歴史の文字−記載・活字・活版

西野嘉章(総合研究博物館)



  いま日本の活字が滅びようとしている。活字が滅びるといっても、むろん、文字が消えて無くなるという意味ではない。文字はコンピュータのフォント上にデジタル記号として生き残り、「モノ」としての重たい鉛活字だけが、明日にも姿を消そうとしている。あのグーテンベルクの「印刷革命」にも匹敵する、劇的な地殻変動が文字記載の歴史のなかで起こっているのである。

  たしかに、「文字を書く」と言い、「文字を記す」とも言う。しかし、石碑の文字を刻むと言い、印章の文字は彫ると言う。また、貨幣や活字の文字のように鋳る文字もあれば、印判や花押のように捺す文字もある。角筆や鉄筆は擦り、版本や古札は摺り、活版や石版は刷る。このように、「文字」を受ける動詞は実に多様である。それはすなわち、記載の方法も、またその受け皿となる支持体もそれだけ変化に富んでいたということ。文字はそれらの表面上に在る。否、在ったのである。「歴史の文字」は、間違いなく、物質的な実在すなわち「モノ」であり、支持体と一つであった。そのことを現代のわれわれは忘れて久しい。「文字」を単なる記号としてしか見なくなってしまったからである。

  紙に鉛筆で文字を書き、消してはまた書き直す。このような場合、その文字はただの「記号」として遇されているに過ぎない。紙の上に書き記された文字も、その現前を消し去ることができるなら、それは単なる記号消費の対象でしかないのである。しかし、近代社会の成立する以前にはどうだったろう。記号消費を拒む「モノ」としての文字、あの誇り高い文字が確かに生きていた。鉄剣に象嵌された銘文然り。石碑に陰刻された碑文や、木簡に墨書された詞文もまた然り。筆で墨書された文字でさえ、和紙や陶器や木簡といった支持体の内部に浸透し、抹消されるのを拒み続けているではないか。これら「歴史の文字」は、その支持体を傷めることなく、訂正したり、削除したり、除去したりできない、そうした物理的実体に特有な「モノ」性を主張して止まない。

  「モノ」としての文字は、たしかに、扱いが厄介である。そのことは、消しゴムで鉛筆の文字を消そうとしてなかなか消すことのできなかった経験のある者なら、誰しも実感として知るところだろう。そうした文字に通有なのは、どれも支持体の表面に固着しているということ。事物の表面が、色合いの変化や起伏の有無を通して、かたちを纏う。そうしてはじめて、われわれはそれらを眼でもって知覚し、指でもって触覚し、文字として認識する、つまり読むことができるのである。

  それに対し、デジタル信号によって記載された「現代の文字」はどうか。これもまた磁気ディスクという物質的な支えを基にしてはいるが、伝統的な記載文字と根本的に異なっている。人間の五感に訴える要素をおよそ持ち合わせていないからである。コード解読という操作を経なければ、そのままでは読むことができない。というより、コード解読し、電子表示板に表示しても、とどのつまりが輝点の集合にしか過ぎないのである。したがって、それら輝点が一定のコード体系に則ったかたちに寄り集まらぬ限り、文字情報として体を成さない。試みに、フォント上の文字を拡大してみるがよい。それら映像にしか過ぎぬ輝点の集まりが、はたして文字のかたちを成しているのかさえ、俄には判別しがたい、それほど不確かなものに過ぎないのである。

  物理的に存在する文字とコンピュータ・フォント上にしか存在し得ぬ文字、言葉を換えるなら伝統的な記載と今日的な記載、両者をただ利便性という側面でのみ比較するなら、どちらに軍配が上がるかは明白である。支持体に固着した文字(モノ)は甚だしく不随意であり、デジタル情報化された文字(記号)は限りなく可塑性に富んでいる。この後者の驚異的な特性が、伝統的な記載手段を一掃し、瞬く間に電子印字を流行させたことはいまだ記憶に新しい。以来、われわれの社会はこの利便性をのみひたすら追究してきた。現に総合研究博物館でも、文字情報を画像情報とともにマルチメディア.システムへ取り込み、それらの加工性、汎用性、開放性、連鎖性、蓄積性を、教育研究や情報発信の現場で最大限に活用しようとしている。

  しかし、と敢えて言おう。文字は文化であり、文化そのものであり、その文化は「モノ」としての文字、すなわち「歴史の文字」によって生み出されてきたのではなかったか。それらをいともあっさりと放り出す−利便性をのみ考えて。伝統ある活版印刷を放棄するとは、まさにそうしたことに他ならない。たしかに、オフセット印刷によるものも電子プリンターによるものも、文字は文字である。しかし、活版印刷特有の、あの紙面に食い込むような触感を知る者にとって、現代の印刷物はあまりに平板なものにしか映らない。文字を単なる情報の伝達媒体と見るなら、それでも事は足りよう。が、その場合、「歴史の文字」を支えてきた質料の情報、あるいはそれの表面へ文字を固着させた人間の身振りの情報は、どこに雲散霧消してしまうのだろう。その欠落を償うだけのものを、現代のデジタル文字情報は持ち得ているのか。

