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神岡鉱山鹿間精錬所 |
カミオカンデを陽子崩壊観測装置やニュートリノ観測装置の観点から書かれた記事は数多いが、神岡鉱山という観点から書いた記事は、ほとんどない。日本最大の鉛・亜鉛鉱床であり、8世紀以来の長い伝統をもって、なお2年前まで現役で稼行していた神岡鉱山の立場から、カミオカンデを眺めてみると、別な姿が見えるのではないかと考えた。筆者は鉱床学の専門家でもなく鉱山学の専門家でもなく、主要な部分は、神岡鉱業に勤務しカミオカンデ建設に立ち会った、小松正氏、小長井憲二氏からの情報による。先ずは、両氏に謝意を表したい。
小柴先生は、アメリカにいる時、主に原子核乾板を気球に乗せて高空に上げて宇宙線に露出させる仕事していたが、帰国後に原子核乾板での仕事からどのように実験を発展させていくかを考えて、検出器としてカウンターを使う実験に切り替えたそうである。そこで、宇宙線ミュー粒子が束になって地下に入ってくる地下ミュー束を調べようと考えて、地下観測場として神岡鉱山を選んだ。どのような基準で神岡鉱山を選んだのか、先生に詳しく聞くことはできなかったが、これが先生お得意の「山勘」であろうか。先生に「山勘」を働かせるコツを伺うと、「脳味噌の全てを使ってトコトン考える」のだそうで、「勘」が働かないのは考えが足りないそうである。先生が神岡鉱山を実験場に選択したことが直接的・間接的に今回のノーベル賞受賞に繋がったと考えると、先生の「山勘」の鋭さは見事である。当時、三井金属が先生に提供した地下ミュー束実験場は現在のカミオカンデやスーパーカミオカンデのある茂住地区とは異なって、茂住から南に約8km離れた栃洞地区であった。
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神岡鉱山冬景色 |
まず、神岡の歴史を見てみよう。神岡地方における鉱山の発見は8世紀初めの養老年間とする説があるが、詳細は不明である。16世紀末、秀吉につかえた金森長近は飛騨平定を行い、天正4年(1586年)越前大野から飛騨に転封となり、以後積極的に鉱山の開発を行った。金森氏は茂住宗貞という鉱山師を得て、鉱山経営の実を挙げたと言われている。茂住宗貞の事跡には不明なところが多いが、神岡地方の茂住・和佐保銀山の開発に携わったと言われている。
元禄5年(1692)金森氏が転封された後に、飛騨は天領となった。そのころには、飛騨の鉱山は衰退し、鉱石も銀から銅・鉛となり、神岡地方でも和佐保銅山と池の山鉛山が細々と稼行されていたと言われている。さらに、慶応年間(1865〜1867)には、休山が目立つようになった。
明治になると、三井家が神岡に進出した。明治6年に高山に出張店を開き、7年には船津に進出した。明治9年に貸金の返済として入手した蛇腹平1番坑の手稼を始めたが、これが三井組神岡鉱山稼行の始まりである。その後、鉱区を拡げ、明治20年に栃洞地区全体を三井の所有とした。明治22年には茂住地区を併せて神岡鉱山の統合を実現した。この間、近代的な工法を西洋から積極的に導入し、主要な坑道の整備、排水や運搬の改善を行った結果、生産量は飛躍的に増大した。一方、比重選鉱法や洋式溶鉱炉の導入などによる選鉱・製錬設備の近代化を図り、明治23年に鹿間谷に製錬所を完成させた。
明治30年の大暴落でいくつかの坑が休山に追い込まれたが、日清・日露戦争から非鉄金属の重要性が認識されたこと、亜鉛がクローズアップされたことなどから、再び活発な採掘が行われた。その間、ダイナマイトや近代工具の導入、計画的採掘法の採用、自動鉄索・馬車軌道の導入などによる合理化が進んだ。一方で選鉱・製錬の一層の近代化が推進された。
昭和に入ると戦時産業経済に対応するべく積極的な増産体制がとられた。しかし、第二次世界大戦中は、極度の労働力不足と資材不足に遭遇し、軍需物質である亜鉛の生産は坤案を極め、当時の関係者の苦労は並大抵ではなかった。戦争中の徴兵による熟練者の不足や、その結果から来る無計画な乱掘など、戦争後遺症が顕著であった。昭和22年に集中排除法が公布され、三井鉱山の金属部門は昭和25年に神岡鉱業株式会社として分社化された。
昭和48年にはオイルショックが見舞い、多くの鉱山が閉山を余儀なくされる中で、そこを切り抜けた神岡鉱山もイタイイタイ病裁判による巨額の補償が大きな負担となっていた。しかし非鉄金属資源の確保をめざして新たな鉱区の開発に取りかかり、また近代的採鉱法を採用してきたが、自由化や金属価格の下落から、平成14年6月に鉱山部門が閉山となるに至った。
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跡津川坑口 |
