1957年撮影のシリア写真

1. 1957年のシリア踏査

第一次東京大学イラク・イラン遺跡調査団の主たる目的は二つあった。一つは原始農村遺跡たるイラクのテル・サラサート遺跡を発掘調査し、文明の起源とその初期の様相解明に寄与すること。もう一つは、各地をひろく巡見し、西アジア考古学、歴史学に関する最新の知見を日本に持ち帰ることである。テル・サラサートの発掘は、1956年10月8日~12月29日、1957年3月1日~4月26日までの二シーズンにわけて実施された。シリアを含む周辺地域の巡見、遺跡踏査がおこなわれたのは、その合間、1957年の1、2月である。雨季のため発掘がすすめられない期間を利用して実施されたことになる。

この年、調査団を構成していたのは下記のメンバーである。

団 長:江上 波夫東京大学教授(考古学)
副団長:新 規矩男東京芸術大学教授(美術史)
 高井 冬二東京大学教授(古生物学)
団 員: 池田 次郎新潟大学助教授(人類学)
 曾野 寿彦東京大学助教授(考古学)
 小堀  巌東京大学講師(人文地理)
 増田 精一東京国立博物館技官(考古学)
 佐藤 達夫東京大学助手(考古学)
 深井 晋司東京大学助手(美術史)
 堀内 清治東京大学助手(建築史)
 阪口  豊東京大学助手(地質)
 三枝 朝四郎東京大学研究員(写真)
 中村 誠二日本映画新社(映画)
 桑野  茂日本映画新社(映画)
 尾崎 守男朝日新聞社(報道)

踏査について述べた深井・尾崎(1958)によれば、これらが少なくとも三つの班に分かれて踏査をおこなった。 (1) 江上、曾野、池田、阪口、(2) 新、深井、堀内、三枝、(3) 増田、佐藤、小堀、尾崎の三班である。新のグループが美建班(美術建築)と記されていることからもわかるように、各人の研究関心にしたがって班分けがなされたように見える。古生物学者の高井は研究関心が違ったせいか、これらの班とは別に踏査をおこなっていた。また、中村、桑野も日映班として、別の旅程をとったようである。

各班とも行程が違うため、いつからいつまでがシリア調査期間かを定義するのはむずかしい(表1)。高井は1957年1月5日ないし6日にダマスカスに到着しているが、上記三班のいずれかがシリア入りした最初は1月16日、増田班のダマスカス国立博物館訪問である。また、最後にシリアを出たのは新班だったようで、2月25日にもダマスカスに滞在していたとある。結局、1ヶ月半近く、シリア国内の踏査がおこなわれたことになろう。

調査団の行路、彼らが訪問したことがわかっているシリアの都市、遺跡は図1に掲げた。ただし、各班内においても皆が必ずしも同一行動をとっていたことはなかったようである。たとえば、佐藤が残した野帳によれば、佐藤は1957年2月22–23両日にヤブルドやスキフタなどの旧石器時代遺跡群を踏査し遺物採集したことが判明しているが(西秋1994)、調査団公式日誌にそうした記録はない。同様の例は、他の団員においてもありえよう。


2. 第一次イラク・イラン遺跡調査団写真資料

調査にはカメラマンの三枝が同行し、多数の写真を撮影した。加えて、団員個々も大量の写真を撮影した。江上(1958: 5)によれば全部で約5万枚の写真が撮影されたという。これらの写真は、帰国後、選別して焼き付けを作成し、調査団の公式アルバムとして整理された。現在、総合研究博物館に保管されているそのアルバムに搭載された写真点数は総計11731である。残り4万点近くは個人撮影分に相当するのであろう。その全貌は現状では不明であるが、江上、深井、曾野、小堀らの撮影写真は、ご遺族から総合研究博物館に寄贈を受けている。今後、それらの整理が進めば踏査に関わるより多くの情報が得られるであろう。

