倭人社会の文字 倉林眞砂斗 人類が創出した文字には、現在も使われているものと、既に使われなくなって化石化したものとがある。両者を併せて、楔形文字体系、ヒエログリフ文字体系、アルファベット体系、漢字体系、およびその他と、大きく五つの体系に分けることができる(1)。現在、日本で使われている文字は、西夏文字や女真文字、そしてヴェトナムの字喃(チュノム)などと共に漢字体系に属する。中国の商文明が生み出した甲骨文字を出発点とし、次第に整備・体系化された漢字と迸せて、日本語を表記する手段として仮名文字が発明されるに至ったのである。この点、後漢代に許慎によって最古の漢字研究書である『説文解字』が著されたのは画期的であったと言える。 民族や文化の違いを越えて広がりを見せる文字の特質は、漢字だけに備わっていたわけではない。例えば、紀元前四千年紀に略画から出発した楔形文字もまた、これを生み出したシュメール文化だけのものではなかった。具象を離れて、基本記号の組み合わせで意味を表すようになると汎用性は一層高まり、表音文字としての側面をもつに至って、アッカド語、エラム語、古代ペルシア語などの表記手段として多用された。また、アルファベットを生みだしたフェニキアにおいても、楔形文字が用いられていたのである。このような文字の特質を通して、文字そのものの歴史だけではなく、人間社会がどのような状況の中で、どのような形で文字を必要としたかを垣間みることができる。 印刷技術が発明される以前には、「線刻する」、「鋳出する」、「彫る」(陽刻・陰刻)、「象嵌する」、「書く」などして文字が記され、支持体の素材には、粘土、木、竹、骨、亀甲、金属、石、広義の紙、などがあった。これらは、日本列島では次のような考古遺存として存在する。例えば、土師器や須恵器、瓦、磚、紡錘車、木簡、印章、銅鏡、鉄剣・鉄刀、墓誌、買地券、碑文、漆紙文書などの文書類、あるいは壁面のような遺構などである。考古遺存の性格に基づいて、これらを次のように分類整理しておく。まず、文字を記す基本作業は、広義の「刻む」と「書く」に大きく二分される。銭貨や銅鏡の場合は文字が鋳出されたわけであるが、先に鋳型に逆字を彫り込む作業が必要であったため、ここでは「刻む」に含めておく。 まず、文字が刻まれなければ用をなさなかった物がある。印章は、その典型的な例である。銭貨も同様に、身元や価値単位を同一基準で表示しておかなければ全く役に立たない物である。銅鏡の場合は、すべてに銘文が施されたわけではなく、鏡としての機能は文字の有無とは関わりがなかったように思われる。しかしながら、長寿や出世、子孫繁栄を祈願した銘文内容をみると、当時の人々が不思議な力や永遠性に対する想いを込めて鏡を製作していたことが分かる。これらのように、文字と一体となって存在価値を有した物を一体型としてまず区別する。 第二に、文字の有無にかかわらず一個の製品として機能しえた物に刻まれた、あるいは書かれた場合がある。これを添加型と呼ぼう。添加型には、完成品段階で文字が記された場合と、未成品段階で記された場合がある。未成品添加型の素材は粘土で、整形した後に生乾きの状態で文字が刻まれた。このタイプには、須恵器、埴輪、陶棺、瓦などがある。製作途中で文字が刻まれた点は先の一体型と同様であるが、製品としての需要度に格段の違いがあったにもかかわらず、添加型の場合は刻字されることがきわめて稀であった。さらに、刻字された場所は一定しておらず、単字の場合も少なくない。一方で、需要度に応じて各地で生産体制の拡充がはかられたことをふまえると、製作過程で刻字された未成品添加型は文字の広がりを知る指標の一つと言える。この点、完成品添加型の中でも土器への墨書は、製品が生産地を遠く離れた状況下でも可能であったことに留意すべきであろう。ただし、歴史時代の集落遺跡から出土した墨書土器には、限られた共通文字が記されていることも多く、記号に転化した側面が窺える点に注意する必要がある(2)。一方、前方後円墳時代に見られる銅鏡、鉄剣・鉄刀への刻字あるいは象蕨などは、技術的条件の限界性を考慮して、畿内中枢に代表される権力体との関わりから論じられることが多い。 