小堀巌のフィールドワークの軌跡とその特徴について

縄田浩志
秋田大学大学院国際資源学研究科


小堀巌(1924~2010)の中心的研究テーマは、世界の乾燥地における水問題、特にカナート・システムとオアシスの研究であった。カナートとは地下式灌漑水路のことで、イランではカナート、アフガニスタンやパキスタンなどではカレーズ(カーリーズ)、アラビア半島東部ではファラジュ、北アフリカではフォガラ(フォッガーラ)もしくはハッターラなどと呼ばれている(小堀1996)。先生ご自身の言葉を借りれば、「ライフ・ワークはカナートの起源・伝播・未来の研究であると共に、この貴重な伝統的水技術に関する知識を世界中の一般市民と未来世代に向けてさらに広めて保存していくこと」にあった(Kobori 2008)。

フィールドワークは、西アジア、北アフリカ、中国、アメリカ大陸、そして日本において1948~2010年の60年以上にわたって実施された。

20歳代はじめに、日本諸学振興会の援助を受けて「大東亜集落の地理学的研究」の一貫として1944年末に実施した満州における民族複合現象、祭祀、言語に関する調査を皮切りに(小堀1949a, b, c)、戦後日本においてフィールドを共にする総合的学術調査の幕開けを告げた八学会(日本民族学会、日本民俗学会、日本人類学会、日本社会学会、日本言語学会、日本地理学会、日本宗教学会、日本考古学会)合同連合総合対馬調査において、研究調査の総合および事務連絡を担う本部の幹事の一人としての経験を持ったことが(小堀1951)、その後の半世紀以上にわたるフィールドワークの素地を磨き、関心を形づくった貴重な機会であったと考えられる。

30歳代になると、東京大学を中心に形成された3つの海外学術調査隊、すなわちイラク・イラン遺跡調査団(江上波夫団長、考古学、1956年~)、アンデス地帯学術調査団(石田英一郎・泉靖一団長、文化人類学、1958年~)、西アジア洪積世人類遺跡調査団(鈴木尚団長、形質人類学、1961年~)に参加したことにより、調査地域は世界の乾燥地に、そして中心的な研究テーマは水問題、伝統的水利体系に定まっていった。最初の学術論文としての研究発表はイラン、西アジアに関しては1958・1959年、アンデスについては1960年であるが、日本語・英語で発表された主要な論考は『乾燥地域の水利体系』(小堀1996)に所収されている。

北アフリカのサハラ沙漠を最初に訪問したのは、1961年であった。多くのオアシスを踏査し、水利体系フォガラ、ナツメヤシ農業、生活の現状を記録した(小堀1962)。政府高官、学者、村人といった様々な人々との出会いと会話による触れ合いの様子が生きいきと描かれているが、アルジェリア中部アウレフでは、農業指導に携わるハッジ(アルハッジ)青年と初めて出会った時のエピソードが披露されている。ハッジ氏とは(Plate7-2、Plate8-2参照)、それ以来半世紀近く(30歳代から80歳代まで)の交流を続けて、フォガラの記録と保全、サハラ・オアシス社会の発展のために共に力を注ぐこととなった(石山ほか2013)。

40歳代で北アフリカから西アジアに至る乾燥地を広く踏査した際の人々と自然に関する臨場感あふれる観察と分析は、『サハラ沙漠』(1962)を皮切りに、『死海』(1963)、『西アジア・アフリカの国々』(1966)、『ナイル河の文化』(1967)、『沙漠』(1972)、『アラビアの旅から』(1984)といった地誌・旅行記・調査記録として、当時、現地に足を踏み入れることが難しかった北アフリカ・西アジア乾燥地の自然、社会、文化、生活について日本社会にわかりやすく解説した。

50歳代になると、自身が代表を務めて科学研究費補助金による海外学術調査「旧大陸乾燥地帯におけるフォガラ涵養オアシスの比較調査」(1977~1980年)を組織し、ユーラシア・アフリカ各地で広大なスケールでフォガラ(カナート)に関する比較調査を実施したが、主たるフィールドとした国は西アジアではシリア、北アフリカではアルジェリアであった。シリアにおいてはタイベ・オアシスで集約的な合同調査を実施した。その理由は、その周辺には中期旧石器時代以降の遺物の散在がみられ、隔絶したオアシスでありながら地中海からメソポタミアにかけての交易ルート上にある歴史地理的な位置の重要性であると同時に、村の規模が人口約600人と適当であったからだった(小堀1996)。考古学、人類学、歴史学、地理学に根ざした多角的な関心に基づいたフィールド調査であったことが理解できる。

