第1部 第1章

自然の体系

 

近代植物学の誕生

 すでに展望したように人類は自然の神秘を解き明かそうと古代以来さまざまな挑戦をしてきた。 古代とくに ヘレニズム時代にあっては自然を構成する自然物についての観察が行われ、その結果 から自然それ自身の理解に及んだが、全体像を語るには判明していることはあまりにも限られていたため、演鐸や推論にも限界があった。つまり自然はあまりにも広大かつ多様であり、神秘の謎を解く糸口を見出すことはできなかった。中世は真実を求めるのではなく了解事項に中世的な合目的説明を与えることが優先され、実際の自然とは距離を置くことになったのである。 近代にいたり再び自然そのものに対する関心が甦ってきた。加えて自然現象や自然物の聞を貫く法則性や共通性という普遍性への関心が高まった。 17世紀に入り、あらゆる運動をニュートン力学という、単純な数理体系によって統一的に解くことに成功し、自然科学が開花する。

近代科学の端緒となった本草学

 鉱物、植物、動物をいう自然物についても改めて関心が高まっていったが、その契機になるのはそれらを薬物として研究する本草学であった。石炭からアニリンを合成することにルンゲが成功したのは 1834 年である。このような化学的な合成によって薬剤の製造がなされる19世紀まで、今日の漢方薬がそうであるように薬はすべて自然物から採取 されていた。薬草という言葉が象徴するように、薬になる自然物の大半は植物で あることから、医者も薬剤師を中心に植物に主たる関心が集まった。薬草を研究する学問である 本草学もその中心は植物の研究にあった。

 薬としての利用頻度が高い植物はヨーロッパで、も種数が多く、薬に必要な種に似た類似種も多くみられた。 また新たな大陸の発見にしたがいヨーロッパにはない新しい鉱物、植物、動物も数多くもたらされた。そのような状況の中で類似種から当該種を明確に区別するには、十分に観察を行って、それぞれの植物のもつ特徴を明らかにすることが欠かせない。

 観察といってもほとんどは裸眼または低倍率のレンズによるものであったが、毛の有無や胚珠の位置や数など肉眼では判別がむずかしい情報を手にすることができた。 因みに有名なレーベン・フックが『ミクログラフィア』によって、顕微鏡を通じてとらえたミク ロの世界の姿を伝えたのは 1665年である。

 さらに得られた情報を広く伝えるためには正確な記述(記載という)と図示が必要である。 正確な記述を行うためには関係者が共通の理解をもって使用する用語が必要になる。 そして何よりも対象の植物を特定するための名前が要る。

 ここに掲げた必要性をすべて解決した時点をもって本草学が近代植物学へと脱皮を遂げたとみなすのである。脱皮に多くに貢献したのは他ならぬ生物学の父といわれるリンネなのである。 リンネもすべてを彼の独創だけで成しえたのではない。彼以前の試行錯誤あってのリンネといってよい。ここではまずリンネにいたるまでの歩みをざっとたどってみたい。この道程は いってみれば本草学から植物学への架橋にほかならないのだが、一般的には本草学の黄金期 (Golden Age)と呼ばれている。この黄金期を生んだ学者のうち、植物学はその多くが本草家だった。

 リンネに『薬用植物一覧』Dissertario medico-botanica, exhibens plantas officinalesという 著作がある。これは1753年に出版された小冊である。リンネの時代、出版には多大な経費がかかったので、学位取得時に恩師の論文をデイツセルタチオ (dissertatio) として出版する習慣があった。この論文は薬用にする植物を集大成したもので、彼の薬用植物への造詣の深さを示している。基礎と臨床医学の教授であるリンネは 3界の中でもとくに植物に造詣が深かった。 彼の『自然の体系』が多くを本草学に負っているのはそのためでもある。

自然史へのイタリアの影響

 実物の仔細な観察を基礎に描かれたダ・ヴインチやミケランジェロの絵画作品は、ルネサンス精神と呼ばれる中世に代わる新しい時代を象徴するものであった。 イタリアはルネサンス発祥の地であり、生物学の新しい潮流もそこに源を発している。 写実の重要性の認知とともに重要であったことは多くのギリシア・イタリアの手稿本が印刷されたこと、ならびにギリシア語文献のラテン語訳がイタリアでつくられたことだ。そのなかにはプリニウスの『自然史』(Naturalis historia) が含まれる。 デイオスクリデスの『薬物誌』のピエトロ・ダパノ (Pietro d'Abano) による初のラテン語訳が1478年、テオフラストスの著作のテオドル・ガザ (Teodor Gaza,1398-1478) によるラテン語訳が1450・1451年に刊行されている。

 本人は何の著作も残さなかったがボローニャとピサの植物学の教授であったルカ・ギーニ (Luca Ghini、1490-1556)の存在は大きい。彼のもとからアルドロヴァンデイ (Ulysses Aldrovandi) 、チェザルピノ(Andrea Cesalpino) 、イギリス植物学の父といわれるターナー (William Turner)などが巣だっていった。またギーニは植物を「おし葉標本」として保存することの創始者でもあった。