  あらためて言うまでもないが、文字は人間の活動を支えるもっとも基本的な道具の一つである。知的な活動の場である教育研究も、文字無くしては立ち行かない。文字で記された文献を読み、標本を文字で記載し、成果を文字を通して公表する。文字へのかかる依存度を考えるなら、「記載モード」の変化が教育研究の現場に直接跳ね返ってくるだろうことは容易に察しがつく。

  事実、自然史を専門とする分類学者は次のように話す。学術標本を記載しようとするとき、常用漢字、当用漢字と文字の使用範囲が狭められてきたせいで、それが行い難いことがある。さらに深刻なのは、普段あまり使われぬ文字を使用しなくてはならぬケースである。現行の文字フォントにそれが存在しないため、わざわざ作字をしなくてはならず、印刷物として刊行できないからである。偶蹄目をウシ目と、奇蹄目をウマ目と読み替える現代の慣行では、豚や羊がウシ目で、鹿がウマ目となり、一般に分かり難い。蹄の数で分類する漢字分名の長所が、まるで失われてしまったというのである。

  似たような例は文化史の研究の現場でも起こっている。歴史研究における古い文献の翻刻出版の場合がそうである。コンピュータ組版全盛の今日、一次史料に使われている旧漢字や異体字がフォントに無いため、やはり印行に著しい困難を生じているという。また、上記の二例と多少ニュアンスも異なるが、記載方法に関するものもある。すなわち、博物館に保存される学術標本のなかには、種の命名の原基となった根本資料すなわちタイプ標本が存在する。当然、新しい種が発見されたなら、その標本には然るべき名前が付けられ、関連データが標本ラベルに記載されることになる。そのとき、こうしたラベル記載に携わる者は、いまだにペンによる手書きか、さもなくば活字やタイプライターによる印字に頼っている。電子プリンターを使わないのは、五十年、百年先のことを考えるからだという。先端技術による印字では、その耐久性に保証が持てないのである。

  こうした事例の因ってくるところを探ると、結局、一つの変化に端を発していることがわかる。すなわち、「活字」からフォントヘ、活版印刷から電子印字へという、「記載モード」の変化がそれである。活版からコンピュータ組版へ移行することで、われわれはたしかに以前なら想像だにし得ぬような利便性を獲得した。しかし、その反面、伝統的な記載手段の持つ特性や長所を顧みぬまま、謂うところの「時代の流れ」に迎合しようとしてきた。というより、そのことの是非に想いを馳せるゆとりさえ持ち得なかった、というのが実情ではないか。こうした現状認識に立って、われわれは本展において文字記載モードのあり方をいまいちど歴史的に辿り直し、文字とは何か、文字記載とは何か、それの近代的手段としての印刷とは何か、こうした問題をあらためて博物館の空間のなかで考えてみることにした。

  展示のなかでとくに大きな比重を割いたのは、金属活字の成立と活版印刷の技術に関わる側面である。金属鋳造活字の発明は、グーテンベルクのそれが西洋近世の成立を促したように、日本社会においても近代化推進の原動力となった。活字製造を工業化することでもって始まった活版技術は、職人たちの努力の甲斐もあって、ミクロン単位の信じ難い精度を達成できるまでになった。しかし、他方で、技術革新の展開もまた目覚ましい。活版の技術的な完成を待つようにして、まず電算写植が、次にコンピュータ組版が誕生し、たちまちにしてそれへ取って代わったのである。文字記載システムの土台をなすものが、重くて扱い難い「モノ」(鉛活字)から軽くて扱い易い「デジタル・フォント」(電子印字)に移行してしまったというわけである。この新しい記号生産体制は、いまや、古いモノ・システムを完全に葬り去ろうとしている。

  あるいはこの現状認識も、すでに甘すぎるかもしれない。実際のところ活版印刷は、名刺や案内状やレター・ヘッドなど用途の限られた印刷物を別にすると、事実上無きに等しいから。とくに一般書籍の印刷においてはそうである。電算写植からコンピュータ組版へあっという間に「進化」し、活版は好事家向きの骨董品としてしか見られなくなってきている。高い印壓から生まれる、紙面に喰い込む鮮明な印影は、残念なことにもはや古書の世界にしか存在しない。

  活版印刷を維持するとはすなわち、使用する文字に見合うだけの鉛活字をつねに用意しておくことは勿論、合金やメッキ材などの製造元から、活字鋳造機や込物(インテル)鋳造機などの工作機械、字母や母型の制作者まで活字供給システム全体を確保し、その上で文選工、植字工、紙型工、鉛版工、メッキエ、印刷工など大勢の職人集団を抱え、さらに大型印刷機から原料、ゲラ、紙型、印刷物の保管庫まで、すべてを円滑に稼動し保持し続けるということに他ならない。これらのどれ一つを欠いても操業の継続は難しい。とすれば、これを維持するのは現実には至難である。とくに現在の出版状況下においては。