第三に、文字を彫り込む、あるいは書くことを目的として用意された素材がある。この場合は、目的に応じて金属、石、木、紙などが使い分けられ、記された内容は基本的に脈絡をもっていることから史料として重要な役目を果たす。墓誌や墓碑は被葬者の名前や社会的地位を、買地券は往時の死生観を、碑文は政治的な事跡を、薄く削った木に墨書した木簡や漆紙文書(漆のふた紙として再利用された反故紙)などは行政内容について多くのことを語ってくれる。 また、少数ながら、七世紀以降の横穴墓の壁面や閉塞石に刻字された例が確認されている。それらは、職掌、氏族名、年号など、数字程度の場合がほとんどである。 物質文化を通してみると、日本列島に文字が登場し根付いていった過程は、以上のように整理できる。一体型、添加型、目的型は、現時点ではそのまま時間的経過に対応するとみてよい。しかし、これはあくまでも基本的な枠組みであって、次に順を追って具体例をあげながら肉付けをしておくことにする。 一体型の資料のほとんどは、文字が使いこなされていた中国で製作され、様々な経緯で列島に持ち込まれたものである。「漢倭奴国王」金印は、後漢初頭に光武帝から下賜された印である可能性がきわめて高い。東アジア全体を見回した場合、この金印を漢代印制の一端として矛盾なく位置づけることができるのに対して、中国広東省の広州市に所在する南越王墓から出土した金印は異彩を放っている(挿図1)。南越国は、紀元前二〇三年から紀元前一一一年まで、広州市一帯からヴェトナム北一体型の資料のほとんどは、文字が使いこなされていた中国で製作され、様々な経緯で列島に持ち込まれたものである。「漢倭奴国王」金印は、後漢初頭に光武帝から下賜された印である可能性がきわめて高い。東アジア全体を見回した場合、この金印を漢代印制の一端として矛盾なく位置づけることができるのに対して、中国広東省の広州市に所在する南越王墓から出土した金印は異彩を放っている(挿図1)。南越国は、紀元前二〇三年から紀元前一一一年まで、広州市一帯からヴェトナム北部にかけて存在した。第二代、趙胡・文帝が埋葬されたと考えられる王墓から、「文帝行璽」と刻された龍鉦金印が出土した。この金印は、一辺約三センチと通有の金印よりも大きい点、龍を鉦とした点、「帝」「璽」を用いた点などに、漢王朝の秩序に抗って皇帝を自認した気概が表れている。遠い南方の地だからこそ可能だった所業であるが、これが看過されることはなく、結局は内乱に乗じて前漢武帝に滅ぼされるに至った。当時、印章下賜という行為が政治的に重要な意味をもち、いかに求心力をもって作用していたかが窺える。倭の奴国王が、漢代印制の枠組みに関してどの程度の認識をもっていたかは別として、何らかの情報源や媒介者を抱え込んでいた可能性は否定できないであろう。 挿図1 右より文帝行璽、王之印、廣陸王璽、漢倭奴国王(註(4)文献より一部改変) 金印下賜の経緯や、文書の封印に使用されたという本来的な役割を勘案して、当時既に文字が理解され、使用される環境が生まれていた可能性が主張される(3)一方で、外臣の蛮夷王の場合は朝貢に際して外交文書は必ずしも伴わず、金印は身分証明の道具立てにすぎなかったとする見解もある(4)。中国王朝から下賜された印章が、権威承認の証としてその効果を遺憾なく発揮したことは想像に難くない。邪馬台国の卑弥呼が景初三(二三九)年に魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印紫綬(紫色の組紐を通した金印)を、使者は官位や銀印青綬を賜った場合も同様である。狗奴国との抗争が続いていた中で、卑弥呼は強大な中国王朝の権威を借用することに成功したからである。また、その厚遇ぶりは、新帝の即位間もない時期で格好の政治的セレモニーの場を必要としていた、という魏の事情からも説明づけられる(5)点が興味深い。下賜印章が実用的機能をもっていたことは間違いないし、当時の列島に刻字内容を理解できた人もいたかも知れない。しかし、このことと金印が権威承認の証として求心力の維持伸張に役立ったこととは、必ずしも矛盾しない。