—— 薬莢のように包まれた活字を賢治さんは運んだ。 盛岡から花巻まで、夜っぴて歩き…… 今、弘前で一冊の詩集が進行中である。 橡木弘詩集『鱈景』(詩行舎・札幌)は、作者の強い意向を受け、活版で印刷すべく、「Y印刷」(弘前)に発注された。
既に原稿が印刷所に入っており、初校から、三校迄は一応進行しているが、その後が、なかなか続かない。 頓挫の理由は明白だ。 初稿のゲタ(印刷用語・校正刷りの際該当の活字がないときに組み入れる、下駄の歯型の伏せ字)が、一向に減る気配がない。「Y印刷」への発注は、活版部門廃止後も、工場には活字棚がそっくり廃棄されずにあるとかで、活用させてもらうことで決めた。 幸運な活版敗者復活戦、というところである。 職場を離れていた元・活版担当の工員が、臨時に、文選と組版を行ってくれている。全面オフセット化で、無念の離職だった。しかし、もはや鋳造機が無いので、不足分の活字を、仙台の活字屋に只今注文中ということらしい。 誠に煩雑この上ないが、こうでもしない限り、東北のこの地でも、もはや活版は難しい状況に追い込まれている。 それ故に、弘前を中心とした、津軽一円の歴史・民俗・文学を主たる対象とした出版活動で知られる「津軽書房」(代表・高橋彰一氏)は、活版衰退の現状を、しきりに託つ。 同社では、四百点余の出版のうち、九割方を、活版で占めていたらしい。 —— 津軽で最大の印刷工場から、活版印刷部門の設備が、姿を消した。ここ十年ぐらいの間に、活字・鋳造機・印刷機などの、慣れ親しんできた設備が、殆ど廃品同様の扱いを受けて、処分されてきた。せめて、あの工場に、規模を縮小してでも、活版部門を存置させることができなかったのか……。 高橋氏は、悔しさを隠さない。東京・弘前と出版事業に永くかかわった、プロ中のプロの言葉だけに、リアルで、重いのである。 私もまた、活版衰退を憂う者の一人として、機会あるごと、印刷関係者に実状を尋ねた。そのたび、異口同音に発せられる返事は、〈事は単純ではないのです〉という。 活版のように効率の低い生産過程に、これ以上かかわれば、たちまち生産率が落ち込み、今日の情報社会に、とうてい対応できない、との御託宣であった。 恐らくその通りに違いない。このような印刷事情は、弘前に限らず、一昔前の盛岡でも同様である。その大きな転換期に、私も立ち会ってきた。 後出する「山口活版所」(現・山口北九州印刷株式会社)をはじめ、「杜陵印刷株式会社」、「川口印刷工業株式会社」などは、既に活版部を完全廃止、または、廃止前提の大幅縮小に踏み切っていた。 かろうじて、「熊谷印刷株式会社」が、中央大手出版社発行の書籍を、大手印刷所名で活版印刷を行っていたが、奥付にはどこにも「熊谷」名がしるされていないのである。 その当時、岩手大学教育学部特設美術科で《印刷概論及び演習》という授業を、ほぼ十一年間担当(非常勤)していた。主に活版印刷史と、初歩的編集レイアウトを扱う。この際に、工場見学を、「川口印刷」と「熊谷印刷」に引き受けていただいていた。 鋳造の現場で、打ち出されたばかりの、きらめく活字を、一本指先につまみ、その美しさに見惚れていた学生たちの姿に、今後再び触れることはないのである。 活字一本に刻まれた、一つの文字の存在の実感、とでもいえばいいか。ピンセットで扱うルビ(印刷用語・イギリスの活字の大きさの古称ルビーから呼ばれた。ふりがな用の小さな活字)から、一号、初号の重量感までを、指の腹で押えながら文選作業を進める。そのすばやい手工芸家のような手慣れた作業を、飽かずに眺めた。 時代の趨勢は百も承知だが、私もまた高橋彰一氏同様、活版廃絶の現状にはいまだ承伏するに至らぬ。 昭和一〇年代の記憶を遡る。 盛岡市の下町(油町・大工町・花屋町……)を学区とする「仁王尋常高等小学校」の児童の間に、秘かに、ある宝のヤマの存在が聶かれていた。発見者がだれであったのか、今は知るよしもない。まして、件の宝が、宝であり得たという往時の記憶さえ、既に消滅しているのではないだろうか。 ヤマのあった付近は、大手先と呼ばれており、子供たちにとっては、隣接する本町をへだてた、いわば未知の界隈に属し、普段は遊びに出かけることなどなかった。