキが付きにくい有利性がある。一方V字底は、印刷晶質に重要な要素である活字の高さ調整加工の容易さ、摺板上での活字の安定性、その結果として得られる銅地金の節約に役立つと推測される。V字底のヒントはU字型の底をもつ李朝活字に由来する(7)(12)とも推測される。しかし李朝活字がU字底になったのは十七世紀から(9)ともいわれ断定は出来ない。

挿図7 駿河版銅活字太字標準形状
(寸法は重要文化財指定書による)

挿図8 銅活字の特徴的外観


  組版と印刷工程

  組版関連の寸法考察
  印刷には活字とともに、組版用植字盤を兼ねた木製摺板(すりばん)(植字盤兼用)、銅製輪郭線(天地用と左右用の二種)、銅製罫線(界線)(いずれも現存)などが必要である。

  これらの寸法とどのように使用されたかは挿図9、10、11、12の通りで、版の組み上がり状態とその印刷物の外観は『群書治要』を例に取り示した。

挿図9 『群書治要』二十二の十八面の合成組版図
現存『群書治要』の版心部で折って袋綴じされている本文十八面の左右両面をそれぞれ透明フィルムに複写し、これを版心部において接続して、さらに紙に複写したもの。これで印刷上がりの状態を示す。
  下は透明フィルムを反転して紙に複写したもので、これは版心、罫線、輪郭、活字を使って摺板上に組版した表面の状態を、印刷物から複写技術によって合成したもの。

挿図10 組版用諸道具寸法

挿図11 組版状態でのX−Y断面図

挿図12 駿河版の摺板および罫線と銅活字(重要文化財)

  出来上がった組版はそのまま摺板として印刷にかけられるように寸法その他が考慮されている。銅活字の高さ一七・七ミリ(十箇の実測平均)に対して摺板の深さは一三ミリ(多数箇所の実測平均)、輪郭線の高さ一七・三ミリ(十二箇の実測平均)、罫線の高さ一六・八ミリ(十箇の実測平均)という、寸法差の関係は、版面に墨が塗られ、紙をのせ、刷毛、バレンなどの摺具でこすって行う印刷が最もやり易いところを狙って決められたものと思われる。活字の高さより輪郭や罫線の高さが少し低いのは、摺具でこすって行う活字文字面の印刷がこれらによって妨げられない為と考えられる。その為か罫線の印刷が所々欠けているのが見られる(挿図9)。組版の順序(15)は、先ず天地の輪郭線を摺板の天地に置く。次に天地の輪郭線下部中央の切れ込みに版心部分を据え、それから一行一行活字や罫線を組み込んで、左右各八行を完成したと想像される。


  植字した摺板と印刷物との寸法比較
  現存する摺板に銅活字を植字した印刷時の状態で活字その他部品の寸法関係がどのようになっているかを各実測寸法から調べ、それを『群書治要』の印刷面と比較検証した結果は次の通りである。

  まず銅大字一行十七字、摺板一面十六行を輪郭、罫線、版心部とともに植字した場合の寸法を個々の平均寸法より計算した結果を表に示す。

  これに対し『群書治要』第十一巻と第二十二巻から八版面分の実測値平均は天地二一四・八、ミリ、左右三二三・三ミリで、これらと摺板内矩寸法との比較を次に表示する。


  この表で(1)と(2)にはそれぞれ一〜二ミリの差はあるが、(1)の『群書治要』では用紙の収縮があり、(2)では天地、左右の合計寸法は、活字、輪郭、罫線などの個々の寸法の単純加算で出してあるが、実際の組版状態ではこの通りにはいかない色々な要素があり、この程度の差はありうると考えられ、全体的には当然のことながら(1)と(2)は同等といってよい。ただ(3)と(1)または(2)との差が計算上とはいえ天地で四・八〜六・七ミリ、左右で七・八〜九・二ミリあることは、組版の輪郭と摺板内矩との間に天地、左右に多少の隙間があることで、ここに、あるいは行間でガタがある所などに木、竹、紙などの込め物をつめて組版をしっかり固定したものと思われる(挿図11)。つまり大字、小字の高さ、大きさ、幅などは実測寸法の平均値で、それぞれにバラツキがあり、活字の下に紙などをしいたり側面に込め物をするなど、校正刷りをしながら修正した可能性もある。その精度の程度と摺具での印刷技術の程度は、『群書治要』現物の印刷面(挿図9参照)から知ることが出来る。


  組版、印刷、製本の作業工程
  駿河版活字を使って『大蔵一覧』(慶長二〇年)と『群書治要』(元和二年)がどのように組版され、印刷され、製本されたかを『本光国師日記』をもとにその作業手順、工程を推定し、図解した研究(挿図13)が山口忠男氏(元凸版印刷株式会社関西支社、活版実務経験技術者)によって行われ、私家本『活字の世界(一)「駿河版銅活字」のこと』(一九八八年)の中に記されている。これを基礎として関連事項を付加して次に述べる。

