図1 コバギボウシ Hosta lancifolia(ユリ科)のおしば標本。シーボルトによる採集品。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 | 図2 センノウ Lychnis senno(ナデシコ科)のおしば標本。シーボルトによる採集品。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 |
シーボルトに関心を抱くようになった私は、彼が途方もない巨大な文化への貢献者であることを知った。それも到底一人の人間の仕業とは思えない組織的かつ包括的な仕事ぶりである。どうしてシーボルトはこんな大仕事ができたのだろう。これにはまず日本とオランダの双方にその時代の特殊事情があった。
シーボルト来日の頃の日本
江戸時代でも文化的な爛熟期である化政年間の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間をシーボルトは日本で過ごす。享保5年(1720)に8代将軍吉宗は、キリスト教以外のオランダ書の輸入を解禁した。これが西洋の学術を移入し学ぶ契機となった。オランダを経由して多くの学術書が渡来した。
医学では学術書の輸入解禁後に西洋式の医学への関心が急速に高まりをみせ、西洋式の医療を行う蘭方医が急増した。また、薬のもととなる植物・動物など医学以外の自然科学一般に関心を持つ者が少なくなかった。日本全体に蘭学を享受しようとする気運・環境が整っていた。当時のヨーロッパとの唯一の窓口であるオランダに通じる長崎では、直接学べるよきオランダ人学者の出現が渇望されていた。
シーボルト来日の頃のオランダ
16世紀から17世紀前半にかけてのオランダは、世界貿易での支配権を握るヨーロッパの列強国のひとつとなった。しかし、1651年から始まったイギリスとの制海権をめぐる戦争以降は受難が続き、フランス革命とそれに続くナポレオンの台頭の時代は国家存亡の危機に直面していた。
1813年にナポレオンの敗戦によって独立を回復したオランダは、1814年にイギリスからかつてのオランダ領東インドの統治権を譲り受けた。オランダは国家財政の立て直しを図るため、東インド会社時代に貿易の純益がもっとも大きかった日本との関係を一層深めることに力をいれることを画策した。
学術の振興にも強い関心のあった東インド総督ファン・デル・カペレンはこの機会に日本の歴史、国土、社会制度、物産などについての総合的な自然科学的調査を行う方針を決定し、日本側のオランダに対する受けを良くするため、当時の日本で渇望されていたヨーロッパの新しい医学の知識や技術の移入と教授を行う施策を採った。これに採用され、「国家の施策にもとづく特別な指令のもとに行動する特殊な任務」を遂行する医官として来日したのがシーボルトだった。
図3 カノコユリLilium speciosum(ユリ科)の花の液浸標本。シーボルトによる採集品。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 | 図4 ヤマコウバシLindera glauca(クスノキ科)の果実の標本。シーボルトによる採集品。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 |
シーボルトは計算高い抜け目のない青年だったと思われる。どうすれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え、それを実行に移していった。最先端の西洋医学の知識と技術の伝授は、必要な資料と情報収集にとって、最大の武器になることを知って行動した。そこで最新の医学知識と技術を伝授することで日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることを考えた。
つまりシーボルトにとって、医学やその他の自然史科学の新知識の日本への伝達や教授は、資料と情報収集の手段に過ぎなかった。これは鎖国下で行動がきびしく制約された日本で、必要かつ質の高い資料・情報を得るのにもっとも効果的な方法であっただろう。このようにシーボルトは彼に与えられた目的を果たすべく懸命に務めたのは、確かなことといえる。しかしあまりにも目的達成を期するがために彼が周囲の人々との間に摩擦を生み、尊大な印象を与えることになったことは否めない。
日本文化の紹介
〔日本の園芸植物でヨーロッパの庭園を変える〕 私は2001年に『花の男、シーボルト』を書き、ヨーロッパにもち帰った日本植物や園芸植物によってヨーロッパの庭園を変革したいとするシーボルトの活動とその影響に言及した。園芸植物では最初の通信販売を行って短期間に日本そして中国の植物をヨーロッパ中に広め、庭園の改革を成し遂げたことは記憶されてよい。その結果がすっかりヨーロッパの風景に馴染んだ多数の日本・中国植物の存在である。とくに、レンギョウ、アセビ、ヤマブキ、アオキ、ギボウシのないヨーロッパの庭園は想像がむずかしいほどだ。