それ故に、偶然、ヤマの発見者となった子供の驚きは、さぞ大きかったに違いない。 ヤマの在り処は、「山口活版所」(前出)の裏手で、宝とは、廃棄された大小入り乱れた活字であった。 うわさでは、学区内にもう一箇所、「川口荷札株式会社」(前出・川口印刷工業株式会社の戦前の社名)の裏手にもヤマがあり、周辺の子供たちの探査にさらされていた模様である。 子供たちによる活字拾いの醍醐味は、自分の姓名をまとめることにあったが、勿論それは絶望的な行為というものだろう。にもかかわらず幸運者は、意味の通ずる言葉を、糸できつく縛って、朱肉を付け紙片に押して遊んだ。 活字体験、と呼ぶには、あまりにも果敢ない記憶だが、精巧に刻まれた(今思えば恐らく8ポの)活字の字面を、飽かずに見つめていたのである。 ヤマの発見に前後して、「山口活版所」の鉄格子に両手を掛け、伸び上がって工場内を覗き見た。 規則的に滑り出る印刷物を、手ぎわよくさばき、働く工員たちの姿は、小学生の目に、別世界のドラマのように映っていたとしてもおかしくない。 インクの強い匂い、紙の匂い、機械の匂い。それらが一つに籠り窓辺に漂っていた。 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはひってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまはり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌ふやうに読んだり数へたりしながらたくさん働いて居りました。 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の第二章〈活版所〉から引いている。 研究者によれば、現存原稿は八十三枚で、構成はまことに複雑であるらしい。作者が病床でさまざまな紙に走り書きしたことや、大略四次にわたる大幅手入れを行った際に、紙がさしかえられたり、破棄されたり、新稿紙が加えられたりしたためであるとされる(『宮澤賢治全集』(七)解説・天澤退二郎)。 愛する友とどこ迄も一緒に行きたいと熱望しつつ、願いが叶えられず、再び現世にもどってくるという、孤独な少年の美しい幻想物語の中で、唯一リアルな描写と印象づけられるのは、〈活版所〉の章である。何故だろう。 「山口活版所」の社史を繰る。三角の山型をいただく社屋正面に、山口活版所と、太筆書き文字を、一文字ずつ切りとって凸型に仕立てた社名が取りつけられた新築当時の写真がある。〈明治以来の木造社屋を改造し、近代的印刷機を整備〉したのが、大正一二年のことであった。 私たちが、しがみつき、中を覗いた鉄格子が写っている。この新しい社屋に、たびたび足を運んだのが、宮澤賢治である。 花巻農学校の教師・賢治は、詩集『春と修羅』を自費出版するに当り、花巻の「大正活版所」に依頼した。件の印刷所は、「山口活版所」の支店のような形で開業され、当時はまだ、整備が十分でなかった。 賢治の友人で、永くその仕事ぶりを見守ってきた森荘巳池(賢治研究家・作家)は、『宮澤賢治の肖像』(津軽書房)で、そのあたりの経緯を詳述している(〈『春と修羅』について〉の章)。 —— 賢治は校正の途中で、ゲタをはいた活字を書き上げて、盛岡の「山口活所」にとりにいった。それがしばしばであることを梅野啓吉が話してくれた。さすがに賢治は『春と修羅』を恐るべき梅野印刷には頼まなかった(梅野啓吉は花巻の文学青年で、後朝日新聞記者/梅野の父は活版屋を営んでいた)。 賢治が訪ねた「山口活版所」は、新築間もないピカピカの社屋だった。そこは、〈まだ昼なのに電燈がついて〉、工場では〈輪転器がばたりばたりまはり〉(機とすべきか)、セルロイドのシェードをかけたりした人々が活写されている。懐かしい活版所の光景だ。 賢治が見たに違いない当時の新鋭活版機械は、私たちが伸び上って見たものと、同じく、ばたりばたりと作動を繰り返していたはずである。 ショバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子(テーブル)に座った人の所へ行っておじぎををしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云ひながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい歯をとりだして向ふの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒(あわつぶ)ぐらいの活字を次から次と拾ひはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云ひますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かず冷たくわらひました。 ジョバンニがピンセットで拾った粟粒ぐらいの活字とは、ルビであろう。小さなケースに紙片を見ながら拾い集める手作業である。 青い胸あてをした人が、後を通りながら、虫めがね君、などとひやかすと、周りの工員たちが、声もたてず、こちらも向かず冷たく笑う、というあたりが、いかにもリアルだ。 この後、ジョバンニは、何回も眼を拭いながら、活字をだんだん拾うのである(だんだん拾うという表現がおもしろい)。 入口の計算台のところで、小さな銀貨を一つ受けとると、少年は口笛を吹きながら。パン屋へ寄って。パンの塊を一つと、角砂糖を一袋買って、一目散に家をめざす。 活字拾いのアルバイト少年は、今ならどれだけの報酬にあたるのだろう。 森氏の証言によれば、芝居好きの賢治は、「盛岡劇場」で上演される芝居見物のため、はるばる花巻からやってきた。芝居がハネると、上り列車は既になく、賢治は徒歩で花巻へと向うのである。 私の想像では、あるいは勝手な思い入れでは、片側のポケットに、「山口活版社」から分けてもらった活字が数十個、紙に包まれて忍ばせてある、ということになる。 活版 活版印刷のこだわりは何んだろう。 眼で触れる活字の感触。橡木の詩ではないが、印圧なる〈辞書にもないような気分にすがり〉続けることである。 周知のように、印圧を加えて印刷する凸版方式は、おのずと、紙面に食い込む文字像の、きりりとした鮮明さを持っている。 版面をひと撫でして滑っていくオフセット印刷とは成り立ちがまるで違うのだ。 活字のVの谷の底にインクが多くつき、〈谷の崖には底から段々に淡くついている〉のを、わざわざループで確かめた人物がいる。 矢立丈夫氏(詩集・評論を中心とした出版社「矢立出版」社長)は、稀有な書物である『活字礼讃』(活字文化社一の中で、“活字が生きている”のを、四つの要素によって証明しようとしている。 (1)活字は「活きている字」と書くように、(まさに)生きている。(2)紙のコシ。(3)活版インクの艶と香り。(4)文字デザインの美しさ。 凸型の活字は、紙に印刷するとき、V字型に紙の中にインクが押し込まれる。すると、光が当たる方向によって、即ち目の位置によって活字が変化して見える、とする(ここ迄活字について考察した人物を知らない)。 また、紙に活字を押し込むように印刷するので、〈印圧〉が生じ、紙にコシを作る。 かって私も、《印刷概論》を講じていたとき、学生諸君へ、活版の魅力を語った際に、まずなによりも、活版印刷物に眼で触れよ、と説いたことを思い出す。それでも尚、活版と平版の差を確認できないならば、親指と人差し指の腹で紙をはさみ、少し引いて、凹みを確かめることをすすめた。 つまり、紙面に、凹みの集積(とりもなおさず凸のそれでもある)によって生じた、紙のコシを感得することだった。ページを繰るときの感覚を、感触として身につけること、とでもいったらいいだろうか。90キロの紙が、活字をよりよく食い込ませる、とはたびたび現場で専門職から聞いていたが、印刷圧を最も加減しやすいということだろう。 さらに活版の魅力として上げられているインクの艶だが、紙にダイレクトにインクが食い込むことによる濃さ、艶の好ましさは、平版のとうてい及ぶ所ではない。インクの匂いのない印刷物は、コピーの紙面と少しも代わらないのである。インクの油性と水の反撥作用によってロール転写をする平版は、水のため艶を失ってしまう。