マルヴ・ダシュト平原の土器標本

1.  標本の入手経緯

東京大学イラク・イラン遺跡調査団によるマルヴ・ダシュト平原の調査は1956、1959、1965年の3次にわたっておこなわれた。この間、次に示す総計6箇所のタル(アラビア語のテルと同じく遺丘を意味するペルシャ語)が発掘ないし試掘されている。 (Fig. 1, 2参照)

これらの発掘の詳細ならびに出土品の年代的位置づけは東洋文化研究所刊行の報告書あるいはいくつかの雑誌論文として出版されている。しかしながら、いずれも刊行からかなりの期日をへているため、そこで採用された考古学的年代は現今の一般的知識に合致しない場合がある。また、当時は定まっていなかった該当文化期の名称が今では国際的にほぼ合意された状態にある。そこで、各遺跡の発掘経緯ならびに標本のおおまかな年代について以下、簡単に整理しておく。

文化期名はVoigt, M. and R. Dyson, 1992, The Chronology of Iran, ca. 8000-2000 B.C., In: Chronologies of the Old World, edited by R. W. Ehrich, pp. 125-153 (Chicago University Press, Chicago) およびHours, F. et al., 1994, Atlas des Sites du Proche Orient (Maison de l'Orient Méditerranéen, Lyon)に準拠する。各文化期の年代についても2003年の目録出版時にはそれらに準拠したが、以後、関連遺跡の再分析が進むにつれ、新たな知見が得られてきた。最新の年代観はNishiaki, Y, 2010, A radiocarbon chronology of the Neolithic settlement of Tall-i Mushki, Marv Dasht plain, Fars, Iran. Iran XLVIII: 1-10を参照されたい。

(1)  タル・イ・バクーンA、B

この遺跡はマルヴ・ダシュト平原の北西部、ペルセポリス遺跡から南に約2.5kmにある。首都テヘランからは南西に約900kmほどの地域である。遺丘は二つあり、それぞれA、Bと命名されている。A丘は南北約150m、東西約120mの大きさをもつ楕円形、B丘は直径約140mの円形を呈する。いずれも高さは周囲の地表から4~5mほどで、B丘はA丘からは東南に150m離れている。発掘は1956年9月25日からA、B各丘でそれぞれ約1週間実施された。このように短期間であったのは、この発掘が当初調査団の旅程にはいっていなかったためである。この年、調査団の主眼は10月上旬から予定されていたイラク、テル・サラサート遺跡発掘にあった。その発掘前に主要な遺跡を踏査することを目的として調査団がイランを訪れた際、イラン当局から「折角遠路イランまで調査に来たのであるから、短期間でも遺跡の発掘を行い、その出土品の一部を日本に持ち帰るようにしたら、日本・イラン両国の文化交流、学術協力の上に一層有効ではないか」(江上・増田1959)という格別の勧誘を得、急遽、遺跡調査をおこなうことになったものという。かくして日本人による戦後最初の海外発掘はイランで実施されることになった。

バクーン遺跡が選ばれたのは、短期間の滞在を念頭においた上のことである。すなわち、交通の便がよかったこと、ドイツ、ベルリン大学(1928年)、アメリカ、シカゴ大学(1932、1937年)によって既に発掘調査がなされており、出土物の内容がある程度、予想されたことなどによる。発掘はもっぱら「標本の採取」(江上・増田、前掲)を目的として実施された。A丘では3mx10m、B丘では2mx6mの試掘坑が調査の対象となった。

A丘は地表下約2mまで掘り下げられ、表土直下からI~IVの4層が識別された。地山には到達していない。このうちIV層では日干し煉瓦壁をもつ保存のよい建物が発見されている。建築の様式および出土品の型式学的特徴から、IV層はシカゴ大学がかつて定義したレベルIII、つまりバクーン後期に比定された。しかしながら、報告書の挿図を検討したヴォワト(Voigt and Dyson 1992: 138)らは、東京大学の発掘した土器はレベルI、II出土品に類似すると述べている。現在のイラン考古学編年でいえば、バクーン期の中期にあたる。

