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28 古活字本、北畠親房著『職原抄』(上下二冊)
慶長一三(一六〇八)年
冊子装本
縦二五・三cm、横一九・四cm
史料編纂所蔵(0156-1-1/2)
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成立と文化史的意義
『職原抄』は、日本中世内乱期の公家北畠親房(一二九三〜一三五四)が、暦応三=興国元(一三四〇)年、常陸小田城で執筆した官職制度の注釈書である(加地一九七五)。南朝の後醍醐天皇死去から後村上天皇即位という時期に著され、後世に流布して官職研究の基本文献の一つとされた。
展示史料は、同書に改変を加え(加地一九七四)、近世初頭の慶長一三(一六〇八)年に活字印刷で刊行された。慶長古活字本と総称される書物の一つである。
多くの活字本が集中的に刊行された文禄・慶長(一五九二〜一六一五)から寛永年間(一六二四〜四四)にかけての約半世紀は、日本印刷・出版文化史上の一画期と目されている(龍一九三〇、川瀬一九六七・一九八三)。
その基底には、朝鮮や西欧(森上一九九一)からの活字印刷術の移入があり、さらには国内市場での和紙や活字用材等の生産・供給もあった。東アジア世界の制覇を企図し朝鮮半島を侵略した豊臣秀吉の軍勢は、遂に敗退したが(北島一九九五)、活字印刷機具一式や産物を持ち帰り、陶工たちを連行する等、優れた生産技術を略奪した。近世初頭の日本は、活字印刷という先端技術を侵略により獲得した。
以降、秀吉から朝鮮活字を献上された後陽成天皇や続く後水尾天皇による勅版、徳川家康の伏見版・駿河版、寺院の開版が相次いだ。これら権門に留まらず、京の豪商角倉素庵が嵯峨本を刊行するなどし、日本史上最初の活字文化が確立していった。これまで秘庫に蔵され、限られた人々の間で書写されて伝わった古典が、次第に刊行されるようになった。
この慶長一三(一六〇八)年版の刊行者中原職忠(一五八〇〜一六六〇)は、近世初期の朝廷に仕えた地下官人で、有職家として知られる。中原氏から分かれ、中世期に蔵人所出納の職を世襲し、朝儀公事に携わった平田家に生まれた(中村一九七〇)。清原氏から分かれ、儒道と明経博士を家学・家職とした公家舟橋秀賢(一五七五〜一六一四)に師事した。慶長一三(一六〇八)年、従五位上・式部少輔(唐名、吏部少卿)で後水尾天皇の侍読を兼ねた舟橋秀賢(東京大学史料編纂所一九一〇)の校訂と跋文を得、本書を成した。
この後の印刷技術の展開に触れると、古活字版は廃れ、長期保存と重版に適した版木印刷が主流となった。近世の出版文化の隆盛とともに、研究素材の共有と学説の相互批判とが成立し、学問の進歩を促していった。『職原抄』も、和学講談所を起こした塙保己一(一七四六〜一八二一)が主導した空前の大叢書『群書類従』により版行され、さらに広く流布していった(温故学会一九八六)
政治史的意義
舟橋秀賢の刊語は、この『職原抄』を、公家衆「諸家昇進」の趣旨と「官位職掌」を理解する「亀鑑」であると位置づけている。当時は、秀吉自ら関白・太政大臣の官職を簒奪し、朝廷の諸機能を動員して権力統合を達成した豊臣政権から江戸幕府への転換期であった。朝廷を新たな近世的秩序に適合化することは、重要な政治課題の一つであった。
近世の統一政権は、一貫して諸公家・官人に知行を給付し、朝廷を統御・動員した。知行充行を媒介に世襲の官職、家職と家学を全うする「役」を規定し、公家衆を身分的に編成し、体制に奉仕させた(山口一九九六)。近世の公家たちにとり、学問=家学・家職に励行し役儀を全うすることは、身分を存立させる上で必須の課題となった(山口一九九五)。この『職原抄』の存在や、さらには近世の天皇・朝廷の好学とは(和田一九三三、帝国学士院一九四四参照)それ自体、右の政治的社会的構造の所産であった。