もう一つの集約的な調査地は、アルジェリア中部においてそれ以前に実施された概要調査(小堀1965)を踏まえて選択された、ティディケルト地方のイン・ベルベル・オアシスであった。このオアシスもシリアのタイベ・オアシスと同程度の人口規模の小さなオアシスであったが、1977年以降2010年まで、つまり50代半ば以降80歳代までの30年を費やして再訪を繰り返し、精力的なフィールド調査を継続することになる。その後も様々な機会をとらえて広域で現地調査を実施したが、文部科学省、国際協力機構、トヨタ財団、ユネスコ、国連大学、世界銀行、国際乾燥地農業研究センター(ICARDA)、ECコミッション等、国際的機関を含む多くの組織から研究資金を受けた(Kobori 2008)。

以上のように、地理学、民族学、人類学、そして考古学的な関心と目的に根ざした総合的な学術調査により半世紀以上に及んで収集された研究資料は、いずれも高い学術的価値を有するものである。

例えば、アルジェリアのサハラ沙漠で収集された分水器シェグファ(シィグファ)がある(登録番号 KB12.1、Plate 10-2参照)。シェグファとはカナートでひいてきた水を農業用水へと水量調整しながら分配する際に用いる金属製の円形で所々に穴が開けられた道具である。ハッジ氏が居住するアウレフ・オアシスで1961年の初訪問時に目にして記録に残したが手に入れることはできず、1967年に再訪した折に同氏に頼んで周辺地域を探しまわってやっと収集できた標本資料である(小堀1979)。2009年に小堀巌先生ご本人と共にティディケルト地方を訪問する機会が筆者にあったが、ハッジ氏をはじめアルジェリアの関係者は口をそろえて、今やこの分水器シェグファは国内には全く保管されていないのではないかと、当地の人々が一種の羨望の念さえ抱いている貴重な標本資料であることを知った。

野帳に関しては、基本的に、滞在場所、年月日を明記しているため、写真、論文等との対照は可能と考えられる。ただしご本人も自嘲気味にお話しされることもあったと記憶するが、本人以外には少々解読が難しい筆記体であるという乗り越えるべき課題がある。また調査地に応じて現地語を駆使して複数言語(日本語、英語、仏語、アラビア語、中国語等)で記述されている場合も多いため、その点においても時間を費やす必要があるかもしれない。直筆の多くのスケッチが野帳に描き残されていることは特筆に値する。住居、風景、人物等を対象としており、学術的価値という観点にとどまらない魅力を持つ資料であろう。

フィールド写真については、全写真一枚ごとに撮影場所、撮影年月日が明記されているわけでは必ずしもないが、明らかなものの割合は高い。写真に付随する情報については、これもまた整備されているものとそうでないものがある。実は生前、ご本人の意思に沿って、写真整理をサポートさせていただいたことがあった。2008年当時、ほとんど全ての35mmリバーサル・フィルム(ポジフィルム)は先生の国連大学のオフィスにまとめて収納されていた。一案として、重要度が高いと判断する写真から随時デジタル化しつつ、情報を整理していくことを提案させていただいたが、先生はデジタル化のためにオリジナル写真を一時的にでも手放すことを非常に躊躇された。結果として紛失、損傷する可能性があること、また写真の順番が変わってしまうと自身の記憶の手がかりが断たれてしまうことがその理由であった。ポジフィルムを参照しながら一枚ごとに情報を付加していく作業を開始したが、あまり進展のないまま、突然旅立たれてしまったことは、正直悔やまれる。

一方、研究業績である書誌については、先生ご自身で網羅的なリストを作成していたため、ほとんどそのまま公開されている(向後・石山2014)。書誌情報と、今回作成されたコレクション目録に示されている諸情報、すなわち収集された国・地域、年月、内容等と対照することにより、小堀巌教授旧蔵沙漠誌コレクションが持つ学術的価値はさらに高まると考えられる。

小堀巌先生は、ご自身が開拓されたイン・ベルベル・オアシスでの集約的フィールド調査が、今後も長く継続されていくことを、強く望んでおられた。その旨の発言を、何度となく耳にした。というよりも、最晩年にイン・ベルベル・オアシスを含むアルジェリア各地の調査に同行させていただく度に、筆者と石山俊に対して幾度となくおっしゃられた。その理由は、より長い時間幅を伴ったフィールド資料となった時、その学術的価値は倍増する、また地誌や民族誌とはそうでなければならない、という強い信念と意思に基づいたものであった。ただし同時に強く戒められたのは、フィールド調査研究は自身の知的好奇心を満たし、学術的目的を叶えるためだけのものであっては決してならない、という点にあった。現地に暮らす人々と何を共有して、何を還元することができるのか、そのことをいつも胸にフィールド調査を実施していかねばならない、ということであった(縄田2013、Nawata 2011)。

