デーラマン古墓の土器標本

1.  標本の入手経緯

デーラマン地方が東京大学イラク・イラン遺跡調査団による調査対象となった経緯は、いささかドラマティックに伝えられている。調査団員であった深井晋司によれば、1959年の3月、マルヴ・ダシュト平原調査の際にたち寄ったテヘランの骨董屋で正倉院宝物に酷似したガラス器に出会ったことが、そのきっかけであった(「正倉院宝物に似たカット・グラス」『朝日新聞』1959年11月11日朝刊)。遠いペルシャの地と天平時代の日本がシルクロードで結びついた瞬間である。早速、その出土地を探索するため出所と目されたカスピ海沿岸の町、アムラシュに増田精一、甘粕健が派遣され、両団員のさらなる追跡の結果、元来の出土地はデーラマン地方であることがつきとめられた (Fig. 1)

現地は盗掘がいちじるしく遺跡群が消滅の危機にあること、さらには美術史の観点から東西交流の研究に直結する標本類が多数収集できることが確実であったことから急遽、発掘が計画されたものという。それは早くも翌年に実現の運びとなり、1964年の第二次調査とあわせて江上波夫本学名誉教授の指揮のもと次の6箇所の遺跡が発掘されることとなった (Fig. 2) 。ガレクティI号丘(1960、1964)、同II号丘(1964)、ラスルカン、ノールズ・マハレ、ホラムルード(以上1960)、ハッサニ・マハレ(1964)の6遺跡である(括弧内は調査年度)。結果的に調査団が正倉院宝物と同時代の遺構ないし標本を発見することはなかったが、それに先立つ1000有余年をカヴァーする豊富な文物の発見をもたらし、東西交流史の研究にとって多大の貢献をなした評価は今も変わらない。

発掘された遺構の大半は墓であり、多くの副葬品をともなっていた。本書に収めた土器群も大半がその副葬品である。各土器を産出した墓の特徴、共伴人骨、副葬品の性状などについては既に東洋文化研究所刊行の報告書に詳述されているのでここでは繰り返さない。ただし、報告は6分冊とされているうえ各種の表記に不統一があり少々煩雑である。また、本書で採用する土器編年は原報告と同一ではない。以下、遺跡の立地、墓の命名法、層序等について略述・整理しておく。

(1)  ガレクティI号丘

デーラマン集落の東約4kmにクーパス(Kuhpas)という小集落がある。ガレクティと呼ばれる台地は、その西北1km弱のところに位置する。東西に約600m、南北に約300mほどの面積をもち南に傾斜する台地である。この間に沢ないし鞍部で区切られた四つの小丘が認められ、西から順にIV、I、II、III号丘と命名された。ガレクティI号丘は南北200m、東西100m、高さは10m強ある。盗掘がいちじるしく、調査団によれば、実に243基もの盗掘墓が識別できたという(深井・池田1971:6)。

盗掘痕跡のすくない地域を選んでA~H区の8トレンチが設けられ、鉄器時代からパルティア期にいたる全部で27の墓が発掘された。このうち1960年に調査されたA~C区では各区ごとに墓番号が与えられたが(Tomb A-I~A-X、Tomb B-II~B-IV 、Tomb C-I~C-IV)、1964年調査分の他の区では区名と無関係に通し番号で墓名がつけられた:D区(Tomb 1~3)、E区(Tomb 6~7)、F区(Tomb 4~5)、G区(Tomb 8~9)、H区(Tomb 10)。

基本的に各墓は表土直下で見つかっており、その掘り込み面を分層することはされていない。ただし、B区においては表土下で石造建築物(住居址)や生活残滓を含む土層が検出されたため、それをI層とし、下層の墓群はII層に属する遺構として記載された。Tomb B-IIIとして報告されている標本にはその両者が含まれている。どちらも鉄器時代の所産である。

また、C区のTomb C-I、G区のTomb 9には明確な追葬ないし後世の再利用の痕跡が認められたため、埋葬単位で墓の内部が分層された。すなわち、Tomb C-IではI~IV 層、Tomb 9ではS-6~10、12(Sはskeletonの略)の埋葬単位が識別されている。それぞれ、IV層、S-12が元来の埋葬にあたる。当然のことながら、これら追葬(再利用)墓からは年代が異なる土器が出土している (Fig. 3)

(2)  ガレクティII号丘

浅い沢をはさんでI号丘の東約200mに位置する南北100m、東西80m、高さ8mほどの舌状台地である。この丘にも盗掘を受けた痕跡が顕著であった。

A~Dの4トレンチが設けられた。7つの墓が発掘され通し番号がふられている。Tomb 1がA区、2、3、5がB区、4がC区、6、7がD区に所在する。このうちTomb 1は盗掘、4はイスラーム期の埋葬によって攪乱されていた。分層はなされていない。

