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館外活動

ホスピタルリーチ

高槻 成紀


 ホスピタルリーチ・プロジェクトとは「病院に届くこと」で、博物館の機能として博物館に来ることのできない重篤な子供たちに博物館から出かけて行こうという発想で東大病院のこだま分学級で始められた活動である。3年前に情報学環におられた村田麻里子さん(現京都精華大学)によって始められたもので(ウロボロス、8巻1号、2003年)、最初に担当をされた西野教授が「かえってこちらの方が、もっとしっかり生きろと元気づけられましたよ」と言われたのが強く印象に残っている。

 私は子供が好きなので、子供向けの博物館活動には関心があったが、病院の子供たちに会うとなると気後れに似た気持ちがあった。今回、西野教授から、院内学級側の期待が大きいので、ぜひ博物館側から対応して欲しいと言われたので、自分でも挑戦してみることにした。それは小さな決意といってよいものだった。

 何を展示するかと考え、昆虫を選んだ。概して子供は昆虫が好きだし、私自身が「昆虫少年」だったこともあった。それに、昆虫は生物の中でもとりわけ多様性に富み、色彩や形態も魅力的なものがいるからである。しかし、ただ標本箱を持って行って、こんな昆虫がいますといってもおもしろくない。そこで村田さんと情報学環の長谷川一さんと打ち合わせをしていくつかの工夫をした。

 12月だったので、キャンパスにシイやカシのドングリが落ちていた。それをおみやげにして、そこから昆虫に導入することにした。ドングリにはシギゾウムシといって吻がゾウのように長く彎曲した甲虫の幼虫が入っていることがある。長い吻は多くのゾウムシに共通だがシギゾウムシのそれは特別に長く、細い。シギゾウムシのメスはこれでドリルのようにドングリに穴をあけて、その中に卵を生み込む。私はポケットからドングリを取り出し、それを机の上に並べてシギゾウムシの話を始めた。シギゾウムシの標本も持っていったが、これは大きさが5ミリほどしかない。そこでゾウムシの顔の拡大写真の大きなパネルを見せたところ、子供から歓声が上がった。私が産卵やドングリの中で孵化した幼虫の話をすると、子供の頭の中で自分が幼虫になったことを想像しているような表情がうかがえた。説明をしているときに、配ったドングリの中から実際シギゾウムシの幼虫(白く楕円形をしたイモムシのような虫)が出て来て、「キャッ」と声を出した女の子がいて雰囲気がなごんだ。本物にはこのようなハプニングがあり、図らざる効果がある。

 ゾウムシの話に続けて私はオトシブミの話をした。オトシブミは金属光沢のある美しいゾウムシにやや近縁な甲虫で、「落とし文」というその名は、昔の貴族が思いを寄せる人に自分の気持ちを手紙に書いて、その人が通りそうなところにそれを置いておくという、恥じらいをもつ行為に由来するが、この昆虫はクヌギなどの葉を巻いてちょうど巻き文のようにし、その中に卵を生むので、その名がある。葉を巻くといっても、人間でいえば何畳もあるような大きな葉であるから簡単ではない。そこで葉脈を適当に切って葉がしおれるのを利用しながら切ったり、巻いたりするのである。ここでも虫の小ささと葉の大きさに子供は想像を働かせていたようだが、落とし文の説明には看護師さんたちが反応していた。

 ゾウムシの写真パネルのついでに、持参していたアゲハチョウやクワガタなどの拡大写真も紹介すると大きな声があがるようになった。それから私は本物の標本を説明することにした。標本は須田コレクションから選んでもらい、写真パネルに対応したもの、チョウをいれたもの、甲虫を入れたものとひとつひとつ説明したのだが、甲虫の標本箱を見せると「アッ、ゴライアスカブトだ!」などと大声を出す男の子がいて大騒ぎになった。世間では「虫キング」というカード遊びがブームになっているとのことで、その子はカードで昆虫の名前を空んじていたのだ。最後に擬態をテーマにした標本を説明した。無害なのに毒チョウとそっくりなチョウや、ナナフシなどを紹介した。わかりやすくしようと思って、ガードマンは警察の擬態だとか、お化粧も相手を騙すという意味で擬態かもしれないなどと説明したのには、子供よりも大人がおもしろがっていた。

 その後で標本の中から気にいった昆虫をスケッチしてもらうことにした。とりあげた虫もさまざまだったが、気に入ったというより、描きやすそうだという理由で選んだものが多かったようだった。そのあいだ、私は子供のスケッチの進み具合をみながら、雑談風に昆虫の話をしたり、標本の追加説明などをしていたが、村田さんが「先生も描いたらどうですか?」といってくれたので、ヤシゾウムシを描くことにした。私は標本をとり出しておもむろに描きはじめたのだが、その吻の形や、体型全体のなめらかなカーブ、翅の上に刻まれた平行な脈などに引き込まれて、いつのまにか夢中になっていた。本来であれば子供のスケッチの指導をすべきだったのだろうが、村田さんから「ではそろそろ」と言われるまで、時間のたつのを忘れていた。スケッチをしているとき、私の膝にさっき「ゴライアスカブトムシ!」と叫んだ小学校1年生くらいの男の子がちょこんと乗って来た。担当の先生が慌ててその子を引き離したが、しばらくするとまた乗ってきた。私の膝にその子の体重の軽さが伝わって、愛おしいような、切ないような気持ちになった。

 私にスケッチを勧めたのは村田さんの機転だったらしく、きっと私が夢中になるであろうと踏んでいたようだ。そういう生物学者のようすを子供が「ほかの大人とちょっと違う」と感じるであろうことを予測していたことを後で村田さんから聞いて知った。たしかにあの男の子が私に膝に座ってきたのは、「このおじさんは僕と同じで虫が大好きなんだ」と思ってのことのように思う。私は標本の選択や進行について、私なりに考えたつもりでいたが、どうやら村田さんの描いたシナリオ通りに動く駒だったようだ。だがそれはとても快適な操られ方だった。

 子供に接することにまったく素人である私がこの企画を引き受けるのは冒険であったが、村田さんのシナリオ作りと、長谷川さんの子供の立場に立っての配慮、それに昆虫標本の魅力のおかげで、私が予測していたものよりもよいものに仕上がったように思う。それには何と言っても、子供のことを本当に思い遣り、さまざまな垣根やおそらく想定されるであろう危険さえも乗り越えて快く引き受けて下さった「東京都立北養護学校東大こだま分教室」の吉田讓先生の英断が大きかったと思う。私はそこに真に子供を信じる教育者の良心を確信した。野外に出て自由に昆虫に接することのできない子供たちの心に、少しでも昆虫に接したことがよい想い出になって残って欲しいと思った。

 

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(本館助教授/動物生態学)
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Ouroboros 第29号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成18年7月20日
編集人:高槻成紀・佐々木猛智/発行人:林 良博/発行所:東京大学総合研究博物館