その薫りもまた—— 。 活字文字の美しさにつて語るのは、私の任ではない。矢作勝美氏(印刷出版研究家)の主著である『明朝活字—— その歴史と現状』(平凡社)や、『活字=表現・記録・伝達する』(出版ニュース社)の活字論は、狭義の印刷論を越え大いなる〈文化論〉として私たちの前にある。印刷業界の枠組や、印刷学界に封じられていいものではない。 印刷の合理化、能率化、の波が前出の業界現場のトップをして語らせている。〈活版のように効率の低い生産過程〉にかかわっていたら、今日の情報社会に生きてはいけぬ、と。 確かに、この言葉はずっしりと重い。 盛岡の「H印刷所」が、長い間公営競馬場の印刷物を受注していた。きつい仕事だったが、それなりの実入もあった。ところが、一夜にして発注がとまった。 活版より安価なオフセットの印刷所に切り代わったという。通告は一方的になされたらしい。困惑などというものではなかった。退職をうながされることになった工員の人たちの、その後の転身のことを想うと、今でも気が重い。 「H印刷所」に限らず、この様な事例は数限りなく、この国で起こったに違いない。 だが、このような印刷業界の事情は事情とし、矢作氏が鋭く指摘する活版の危機もまた、文化の問題として忘れることはできないのだ。 —— 印刷の現場から明朝体活字が押し流されてしまいそうである。崖っぷちまで追いつめられてしまった活版。〈根こそぎやられてからでは遅い。取りかえしがつかなくなってしまう〉のである。私もそうおもう。 『暮しの手帖』編集長の故花森安治氏に次のような文章がある。 —— 活字については、いささか好ききらいがあって、明治のころ築地活版のあの字体が好きなのである。ことに、いろは平かなにいたっては、ほれぼれする。これは若いときから、しみついたもので、いまさどうしようもない。それが事志に反して、昭和のはじめごろから、活字の書体は細く細く、活版印刷は軽く軽くなってきて、ついにあの写真植字体にまで、なりさがってしまった(『一銭五厘の旗』あとがき)(太字・村上)。 明治期を代表する築地活版所の〈築地体〉と、秀英舎の〈秀英体〉では、前者がフトコロが狭く扱われているのに対し、後者は逆に幅が広い。共に、今どきの明朝体より縦画が太いのでボリュームがあり、紙に深く食い込んで見える。 ああ花森氏の印刷デザインの美学は、あそこに出発していたのかと、いかにも腑に落ちた心地がするのである。 一昔前のことになるが、寿岳文章氏の京都のお宅を、用美社・岡田満氏の誘いでお訪ねしたことがあった。書籍や印刷をめぐる談義の後、玄関口での一言が胸に焼き付いている。 —— 村上君、明朝体をたのんだよ! 朝体活字が、いかに美しいかの話題が主だったので、大きな宿題が課せられた心地がした。しかし、その後は、今迄綴ったような印刷事情の変容である。自分がかかわってきた印刷デザインに、明朝体使用をかたくなに迄守ったことと、拙住居を「明朝舎」と称しているぐらいで、誠に無力である。 活版の崩解は、藍染(紺屋)のそれに似ている。私事だが、わが家はかって、七代続いた紺屋であった。明治の中頃に価格の安い化学染料が輸入され、藍染は急速に廃れた。大戦というマイナス材料も勿論あったが、技術革新が紺屋の存続を許さなかった。 藍草の栽培から、藍建て迄、その一つ一つ重ねてゆく手続きは、活版印刷の工程(段取り)に似ている(同様の指摘を、矢口進也氏もしておられた。『活字礼讃』)。 東京大学総合研究博物館開館記念特別展示「歴史の文字」展に、第三部として、活版印刷の職人技術が紹介されるという。 「東京築地活版製造所」の印字見本や、新聞紙型、それに活版印刷プロセスの一式が展示されるはずである。 ハイデル型活版印刷機、文選台、活字棚などの前に立つと、賢治が覗き、私たちが覗き見た、ジョバンニの工場がゆっくりと立ち上がってくる。 ばたり、ばたり、ばたり…… 活版があぶない/だから印圧があぶないぞ。 冒頭の、詩集『鱈景』が出版されるはずの四月三〇日(奥付)には、「Y印刷」活版部敗者復活即席チームは解体される。 |
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