  しかし、それにしても、と思う。グーテンベルクによる活字の発明からこのかた、基本においてはまったく変わることなく続けられてきた活版印刷の伝統を、かくもあっさりと廃して良いものだろうか。たしかに、旧い技術は革新によって塗り変えられ、新しい技術に取って代わられる運命にある。しかし、それは、前者を何らかのかたちで現状保存してはじめて許されることなのではないか。とくに、活版印刷のように、一度廃棄したら二度とふたたび復元の困難な技術の場合には。

  昨年の夏、ある印刷所が活版ラインの操業を停止するとの報を受けた。私企業のやむを得ぬ選択とはいえ、悲しいニュースであった。そこで、産業廃棄物として鋳潰されるか廃棄されるはずの鉛活字を、筆者の勤める総合研究博物館に引き取らせて欲しいと申し出た。せめて活字の一部だけでも、大学の博物館資料として永久に保存しておきたいと思ったからである。幸いにして、印刷所には当方の思いが伝わった。快諾する旨の返事がすぐに来たのである。ならば、と欲が出た。活字だけで印刷技術の復元はできない。活版印刷のラインを丸ごと保存すべきではないのか。職人の熟練した技は永久保存できない。が、「モノ」としてあるものは保存できないでもない、そう考えたのである。これにも諾との返事が来た。実に有難い話であった。

  というわけで、本年度初め、誕生したばかりの総合研究博物館の一隅に「活版印刷所一揃い」が無事寄贈された。鉛活字、字母、込物、紙型、文選馬、植字台、活字鋳造機、活版印刷機、他一式が。

  印刷所の話では、工場にある鉛活字だけで重さが優に百トンを超えるという。これには、実のところ度肝を抜かれた。原材料は鉛と錫とアンチモンの合金。しかも日本語文を構成する漢字の数、字の種類やポイント級数などを考えたら、これも当然だろう。文学や思想を「重さ」に換算するというのも妙な話であるが、それだけのものを以てすれば、人間がこれまでに生み出してきた言葉、また今まさに生まれっつある言葉、さらに将来に亘って生み出されるであろう言葉をすべて活字に置き換えることができる、そう考えるなら百トンでも重くはない。人間の産業的な営為の一端を科学史・技術史の文脈で博物館施設内に保管する、そのためには「重さ」の問題など左程のことではないからである。

  こうした事情もあり、本展には、いくつかの歴史的な文化財と併せて、三百万本を超える鉛活字が展示品として用意されている。百万本単位の数を論うには訳がある。活字による印行には、桁外れの膨大な。パーツの準備と、それを組み立てる奇跡的な職人技が必要である。三百頁程の標準的な本を活版で印刷するのにおよそ十万本の活字と込物が使われ、その重量は一トンにも達する。われわれが何気なく手にしてきた活版印刷本は、そうした圧倒的な重さを背後に持っているのである。試みに、本の頁面を想い浮かべてみるがよい。文字列ではない。白紙のままに残された部分を想うのである。活版ゲラでは、それこそ無数の鉛や木の込物が、そこを隙間なく並べられている。頁の余白さえ、びっしりと「モノ」に埋め尽くされた稠密空間なのである。

  それに対し、昨今のコンピュータ組版による印行本はどうか。活版プロセスと対照的に、そこでは十グラムにも満たない磁性体に文字情報のすべてを縮体することが可能である。もちろん、印刷物を純粋な記号媒体と見るのであれば材料の重さは問題にならない。が、「歴史の文字」は、活版印刷の生み出したものも含め、すべてが間違いなく「モノ」であり、「モノ」特有の物理的な手ごたえ、視覚的な色合い、触覚的な肌合いを有している。文字を単なる記号媒体に還元し、それを磁気ディスクに。パッケージ化するとは、文字とそれを取り巻く空間を空洞化することに他ならない。デジタル情報化することで、余白は文字通りの虚空と化しはしないだろうか。

  活版印刷は一連の産業技術の連鎖から成り立っており、それらを繋げる職人の技は全き完成度を実現した。宮澤賢治が『銀河鉄道の夜』の活版印刷工場の条りで活写してみせた文選職人の技も、あのジョバンニ少年のような「ルビ拾い」も、どちらも欠くわけに行かない。ばかりか、活字や紙型の原材料の供給が停止しても、二度と立ち直ることは難い。一五世紀に技術の発明があって以来、根本において何一つ変わることなく維持され続けてきた活版印刷。様々な産業技術が消長発展をくり返してきた近世から近代において、かくも変わらずに来たものは珍しい。その完成された産業技術が、われわれの眼の前で葬り去られようとしている。




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