  まず『本光国師日記』に記録されている、『群書治要』開版のために、駿府西之丸納戸より取り出した活字諸道具類の数の覚えを一覧表として掲げ印刷作業の考察資料とする。

  この中で「くも罫」とは版心部のこととも想像されるが「篇返し板」や「をしごう」については判然としない。また「摺板十三面」からは最大限十三面分の組版が出来る勘定になるが、「銅罫長短百五十四本」という本数は、摺板一面分の罫線数は天地輪郭二本、左右輪郭二本、罫線十四本、計十八本であるから、実際には摺板の約八面分ということになる。また表には載っていないが、既に述べたように銅活字は林五官により『群書治要』印刷用に一万三千本を不足補充として新鋳されている。また表中(15)の「木字だんす」に入っている、木字大小五千八百八十九という数字は、現存駿河版活字の木活字個数五千八百十三に極めて近く、この木活字(または父型)が残ったものと思われる。

挿図13 組版・印刷・製本の作業工程

  次に、このような活字、諸道具を使って組版、印刷に関係した工人の職種、人数について『本光国師日記』を参考にすると、林道春と崇伝が京都所司代板倉勝重に依頼して集めた職人、あるいは京都五山に命じて下向せしめた校合の為の僧衆たちがおり、これを一覧表に加える。

  ここで彫手の中には、伏見版の推定彫字工(16)であった台林、半右衛門も加わっていることがこの日記から知られる。(22)の彫手は(21)の木切とともに、組版進行中に不足文字の補充木活字製作要員として常に待機していたものと思われる。

  (23)の植手はおそらく文選作業も兼ね、文選担当は銅活字収納箱約百箱(一覧表や図には具体的なものは無く推測)、あるいは木活字の入っている「字木だんす」近くで文選し、植字・組版担当の植手に渡す。これを二人一組、四組程度でやっていたと推測される。

  こうして組まれた組版は、その摺板のまま(25)の校合担当の京都五山から呼んだ僧衆の所に運ばれる。校合は重要な作業であり、南禅寺、天竜寺、相国寺などの各同門が、二人一組となり、読み合わせで摺板と試刷の双方を行ったと思われる。この校正に使用した『群書治要』各巻の副本は、地元の清見寺、臨済寺、宝泰寺の僧衆によって筆写(17)(4)されたものである。

  校正後の摺板は次に(24)の摺手に回される。ここでは(12)「紙水打板」五枚で一定湿度に湿らされた用紙が使われる。(13)「木硯」四つ、(18)「すり鉢」五つはインキを作る小道具と考えられる。摺刷方法としては、何らかの摺具で擦りながら、用紙に写し取ったものと思われ、職人的技術を要したと考えられる。

  刷了後の組版はそのまますぐ解版される。それは摺板や輪郭線、罫線などの回転率がよい上、新たな頁の組版に使用される文字も改めて銅活字収納箱や(15)「字木だんす」より探し出すよりも、熟語や高頻度で使用される文字は、解版して流用する方が効率的だからである。これも植手の仕事の一つと考えられる。(16)「篇返し板」はこの活字返却箱を指しているのかもしれない。

  刷了された刷本は、丁合いされ、表紙を付けて綴(とじ)に回される。製本の様式は片面刷りの印刷面を版心部の所で外向きに二つ折りにした袋綴の和綴方式である。但し『群書治要』は殆ど製本されず、後に紀伊和歌山城に搬入されたといわれている。実際の製本作業には組版、印刷に匹敵する程の職人や作業面積を要したのではないかと思われる。

  以上の作業工程を示す図にも焦点である銅活字の存在については何も具体的に描かれていないが、それは工程図の基礎となっている『本光国師日記』に記録されていないので、作業場内でどのように扱われたかは全く不明であることによる。(15)「字木だんす」には木字大小五千八百八十九入とあるように銅活字はこれとは別に収納されていたように推測される。またインキも木活字用の水性墨汁とは異なり、銅活字に対して親密性のある印刷適正のよいものにするため、これに膠か糊を多めに混ぜるなど何らかの処理をしたもの、あるいは油煙、松煙などに油を混ぜた油性インキとも思われる。

  『群書治要』四十七巻、約百部の印刷は以上のような活字、道具、職人、校合者の規模で約四カ月という短期間で仕上げられた。


  活字製作から刷本までの作業量と日数
  ここで第一次から第三次にわたる駿河版銅活字鋳造から開版に要した作業量とその作業日数について記す。

・第一次
  慶長一〇年七月二八日頃から翌一一年四月一日頃まで約八カ月かけて銅活字八万本鋳造

  一カ月当たり銅活字約一万本

続いて一一年六月四日までに累計九万千二百六十一字鋳造。従って鋳造開始より約十カ月

  一カ月当たり銅活字約九千百本

最後の二カ月では一万千二百六十一本、一カ月当たり五千六百三十本と少ないが、この時期には活字だけではなく、最終的に必要な摺板、罫、輪郭、活字収納箱の製作もあったと思われる。なお鋳造に関係した工人の数は不明であるが、これは第二次、第三次の『大蔵一覧』、『群書治要』開版についても版木衆以外の記録はなく、この項では人数の要素は考えない。

