江上波夫教授旧蔵資料について

1.  標本の入手経緯

本書が掲載するのは江上波夫本学名誉教授(1906-2002)が1930年から1944年にかけて内蒙古(現中国内蒙古自治区)で収集した考古歴史民族標本の一部である(西秋良宏2005「江上波夫先生旧蔵ユーラシアコレクション」『ウロボロス』9(3):5-7、西秋良宏2005「蒙古高原の旅」『文部科学教育通信』118:43)。

騎馬民族征服王朝説の提唱者、あるいは1956年に派遣された我が国戦後初の人文系海外学術調査(イラク・イラン)の主宰者として知られるとおり、江上教授は終生、歴史をユーラシア規模でながめつづけた。そんな江上流歴史学をはぐくんだのが戦前の内蒙古調査の体験だったとみられる。1930年の3次にわたる予備踏査を皮切りに、1931年、1935年には東亜考古学会調査団のメンバーとして走行距離4000キロにもおよぶ本格踏査を敢行。さらに1939年、41年には元代オングト族の王府址発掘、1944年にはチベット仏教調査も手がけた。内蒙古調査は都合8シーズンにおよんでいる。この間の調査経緯ならびに収集標本の顛末などについては中見立夫の有用な解説がある(「江上波夫と内モンゴルのオロン・スム遺跡調査」『オロンスム -モンゴル帝国のキリスト教遺跡-』横浜ユーラシア文化館、2003年)。

江上教授の内蒙古調査を整理すれば、下記のように4期に分かたれる。

(1)  留学生時代の内蒙古踏査

第1次:1930年4月(多倫)

第2次:1930年8月~9月(綏遠・包頭・五原)

第3次:1930年11月~12月(シリン・ゴル方面)

江上教授は1930年、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業後、東亜考古学会北支留学生として北京に留学している。これらは、北京滞在中の踏査である。

(2)   東亜考古学会主催による内蒙古調査

第1次:1931年6月~8月(シリン・ゴル方面)

第2次:1935年9月~10月(ウラン・チャップ方面)

東亜考古学会が主体となって実施された調査である。江上教授が学会幹部にその必要性を訴えて実現したという。約2ヶ月におよんだ第1次調査での踏査距離は1150キロ、一ヶ月強の第2次調査では2500キロに達している。この調査は考古学のみならず、民族、歴史、地理、植生など目にとまったもの全てを記録し採集する探検型調査であった。この経験が江上教授に騎馬民族に関する膨大な知識をもたらしただけでなく、戦後の一大プロジェクトとなったイラク・イラン遺跡調査実現にも結びついたことは疑いない。

調査記録である『蒙古高原横断記』(朝日新聞社、1937年)はたちまち売り切れ絶版、別の出版社(日光書院、1941年)から再版になったというから、当時相当の好評を博したようである。最近にも簡約版が再刊されている(池内紀編1997『江上波夫の蒙古高原横断記』、五月書房)。

(3)  オロン・スム遺跡の発掘調査

第1次:1939年6月~7月(百霊廟)

第2次:1941年9月~10月(百霊廟)

オロン・スムとは、内蒙古横断の際に江上教授が出会った最重要遺跡の一つである。『蒙古高原横断記』(284頁)によると1935年の滞在は「案内の支那人が帰り度いと言ふので一時間ばかりにして引き揚げ」るというほど短いものであったが、直感的にこの遺跡の重要性を認めた。

発掘は江上教授が留学を終え、東方文化学院研究員となった後、1939年と1941年に実施された。その結果、ここがモンゴル帝国時代から元朝時代(13世紀~14世紀)、領主として栄えたオングト族の本拠地であったこと、オングト族はキリスト教ネストリウス派を信奉していたことが明らかになった。またローマ法王が元の大都に派遣したモンテ・コルヴィノにまつわる教会址を発見するなど、この遺跡を東西交流史上の重要遺跡にせしめた。16~17世紀には多数の仏教寺院が建造されていた。オロン・スム(モンゴル語で多くの寺)という名前もここに由来する。江上教授は1990年にもこの遺跡の再訪を果たしている。

(4)  チベット仏教の実態調査

第1次:1944年6月~9月(シリン・ゴル方面~イクジョウ方面)

