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東京大学コレクションXIII

東京大学常呂実習施設・北海道常呂町共同展示『北の異界—古代オホーツクと氷民文化』展

常呂の東京大学——ところ遺跡の森

西秋 良宏


本学文学部、考古学の専攻生は3年次に野外発掘の実習をする。場所は北海道オホーツク海沿岸、網走市の西隣にある常呂町(ところちょう)遺跡群である。この地域で考古学研究室がフィールドワークを始めたのは1957年、以後、1973年には文学部付属の実習施設が設立され、実習の拠点になっている。学生宿舎も完備されており、毎年、8月から9月にかけては学生でにぎわう。筆者も、ここで基礎を学んだ。大学院に入った後にも、一度、調査に参加したから二度の夏を過ごしたことになる。

写真1 流氷の上を飛ぶオジロワシ(写真提供:宇田川洋教授)
写真2 「ところ遺跡の森」の案内板

写真3 白樺林の中にある東京大学資料陳列
 西アジアの考古学を専攻するようになって、すっかりご無沙汰していたが、今回の展示の準備のため昨年2月、18年ぶりに常呂を訪れた。かつては青函連絡船にのって列車、あるいは東京から船で釧路まで行って列車を乗り継いで出向いた。移動だけでゆうに一日かかる道のりだった。湧別と網走を結ぶ国鉄湧網線が旅情豊かなオホーツク沿岸を走っていた頃である(1987年3月に廃線)。今では、羽田から女満別まで飛行機が日に何本も飛ぶ。所要時間2時間弱、空港からもクルマで1時間ほどである。流氷を楽しむ観光客が大勢いた。

 ずいぶんアクセスが変化したとはいえ、町並みや景観はそれほど変わっていなかった。流氷が着く海岸沿いの光景は野性味あふれていたし、サロマ湖に沈む夕日もあい変わらず美しかった。白樺林にたつ山荘風の実習施設の建物や宇宙船のような形をした学生宿舎、そして100mほど離れたところにある瀟洒な資料陳列館もそのままであった。当時、発掘を指導してくださった藤本強先生(現名誉教授)は退官されていたものの、宇田川洋教授がかわらぬ笑顔で迎えてくださった。

 十年一日のようにも思えた実習施設も、よく見れば、その周囲の風景は大きく様変わりしていた。「ところ遺跡の森」が出現していたのである。実習施設一帯は、サロマ湖を望む台地の西の縁にある。日当たりもよい。先史人がこのロケーションを見逃すはずはなく、「史跡常呂遺跡」という一大集落を営んでいた。地表面には窪みがたくさん見える。本州と比べて植物が乏しく腐植土が少ないから、古代の竪穴住居が埋もれきっていない。発掘をしなくても窪みの形を調べることによって、それぞれの時代を鑑定することができる。それによれば、約4000年から1000年前の竪穴が130軒以上も確認されているとのこと、「遺跡とホタテとカーリングの町」を自称する常呂町が、ここを遺跡公園として見事に整備なさっていた。

 そもそも実習施設の建物や土地は、常呂町そして北海道庁の全面協力の下でもうけられたものである。これに遺跡の野外展示と町の調査・公開施設が新たに加わっていた。カシワやナラ、そして白樺が生い茂る12万平米ほどもある森の中に遊歩道が設置され、それが東京大学の各種施設と常呂町の埋蔵文化財センター「どきどき」、そして「ところ遺跡の館」を結んでいる。道なりに歩いていくと、縄文の村、続縄文の村、擦文の村に出会う。そこには発掘調査された竪穴住居のいくつかがもとあったところに復元構築されている。竪穴住居は中に入れる。茅葺き屋根の建物を維持するためには放置するよりは多少使った方がよいので、夏季には学生がバーベキューを楽しんだり、泊まり込んだりしているとのことである。白樺林は美しいし、台地を西にくだればサロマ湖。白鳥が遊ぶ。湖畔には原生花園がつらなる。大きなリゾートホテルがそびえているのは興ざめとの意見もあろうが、都会の息吹までもが用意されているともいえる。

写真4 復元された竪穴住居(写真提供:武田修氏
写真5 冬季には雪に埋もれる(写真提供:武田修氏)