〔民族学博物館を生む〕 シーボルトは世界で最初の日本の民族学コレクションをなした。日常の生活用品も芸術的な価値のあるなしを区別せずに収集し、役目や使い方を丹念に記録した。彼は収集家であっただけでなく、鋭い観察者でもあった。シーボルトのコレクションは1837年に一般公開されたが、これが民族学博物館の幕開けとなった。シーボルトは民族学博物館の生みの親であるのだ。
〔浮世絵の紹介者として〕 シーボルトの民族学コレクションには相当数の浮世絵も含まれていた。また、シーボルトは葛飾北斎の『北斎漫画』に最初に注目したヨーロッパ人であった。また、フランスのブラクモンに先立つ19年も前に、シーボルトは浮世絵や画本・漫画をシーボルト博物館で展示している。1837年から少なくとも数10年にわたって、ライデンはヨーロッパ美術界における日本趣味(Japonaiserie)の発信源として大きな役割を果たしたことはまちがいない。
日本趣味の普及にシーボルトが果たした役割の一端を述べたが、北斎の作品のヨーロッパでの紹介とそれへの高い関心を北斎自身知ることはなかったが、それはまだ存命中のことだったのである。その引き金を引いた人物こそシーボルトだったことも忘れてはならない。
図5 クワイSagittaria trifolia var. edulis(オモダカ科)のおしば標本。『葉』伊藤圭介によるおしば標本帳。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 |
図6 最上徳内による板絵。木片にはそれぞれの植物の図が描かれている。ライデン大学国立植物学博物館所蔵。 |
『日本』、『ファウナ・ヤポニカ』、『フロラ・ヤポニカ』は、シーボルトの3部作とされる。なかでも情熱を傾けたのは、『フロラ・ヤポニカ』である。シーボルトは斬新な日本植物の研究書の出版を目論み、詳細な研究に加え、正確で豪華な図版をもって日本の植物のリアルな姿を伝えることにした。そのために必要なことは、ひとつには国際的にも評価される専門家の助力をえることであり、その当時の最高水準の植物学的にも質の高い色刷り図版を制作することだと理解し、彼は持ち前の実行力でこれを現実のものとした。『フロラ・ヤポニカ』はその結晶といえよう。
おわりに
日本へ行くに当たってシーボルト自身が期待したものは何だったのだろう。このことについては、私は、ひとつがヨーロッパには未知の国に等しい日本を探検することだったと思っている。そこで日本の文化が多様で豊かな植物相に大きく依存していることを知る。それを具体的に示すものは民族標本であり、園芸であった。もちろんシーボルトはそれに深い関心を示した。
これは日本の自然と文化を総合的に調査し研究のための資料を収集するというカペレンから与えられた任務の内といってもよい。こうした多様な文物の素材となった植物への彼の関心は層倍であるといってよい。それに植物を育む日本の地形、気象、地質など、シーボルトは一人で日本の自然史研究のための博物館を生み出すつもりで、あらゆるモノを集めまくった。
シーボルトは終生変ることなく日本の植物への関心を抱き続けたのである。予想以上に日本の植物は素晴らしいものであり、シーボルトを虜にした。これを研究すること、園芸植物としての資源性を宣伝し、それをもってヨーロッパの庭園を大改良するという野心が彼の2つめの期待であり、また、帰国後の心の支えではなかったか。
ところで、日本の自然・文化を物証的に研究するとなると、シーボルト・コレクションを保管するオランダの国立自然史博物館(ナチュラリス)、ライデン大学国立植物学博物館そして国立民族学博物館の収蔵標本を利用することなしに新しい研究を展開することは考えられない。今後ともシーボルト・コレクションの学術的価値は高まりこそすれ、減じることはないのである。
「持続的地球共生」を人類生存の指針とする今世紀において、自然の詳細な解析とその結果にもとづく資源戦略の重要性はますます高まっていくにちがいない。日本についていえばその原点を築いたといってもよいシーボルトの活動を振り返り、再評価を通じ、新しいシーボルト像を探ってみようとするのが本特別展「シーボルトの21世紀」展のねらいでもある。
(本館教授/植物分類学)
Ouroboros 第22号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成15年10月1日
編集人:高槻成紀/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館