したがって、当コレクションが3部の目録として整備されて公表されることは、小堀巌先生ご本人の遺志に沿うものであると、思いを新たにしている。本目録を参照する現世代また次世代の研究者らによって、研究発展が加速されると同時に、調査対象地に暮らす関係者を含めた世界中の人々が、沙漠のカナート・システムやオアシスに関心を寄せる大きなきっかけとなることを、心からうれしく思っている。

参考文献

石山俊/アブドゥルラフマーン・ベン・ハリーファ/縄田浩志/小堀巌/ムハンマドアッサーリフ・フーティイヤ/ワシーラ・ベン・スリーマーン/アフマドアルハーッジ・ハンマーディー(2013)「変容するサハラ・オアシスのなりわいと生活―イン・ベルベル・オアシスの水源と農地と住居域」石山俊・縄田浩志編『アラブのなりわい生態系第2 巻 ナツメヤシ』臨川書店、pp. 235–261。

向後紀代美・石山俊(2014)「乾燥地研究のパイオニア 小堀巌」縄田浩志・篠田謙一編『砂漠誌―人間・動物・植物が水を分かち合う知恵』東海大学出版部、pp. 421–444。

小堀巌(1949a)「満洲に於ける民族複合現象の一例―満洲屯とオラン・ハルガノ―」『新地理』3巻6号、pp. 9–16。

小堀巌(1949b)「満洲族薩満の祭祀を見て―黒河省璦琿県大五家子村の場合」『民族学研究』14巻1号、pp. 26–32。

小堀巌(1949c)「璦琿附近の満洲族の言語について―『附』ダグール語資料―」『民族学研究』14巻2号、pp. 59–64。

小堀巌(1951)「八學會の對馬調査はどのようにして行われたか」『人文』1巻1号、pp. 4–21。

小堀巌(1962)『サハラ沙漠―乾燥の国々に水を求めて』中央公論社、249頁。

小堀巌(1963)『死海―地の塩の現実』中央公論社、203頁。

小堀巌(1965)「サハラのオアシスと農業―Tidikeltの場合」『アフリカ研究』2号、pp. 16–46。

小堀巌(1966)『西アジア・アフリカの国々』偕成社、226頁。

小堀巌(1967)『ナイル河の文化』角川新書、198頁。

小堀巌(1972)『沙漠―遺された乾燥の世界』日本放送出版協会、217頁。

小堀巌(1979)「サハラ・オアシスの分水器」『UP』8巻12号、pp. 20–25、東京大学出版会【シェグファに関して直接解説した部分にしぼって再録し、図と参考文献を一部加筆修正して、縄田浩志・篠田謙一編『砂漠誌―人間・動物・植物が水を分かち合う知恵』東海大学出版部、pp.135–137 に再録。】

小堀巌(1984)『アラビアの旅から―沙漠にて』未来社、376頁。

小堀巌(1996)『乾燥地域の水利体系―カナートの形成と展開』大明堂、327頁。

Kobori, I. 2008 “Fifty Years of Personal Experience in Arid Land Studies,” The Future of Drylands:International Scientific Conference on Desertification and Drylands Research, Tunis, Tunisia, 19–21 June 2006, Paris, UNESCO; Dordrecht, Netherlands, Springer, pp. 77–87.

Nawata, H. 2011 “Water Study for Peace: What I learned from Professor Iwao Kobori in China, Tunisia, Egypt, and Algeria (2005–2010),” Journal of Arid Land Studies 21 (2), pp. 63–66.

縄田浩志(2013)「サハラ沙漠のオアシス、イン・ベルベル研究の回顧と展望―小堀巌先生を偲んで」石山俊・縄田浩志編『アラブのなりわい生態系第2巻 ナツメヤシ』臨川書店、pp. 189–199。

写真1 野帳にスケッチをする小堀巌先生(アルジェリア、マダウロス遺跡にて、2006年12月、縄田浩志撮影)

写真2 ハッジ氏ら、オアシスの村人と語らう小堀巌先生(アルジェリア、イン・ベルベルにて、2009年5月、縄田浩志撮影)

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