第一部

記載の世界





31a 本居大平編著『古事記伝首巻』(甲)
文政五(一八二二)年
冊子装本
縦二七・三cm、横一八・七cm
文学部国文研究室蔵

31b 本居大平編著『古事記伝首巻』(乙)
文政五(一八二二)年
冊子装本
縦二六・三cm、横一八・二cm
文学部国文研究室蔵

31a 本居大平編著『古事記伝首巻』(丙)
文政五(一八二二)年
冊子装本
縦二七・〇cm、横一八・八cm
文学部国文研究室蔵



31d 本居大平編著『古事記伝首巻』の版木三枚
文政五(一八二二)年
桜材
平均縦二二・二cm、横四六・四cm、厚一・八五mm
文学部国語研究室蔵

31e 本居大平編著『古事記伝首巻』の題字版木一枚
文政五(一八二二)年
桜材
縦二一・四cm、横四五・五cm、厚一・八五cm
文学部国語研究室蔵

31f 本居大平編著『古事記伝首巻』の題箋版木一枚
文政五(一八二二)年
桜材
縦一九・五cm、横五・九cm、厚丁九〇cm
文学部国語研究室蔵
31g 本居大平編著『古事記伝首巻』の印矩一個
文政五(一八二二)年
柘植材
印面三・九〇cm、高五・一〇cm
文学部国語研究室蔵



  『古事記伝首巻』は、文政五年に『古事記伝』全巻の刊行が成就したのを機に、紀州侯徳川治寶より「古事記伝」の題字を頂いたのを記念して、本居宣長の養子である本居大平が企画・出版したものである。

  『古事記伝』全巻の刊行は宣長が没してから二十二年の後のことであり、当然ながらこの『古事記伝首巻』の版行は宣長自身の企図した所ではないので、本書は『古事記伝』とは別個の、大平の編著書として取り扱われるのが普通である。しかし、本書に収める大平の文章「御題字能後年記須詞」は、『古事記伝』出版事業の経緯を伝える根本資料の一つであり、『古事記伝』を研究しようとする者が当然参照すべきものである。

  本書『古事記伝首巻』の出版の経緯については、本居大平の草稿や、出版に関係する大平書翰等の資料が、現在に至るまで松坂の本居宣長記念館に一括して成巻されて遺されており、それによってかなり詳細に追跡することができる。それらは筑摩書房版『本居宣長全集別巻二』に活字翻刻されており、それに就いてみるのが一番だが、便宜の為、以下にその概略を纏めておく(引用文の表記は適宜改めた)。

  そもそも話は宣長存命中に遡る。宣長は紀州侯と親交篤く、かねて『古事記伝』の上木が成る度に、まず真先に献上していた。そして、『古事記伝』にはいわゆる序文にあたるものは付いていないが、これについて宣長は「記伝全部上木成就之うへは、殿様に御序文ねがひ度物也。其外の人は、序は一向ほしくなし」(本居春庭宛大平書簡)と周囲に語っていたのである。大平は宣長の生前の言を承けて、『古事記伝』版本全巻の成就にあたって、紀州侯に序文下賜を願い出た。結局序文の件は聞き届けられなかったが、ただ「せめて之御思召にて、題字にとて古事記傳といふふみの名を御筆被為遊御染、被下置候事に御座候」(殿村安守宛大平書簡)ということになったのである。そこでこれを当初は「石摺にいたし、巻首え出し可申候」(被仰渡御書付之写)という心づもりであったのだが、後にこれをそれ自体板行することに方針が転換された。しかし、「板行してもこればかりうれる物でなし」ということで、「かの寛宴めきたる領題之歌」や或いは「信友、利安、みかまろ、直入、大平其外四五輩の古事記伝の追考と思しき物」などを付けるなどの案も浮上しながら(春庭・殿村安守宛大平書簡)、結局、『古事記伝』の出版と御題字拝領の経緯を記した文章を大平が物して「御題字のしりへに記す詞」として題字の後に付し、板行することに落ちついたのである。その大平の文章は草稿段階では、普通の平仮名漢字交じり文で書かれていた。日頃より悪筆を自認していた大平は、その版下を「平かな書にして、美濃子(注=宣長の実娘)にかゝせ候事よかるべし」(三井高匡宛大平書簡)と主張したが、「正文字に真仮名まじりの仕立てに書たて置候」がよいという意見を容れることになった。そして、漢字文である以上、女性である美濃に版下の筆耕を頼むわけにはいかなくなり、唐様の書を良くした「野呂九一郎へ頼ム」(三井高匡・長谷川元貞宛大平書簡)ことになったのである。版本の『古事記伝首巻』の末尾には次のように記してある。