内蒙古調査の度に遭遇したチベット仏教の廟(「ラマ廟」)につき、1944年の6~9月、江上教授は本格的な実態調査を試みた。しかし、その成果については、戦後の混乱期、調査票等資料の一切が失われ、わずかに手元に残った貝子廟関係の資料をもとに短報(江上波夫1948「内蒙の巨刹貝子廟の實態」『オリエンタリカ』第1巻:155-184)が草されたにとどまった。自身でも「数次にわたる私の内モンゴリアの考古・民族調査の最後のものの生き残り」(江上波夫1985「あとがき」『江上波夫著作集10』:378、平凡社)と述懐なさっている。

騎馬民族征服王朝説が提唱されたのは戦後1949年であるが、江上教授は晩年の書物(江上波夫・佐原真1995『騎馬民族は来た!?来ない!?』:67、小学館)で、その着想を得たのは27-28歳の時だったと書いている。まさに、内蒙古調査を繰り返しておられたさなかのことである。今般の寄贈コレクションは今となっては得難い学術資料であるだけでなく、20代の江上青年が、生きた騎馬民族を前にして何を見、何を思い、新説提唱にいたったのかを探るまたとない物証の数々だということができる。


2.  江上波夫教授の略歴と主要著作

(1)  略歴

1906年(明治39年)、山口県下関に生まれる。1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部東洋史学科卒業後、東亜考古学会北支留学生として北京に留学。東方文化学院東京研究所研究員、民族研究所研究員、東京大学文学部非常勤講師を経て、1948年(昭和23年)東京大学東洋文化研究所教授。1956年(昭和31年)より、東京大学イラク・イラン遺跡調査団長として、西アジアでの発掘調査を始める。1967年(昭和42年)東京大学退官後、札幌大学教授、上智大学教授、(財)古代オリエント博物館館長などを歴任。この間、モロッコ、アルジェリア、シリア、イラク、レバノン、モンゴル、ソ連、朝鮮半島などユーラシア各地で調査に従事。1991年文化勲章受章。2002年11月逝去。逝去当時は(財)古代オリエント博物館館長であった。

さらに詳しい経歴は、1991年の文化勲章受章を祝って関係者が開催した『人間江上波夫展』(NHKプロモーション)の展示図録、1994年に献呈された米寿記念論集(『文明学原論』山川出版)、1995年出版の自叙伝(『学問と夢と騎馬民族』日本経済新聞)などに記されている。

(2)   主要著作

『内蒙古長城地帯』(共著、1935年)、『蒙古高原横断記』(共著、1937年)、『ユウラシア古代北方文化:匈奴文化論考』(1948年)、『ユウラシア北方文化の研究』(1951年)、『騎馬民族国家:日本古代史へのアプローチ』(1967年)、『聖書伝説と粘土板文明』(1970年)、『オロン・スムI』(共著、1981年)、『モンゴル帝国とキリスト教』(2000年)ほか多数。

今回の寄贈品には段ボール箱約500にのぼる蔵書類がともなっている。そこに含まれていた江上教授の著作(単著・共著・編著・監修など)を全てつみあげると高さ6mをこえた。


3.  標本の記載

掲載標本の内訳は以下のとおりである。

考古民族資料等 :237件240点
絵画、書 :7件7点
写真、テープ :47件1131点
古文書 :96件119点
測量原図、書類等 :13件164点
合計 :400件1678点

寄贈標本にはラベル、注記を欠くものが少なからずあった。『蒙古高原横断記』『アジア文化史研究』等の文献に内蒙古産として報告されていること、また収納箱、保管場所が同一であることなどにもとづいて、掲載標本を選定した。これら以外にも寄贈品には様式、型式的に見て内蒙古産と考えられる資料が含まれているが、定かでないため収録していない。それらは、入手経緯が明らかでない他地域の標本とともに別巻に所収する予定である。

本書は図版と資料目録とからなる。図版前半に掲載した内蒙古各地の写真は、1931年、1935年の踏査時に撮影されたものである。それには『蒙古高原横断記』に掲載された写真類の原板を多数ふくむ。写真のキャプションは『蒙古高原横断記』より引用した(但し旧字体は新字体に改めた)。そこに記載した写真撮影年次は『蒙古高原横断記』のほか、乾板や紙やきなど写真に記されたメモに従ったものである。図版に掲載された標本は、目録の備考欄にゴシック体で図版番号を記した。標本資料については新たに撮影した写真を掲げた。

巻末資料目録の記載は、原則として既刊出版物、注記・ラベル類(判読できなかった文字は□で表した)によっている。計測値は1mm単位で表記した。資料が1件につき複数あるものは最大値と最小値を記してある。