いっぽう、バクーンB丘では地表下約4.2mまで発掘が実施され、地山に到達している。堆積はB1、B2の上下2層に区別された。いずれからも建築遺構の出土をみなかったが、最下部には地山に掘り込まれた方形ないし矩形のピットが見つかっている。出土土器は全て破片である。B1層がA丘よりも古手の彩文土器片を主体としていたのに対し、B2層の標本は粗製土器でのみ構成されていたという。このことから前者がバクーン前期、後者がバクーン期よりも古いシャムサバード期に対比できる。

両丘の出土品はいったん全て日本に持ち帰りが許され、そこで研究された後、1958年にイラン考古総局局長が来日した際に正式な分与手続きがなされた。本学が収蔵するのは、この時の分与標本である。

(2)  タル・イ・ギャプA

タル・イ・ギャプはタル・イ・バクーンから南南東に約13kmのところにある。実際にはA~Gの7つの遺丘からなっており、発掘されたのは最大のA丘である。ほぼ円形のプランをもち、直径は約120m、高さは5mほどあった。発掘は1959年4月20日より約2ヶ月実施された。発掘区は遺丘のほぼ中央部に設けられた。GAI区(9mx9m)、GAII区(9mx9m)、GAEI区(9mx3m)、GAEII区(3mx9m)、GAT区(3mx18m)が定義されたが、一部に土層観察用の幅1mの土手をはさみつつ全て連結されている。GAEI区、GAEII区はGAI区の拡張部であり、GAT区はGAI区とGAEII区を結ぶトレンチである。このうちGAII区は表土直下まで掘り進んだ段階で、発掘が停止された。

各区の層序を総合して1~17層が定義されている。17層は地山直上の堆積にあたる。これらは、建築遺構、出土品の様相からギャプI(17~13層)、II(12~1層)の2期に区分されているが、その変化は漸移的であったという。ギャプII期の標本はタル・イ・バクーンA 遺跡出土品に酷似しており、バクーン後期にあたる。ギャプのI期はおそらくバクーン中期に相当すると考えられる。17層からは5870+/-170BP(Gak-197)、6層からは5540+/-120BP(Gak-198)という放射性炭素年代が得られている。この年代もその対比を支持している。

出土品は全て東京大学に持ち帰って研究終了後、イラン当局との間で正式な分与手続きがおこなわれている。返却品のうち優品については精巧なレプリカが作成された。本書に掲載する写真にはレプリカを撮影したものが含まれている。

(3)  ジャリA、B

タル・イ・バクーンの南東約10kmにある遺跡群である。二つの遺丘からなっており、それぞれがA、B丘と命名されている。これらの遺跡は1950年代前半にオランダのL.ヴァンデン=ベルヘが試掘を実施し、彩文土器が出土する先史遺跡であることを明らかにしていた。東京大学隊は1959年、バクーン遺跡の発掘と平行してほぼ同じ時期に両丘で本格的な発掘調査を実施した。

A丘は直径約120mの円形の遺丘で高さは2.8mほどであった。10m四方の発掘区が7つ(A-F、H)調査されている。地山に達したのはそのうち4区画である(A、E、F、H)。1971年には、当初の調査担当者であった増田精一らが筑波大学の調査隊を率いて再発掘しているが、本館が収蔵するのは1959年度の発掘資料のみである。堆積は1959年の調査時には7層に区分された。1971年にはそれらがレベルI-IIIにまとめられている。両者の厳密な対応は現時点では不明であるが、記載されている土器の特徴にしたがうと、おおよそ前者の第1層がレベルI、2-6層がレベルII、7層がレベルIIIに相当するものと思われる。

両シーズンの調査を通して江上らは、レベルIをバクーンA、IIをハッスーナIa、IIIをジャリBの堆積と対比している。しかしながら、I、IIの位置づけについては再考が必要である。特にIIをハッスーナIa、すなわちメソポタミア最古の土器文化に対比する点は支持できない。IIに特徴的とされる粗製無文土器はシャムサバード期にもみられるものであるから、ここではシャムサバード期に位置付けておく。