むしろ、青銅製祭器を活発に製作していた倭人が、自ら印の作製に着手した形跡はなく、少なくとも列島内においては印制の借用はおろか印を用いる習わしも広がることはなったのである。 西日本を中心に出土する中国銭貨は、前漢の後半代から新を挟んで後漢初期の半両銭、五銖銭、貨泉などが主で、概ね弥生時代の中期から後期にかけて流入したと考えられる(6)。これらの出土状況をみると、北部九州地域と大阪湾沿岸地域に集中する傾向が看取される。この点をふまえると、中国銭貨が当該地域で活発に行われていた青銅器生産の素材とされた可能性は否定できない(7)。素材として積極的な搬入がはかられたならば、中国銭貨の表面に鋳出された文字に対しては、さして注意が払われることはなかったであろう。 搬入された大陸製品という点では、実用機能を備えた銅鏡の方が息は長かったようである。倭人の鏡に対する嗜好性は顕著で、弥生時代の中期中葉以降になると多数の漢式鏡が搬入されるようになり、北部九州で副葬された銅鏡の型式変遷は、中国王朝の中心地であった中原と基本的に歩みを同じくする。このことは、継続的な入手と副葬が繰り返されたことを示している。前漢の中頃から、七言句、四言句などの形をとる銘文帯が施されるようになり、銘文内容は長寿、子孫繁栄、出世など吉祥的な意味合いをもっていた。また、時には年号が記される場合もあった。中国鏡の銘文内容と鏡式との間には、一定度の対応関係が見出せる(8)。また、逆字、誤字、省画、字体分割などが認められ、製作者レベルの識字力が疑われる例もあることが指摘されている。後漢鏡の流入が停滞した弥生時代後期中頃になると、銅鏡の破片を大事に扱ったり、小形の製鏡が盛んに作られるようになった(9)。製と言えども、文字が抽象化された渦巻紋、蕨手紋、獣形紋などが主体的で、漢字が忠実に模倣されることはなかった。つまり、銅鏡そのものに対する需要は衰えなかったが、背面に表された吉祥句の内容はまったく理解されていなかったのである。 前期の前方後円墳に副葬された三角縁神獣鏡のうち、いわゆる舶載鏡とされる一群は、魏から下賜されたものではなく、呉の工人たちによって列島内で製作された、とみる説がある(10)。この場合は、当時の列島に文字を理解する者が存在したことになる。一方、明らかに製とされる三角縁神獣鏡には、福岡県糸島郡に所在する一貴山銚子塚古墳出土例のように、いわゆる鏡字の銘文が施された製品がある(11)。中国鏡の銘文をそのまま写して、鋳型に字を逆に彫り込まなかったために生じた事態であるが、少なくとも四世紀後半代の畿内に文字を文字として認識し、書くことができた人間の存在を示す点で注意される。つまり、文字に対して意識的な働きかけがなされたのは一体型の中では銅鏡であり、それは前方後円墳時代に入ってまもない頃であったことになる。また、隅田八幡宮が所蔵する人物画像鏡は、紀年銘をもつ製鏡として貴重な例で、 葵未年八月目十 大王年 男弟王 在意 柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直 穢人今州利二人(等)取白上同二百早 作 此童 という四十八字からなる銘文帯をもつ。「葵末年」は、三八三年、四四三年、五〇三年のいずれかと考えられているが、製鏡としての製作手法をふまえると五〇三年に比定される可能性が高い(12)。中国鏡の銘文を借用・模倣しつつ、「時」「場所」「主体者」「目的」「製作者」「素材」などが一部独自の表現で記されている。 朝鮮半島には早くから漢文化の影響が及んでおり、最大の画期は紀元前一〇八年に現在の平壌付近を中心として楽浪郡が設置されたことである。楽浪郡治址からは、紀年漆器、文字瓦、封泥などが出土しており、少なくとも行政レベルでは文字の使用が相当に進んでいたことが窺える。この点をふまえると、半島南部の慶尚南道義昌郡に所在する茶戸里遺跡は注目に値する(13)。第一号木棺墓の墓坑底に設けられた小坑の竹籠の中から、木製の軸に黒漆が塗布された筆が五本出土したからである(挿図2)。両端が筆先となっており、軸部中央にあけられた小孔に紐を通してぶら下げたようである。報告者は、これらを墓主が使用した筆記用の筆と考えており、一般的にこの見解は支持されている。