4.  内蒙古撮影の写真資料について

内蒙古調査写真(Plates 1-64)利用の便宜をはかるため、以下、掲載図版にかかわる『蒙古高原横断記』の記載を抜粋しておく (地図参照)

(1)  シリン・ゴル踏査(1931年6月28日~8月27日)

この年の調査団は、横尾安夫(団長、人類学)、江上波夫(考古学)、松澤 勲(地質学)、竹内幾之助(言語学)で構成された。このほか、秋貞實造(東亜考古学会留学生)、田中周治(大連亜東印画協会・写真師)、バブセンゲ(通訳)、劉(通訳)、車夫などが参加したとされる。撮影写真は主に「故田中周治氏の撮影に係かる」ものであるという。

【踏査日程】

6月28日

8時半、トラック1台と2頭牽きの馬車4台で張家口を出発(Plate 1)、ウラン・ノールへ向かう。盛島角房が連れてきた黒い蒙古犬を護衛としてつける。夜、ウラン・ノールの色総管邸に到着。

6月30日

色総管邸より北西60度、約6支里の地点にあるウラン・ノール畔を踏査。江上と松澤はさらに色邸より西方にある湖へ。江上、石器および土器片を採集。

7月3日

馬車4台で色総管邸を出発。

7月5日

ウラン・ホショーの呢総管邸に到着。

7月6日(Plate 2

江上、呢邸にある鉄製火消壺をスケッチ。昼食後、松澤、江上、田中は呢邸東南方に流れるボルガ河畔を踏査。南岸の絶壁で哺乳動物の化石を採取(Plate 3)。

7月7日

呢総管邸を東蘇尼特に向け出発。

7月8日

シャラ・ノールの東南岸で、江上、竹内、秋貞が石器、骨片、櫛目紋土器片などを採集。護衛につけた盛島の犬が行方不明となる。

7月10日

イッハ・ボルハン廟東方近郊にある鉄の鋳造跡で、江上と秋貞が溶鉱炉を実測、撮影する。ジャークスタイ・ノール(Plate 4)、ヂャークスタイ廟(Plate 5)を経て、オートハイのアムバン邸に投宿。

7月11日(Plate 6

ヌフス河の渓谷東方で、松澤、江上が淡水産巻貝、土器、石器を採集。察哈爾・錫林郭爾の境界附近に投宿。

7月12日

ヌフス河の渓谷に沿って進行(Plate 7)、ノイン・モド・オボを通過(Plates 8-10)。夕刻、江上が断崖上の丘陵で哺乳動物の化石を採集。ローガンアイルに投宿。

7月13日

エンゲルト・スム到着(Plate 11)。商店で菓子と煙草を購入。

7月14日

東蘇尼特王府に到着。王は不在。露西亜軍の疑いがかけられる。昼食をとり出発。

7月15日

フル・チャガン・ノール畔砂丘の遺跡で、土器、石器などを採集、投宿。

7月16日

雨。江上は附近の砂丘に赴き鉄製短剣を表採。雨があがったのち、フル・チャガン・ノール畔砂丘の遺跡の撮影、採集(Plate 12)。

7月19日~20日

阿巴噶滞在。江上、役人の家で牛の玩具を所望、これを入手。大王府訪問、少王爺より接待をうける(Plates 13-16)。

7月22日~28日

貝子廟滞在(Plates 17,18)。横尾と竹内はモンゴル人の診療と顔面計測に従事(Plate 25)、松澤、秋貞、江上、田中はチャイタム・ノール畔遺跡を調査(Plates 19,20)。25日は法会の儀式である打鬼(チャム)を見学する(Plates 21-23)。また、江上と田中はオルドン・トロガイの丘上を踏査、貝子廟の全景を撮影する(Plates 24, 26, 27)。

7月29日

貝子廟を出発、東浩齊特へ向かう。江上、バタラホ・ウス北方の丘附近で磨製石斧、打製石斧を採集。

7月30日

モドン・ホトッグで搬塩牛車隊に遭遇する(Plates 28, 29)。

8月1日~3日

東浩齊特滞在。王廟を訪ねる(Plates 30, 31)。横尾と竹内は診療と生体計測に従事。2日、役人が角抵をとる姿や女性たちの風俗写真、診療にきた子供などを撮影する(Plates 32-34)。王爺と謁見、横尾が王爺より養女の診察を頼まれる。3日、出立前に王女と王子が調査隊を訪問(Plate 35)、横尾が王女を診察し問題のないことを告げる。見失った盛島の犬のかわりに、役所から子犬をもらう。王爺の名代として、多数の従者を随えた王女に見送られながら東浩齊特を出発。

