第1部 第1章

自然の体系

 

自然の体系への試み

 リンネの「自然の体系」は第1版が1735年にオランダのライデンで出版された。これはリンネの 最初の著作であるだけでなく、自然の体系を述べた画期的な著作でもある。『自然の体系』は 1767年から1770年にかけて出版された第13版まで版を重ねる。そのうち1758年こ出版された第10版 第1巻が動物での学名の出版点になっている。なお、植物の学名の出発点は1753年に出版された Species plantarum(『植物の種』と訳される)である。

 リンネの著作以降、自然の体系化をより綿密なものヘとする動きが生物学や鉱物学を発展させた。 どんな生物でも鉱物でも裸眼で標本を観察することで上位の分類階級への位置づけができ、詳しく特徴を調べればその標本がどの種に属するかを決めることができたリンネの 『自然の体系』は魅力的であった。

 このように、Systema naturaeという言葉は、生物学の父、リンネが著わした書物の題名であるが、そもそも自然に体系などあるのか、という疑問を抱かれる人も多いであろう。

 自然の多様さを神話の世界から科学の世界へと飛躍させるきっかけに位置づけられるのが このリンネの著作なのである。自然の多様さについての研究はリンネに始ったわけではないが、 リンネの著作を契機にこの問題は近代的な学問(自然史科学)としての歩みを踏み出したと いってよい。だから、Systema naturaeは自然の体系を解明する学問である自然史科学の出発点でもある。

 

体系学の確立

 スイスのバゼールを中心に活躍した本草学者にボーアン兄弟がいる。兄のジャン・ボーアン (Jean Johannes Bauhin)は1541年の生まれで、1612年に亡くなったが、存命中に詳細に個々の植物を記載し、それぞれの植物についてのギリシアのテオフラストス以降の植物学の先人の研究を要約して示した『植物誌』(Historia plantarum)を書き残した。この著作はあまりにもぼう大であったため生前は出版されることはなかったが、没後の1650年に3巻2800ページを超す大著として出版された。これはリンネ以後にそのスタイルを完成していく分類誌(モノグラフ) の先駆となる内容の著作ということができる。

 弟のカスバル (Caspar [Gaspard] Bauhin)は1560年に生まれ、1624年に亡くなるが、兄の纏めた 『植物誌』の内容を1冊に集約したダイジェスト的便覧を著わした。この種の本は当時、 劇場本 (Pinax theatri) と呼ばれていた。カスバルの『植物誌』の劇場本は Pinax theatri botanici と呼ばれ、1623 年に出版された。

 著者カスバル・ボーアンはスイスの本草学者。 Ludovici Regisすなわちパーゼルで、出版されたこの本書は、テオフラストス以降の先人の用いた植物名を種類別にまとめ、それぞれの出典を明示したものであった。リンネの『自然の体系』まであと一歩のところにある著作である。 リンネは『自然の体系』あるいは後の植物だけを扱った『植物の種』(Species plantarum 、 1753)などの執筆ではボーアンのピナックス (Pinax theatri botanici)を座右に置いて活用し たことだろう。カスパルにも欠けていたのは、階級構造をもっシステムの導入であり、リンネ の創造はそのシステムを分類という自然の秩序化に導入したことなのである。

 イギリスを代表する本草学者にジェラード(John Gerarde)がいる。彼は1633年に『本草学』 (The herball or generall historie of plants)を著わした。この書はイギリスのみならずヨーロッパにおける本草学の時代を代表する著作で、個別の薬用植物についての詳細な研究結果にもとづく図解と記載が注目される。リンネに先立つことおよそ100年前の著作であるが、ことヨーロッパの植物についての個別的な認識と理解はすでにリンネの水準に達していることが判る。 フランスの本草学者ポメ (Pierre Pomet) が 1694年に著 わした『薬物誌』もリンネに先立つ著作であるが、植物 の理解の水準の高さを加実に示している。この本は 1748年に英訳され A complete histories of drugs として、 ロンドンで出版されている。

 リンネはこうして本草学の時代に記載された植物そ して動物、鉱物に体系上の位置を与える装置として階層構造をもつ分類体系を考案したということができる。 いってみれば平板的な羅列の本草学的自然理解に、将来新たな参入種があっても困らないファイルあるいは引き出し付きの 1種のファイリング・システムを導入したといえるであろう。リンネの偉大な科学への貢献は体系学( システマテックス) を確立したことである。

種を基本とする

 リンネの偉大な貢献の別のひとつは、それまで暖昧模糊としていた自然物の理解に単位と概念を導入したことである。その最も重要なのは種 (species) の導入と、種を体系化の基礎に据え、あらゆる自然物を種を基準に分類したことである。このことにより、それまでばく然と用いられてきた「種類」と分類学は決別することに成功した。偉大なボーアン兄弟も、さらにはドイツの本草学者たちも、この点では旧態然としていたのである。