半島南端に近い場所で、紀元前一世紀後半に文字が実際に使用されていたならば、列島社会が同様の環境から隔絶していたとは考え難いと思われる。 挿図2 茶戸里遺跡第一号木棺墓出土の筆(註(13)文献より一部改変) やや時代は下るが、四世紀前半代の列島において、毛筆で墨書がなされていたことを裏付ける資料が最近発見された。前方後円墳時代前期の流水路と堰跡が検出された片部遺跡(三重県一志郡嬉野町)から、口縁部外面に一字が墨書された小形の土師器が出土した(14)(挿図3)。口縁端部の外面に書かれた単字は、「田」あるいは「虫」とみなされる一方で、筆順から「」ではないかという見解も発表された(15)。「」は、「巫」に等しいという。いずれにせよ、「書かれた」完成品添加型が、四世紀前半代まで遡ることが確実になった意義は大きい。 挿図3 片部遺跡出土の墨書土師器(嬉野町教育委員会提供) 「刻まれた」完成品添加型の中で、比較的多くの情報を提供してくれるのは鉄剣や鉄刀に象嵌された銘文である。これまで列島で出土した当該例の中には、年号や記載内容からみて明らかに大陸で製作されたものがある。第一は、四世紀中頃の前方後円墳である東大寺山古墳の粘土槨から出土した鉄刀で、 中平□(年)五月丙午造作文刀百練清剛上 應星宿(下)(辟)(不)□ という二十四文字が金象嵌されていた。「中平」は後漢の年号で、一八四〜一八九年にあたる。東大寺山古墳の営造時期からみて、当該大刀は大陸ないし列島において伝世されたようである。第二は、奈良県天理市所在の石上神宮に伝えられた七支刀で、 (表)泰(和)四年□日月十六日丙午正陽造百錬(鋼)七支刀□辟百兵宜供供侯王□□□□作 (裏)先世以来未有此刀百(王)世(子)奇生聖音故為倭王旨造不□世 と表に三十四字、裏に二十七字が金象嵌されている。「泰和四年」は、一般的に東晋王朝の「太和四年」(三六九年)があてられる。この銘文は、七支刀が百済、すなわち当時の朝鮮半島で製作されたことを物語っている。これらがいつ頃列島に持ち込まれたか定かではないが、倭人は四世紀代には象嵌された文字を目にしていたようである。朝鮮半島では、二例の銘文鉄刀が確認されているが、いずれも五世紀から六世紀にかけての製品である。慶尚南道昌寧郡の校洞古墳群から出土した銀装円頭大刀には、「上部先人貴口乃(ないし刀)」と金象嵌されていた(16)。もう一例は単龍環頭大刀で、「□畏也□令此(刀)(主)富貴高遷財物多也」と銀粉象嵌されていた。(17) 列島製の銘文鉄刀で最も古いと考えられているのは、五世紀の第3四半期の営造と考えられる稲荷台一号墳から出土した「王賜」銘鉄剣である(18)。当該墳は径約二七メートルの円墳で、木棺を直葬した中央の埋葬施設から、剣身部下方に (表)王賜□□敬(安) (裏)此廷□□□□ と表裏に各々六字が金銀混合で象嵌された鉄剣が出土した(挿図4)。銘文は短文ながら、この鉄剣が「王」からの下賜品であったことを物語っており、漢字に対する知識と成文力が象嵌技術と共にあったことが窺える。また、表面が二字分ほど上げて書き始められた点は、いわゆる抬頭(高貴な人に関する語を他の行よりも高く上に出して書くこと)に類しており注目される(19)。不完全ながら、独自の記録的側面が表れ始めた段階と言えるが、常套句的な表現をとった可能性も否定できない。この点、埼玉稲荷山古墳の礫槨から出土した鉄剣の銘文は、非常に饒舌である。表に五十七字、裏に五十八字が金象嵌されている。全体的に倭風の文章体で、「時」「主体者」「系譜」「職掌」などを記し、事績顕彰の文言が盛り込まれている。銘文中の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケルオオキミ」と読み、文献中の「大泊瀬幼武天皇」すなわち雄略天皇に比定しうることから列島において製作されたことは間違いなく、「辛亥年」は四七一年に比定されることが多い。五世紀の終わりから六世紀初頭に位置づけられる江田船山古墳から出土した銘文大刀にも「ワカタケルオオキミ」は登場しており、少なくとも東は武蔵から西は肥後にまで及ぶネットワークの一端を垣間みることができる。 