 ボローニャに大学が成立したのは1158 年とされる。世界でも最古の大学であろう。この大学にあったギーニは多量のおし葉標本を作成したと推測されている。彼自身が作成 した標本帳は散逸したが、弟子のひとりであったチボー (Gherardo Cibo)のおし葉標本が現存 する。標本から作成年を1532年にまで遡ることができる。またギーニは標本を1551年に後述のマッティオリに送っている。年代は前後するがナポリにも近い港町 サレルノは、9世紀以来学問の交流の場として知られ、多くのアラブ人、ユダヤ人などもこの地 に滞在していたという。大学として公認されたのは1231年であったが、古くから学園として存在し、とくに12世紀はイタリアでの薬草研究の中心のひとつであったらしい。

 薬になるならないにかかわらずあらゆる植物を集めて栽培するのが植物園である。植物園が世界で最初に登場したのもイタリアのピザで1543年である。続いて1545年にはパドヴァとフローレンス、1568年にはボローニャにも建設された。

 人材だけでなく研究のための施設づくりでもイタリアは他のヨーロッパ諸国に先んじていた。

ドイツ植物学の父

 イタリアでの文芸復興の動きは現在のドイツの地にも伝わった。他に先んじていた印刷術は生物学関係の図書、なかでも本草書の出版に反映している。学術の普及と浸透にとって出版は大きな力となるのである。

 ブルンフェルス(Otto Brunfels)、ボック(Jerome Bock)、ブックス(Leonhart Fuchs)、コルデス (Valerius Cordus) の4人は、後にシュプレンゲル (Kurt Sprengel) によって“Deutsche Vater der Pflanzenkunde"、すなわちドイツ植物学の父と呼ばれた。

 プルンフェルス(Otto Brunfels)は彼の著書『植物写生図譜』(Herbarium vivae eicones)でヴァ イデッツ(Hans Weiditz)が植物を描くことがなかったら、黄金期のトップを飾る本草学者には名を留めることはないであろう。なぜならプルンフェルスの本草書の記述は従来の著書と比べて斬新さはなく、それまでの本草学を引き続いているに過ぎないが、挿入の植物画をルネサンス初期を代表する画家であるアルブレヒト・デューラーと同じ派のハンス・ヴァイデッツが描いていたことで、新しいパラダイムの幕開けの栄誉を与えられることになった。 『植物写生図譜』第1巻が出版された1530年(1532年とする説もある)をもって本草学の黄金期の幕開けとするのである。ブルンフェルスは1489年にマインツで生まれ、各地で職についたが1532年にベルンの町医師に任命されている。

 シュプレンゲルがプルンフェルスを植物学の父にしたのは、『植物写生図譜が大きい。 精巧な植物図が植物学の知識無しに描けないからである。しかし、画家ヴァイデイツはブルンフェルスと協働してこの植物画を描いたとは考え られない。それどころかプルンフェルスの記載は旧態依然としていて科学性の点で、ヴァイデイツの図に劣る。

 文字通り画家らと協働して、科学的な植物図と記載を生み出したのは1501年にバイエルン地方に生まれたレオン ハルト・ブックス (Leonhart Fuchs)である。図版の作成でも写生画家のアルプレヒト・マイヤー、版下作製のハインリッヒ・フェルマウラー、 彫版師のファイト・ルドルフ・スベクレが分業した。ブックスは自ら植物を栽培し観察を行った。

 このような研究と分業を通して完成したのが彼の 『植物誌』(Historia stripium commentarii insignes)である。この本の初版は1542年に出版 されたが、以後版を重ね39版まで出た。その間およそ20年になるが、フックスは常にその改善に真剣に組んだ。

 フックスは、実物の観察を重んじ、それを克明に記録するとともに、デイオスクリデスの 『薬物誌』などの過去の文献を精査し、それらの文献に登場する植物との異同を明らかにした。 故きを温ねることで自らの学問を伝統の上に位置づけたのである。フックスのとった歴史性を踏まえる方針とその手法はリンネにも受け継がれていく。専門的になるが、これが今日でもモノグラフ(分類誌)や校訂論文(revision) における重要な一部となっている異名一覧である。

 フックスに欠けていたのは、階級構造をもっ体系化の思考に加えて名称の統一と命名法の確立 だけだといっても過言ではあるまい。

 4人のドイツ植物学の父の中のボックは1498年にハイデルベルグにも近いハイデスバッハ (Heidesbach) に生まれた。彼は1539年に『新本草学』(New kreutter buch)を出した。 この本草書には図がない。図で示す代わりに記載で、それぞれの植物の特徴を示すことに努めた。 用語の確立が図られたのである。今日、雌しべをいう pistil (ドイツ語ではPistill)の語を雌しべに正し(適用したのはボックが最初である。 彼はまた個々の喧物にはじめてその産地を示した。

 

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