 リンネの種は一種の単位とみることができ、永久不変で、類似していて区別できない個体は同一の種に属するものとされた。さらに、種を基準に類似の種は上位概念である属に、属もさらに上位の概念の分類階級に分類することで、自然を階層構造化したのである。 これがリンネの自然の体系の骨子である。そしてリンネはあらゆる自然物を鉱物、植物、動物という 3つのグループに集約した。

リンネに先んじたツーヌフォールやビュッフォン

 分類体系の構築という点ではリンネに一歩先んじていたのはフランスのツーヌフォール (Joseph Pitton de Tournefort) である。ルイ14世の命令で世界 中の植物を集めた彼は万のオーダーの数の植物をしまう標本箱と花壇を作らねばならなかったのである。 大量の数がシステム化を促したのである。1700年、彼は『王の標本の配置』(Institutiones rei herbarium) という3巻本を著わした。ツーヌフォールの時代、植物と動物の境界は今日とは少しずれていた。たとえばサンゴであるが、彼は1700年に書いた論文 Observations sur les plantes qui naissent dans le fond de la mer でもサンゴを植物としている。リンネが『自然の体系』を書く直前の時代、サンゴのような不動の海生動物は植物と考えられていたことは興味深い。『自然の体系』ではリンネはサンゴを正しく動物として分類している。

 植物の構造や機能の認識ではフランスは当時世界で最も進んでいた。動物でのピュッフォンの存在も 大きい。とくにピュッフォンは個々の動物を深く研究し、その詳細を解明していた。研究内容の精 度からいえばリンネは足元にも及ばない。ビュッフォンの研究方法はアリス トテレスの『動物誌』の伝統を継ぐものといえ、これまた古代ギリシアに帰るものである。 ただピュッフォンにはリンネが導入したシステム学の考え方が欠けていた。

 イギリスのグリュー (Nehemiah Grew) が1682年に著わした『植物の解剖』(The anatomy of plants with an idea of a philosophical history of plants)はリンネの時代の植物形態学や解剖学の水準を知るうえで参考となる。形態や解剖を扱ったリンネの著作に『植物学』(Philosophia botanica,1751)があるが、形態や解剖学的特徴の表出はグリューよりもレベルが低い。リンネが理解していなかったというのではなく、より簡単な特徴で体系に位置づけることができると考えていたのだろう。

 パリで、代々植物の研究を行っていたジュッシュウ (de Jussieu)家は、リンネにも影響を及ぼしたことで知られている。植物の分類に属を導入しその重要性を述べ、1789年に『植物の属』(Genera plantarum) を著わしたアントワーヌ・ロラン・ドゥ・ジュッシユウ(Antoine Laurant de Jussieu)などがいる。 彼の叔父に当たるアントワーヌ・ドゥ・ジュッシュ (Antoine de Jussieu)が1721年に王立科学アカデ ミー紀要に発表した論文、Sur les pertification qui se truovent en France, de diverses parties de Plantes et d'animaux は当時その存在が知られていない、化石を議論したもので植物・動物界と鉱物界の境界の暖昧さを論じている。

自然史研究の加速

 このようなことはあるものの、自然史研究を加速したのは大航海時代である。新大陸などからもたら された多量の標本の多くは未知なる生物や鉱物であった。『自然の体系』に則して多くの新植物や動 物、鉱物が発見されたのである。大航海時代はまさしく標本を読み、自然の体系をより完壁なものへと補強する時代であったのだった。それまでヨーロッパの生物と鉱物を中心に組み立てられたリンネの体系が、新大陸の生物や鉱物の体系上への位置づけにも役立ったことに驚異の言葉を残している学者もいる。キャプテン・クックの探検航海に同乗したパンクス卿もその一人である。

 自然の体系上の位置を定めるために、自然物自体についての研究が進んだのはいうまでもない。 ところで自然史科学では研究の材料は標本(specimen)と呼ばれた。多種多様な自然物の中には氷のよう に、条件さえ与えればいつでもどこでも水からつくることができるものもある。またどの地域の氷で も同じ属性をもっている。なので氷のような物体では標本を保管する必要がない。だがヒトでは、同 じ種に属するとはいえ顔立ちなどには一人々々でちがいがあり、まったく同一という個体はない。 ヒトなら誰にでも共通のする事象といっても個体ごとにちがいはつねに考慮されねばならず、分析に は複数の標本がいる。ましてや地域や集団間の変異のような問題の解析にはばく大な量の標本が必要になる。これはヒトに限ることではない。あらゆる生物では同種といっても個体ごとにちがいが認め られるのである。鉱物にも同様なことが指摘できる。

 パンクス卿のようにパトロンとなり自然の体系化を支援した王侯や貴族は、標本の収集にも積極的に協力した。それまでミューズの神への奉物を収めておく施設だった‘ミューズの館'はこうして集めら れた多量の標本を整理、保管し、研究する「博物館」へと変貌したのである。ヒトがそうであるよう に、生物の研究では通常どの種にも集団や地域による差があり、厳密な研究には多量の標本の収集が 欠かせない。研究を完壁なものにするためには徹底的な標本を収集することが必要である。 どれだけ完壁に枚挙できるかが研究の質を決めているといってもよい。

 

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