  「文政五年壬午冬
  本居三四右衛門平大平野呂九一郎源隆年書」

  この野呂隆年、通称九一郎は、紀伊の人、号は介石、池大雅門下の南画家である。同じく南画家の竹石(長町徽)・僧愛石とともに三石と並び称され、その筆頭に数えられた人であった。延享四(一七四七)年生まれ、この文政五年には満で七十六歳の高齢であって、六年後の文政一一年に没している。

  さて、これで題字とそれに付ける文章は整ったが、もう一つ問題があった。本来拝領した御題字には朱印二顆が捺してあったのである。一つは「紀章/亜相」、いま一つは「賜紫/金/魚袋」であったが、これをそのままかたどって板行することは許可されなかったため、「御印章之かたを同じ寸法に模し、御文字は絶て省候」こととなった。三丁ウラに捺してある枠だけの朱正方印二穎はそういう事情で捺されたものである。


  本書は、版木の磨滅の少なさからみてもかなり小部数の出版だったと思われる。後の『古事記伝』の後印の際には、『古事記伝目録』や『三大考』は同時に頒布されているのにもかかわらず、この『古事記伝首巻』は付けられた形跡がない。鈴屋のうちにあっても、これは『古事記伝』本体とは区別されていたもののようである。従って、当然のことながら現在残っている本の数も、『古事記伝』本体に比べれば少ないといえる。その中にあって、東京大学国文学研究室本居文庫には甲・乙・丙の三種の『古事記伝首巻』が所蔵されている。三冊は内容には全く違いはないが、大きさ・料紙等に相違があり、それぞれ刷を異にするものと見られる。大平の家で、刷り増しの度に一冊ずつ保存しておいたものであろうかと推測される。いずれも袋綴、五針眼訂法、鈴屋出版物の特徴である縹色(甲が最も濃く、乙・丙と薄くなる)に布目押紋の表紙である点は共通しているが、その相違点は次の通りである。

 甲…縦二七・三センチ、横一八・七センチ。厚手の料紙。遊紙は前後に一丁ずつ。
乙…縦二六・三センチ、横一八・二センチ。極く普通の楮紙。遊紙は前に一丁のみ。
丙…縦二七・〇センチ、横一八・八センチ。三冊の中で最も厚手の料紙。遊紙は前後に一丁ずつ。角裂の色は紫。

  大きさや料紙の点から言うと、丙が最も高価な造本であり、甲はそれに準じ、乙は普通版・廉価版的なものであるといえよう。

  さて、この三者の前後関係であるが、本文には匡郭や文字の欠けが一切見当たらず、そこからは殆ど判断できない(現存の版木にも欠損部分は全く見当たらず、版面の保存状態は極めて良いと言える)。ただ、三丁ウラに捺された朱印の枠を観察すると、甲→乙→丙の順で欠けが多くなるから、その順で刊行されたと見て良かろう。といっても、丙の朱印の欠けもまだまだ少ないから、或いは甲と乙はほぼ同時期に、配り本用と市販用というふうに、別々の目的で造られたものと見るべきかもしれない。

  本書の内容は、甲乙丙とも、まず一丁の遊紙があって、続く二丁が「御題字」である。この二丁は藍刷されており、四面にはいずれも蝶や鳥をあしらった飾り郭がある。郭は縦二〇・八センチ、横一五・〇センチ。初めの二丁オモテは郭の中は空白、二丁ウラが「古事」、三丁オモテが「記伝」で、三丁ウラが二顆の朱印である。朱印は同じもので、一辺三・九センチ。極く細い枠のみである。続いて六丁にわたって「御題字能後尓記須詞」がある。こちらは普通の墨による印刷である。匡郭は単郭で縦二一・二センチ、横一六・五センチ。界線が入っており、一面八行書、一行十六字詰、界幅は約二・一センチ程度。柱刻はオモテの上のほうにただ「○」があるだけである。