写真6 常呂の巨大遺跡群を発見し東京大学を誘致した立て役者、故大西信武氏(写真提供:大西信重氏)
 「ところ遺跡の館」は町内各地の出土物を時代別に展示した博物館である。続縄文文化期の琥珀の首飾りやオホーツク文化期の骨角彫刻などの逸品がならんでいる。「どきどき」では進行中の整理作業風景や最新の発掘物、東京大学の資料陳列館には半世紀近くも続いている東京大学の学史的発掘品が展示されている。要するに、町内の考古標本の全てがここに集結しているわけだ。しかも、遺跡の中にある。観光地としてはもちろん、研究の拠点としても申し分ない環境であろう。町の方々や、この構想に尽力なさったという実習施設の関係者のご努力には大いに頭がさがる。

 以後、常呂行きは3回続いた。いつも誰か大学院生が泊まり込んで出土品の研究をしていたのは印象的である。かつてはなかなか見られなかった光景だ。教官は地域連携の科学研究費の交付を得て、町の埋蔵文化財センターの方々と町内他遺跡の共同研究をおこなっていた。また、2000年から毎年2回開催されている文学部公開講座の講師陣に、女満別空港で鉢合わせしたこともあった。遺跡がとりもったご縁をきっかけに、美術や宗教など幅広いテーマで町民向けの出張講座が継続されているとのことである。受講者に補助椅子をだすほどの盛況であるという。

 ところ遺跡の森は、遺跡と出土品が一体化しているだけでなく、ラボとフィールド、大学と町の行政、大学人と町民が見事に調和した不思議な森でもあった。このような空間づくりが着々と進行していたことを知らなかったのは、関係者として不覚というよりない。発掘と出土品の管理・活用、現地の人々とのおつきあい、長期にわたる野外調査の行く末。他地域にフィールドをもつ身にも、さまざま考えさせられた常呂通いであった。

今回の総合研究博物館の展示『北の異界』は、これらの施設の常設展示物あるいは収蔵標本群を選別のうえ搬入して組み立てたものである。ビルの谷間での展示は、標本を遺跡と景観、風の冷たさや土のにおいごと見せる現地の展示とは自ずと違う。1000kmも北で生まれた東京大学コレクションの奥行きを肌で感じるには、ところ遺跡の森に足を運ぶのが一番である。

東京大学コレクションXIII 東京大学北海文化研究常呂実習施設・北海道常呂町共同展示
「北の異界—古代オホーツクと氷民文化」展
開催期間: 2002年5月18日(土)〜7月14日(日)
開館時間: 10:00〜17:00(入館は16:30まで) 月曜日休館 ※入場無料

公開講演会「北の町ところと東京大学——オホーツクフィールドワークの展望」
趣旨: 東京大学は北海道オホーツク海沿岸の町、常呂(ところ)を拠点として、半世紀近く

北海文化研究にかかわる野外調査を続けています。アイヌ文化や北海道先住民の研
究を目的として始まった調査ではありますが、その活動は今や現代を生きる地元社
会と密に相互作用するにいたり、町の文化行政の主要な一翼すら担いつつあります。
この講演会では、稀有なきっかけで始まった北の町ところと東京大学のおつき合い
の歴史をひもときながら、地域に根ざす考古学フィールドワークの未来を展望しま
す。
日時: 2年6月1日(土) 13:00〜16:40>
会場: 東京大学法文2号館1大教室
主催: 東京大学大学院人文社会系研究科
協力: 常呂町文化連盟・北海道常呂町・東京大学総合研究博物館
プログラム:
13:00-13:10 開会の挨拶

13:10-14:10「東京大学と常呂町の出会い」(菊池徹夫/早稲田大学文学部教授)
14:20-15:20「常呂町における半世紀の考古学調査の成果」
(宇田川洋/東京大学大学院人文社会系研究科教授)
15:30-16:30「遺跡とホタテとカーリングの町ところ」
(松平樹人/常呂町教育委員会教育委員長)
16:30-16:40 閉会の挨拶
※入場無料。事前の申込みは必要ありません。