挿図4「王賜」銘鉄剣全体(註(18)文献より部分転載) 隅田八幡宮所蔵鏡を含めて、五世紀代(ないし六世紀初頭まで)の銘文は、製品そのものの存在を「説明」づけたり「意味」づけたりする役割を果たしていた。六世紀も後半代の銘文内容は、これらと趣をやや異にする。六世紀の第3四半期頃に比定される岡田山一号墳(島根県松江市)から出土した鉄刀には、十二文字が銀象嵌されていた。判読可能なのは「各田了臣」という四文字で、「各田了」は「額田部」の省略表現である。全容は不明ながら、「部」という畿内中枢が設けた組織名が登場する記載内容であったらしい。一方、六世紀末〜七世紀初頭に営造され中頃まで追葬された箕谷二号墳(兵庫県養父郡八鹿町)は径一四メートルほどの円墳で、追葬時の副葬品として「戊辰年五月伯□」と銅象嵌された大刀が出土した(20)(挿図5)。「戊辰年」は、六〇八年と考えられる。年月しか記されておらず、記念・顕彰・祈願などに重きをおいた五世紀代の諸例とは、刻字の動機や意味合いが異なっていたように思われる。 象嵌技術との関わりから看過できないのは、完成品添加型の銅鏡二面である。これらは、幡枝一号墳(京都市左京区)及び持田二五号墳(宮崎県児湯郡高鍋町)から出土した四獣鏡で、前者は縁部に「夫火竟」、後者は端面に「火竟」と直線的に線刻されている。外区紋様と断面形態に注目すると、五世紀後葉に比定されるという(21)。 挿図5[右]「戊辰年」銘大刀実測図[左]象嵌銘模式図(太線=銅象嵌残存部分、細線=タガネ彫の溝、平行線=剥落ないし傷) 未成品添加型は、生乾きの粘土に刻字するという技術的容易さに相反して、五世紀代を遡る可能性をもつ資料はきわめて少なく、むしろ須恵器や埴輪の中に箆で記号を刻した例が散見される。これらの記号は製作段階に施されたわけであるから、各々の工人たちが用いた識別符号であったと理解されている。一つの窯跡、あるいは一つの古墳における出土状況を押さえることにより、需給関係や量産が指向された生産体制の一面を捉えることが可能になる。このような現況の中で、五世紀代からの操業が知られる陶邑古窯祉群に近在する野々井二五号墳(大阪府堺市)の周溝から出土した刻字須恵器片は注目される(22)(挿図6)。同一個体と思われる数個の破片に、「(了)」、「門(出)」、「向」「林右」「(代)尻方」など十字以上が刻まれていた。この須恵器は、平坦な肩部から裾広がりの脚部をもつ風変わりな器形で、年代観に関しては五世紀末頃とされる一方で、異論もみられるようである。また、愛知県春日井市の勝川遺跡から出土した円筒埴輪片には、三文字が刻字されていた(23)。この円筒埴輪片は、五世紀末〜六世紀前半のものとされている。粘土に刻される未成品添加型の存在は、文字を書ける人間が製作工程において何らかの関わりをもっていたことを示している。加耶と呼ばれた朝鮮半島の南半地域においても、刻字土器片が散見される(24)。慶尚南道昌寧郡に所在する桂城古墳群から出土した壷、蓋付高杯、小形瓶には、「大干」「辛」「巾」などの刻字が認められる(挿図7)。これらの土器群の年代は、六世紀中頃から後半に比定される。また、同陜川郡苧浦里E地区古墳群からは、口縁部内面に「下部思利」と刻された短頸壷が出土しており、六世紀中葉の所産とされる(挿図8)。「下部」は行政区域を示す可能性があり、「思利」は人名と考えられている。 挿図6 野々井二五号墳周溝出土の刻字須恵器(註(16)文献より一部改変) 挿図7 桂城古墳群出土の刻字土器(註(16)文献より一部改変) 挿図8 苧浦里E地区古墳群出土の刻字土器(註(16)文献より一部改変) 七世紀代以降になると、特に、土師器・須恵器・木簡を中心に墨書が、また須恵器・瓦を中心に刻字が急増した(25)。依然として一、二字が記された例もみられるが、官職名、人名、寺名、地名、方位、数字などを含めて、行政上の文言が目に付くようになる。前方後円墳秩序が終焉を迎え、身分秩序が再編された動き(26)の中で、限定的ではあったにせよ識字力を磨く気運が高まったことは想像に難くない。しかし、目的型が登場し、定着をみるにはなお時間を要したようである。 