いずれにしても、公式写真とされたのは撮影写真の五分の一程度と考えられる。このうち3509点はサラサート遺跡の発掘関連写真であり、残りの8222点がイラクを含む周辺遺跡踏査時の写真である。シリアで撮影されたものは、1227点あった。また、登録されていないカラー写真が27点あった(後述)。今回、その全て1254点を目録化した。撮影地は、いわゆるジャジラ地方を除くシリア各地に及んでいるが、レサフェやヤブルドなど、踏査されたことがわかっている遺跡であっても、公式アルバムに写真が見当たらないものも散見された。それらの写真は、個人撮影分に含まれているとみられる。


3. 写真の記載

データベースには個々の写真につき、以下の項目を記載した。


(1) 通番:本書編集において簡便のためにつけた番号。写真図版キャプションにも括弧内にこの番号[#]を付した。

(2) 登録番号: 東京大学イラク・イラン遺跡調査団がつけた登録番号。X-R123-4のように付されている。最初のXはExpeditionの略である。その前に数字がないのは第一次。今後、資料化していく第二次調査以降は2X、3Xなどとされる。次にRとあるのはいわゆるロールフィルム。6×9、6×6、パノンの大型フィルムが相当する。Rがなく数字から始まるのは、4×5フィルムと35mmフィルムである。そして、その次に一コマずつ枝番がつく。
 なお、公式アルバムは全てモノクロであったが、それとは別に6×9のカラーフィルム1点と6×6のカラーフィルム26点が残されていた。注記はなかったが、1957と書かれた封筒に入れられていたこと、1957年に撮影されたことが確実な『オリエントの遺跡』(1965)掲載写真が含まれていたことから、同年の撮影と判断した。それらは登録されていなかったため、今回、新たに番号をつけた。Rの後にCを付したものがそれに相当する。

(3) 図版番号: 本書の図版(Plate)番号。原則として図版は、撮影地域別に掲載した。ダマスカス地域からアレッポ方面へ南から北に進み、ついでパルミラ地域からユーフラテス川を下流に向かうよう並べてある。

(4) 内容: アルバムには被写体に関する説明がほとんど付されていなかったため、調査して、わかる範囲で記載した。

(5) 遺跡/場所: 撮影地点。これも筆者らの解釈である。

(6) 時代: 被写体の所属時期。同上。

(7) 撮影者: 記録があるものについてのみ記載した。公式カメラマンは三枝であったが、三枝自身が被写体となっている写真もある。複数の撮影者による写真が混在しているものと思われる。

(8) サイズ: 6×9、6×6、パノン、4×5、35mmフィルムがある。

(9) 備考: その他、気づいた点を記載した。出版歴もこの欄に記した。東京大学イラク・イラン遺跡調査団の撮影写真は多数の出版物に用いられてきており、出版歴の網羅的調査は不可能である。ここでは、調査団の公式写真集、およびそのデジタルデータベースで公開されているものについて記した。

  • 江上(1958): 東京大学イラク・イラン遺跡調査団編(1958)『オリエント ―遺跡調査の記録』 朝日新聞社
  • 江上(1965): 東京大学イラク・イラン遺跡調査団編(1965)『オリエントの遺跡』 東京大学出版会
  • 西アジア考古美術写真データベース: 東京大学総合研究博物館考古学データベース内 http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKoukoga/

参考文献

江上波夫(1958)「遺跡の学術調査とその成果」東京大学イラク・イラン遺跡調査団編『オリエント ―遺跡調査の記録』: 1–6、朝日新聞社。

深井晋司・尾崎守男(1958)「調査団日誌」東京大学イラク・イラン遺跡調査団編『オリエント ―遺跡調査の記録』: 104–107、朝日新聞社。

西秋良宏(1994)「旧石器時代標本の入手経緯」『考古美術(西アジア)部門所蔵考古学資料目録: 第4部 西アジア各国採集旧石器時代標本(1956–1957年度調査)』: 1–13、東京大学総合研究資料館。



表1 1957年1-2月の東京大学シリア調査行程。深井・尾崎(1958)、西秋(1994)にもとづいて作成



図1 1957年の東京大学イラン・イラク調査団シリア踏査行程と主たる訪問地




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