B丘は長径120m、短径60mのほぼ楕円形の丘である。実際にはやや大きな主丘とこぶりな副丘とからなっている。主丘の高さは約2.5mである。発掘は主丘を中心として実施された。丘のほぼ中央部に10mx10mの区画を5つ(A~D、W)、およびその東西南北にのびる幅2mのトレンチが4本(N、E、S、W)設けられた。また副丘でも2mx3mのピットが二つ(X、Y)あけられた。発掘の詳細については正式な報告書が刊行されていないので不明な点も残るが、いくつかの概報、論文によってその概要を知ることができる。標本の出土地点、出土層位等は、発掘当事者であった故佐藤達夫本学教授が残した野帳の記載(前田1986)が参考になる。また、2006年には、佐藤教授夫人静江様から発掘時の図面類、発掘に参加した新潟大学甘粕健名誉教授から野帳類を提供いただけるにいたり、層序の詳細が判明した(Nishiaki, Y. and M. Mashkour, 2006, The stratigraphy of the Neolithic site of Jari B, Marv Dasht, southwest Iran. Orient Express - Notes et Nouvelles d'Archéologie Orientale 2006(3): 77-81)。それらによれば、各発掘区は最大8層にわけて掘られたことがわかる。最下層(第8層)はバシ期、上層(第1-7層)はジャリ期に比定できる。本データベースでは、そうした新たな知見をふまえた層序区分を提示した。

いずれの遺跡の出土品も全て東京大学に持ち帰って研究終了後、イラン当局との間で正式な分与手続きが実施された。

(4)  タル・イ・ムシュキ

タル・イ・バクーンの南東約10km、タル・イ・ギャプの東北約2kmの地に位置する小さな遺丘である。径は約80m、高さは2m程度で、ほぼ円形のプランをもつ。東京大学隊は1956年のタル・イ・バクーン発掘時にこの遺跡を訪れ、若干の土器片を採集し、ここが将来の発掘地として有望であることを確認していた。そして、1959年に試掘、1965年に本格発掘を実施するところとなった。

1959年の試掘はわずか数日間のもので、5.5mx2m(TMB)、4mx2m(TM)の小さなピットが二つ調査されたにとどまった。後者のピットは表土直下までしか発掘はおよんでいない。

1965年の本調査は同年7月下旬から9月上旬まで約40日間おこなわれた。発掘では、新たに10mx10mの発掘区が二カ所設けられたほか、その間にあった前回の試掘孔の一つ(TM)の拡張も実施された。掘削は地山まで達し、堆積は1~5層に区分されている。出土標本には各層間でほとんど違いが認めらず、同一の文化期に属するものと判断された。一般にムシュキ期とよばれるものである。

報告者ならびに一部の研究者は、ムシュキ期を前7千年紀に位置づけている。その根拠の一つは、2a 層から得られた8640+/-120BP(TK-34)という放射性炭素年代である。しかしながら、この年代は既知のイラン先史学の枠組みからみて古すぎる。前7千年紀末に位置付けるのが妥当である。

出土品のうち721点が公式登録された(2MS1-721)。その大半は石器類であり、土器標本は数点にすぎない。出土した土器は著しく破損したものが大半だったためである。登録品の約半数および登録されなかった全ての土器片、石器類は本学に分与されている。分割手続きは現地でなされた。登録品で分与された土器はわずかに1点(2MS-274)であった。破片類の中には国内での修復作業を経て、完形に準じる形態にまで復元されたものがいくつかある。それらを本カタログに掲載した。

なお1959年の試掘ピットの一つ(TMB)から出土した土器は型式学的にバシ期に対比される。

2.  標本の記載

本書は、標本資料目録第5部「イラク、テル・サラサートの先史土器」に続くもので、記載の基本的要項もそれに準じている。ただし、いくつかの変更点もあるので、改めて凡例を述べておく。