  この『古事記伝首巻」の版木全てが、現在やはり東京大学にある。こちらのほうは国語研究室の保管であるが、その伝来については不明な点が多い。因みに、『古事記伝』本体の方の版木は一括して本居宣長記念館の所蔵であり、重要文化財に指定されている。国語研究室所蔵の版木の内訳は、「古事記傳」題字版木一枚、「御題字能後尓記須詞」版木三枚、題簽版木一枚、朱印一箇である。その全てが、一つの箱に納められている。

  箱は杉材で造られており、縦五六・七×横二八・〇×高さ一七・三センチの長方体、長辺は約一〇ミリ、単辺は約六ミリの厚さの板である。これに縦五六・三×横二七・六センチの板が上蓋として付いている。上蓋には直書きで、

鈴屋蔵
  古事記傳首巻板四枚
      御印形板一并印矩一
      表題板一

と書いてある。「御印形板」とあるのは現在それに当たるものが見当たらず、また版本に当たっても該当する部分がないので、もともと存在したものかどうか疑わしい。それ以外のものは全て揃っている。函底には、書状か文書の反故らしきものを張り合わせて柿渋を引いたものが版木の保護の用のために入っている。

  版木は一般的な桜材で、いずれも板状の版木本体と、左右に付けられた「端食(はしばみ)」とよばれる角材とからなっている。端食には溝が掘ってあり、版木本体の両端の凸状の部分をスライドして取り外しすることができるようになっている。端食には、版木が反るのを防ぎ、また保存の際に版木の版面どうしがぶつかって破損するのを防ぐ目的がある。また、大量の版木を保存する場合には、ここにその書名・該当丁数等を書いておく整理の便もあった(ただし、本資料の場合はその例に当たらないこと勿論である)。各版木は裏表の両面に文字が彫ってある。これは引札などの一枚刷り類の版木を除いては当時の常識で、資源と保管場所の節約の意味がある。表と裏とは上下が逆さまに彫られており、つまり表をそのままくるりとひっくり返すと裏が正位置で現れるという仕組みであるのも、版木の通例である。

  次に、版木のそれぞれの大きさを纏める(表1)。

表1
  四枚ともほぼ同じ大きさだが、御題字版木だけがほんの一回り小さい。また、先に述べたように、この部分は藍刷りをしているため、一見して他の版木と区別がつく。「御題字」版木にはそれぞれ右の匡郭の外(即ち印刷した時の各丁ウラの匡郭外)に六ミリ角ほどの大きさの数字で丁付けが打たれている。柱の部分ではなく、ノドの部分にあるから、これは丁合のたゆだけに用意されたものである。丁合とは、製本の一工程で、刷り上がった各丁の紙の山から一枚ずつをとって、一冊分に纏める作業である。初めは本文の匡郭のすぐ近くに彫ったもののようで、現在見るとそこにほぼ同大の四角い穴が開いているが、のちに、化粧断ちでなくなってしまうようにと、さらに外側(匡郭より二・二〜二・三センチ)へ埋木し直されたらしい。版本では、甲乙丙三種ともこの丁付けを見ることはできないから、初刷段階からの改変であろう。

  題筆版木は桜材で、縦一九・五×横五・九×厚一・九センチ。「或問  五三」の柱刻をもつ印刷された紙にくるまれている。

  印矩は印面一辺三・九センチ、高さ五・一センチである。柘植材か。麻袋らしきものにくるまれて保存されている。前に述べたとおり、拝領した御題字にあった二顆の印形の代わりとして用いられた枠だけの印である。