8月4日

興安嶺を超えるため、山間の峡谷に入る。アハタイ湖に集う牛の群れを眺めながら昼食(Plate 36)。山道を東南に進み山間の開拓地附近で投宿(Plates 37-40)。

8月5日

石門子を通過(Plates 41, 42)。

8月6日~15日

林西滞在。6日、ウリヤスタイで牛車隊と遭遇(Plate 43)、ともに昼食をとる。林西は近いと聞いて一同勇躍。夕刻、林西に到着。8日~9日、松澤、秋貞、江上は南門外の砂丘地帯にある新石器時代の遺跡を調査。スレート製の磨製石鏃などを採集する。砂丘地域を踏査しながら黒山頭満鉄種羊場に到着。ここで一泊し、黒山断崖下のチャガン・ムレンで釣りなどを楽しみ10日、林西に戻る(Plate 44)。11日、西門外附近を調査、打製石器、磨製石器など大量の石器を採集。石器の充満したリュックを背負い、江上はよろめきながら帰宅。12日、麻雀。13日~14日、再度西門外遺跡を調査。江上は喜びながら、遺物整理に従事。

8月18日~19日

白塔子滞在。江上、白塔子の平面図を作成。田中は、塔・礎石・仏幢等を撮影(Plates 45, 46)。また、白塔子より北北西にある遼代の慶陵へ向かう。途中、蒙古包型の固定家屋の群在を見学(Plate 47)。慶陵では秋貞と江上が平面図を作成、田中は陵内部の壁画を撮影する(Plates 48-50)。

8月20日

白塔子を出発、チャガン・ムレンの渓流をわたり(Plate 51)、二個の保塁のある地点を通過(Plate 52)、人家なく、夜半、路上に停車した馬車の荷物の上で寝る。

8月22日

林東に到着。秋貞、江上、田中は遼の臨潢府址の土城を調査。

8月26日

開魯滞在。開魯到着と同時に一台の馬車が崩壊する。通遼までの乗合自動車を2台予約する。

8月27日

午後7時半、通遼に到着。シリン・ゴルの踏査を完了。


(2) ウラン・チャップ踏査(1935年9月1日~10月12日)

この年の調査に参加したのは赤堀英三(人類学)、江上波夫(考古学)のほか、東亜産業協会調査隊、関東軍、某会社社員などである。

【踏査日程】

9月1日

張家口を出発。乗用車1台、トラック5台。出発後まもなく、あいついでトラックが故障。張北で部品の到着を待つ。

9月4日

張北を出発。これより西蘇尼特へ向かうトラック隊は、商都経由と庫倫街道経由の二班にわかれて行進。

9月5日

西蘇尼特に到着、二班合流。日本特務機関に投宿。

9月6日

西蘇尼特を出発。途中、石器時代遺跡を発見する。

9月7日

十二台で細石器遺跡を発見、採集。

9月9日

アルタイ・オボ、崩壊土中より江上が哺乳動物の化石を発見、採集。

9月10日

ハオライで、トラックが故障。修理の間、附近を踏査。着飾ったモンゴル人女性に遭遇する(Plate 54)。百霊廟行きを中止し、固陽へ向かう。道中、黄土層に穴居する人々をみかける(Plate 55)。

9月11日~14日

包頭滞在。東大街の骨董店廣興隆で、綏遠式銅器や古銭などを見つける。江上、大いに興奮、500点ほど購入する。西夏の経文は高価だったため、購入を思い止まる。

9月15日

包頭を出発。ハイリュウト附近で駱駝隊と遭遇(Plate 56)。夜、ハシャトの兵舎に到着(Plate 57)。饂飩を馳走になる。投宿。

9月16日

ハシャトを出発。中公旗の王府に立ち寄る。江上、木製紡錘車で駱駝の毛を紡ぐ僧侶と交渉、コップと紡錘車を交換する。王爺に挨拶し、出立。新綏汽車の汽車路に沿って進む(Plate 58)。途中、花崗岩の柱列を見る。

9月17日

松島嶺南方河畔の紅土上の礫層で亀の腹部の化石を採集(Plate 59)。この後、道は砂丘と河床の連続となり行進は極めて困難となる。トラックの後押しと綱引きを繰り返す。