倭人と文字との出会いは偶発的側面が強かったかも知れないが、実際に使用するに際しては社会的要請が働いたはずである。問題となるのは、この社会的要請の度合いに他ならない。最後に、この点について二、三まとめておくことにする。 まず注目したいのは、前方後円墳秩序が創出され、三百年以上にわたって存続したことである。前方後円墳や前方後方墳は、一定の企画性をもって営造されており、整数分の一で表しうる相似的関係が認められる場合が少なくない(27)。このような関係は列島の広範囲に及んでおり、問題は、企画性に関わる情報がどのようにして記録され伝達されたか、である。なお、数字に関して言えば、岡山市の南方(済生会)遺跡から出土した木製品に注目すべき資料がある(28)。それは、弥生時代中期中葉のうちに埋没した河道から出土した、現存長六〇センチ弱の剣形木製品である(挿図9)。二頭の鹿、綾杉紋、複合鋸歯紋、斜格子紋の他に、両面に一〜八単位の木葉状彫り込みが一定の間隔をあけて並んでいる。これらの配置原則は定かではないが、鏑(中軸をなす稜線)を挟んで相対している点からも何らかの規則性が窺え、数的表現がなされた可能性が十分に考えられる。また、中国の思想的影響を受けて、前方後円墳の段築成や北頭位などが定まったと考えられる点は重要である(29)。さらに、埋葬時に水銀朱の使用を重視した風習は、仙丹流行を生み出した道教思想との関わりが窺えるという。このような思想内容が、どのようにして伝わり、列島に広まり定着したのか興味深い。中国では後漢代からの風習であった買地券は、やはり道教的信仰と関わりがあったと考えられている(30)。 挿図9 南方(済生会)遺跡出土の剣形木製品(註(28)文献より一部改変) 次に注意されるのは、五世紀代に、列島の権力体が中国王朝との政治的な結びつきを積極的に求めたことが窺える点である。『宋書』によれば、いわゆる倭の五王である讃・珍・済・興・武は、四二一年から四七八年まで十回にわたって南朝の劉宋に朝貢し、各種称号を求めたらしい。このような積極外交には、おそらく渡来系の人々が情報提供者として、通訳として、また場合によっては親書作成者として重要な役割を果たしたに違いない。この時代は、朝鮮半島の情勢が風雲急を告げていた。朝鮮半島を南下し始めた高句麗と、これに対抗した百済、新羅という構図であるが、倭の外交は百済との関係を基軸に展開された。また、繰り返された軍事的衝突、とりわけ四七五年に百済の都漢城が陥落したことは、多くの難民が列島に流れ込む事態を引き起こしたことであろう。五世紀の中頃までには須恵器窯が操業されたり、既に指摘された(31)ように五世紀後半から六世紀前半にかけて文字資料、特に添加型が増加したことは、技術を携えた人々が集団的に渡来したことと表裏一体であったと言える。江田船山古墳から出土した大刀の銘文によると、刀工と銘文作成者は別人で、後者の「張安」は明らかに渡来系の名前である。既存の権力体は、新来の技術や知識を独占することにより、求心力を増幅させ秩序の維持をはかりえたはずである。しかし一方で、畿内中枢が渡来系の人々を一律に掌握していたとは限らない。『古事記』や『日本書紀』には、対百済外交を展開した畿内中枢と、新羅との関係に重きをおく独自外交を展開した筑紫国造磐井とが継体二一(五二七)年に軍事的に衝突した記事が見える。磐井が独自の外交姿勢を示せたのは、国際情報を収集し、交渉に当たれる人材を手元に置いていたからであろうと推測される。渡来人の実体に関してはなお不明な点が少なくないが、彼らを通して少なくとも一部の倭人が文字に接し、その効用を知り、学ぼうとする機会が増えたことは間違いないであろう。 前方後円墳時代を通じて、倭人が大陸から受けた思想的な影響は決して小さくなかった。例えば、追葬が可能な横穴式石室の導入は、倭人の死生観に大きな変化が生じたことを示している。しかしながら、本題との関わりから言えば、仏教思想の伝来は死生観をも含めてより大きな影響を及ぼしたと思われる。なぜならば、教義を記した仏典が存在したことは、知識階級を任じた人々にとって決定的な意味をもっていたと思われるからである。