平成14年度春季公開講座「古代オホーツクの氷民文化」
開講期間: 平成14年5月31日(金)〜7月5日(金) 毎金曜日15:007:00(6回12時間)
会場: 東京大学総合研究博物館・講義室
定員: 60名
※「北の異界」展会期中におこなう公開講座です。募集は締め切りました。

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(本館助教授/先史考古学)

東京大学コレクションXIII

北海道常呂町、オホーツク文化集落遺跡の調査

熊木 俊朗


写真1 トコロチャシ跡遺跡オホーツク地点、オホーツク文化後期の竪穴住居(7号)
北海道の東部、オホーツク海沿岸部に位置するサロマ湖の東岸から、東に約9km離れた常呂川の河口に至る間の常呂町常呂川河口地帯は、120箇所を越える遺跡群が蝟集する全国有数の遺跡密集地帯である。この一帯では旧石器時代から近世アイヌ期に至るまで連綿と遺跡が形成されており、しかも遺跡には大規模なものが多い。特にオホーツク海沿岸に沿って展開する国指定史跡「常呂遺跡」では、東西5kmにわたって延びる砂丘上に2500軒を越える数の竪穴住居跡が存在しており、それらは現在でも埋まりきらず凹みとして確認できる。

 文学部では、この地域の調査を1957年以来毎年実施している。1965年には学内措置により常呂研究室が、1973年には文学部附属北海文化研究常呂実習施設が設立され、調査環境に恵まれた常呂町を拠点として研究・教育・普及活動を継続している。主な研究テーマは「北海文化研究」、すなわち環オホーツク海地域を中心とした先史文化交流の解明であり、日本列島と大陸をつなぐ「北回りの道」に着目している。

 この「北回りの道」を代表する例の一つが、「オホーツク文化」である。この文化は、紀元後5〜10世紀ごろ、アムール河口部〜サハリン〜北海道オホーツク海沿岸〜千島列島を中心とする環オホーツク海地域に展開した、日本列島史のなかでは外来となる文化である。文化の担い手である「オホーツク人」が和人やアイヌとは異なる形質を持つことに加え、出土する遺物に大陸の靺鞨文化・アムール女真文化起源のものが認められるなど、北アジア地域とのつながりが明確に認められるのがオホーツク文化の特徴である。オホーツク人は海獣狩猟や漁撈などの面で高度な海洋適応を果たす一方、陸獣狩猟にも卓越しており、住居内にヒグマの頭骨を祀るなどの動物儀礼を行っていた。このようなヒグマを中心とした動物儀礼が、のちのアイヌ社会の「クマ送り」儀礼と類似する点があるため、アイヌ文化の起源という面でもオホーツク文化は注目を集めてきたのである。

写真2 住居内にあったヒグマの骨塚出土状況 写真3 骨塚復元イメージ。実際は100頭以上の頭骨があった。(写真:上野則宏) 写真4 ヒグマの頭部を彫刻した骨器。残存長2.7cm。

 国内におけるオホーツク文化の調査では戦後まもなく行われた網走市モヨロ貝塚の調査が有名であるが、東京大学もこの調査に参画している。また、文学部では1960年代から70年代にかけて常呂町などでオホーツク文化遺跡の調査を精力的におこない、それまで謎に包まれていたこの文化の実態を次々と明らかにして研究の基礎を築いた。その後、常呂実習施設の調査は擦文文化・アイヌ文化を中心としてきたが、1998年から再びオホーツク文化の研究に重点を置くこととなった。転機のきっかけは80年代後半から始まった日本・ロシア間の研究交流である。最近では両国間の共同調査や国際シンポジウムが活発に行われ、不十分ながらも日・ロ間の情報交換や相互理解が進展しつつある。こうして新たな情報が増加するに伴い、オホーツク文化の問題を広範囲な視点でより詳細・具体的に再検討する機運が高まったのである。