なお、この丘は1964年の一シーズンに調査されたものであるが、鉄器を出土したTomb 2、3、5、6(曾野・深井1968)と、それ以外の墓(深井・池田1971)に分けて報告されている。しかし、いずれも鉄器時代以降の墓とみられ、前者はアケメネス期にまで年代が下る。

(3)  ラスルカン

デーラマン集落の東北約2kmの地点にある。調査団が宿舎をおいたエスペリ(Espeli)の集落に東に広がる丘陵斜面に位置している。斜面にトレンチA、頂丘部にトレンチBが設けられた。

この遺跡で特徴的なのはストーン・サークル(Stone-circle)と記載された石造遺構である。円形にならぶ外径5m前後の配石であり、地表面で20基近くが認められている。このうちトレンチAにかかる3基(Stone-circle I~III)、Bにかかる1基(Stone-circle IV)が発掘された。その結果、これらは土壙墓の上縁を囲う配石であり、墓の一部であることが明らかにされた(江上1965:78)。ただし、報告では墓(Tomb)とせず、ストーン・サークルという名称で記載されている。

墓と記載されたのはトレンチAでみつかった3基、すなわちTomb IV、Va、Vbである。たがいに切り合っておりIVが他の二基より新しいとされている。なお、墓番号がIVから始まっているのはトレンチAの「ストーン・サークル」にI~IIIを与えたためかと思われる。

これらの遺構は全て第1層として報告されている。いずれも鉄器時代の所産である。

(4)  ノールズ・マハレ

ノールズ・マハレの集落はデーラマン集落の北東2.5kmほどのところにある。遺跡はその南に位置する丘陵頂部にあり、南北100m、東西50mほどの平坦地をなす。

ここも盗掘がいちじるしく、その間隙をぬって5箇所の発掘区(トレンチA~E)が設けられた。その結果、現状をとどめた墓が15基、検出されている。墓の命名は各区ごとになされている。すなわちA区ではTomb A-I~A-II、B区ではTomb B-I~B-VII、C区ではTomb C-I、D区ではTomb D-I~D-IV、E区ではTomb E-I~E-IIが認定された。

これらの墓は全て第1層に属する。一方、A~D区では墓に壊される形で下層から円形ないし楕円形のピットが総計10基、見つかっており、それらが第2層をなすとされている。ピットの径は1.5~2m、深さは数十cmから1mにおよぶものもあったという。これらは墓あるいは住居というよりは貯蔵室ではなかったかと推定されている(江上1965:34)。出土品には土器、石器の他、魚骨をふくむ各種獣骨などが報告されている。土器標本によれば第1層がパルティア期を主体とするのに対し、第2層は青銅器時代にまでさかのぼるとみられる。

この遺跡はノールズ・マハレ(Noruz Mahale)あるいはノールズマハレ(Noruzmahale)と記載されてきたが、ここでは前者で統一する。

(5)  ハッサニ・マハレ

ハッサニ・マハレとはエスペリの集落からスイア・ルード(川)をはさんで南西の斜面にある台地の名称である。沢で削られた南側斜面と頂丘に近い尾根沿いとに発掘区が設けられているが、区名は与えられていない。また両区とも分層はなされていない。

全部で8基の墓が発掘され、Tomb 1~8として記載されている。このうちTomb 7は尾根沿いの発掘区で見つかったのに対し、それ以外は斜面区の出土である。またTomb 7は横穴石室の天井部が現存していたこと、イボ状突起をもつ優美なガラス器が副葬されていた点で特記される。ただし、初期ササン朝の所産とみられるこの墓の出土品を東京大学は収蔵しない。他の墓はパルティア期に位置づけられる。

ノールズ・マハレ同様、この遺跡も本書ではマハレの前に中グロを打って表記(Hassani Mahale)することとする。

(6)  ホラムルード

デーラマンからほぼ東に4km、ガレクティ遺跡からはその東を南に流れる渓流の下流2kmほどのところにある遺跡である。同名の集落の北側に上る緩斜面に位置する。斜面縁辺部に2箇所の発掘区が設定され、西のものがA区(Area A)、東がB区(Area B)とされた。

A区では全部で17基の墓が発見されTomb A-I~A-XVIIと命名されたが、いずれも盗掘がいちじるしく得られた標本はわずかであった。また、B区では墓が全く検出されなかった。一方、これら2区の間、B区の東で墓が一基、発掘されており、それはTomb Iと命名された。未盗掘であったという。

分層はなされていない。本学の収蔵品は全てパルティア期のものと考えられる。

2.  標本の記載

記載は、標本資料目録第5部「イラク、テル・サラサートの先史土器」、第6部「イラン、マルヴダシュト平原の先史土器」とほぼ同様の要領でおこなった。凡例は以下のとおりである。