  先に述べたとおり、大平の「御題字能後尓記須詞」の版本での姿は、純漢字文である。本来平仮名文で書かれたものがあって、それを敢えて漢字のみで書き表すという点では、いわゆる「真名本」の範疇に含められるべきものである。真名本と呼ばれるものは、万葉仮名表記を主体とするものと変体漢文的な文章表現を主体とするものとの二つに大別できるのであるが(1)、本書は前者、万葉仮名表記を主体とするものとして位置づけることができる。ところがそのあり方は、その先輩格として夙に著名な『真名本伊勢物語』などとは大きく性質を異にするものである。『真名本伊勢物語』の場合には、万葉仮名表記体系のうち、平仮名表記とはそのままでは一対一に対応しえない部分、即ち例えば借訓、戯訓などといった部分をより誇張させることによって、その表記体のアイデンテティーを成り立たしめているものであるのに対し、この「御題字能後尓記須詞」の場合には、漢字交じりの平仮名文の平仮名部分をそのまま一字一音の万葉仮名に直したものであるに過ぎない。本書をその草稿と比較すると、表現上の多少の改稿を加えた上で、そのまま平仮名を万葉仮名に直したものであるといってよい。平仮名文の表記様態とは異なる部分として認められる数少ない点は、「跡継有」(草稿の対応箇所「跡継げる」)の部分と、「令・不・可・如(如此)」の四字のいわゆる返読文字に関する倒置記法の二点くらいのものである。即ち、この文章は、『真名本伊勢物語』のような先行資料を手本にしたとも考えられず、逆に正用の漢字を含む点から、古事記歌謡の採る全一字一音式の万葉仮名表記形式に倣ったとも考えられないのである。要は、古事記から万葉仮名のバリエーションを学んできたに過ぎない。次に掲げる本書の万葉仮名字体表を『古事記』のそれと比較してみたい(表2)。

表2 「御題字能後爾記須詞」所用万葉仮名字体表

  本書の万葉仮名は、純粋に一字工首の音仮名によっている。用いられた字体は一音節につき一〜三で、全体に平仮名の字母となったような常用の漢字を嫌い、装飾的、悪く言えば衒学的な用字の傾向が強い。「久・耳」を全く用いず「玖・珥」を用いる、「加・多」よりも「迦・」を多用するといった点にそれは特徴的である。その字母はおおよそ『古事記』所用の万葉仮名字体の中より選ばれているといってよい。殊に、ザに「邪」を用いているが、この字体は大野透氏により「特殊な仮名で、古事記に多用されてるる事は注目すべきことである」と指摘されている字体である(2)。また、濁音仮名と清音仮名が完全に区別されていることも『古事記』を始めとする上代のある種の万葉仮名文献の表記に倣ったものであろう。しかし一方では、万葉仮名表記に関して努めて注意深いというようなものでもないようで、例えば「茂」をモの仮名として用いることなどは、古い万葉仮名としては例のないことで、寧ろ近世の標準的な公用文体である「候文」の中で係助詞「も」を表記するものとして用いられていることの影響を考えるべきであろう。また、宣長が『古事記伝』巻一「仮字の事」で指摘しているところの、『古事記』の万葉仮名における二類の使い分けのようなことに至っては、例えば助動詞「けり」を表記するのに「祁理」(「祁」は甲類)と書いたり「氣理」(「氣」は乙類)と書いたりすることだけからでも既に明らかなように、全く配慮していない。しかしともかく、こうしたほぼ平仮名を万葉仮名に直しただけの表記体が成り立つことの底流には、一旦万葉仮名体系に立ち返ることでその独自の平仮名体系を構築した『古事記伝』のそれの場合と通底する文字意識を認めることができよう。

  そのこととともに注意されるのは、「御題字」に添える文章として純漢字文が好ましいと考えた、国学者たちの漢字に対する意識である。この時代には、表記体としては既に現代のものにかなり近い漢字仮名交じり文が、整版印刷文化にのってかなり大衆化していたにもかかわらず、やはり漢字を正格の文字と見る意識が厳然と存していたこと、殊に日本固有思想への回帰を標倍しているはずの国学者たちにとってさえ(或いは、だからこそ、かも知れないが)、それは捨て去りがたい桎桔であったということである。そのことは、続く平田篤胤において克服されるどころか、寧ろ極端化されることになる。それは漢字における尚古思想という形で現れ、『康煕字典』などにいわゆる「古文」への執着へと行き着くのである。思想と文字意識とが、我々の現代的な感覚からみて必ずしも歩調を合わせるものでないことは、国語意識史の問題として興味深いところでもある。

(矢田 勉)




【註】

(1)山田俊雄「真名本の意義」『国語と国文学』第三四巻第一〇号、一九五七年[本文へ戻る]
(2)『続万葉仮名の研究』、高山本店、一九七七年[本文へ戻る]



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