写真5 木製の櫛。長さ9.0 cm。
写真6 土製のアザラシ頭部。残存長5.7cm。
 常呂川河口地帯は、北海道内で最大規模のオホーツク文化集落群を擁している。集落群はいくつかの地点に分かれているが、そのうちの一つ、トコロチャシ跡遺跡群は常呂川の河口から約500m上流に遡った河岸段丘上に位置する大規模な遺跡群である。当遺跡群ではオホーツク文化の竪穴住居群や、近世アイヌ文化のチャシ(砦)跡に加え、遺跡全面にわたって縄文時代早期〜近世アイヌ文化期に至る各時期の遺構・遺物が連綿と発見されている。当遺跡群の発見も古く、文学部考古学研究室の手によって、すでに1960年と1963年には一部が発掘調査されている。この時にはチャシ跡に加えてオホーツク文化の竪穴住居が2軒発掘され、モヨロ貝塚以来の大発見となる成果が得られた。その後、常呂町などによって台地の南尾根部分の緊急発掘調査が数回行われ、また1991〜1997年度には、文学部考古学研究室・常呂実習施設によって近世アイヌのチャシ跡部分の全面発掘調査が実施されている。

 人文社会系研究科考古学研究室・常呂実習施設では、オホーツク文化期の竪穴住居群と土壙墓群とを構造的に把握しうる遺跡としてトコロチャシ跡遺跡群を再び調査対象に選定し、1998年度より発掘調査を開始した。また1999年度からは、当遺跡群の史跡整備計画を踏まえ、東京大学と常呂町とが連携してトコロチャシ跡遺跡群全体の構造解明を目的とした綜合調査をスタートさせた。これらの調査は現在も継続中であるが、これまでの主な成果として、オホーツク文化期の竪穴住居が2軒、土壙墓が2基発掘調査されている。これらの遺構は全てオホーツク文化では後葉の時期のものであり、紀元後8〜10世紀ごろに相当すると考えられている。遺構・遺物の概要を紹介しよう。

 この時期のオホーツク文化の竪穴住居には、きわめて特徴的な要素が共通してみられる。(1)五角形ないし六角形の特徴的な平面プラン、(2)竪穴長軸線上の両端にある主柱穴、(3)床面上に「コ」の字形に貼られた粘土の床、(4)住居内の奥壁中央部に位置するヒグマ頭骨などの骨が積み上げられた骨塚、(5)住居中央に設置された石組みの炉、などがそれである。当遺跡群の竪穴でも、多少の変異はあるもののこれらの特徴がほぼ全て確認されている。これら一般的特徴のほかに、今回の調査では特筆すべき成果が二点得られている。ひとつは、いずれも住居廃絶時に火を受けた焼失住居であったため、住居内に各種の木製品や、壁・柱などの住居の構造材が炭化して大量に遺存していたことである。

このため通常は腐ってしまって残らない、櫛・スプーン・各種容器などの精巧な木製品・樹皮製品・繊維製品が多数得られることになった。同時に、住居の壁・柱などの一部が廃絶当時のまま残されていたため、住居の構造についての具体的な情報を得ることができた。もう一つの特徴は、2軒とも住居内に骨塚が残されていたが、うち1軒ではヒグマの頭骨が100体分以上も残されていたことである。これは今までの調査例のなかでは飛び抜けて多い数である。家毎のクマ儀礼とは別に、集落内・集落間での儀礼が存在したことなどを予見させるデータといえる。このほか、2軒の住居址内からは大量の土器・石器・骨角器・金属器等が出土している。なかには大陸起源とみられる青銅器も含まれていた。

 一方、2基の土壙墓は集落地点の南西部に隣接した地点で発見された。土壙墓と集落地点の間には、当時、自然の沢と思われる浅い溝状の窪みがあったことが確認された。集落と墓地の空間構造を考える上で参考となるデータである。

 このように今回のトコロチャシ跡遺跡群の調査では、オホーツク文化の具体的な生活技術から、集落全体の構造に至るまで、様々なレベルで具体的かつ詳細な情報が得られた。これら個別の情報を、オホーツク文化研究全体のなかで評価検討し、さらにアイヌ文化成立史のなかに正しく位置づけていくことが今後の重要な研究課題となる。

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(本館研究担当/本学大学人文社会系研究科助手/附属常呂実習施設勤務)

 

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Ouroboros 第17号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成14年5月10日
編集人:西秋良宏/発行人:高橋 進/発行所:東京大学総合研究博物館