・第二次(『大蔵一覧』十一巻開版)
  慶長二〇年三月二一日に林道春は開版の命を奉じ、同年六月三〇日に十部を家康に見せている。この約三カ月の間に既存の八万九千余字に加えて不足分補充のため銅活字一万三百六十八本新鋳しているが、作業の主体は組版、印刷、製本作業である。活字鋳造には第一次の能率から単純計算すれば約一・一カ月要したことになる。

・第三次(『群書治要』四十七巻開版)

  元和二年一月一九日道春、崇伝は家康の命を受けて開版に着手し六月始頃印刷は完了したが製本については判然としない。しかし、四十七巻という大冊を少なくとも印刷まで約四カ月で完了したことが分かる。『群書治要』開版には唐人林五官が既存の約十万全字に加えて銅活字一万三千本を新鋳している。五官は新鋳活字の字本として後漢書の切本を請求したのが二月二五日頃、銅活字新鋳の鋳立料を受領したのが四月二五日と記録されているので二カ月未満で一万三千本を鋳造したわけである。これを一・五カ月と推定すれば一カ月当たり約八千七百本を鋳造したことになる。


  結語
  駿河版銅活字は唐人林五官を責任者として鋳造されたとはいえ、そこには当時の伏見、駿河などの銀座を介しての貨幣鋳造技術が大きな背景となり、また既述のような家康が育てた人脈がそれを可能にしたと考えられる。

  人脈的背景、技術的背景、それに基づく当時の鋳造方法、組版、印刷工程の推測などいわば考古学的仮説であるが、駿河版銅活字誕生の経緯を探索する一つの切り口として見ていただければ幸いである。

  これまで述べてきた日本最初の銅活字と、中国、韓国、ドイツ(ヨーロッパ)などの活字先進国との関連を、それぞれの活字が出現した一一世紀から一七世紀にわたり対比考察する資料として、前掲の参考図表1、2を参照されたい。

参考図表1

参考図表2


銅活字鋳造実験品の鋳造については、左記の方々より理論的、技術的な御教示を賜るとともに、優れた技術をもつ東日本金属株式会社(小林代表取締役)の御紹介を頂いた(一九九二年)。記して感謝の意を表します。
宮本健一氏(日本非鉄金属鋳物協会専務理事)
川田晋一氏(江東合金鋳造工業協同組合理事・事務局長)


【註】

(1)正宗敦夫編、一九三九、『慶長日件録』、日本古典全集刊行会[本文へ戻る]
(2)川田久長、一九八一、『活版印刷史』、印刷学会出版部[本文へ戻る]
(3)小野信二校注、一九六五、『家康史料集』、人物往来社[本文へ戻る]
(4)副島種経校注、一九七〇、『新訂本光国師日記』、続群書類従完成会[本文へ戻る]
(5)林圭介、一九六五−四、「銅活字の鋳造と林五官」『芙蓉』[本文へ戻る]
(6)浜松商工会議所編、一九七一、『遠州機械金属工業発達史』[本文へ戻る]
(7)鈴木敏夫、一九七六、『プレ・グーテンベルク時代』、朝日新聞社[本文へ戻る]
(8)日本印刷学会編、一九五八、『印刷事典』、大蔵省印刷局[本文へ戻る]
(9)孫賓基、一九八二、『新版・韓国の古活字』、寳晋齋[本文へ戻る]
(10)中口裕、一九八七、『改訂銅の考古学』、雄山閣[本文へ戻る]
(11)藤野明、一九九一、『銅の文化史』、新潮社[本文へ戻る]
(12)下中邦彦編、一九七二、『世界大百科事典』、平凡社[本文へ戻る]
(13)郡司勇夫編、一九八一、『日本貨幣図鑑』、東洋経済新報社[本文へ戻る]
(14)日本放送出版協会編、一九八七、「海を渡った李朝活字・家康の大出版計画」『NHK歴史ドキュメント』(7)[本文へ戻る]
(15)山口忠男、一九八八、『活字の世界(1)「駿河版銅活字」のこと』(私家本)[本文へ戻る]
(16)京都市教育委員会編、一九九一、『伏見版木活字関係歴史資料調査報告書』[本文へ戻る]
(17)木宮泰彦、一九六五、『日本古印刷文化史』、冨山房[本文へ戻る]



前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