(1)図版番号
(Plate)
本書の図版番号。
(2)標本番号
(Specimen No.)
今回の作業にあたって新たに割り当てた個体番号。
(3)現地登録番号
(Iran Registration No.)
一部優品には発掘者によって登録番号が与えられており、発掘報告書(下記)の末尾に一覧表が掲載されている。この番号はイラン当局にも記録されている。
(4)採集番号
(Field No.)
発掘者が遺跡で割り当てた採集番号。標本に注記されている。
(5)品名
(Description)
今回は土器の分類名。発掘報告書で採用された分類名に準拠して記載した。
(6)
(Country)
全てイラン。
(7)遺跡
(Site)
ガレクティI、II、ハッサニ・マハレ、ラスルカン、ノールズ・マハレ、ホラムルードのいずれか。標本記載はこの順におこなった。おおよそ編年的に古いものから並べたことになる。
(8)出土地点
(Provenance)
墓、住居址遺構、発掘区覆土など標本が得られたコンテキストを記載した。大半が墓(Tomb)の出土品である。
(9)出土層位
(Level)
既刊出版物で採用された層位名。
(10)時期
(Period)
様式学的にみた標本の時期。Fig. 3は各遺跡の墓を考古学的編年に位置づけたものである。年代は補正された放射性炭素年代を示している。
 各墓の考古学的年代については公式報告書に記載されているが、その後の再検討の結果に照らすと変更すべき点がいくつか認められる。本書の年代鑑定は、もっぱら谷一(1997)、有松(2005)に依っている。
 なお、いくつかの墓には追葬ないし再利用の痕跡が認められる点に注意されたい。したがって、同一の墓から年代の異なる土器が出土している場合がある。
(11)報告写真
(Published Photo)
既刊出版物に掲載されている標本の写真番号。表記のないものは未記載標本である。
(12)報告図版
(Published Fig.)
既刊出版物に掲載されている標本の図版番号。表記のないものは未記載標本である。
(13)サイズ
(Size)
最大高と最大径を0.1cm単位で計測。
一部標本のサイズは報告書にも記載されているが、計測し直した。
(14)備考
(Notes)
そのほか参考事項。標本の注記と出版された情報が一致しない場合が少なからず認められた。その場合は後者を優先した。

3.  既刊文献

(1)  本書掲載標本にかかわる発掘調査を記録した公式報告書は以下のとおりである。

江上波夫(編)(1965)『デーラマンI:ガレクティ、ラスルカンの発掘 1960』東京大学東洋文化研究所

江上波夫・深井晋司・増田精一 (編)(1966)『デーラマンII:ノールズ・マハレ、ホラムルードの発掘 1964』東京大学東洋文化研究所

曾野寿彦・深井晋司(編)(1968)『デーラマンIII:ハッサニ・マハレ、ガレクティの発掘 1964』東京大学東洋文化研究所

深井晋司 ・池田次郎(編)(1971)『デーラマンIV:ガレクティ第II号丘、第I号丘の発掘 1964』東京大学東洋文化研究所

(2)  また、墓から出土した人骨については下記の報告書に記載がある。

江上波夫・池田次郎(編)(1963)『西アジアの人類学的研究I:デーラマニスターン古墳墓人骨1』東京大学東洋文化研究所

池田次郎(編)(1968)『西アジアの人類学的研究II:デーラマン古墳墓人骨2』東京大学東洋文化研究所

(3)  今回の標本年代鑑定が依拠したのは以下の文献である。

Hori, A. (1981) Dailaman and Halimehjan - Re-examinations of their Chronology - .  Bulletin of the Ancient Orient Museum III, pp. 43-62.

谷一尚(1997)「ハッサニマハレ、ガレクティ編年の再整理と発掘の意義」『精神のエクスペディシオン』東京大学編:150-156、東京大学出版会。有松唯(2005)「鉄器時代からパルティア時代にかけてのイラン、デーラマン地域の土器編年」『日本西アジア考古学会第10回総会・大会要旨集』:34-38。

(4)  なお、調査団は発掘品以外にも現地住人からの購入品、寄贈品など多数の標本を本学に持ち帰っている。そのうち金属製品については既に目録化されている。

千代延恵正・松谷敏雄(1986)『イラン(金属器・金属製品)』考古美術(西アジア)部門所蔵考古学資料目録第二部、東京大学総合研究資料館標本資料報告第12号。



Fig. 1   Map showing the location of the Dailaman district



Fig. 2   Map showing the location of the archaeological sites excavated by the University of Tokyo expedition to the Dailaman district



Fig. 3   Provisional chronology of the tombs and layers that yielded the pottery described in this catalogue.
Note that some of the Ghalekuti I tombs were reused in later periods.

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