元和元(一六一五)年、後陽成院に昇殿を許された中原職忠は、同八年徳川家康の七回忌に際し、勅使とともに江戸・日光東照社に派遣されている(『中原職忠日記』四[東京大学史料編纂所一九八八所収])。やがて『官職便覧』を著し、『令集解』や『文徳実録』を書写するなど学問に励んだ職忠は、寛永五(一六二八)年異例にも正四位上に推叙特進し、万治三(一六六〇)年八十一歳まで長寿を保った(『地下家伝』)。なお本書は、和紙や糸、染料や活字等各種の素材や道具を駆使した所産でもある。分業の進んだ当時の多くの商人や職人たちの手をも経て成ったであろうが、その人々の名は伝わらない。
来歴
本書に押された蔵書印は、以下の来歴を物語る。「和田英松蔵書」の印は、考証史学者和田英松(一八六五〜一九三七)の旧蔵書であったことを示す。東京大学の古典講習科国書課に学んだ和田は、史料編纂所の編纂官として総合編年史料集『大日本史料』第一〜五編の研究・編纂に携わり、在職中に帝国学士院会員にも選ばれた(国書逸文研究会一九八七)。主著の一つが、『職原抄』等を駆使した『官職要解』(一九〇二年刊、一九二六年修訂、一九八三年新訂)であった。彼の蔵書群は、大正一二(一九二三)年、関東大震災により東京湯島の自宅とともに焼失した後、再建されている。没後、永年勤務した史料編纂所に約二百五十点が納められ、残余は同僚等に頒たれた(所一九八七)。印は在世中のものではなく、遺書を分ける際の記念に新造されたものという(大崎一九八七)。
「馬越恭平奨学資金購入図書之記」の印は、昭和四(一九二九)年一〇月、実業家馬越恭平(一八四四〜一九三三)の寄付金(「史料編纂所ニ於ケル図書購入費」、総額壱万円)で購われたことを示している(東京大学百年史編集委員会一九八六)。三井物産等の役員を歴任した馬越は、大日本麦酒の社長として没した(大塚一九三五)。
終に本学に伝わり、昭和一六(一九四一)年に登記されたこの書は今日、史料編纂所に架蔵・公開され、学界の共有財産として研究に供されている。
(山口和夫)
【参考・参照文献】
朝尾直弘、一九九三、「一六世紀後半の日本」『岩波講座日本通史一一 近世一』
大崎正次、一九八七、「和田英松先生周辺の思い出」『和田英松博士の学恩』、国書逸文研究会編集・発行
大塚栄三、一九三五、『馬越恭平翁伝』、馬越恭平翁伝記編纂会
温故学会編、一九八六、『塙保己一論纂』上・下、錦正社
加地宏江、一九七四、「職原鈔諸本の系譜」『日本歴史』三一七
加地宏江、一九七五、「職原鈔の思想的基盤をめぐって」『日本史論集』、清文堂、時野谷勝教授退官記念会編
川瀬一馬、一九六七、『増補古活字版之研究』上・中・下、A・B・A・J
川瀬一馬、一九八三、『入門講話日本出版文化史』、日本エディタースクール出版部
北島万次、一九九五、『豊臣秀吉の朝鮮侵略』、吉川弘文館
国書逸文研究会編集・発行、一九八七、『和田英松博士の学恩』
帝国学士院編、一九四四、『宸翰英華』、紀元二千六百年奉祝会
東京大学史料編纂所編纂、一九七二、『大日本史料』、第十二編之十四、慶長十九年六月二十八日条、一九一〇年初版、東京大学出版会覆刻
東京大学史料編纂所編纂、一九八八、『大日本史料』、第十二編之五十一所収「補遺」、東京大学出版会
東京大学百年史編集委員会、一九八六、「奨学資金・奨学物件寄付者一覧」『東京大学百年史資料三』、東京大学出版会
所功、一九八七、「「和田英松氏旧蔵書目録」(現東大史料編纂所蔵)」『和田英松博士の学恩』、国書逸文研究会編集・発行
中村一郎、一九七〇、「出納平田家とその記録」『古記録の研究』、続群書類従完成会、高橋隆三先生喜寿記念論集刊行会編
森上修、一九九〇・九一、「慶長勅版『長恨歌琵琶行』について」『ビブリア』九五・九七
山口和夫、一九九五、「近世の家職」『岩波講座日本通史十四 近世四』
山口和夫、一九九六、「統一政権の成立と朝廷の近世化」『新しい近世史一国家と秩序』、山本博文編、新人物往来社
龍肅、一九三〇、「日本印刷史」『世界印刷史総説・日本篇』、中山久四郎・龍肅共著、三秀舎
和田英松、一九八三、『新訂官職要解』、所功校訂、講談社学術文庫
和田英松、一九三三、『皇室御撰之研究』、明治書院
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