9月18日

クリエン・ゴル(Plate 60)を経て、三徳廟に到着。大伽藍の壮観を前に、砂地を避けて引き返し、ここに至ることのなかったアンドリュース一行を憐れむ。

9月19日

三徳廟を寧夏へ向けて出発。ゴビ砂漠の南端にさしかかる。トラックのタイヤが砂にめり込み、進行を阻まれる(Plate 61)。用便に立った江上が細石器遺跡を発見、全員で採集する。砂丘の連続により寧夏行きを断念、引き返す。

9月20日

三徳廟の東北約40支里のところで、土城址を発見する。

9月21日

ウニ・ウスの手前で、16日に確認した石柱列を調査。約3mの間隔を置き、120個ほど東南より西北に一列に並んだもの。

9月22日

モンゴル人の集落、ウラン・アイルで、江上が村人のフェルトの幕を所望するが断られる。プレブノン附近で、車軸切断のためトラックが頓挫。トラックと見張りを残し出発。夜半、包頭着。

9月23日

骨董店で人間の頭蓋骨を胴にしたダマル(太鼓)、骨杯、骨笛などを購入。

9月25日

露店で、真鍮製の大水筒、新疆産の絨毯、チベットの刀などを購入。出発の準備。

9月26日

江上は破損したトラックへ車軸を届けにプレブノンへ。修理をして投宿。

9月27日

江上、プレブノン附近を調査。ウプラ・ボルグに投宿。

9月28日

ウプラ・ボルグを調査。細石器、磨製品、彩文土器などを採集。ウリヤスタイのオボでモンゴル語とチベット語を刻んだ石板を採集。

9月29日

百霊廟滞在。東公旗府の近郊に大規模な土城址を認め、調査。王府では王から接待をうけ、菓子と昼食を馳走になる。夜、百霊廟に到着(Plate 62)。

10月2日

徳王による接待ののち、百霊廟の東北60支里にある土城址、オロン・スムを調査。赤堀、江上がそれぞれカメラで遺跡を撮影する。案内人が帰りたいと言ったため、1時間ほどで引き上げる。

10月3日~5日

百霊廟東砂丘にある墳墓を調査。人骨のほか、陶質土器、ガラス玉、石製品などを採集。5日、徳王の臨席を仰ぎ角抵の試合を見学。午後、百霊廟の西北およそ7kmにある立石墓、住居址を調査。

10月6日~11日

帰綏滞在。骨董店廣興隆で石器・銅器類を購入。江上、人面が施された青銅飾板(Plate 83.2か)等を購入。また、綏遠城、チベット仏教寺院、大清眞寺(Plate 63)、天主教堂などを見学する。

10月11日

豊鎮へ向け自動車2台で出発。シャラ・ウスの北方で、車が小河に落ち込む。引き上げ作業の間、江上は南方の台地上を踏査、漢代の土器片などを採集する。

10月12日

花家営子附近でモンゴル人の農民を見る(Plate 64)。西香火郷の集落で綏遠式銅器をみとめ、買い占める。夕刻、豊鎮に到着。ウラン・チャップの踏査を完了。


5. 目録中で引用した文献

本書掲載標本に言及した刊行物は数多い。目録中に引用した文献をかかげる。引用の際には下記のように文献を略記した。

『東方學報』:佐伯好郎(1930)「再び百靈廟附近に於ける景敎遺跡に就いて」『東方學報』第11冊の1、160-175頁。

『蒙古高原横断記』:東亜考古学会蒙古調査班編(1937)『蒙古高原横断記』朝日新聞社。

『アジア文化史研究 論考篇』:江上波夫(1967)『アジア文化史研究 論考篇』東京大学東洋文化研究所。

『内蒙古・長城地帯』:江上波夫・水野清一(1971)『内蒙古・長城地帯〔復刻版〕』新時代社(初版は東方考古学叢刊〈乙種 第1冊〉として1935年刊)。

『モンゴル帝国とキリスト教』:江上波夫(2000)『モンゴル帝国とキリスト教』サンパウロ。

『オロンスム-モンゴル帝国のキリスト教遺跡-』:横浜ユーラシア文化館編(2003)『オロンスム-モンゴル帝国のキリスト教遺跡-』横浜ユーラシア文化館。

『オロン・スム遺跡調査日記』:江上波夫(2005)『オロン・スム遺跡調査日記』山川出版社。

『Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon sume, Innere Mongolei (16.-17. Jhdt.)』:Walther Heissig(1976)Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon sume, Innere Mongolei (16.-17. Jhdt). Wiesbaden, Otto Harrassowitz.

このページの先頭へ