(1)図版番号
(Plate)
本書の図版番号。
(2)標本番号
(Specimen No.)
今回の作業にあたって新たに割り当てた個体番号。
(3)登録番号 
(Iran Registration No.)
一部優品には発掘者によって登録番号が与えられており、発掘報告書(下記)の末尾に一覧表が掲載されている。この番号はイラン当局にも記録されている。
(4)採集番号
(Field No.)
発掘者が遺跡で割り当てた採集番号。
(5)品名
(Description)
今回は土器の分類名。出版された分類名に準拠して記載した。
(6)
(Country)
今回は全てイラン。
(7)遺跡
(Site)
今回はタル・イ・バクーンA、B、タル・イ・ギャプA、B、タル・イ・ジャリA、B、タル・イ・ムシュキのいずれか。
(8)発掘年
(Season)
発掘年ないし試掘がおこなわれた年。
(9)出土地点
(Provenance)
既刊出版物で採用された地区割り。
(10)出土層位
(Level)
原則として既刊出版物で採用された層位名。ただし、ジャリB遺跡については2003年以降に判明した野外記録をふまえた層位名を採用した。
(11)時期
(Period)
様式学的にみた標本の時期。
従来、マルヴ・ダシュト平原の先史時代は前6千年紀初頭から5千年紀末にかけてムシュキ期、ジャリ期、シャムサバード期、バクーン期が継起したと考えられていた。しかしながら、東京大学収蔵標本の再解析によって、ムシュキ期は前7千年紀にまでさかのぼることが明らかになった(Nishiaki 2010前掲)。また、2000年代に実施された近隣のトレ・バシ(Tol-e-Bashi)遺跡の発掘によって、前6千年紀初頭に生じたジャリ期への移行にあたってはバシ期が介在することが提案されている(S. Pollock, R. Bernbeck and K. Abdi, 2010, The 2003 Excavations at Tol-e Basi, Fars, Iran. Archäologie in Iran und Turan 10, Mainz)。本書改訂にあたっては、そうした新たな編年を採用している。
(12)報告写真
(Published Photo)
既刊出版物に掲載されている標本の写真番号。
(13)報告図版
(Published Fig.)
既刊出版物に掲載されている標本の図版番号。
(14)サイズ
(Size)
最大高と最大径を1mm単位で計測。
一部標本のサイズは報告書にも記載されているが、計測し直した。接合修復作業によって報告時とはサイズに変化が生じていること、報告書で土器の開口部の直径(口径)が計測されたが展示公開には最大径を記すほうが有効であること、などのためである。
(15)備考
(Notes)
そのほか参考事項。

3.  既刊文献

本書掲載標本に関わる記載のある主な既刊文献をあげておく。

江上波夫・増田精一(編)(1959)『マルヴ・ダシュトI : タル・イ・バクーンの発掘 1956』 東京大学東洋文化研究所。

江上波夫・曾野寿彦(編)(1962)『マルヴ・ダシュトII : タル・イ・ギャプの発掘 1959』 東京大学東洋文化研究所。

曾野寿彦(1974)『西アジアの初期農耕文化 - メソポタミアからインダスまでの彩文土器の比較研究 』山川出版社。

深井晋司・堀内清治・松谷敏雄(編)(1973)『マルヴ・ダシュトIII:タル・イ・ムシュキの発掘 1965』 東京大学東洋文化研究所。

堀晄・前田昭代(1984)「マルヴ・ダシュト平原の先史文化」『オリエント』 27(1) : 57-75。

前田昭代(1986)「ジャリB出土の彩文土器 - その分類と編年」『古代オリエント博物館紀要』 8:55-86。

Egami, N. (1967) Excavations at two prehistoric sites, Tape Djari A and B in the Marv Dasht Basin. In: Survey of Persian Art, edited by U. Pope, pp. 2936-2939. Asia Institute of Pahlavi University, Shiraz.

Egami, N., S. Masuda and T. Gotoh (1977) Tal-I Jari A: A preliminary report on the excavations in Marv Dasht, 1961 (sic) and 1971. Orient 13: 1-14.

Nishiaki, Y. and M. Mashkour (2006) The stratigraphy of the Neolithic site of Jari B, Marv Dasht, southwest Iran. Orient Express - Notes et Nouvelles d'Archéologie Orientale 2006(3): 77-81.

Nishiaki, Y. (2010) A radiocarbon chronology of the Neolithic settlement of Tall-i Mushki, Marv Dasht plain, Fars, Iran. Iran XLVIII: 1-10.

Sono, T. (1967) Recent excavations at Tepe Gap, Marv Dasht. In: Survey of Persian Art, edited by U. Pope, pp. 2940-2946. Asia Institute of Pahlavi University, Shiraz.



Fig. 1   Map showing the location of the Marv Dasht Plain



Fig. 2   Prehistoric sites excavated by The Tokyo University Iraq-Iran Archaeological Expedition in the Marv Dasht Plain (1956, 1959 and 1965)



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