次ぎに、神岡鉱山の地質的な特長を記してみる。神岡鉱山は飛騨産地の北端に位置し、神岡鉱山付近には原岩の堆積が4億年以前とも言われている飛騨変成岩類と2億年前後に活動した花崗岩類及びこれらを被覆する1億年前後に堆積したとみられる手取層群の堆積岩類が分布している。飛騨変成岩類は原岩組成の違いを反映して角閃石片麻岩、黒雲母片麻岩、透輝石片麻岩、伊西型混成岩、変塩基性岩及び石灰岩等で構成されている。これらの変成岩は構造変動を激しく受けて複雑な褶曲構造をなしているが、鉱山地域では、褶曲軸は南北方向で南傾斜を示しており、従って原岩の堆積構造を推定すると北側の茂住地区の変成岩が栃洞地区の変成岩より下盤側に相当すると考えられる。広域変成作用を受けている変塩基性岩体が、他の変成岩類を縦断して栃洞、円山、茂住と南北方向に連続する構造をなして、その縁辺部に大量の伊西型混成岩を伴って鉛亜鉛鉱床が分布することが、地質構造図の作成過程で解明された。鉱石鉱物としては閃亜鉛鉱(ZnS)、方鉛鉱(PbS)で、鉱床はこれらの鉱石の多数の塊状鉱体から構成されている。その他、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、磁鉄鉱、黄鉄鉱、硫砒鉄鉱などが少量含まれる。脈石鉱物は、灰鉄輝石 、緑簾石 、柘榴石、石英、方解石などである。
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池の山全景 |
上に述べたように、小柴先生が最初に神岡鉱山に実験設備を作ったのは、栃洞に作られた地下ミュー束観測施設である。三井金属はそのために栃洞の一部に観測施設を無償で提供し、ノイズバリヤーとして製錬した50トンの鉛を貸与した。しかし、実験装置の規模が小さく、更に規模の大きい実験施設の建設が必要であった。
そのような前歴があったことからも、小柴先生は神岡鉱山にカミオカンデを建設する事を決意した。その他に釜石鉱山や清水トンネルも実験場を建設する候補地に挙がったが、釜石鉱山は磁鉄鉱が主要な鉱石であり磁気の影響を無視できないことで断念し、また清水トンネルは、トンネル内に建設工事現場からの出入口を作ることに建設省の反対があったこと等で断念するに至ったようである。
カミオカンデを神岡鉱山に建設することに対しては、三井金属鉱山の社内でも議論があった。神岡鉱山を所有する三井金属に、小柴先生からカミオカンデを神岡鉱山に建設したいとの打診があったのは1980年であった。鉱石の採掘を目的とする鉱山が稼行中の坑内に、鉱山に関係がないというよりも、むしろ鉱石採掘の邪魔になる大規模な設備を建設する、ことに対する本社の結論は、「建設の可否については鉱山長の決定なしには話を進めることは出来ない」、であった。この回答は、無条件に断るのではなく、もし実際に採掘している現場が了解すれば、本社は前向きに検討すると解釈できるのであるから、本社は好意的に反応したと言える。何故建設に対して好意的であったかという理由は定かではない。勿論、学問への理解と支援の気持ちが込められていたと解釈することもできるが、営業を目的とする鉱山側の立場に立ってみると、カミオカンデを建設することにメリットを感じたのではないか。建設の打診があった1980年頃、日本全体で鉱山の景気は悪かった。1973年のオイルショックによって、日本を代表する鉱山であった生野鉱山(1973年閉山)・別子鉱山(1973年閉山)・足尾鉱山(1973年閉山)などは次々と閉山に追い込まれていた。オイルショックを神岡鉱山は高能率化で切り抜け、それなりの業績を挙げていた。その理由は、採掘が地下レベルではなく地上レベルより高いところで行われ、そのために鉱石の搬出が容易であったばかりでなく通風や排水へのコストが低かったこと、さらに近代的採掘法を採用したことなどが挙げられる。しかし、自由化の嵐の中で、さらなる合理化が必要となってきた時期が1980年であった。そのような状況下で、カミオカンデ建設に対しても本社はメリットを感じて肯定的な態度をとったのであろう。
神岡鉱山の中でカミオカンデのような大規模な設備を建設することが可能な地域は2つあって、栃洞地区と茂住地区である。鉱山側に伝わっている小柴先生が出した条件は、
- 3000トンに耐えられる丈夫な岩盤があること
- 清浄で豊富な水が得られること
- 1000mの岩盤の被りがあること
であった。
鉱山長に建設の可否を委ねるという本社の方針は現場には伝わっていなかった。ある時突然東大の先生から、「とにかくお会いしたい」との電話があった。何の話かわからないまま、東大の先生と鉱山長とが会うことになった。鉱山長と直接交渉したのは故須田英博先生と高橋嘉右先生であった。その場で、鉱山内に地下観測所を建設したいと突然申し込まれて栃洞と茂住の鉱山長は驚き、困惑した。須田先生と高橋先生は先ず栃洞の鉱山長にお願いしたが、見事に断られてしまった。栃洞鉱山長は、1000mの岩盤の被りがないことや鉱体の分布などから採掘を続けながらカミオカンデの建設は不可能であると考えて断った。また、栃洞の岩体の強度は茂住の岩体の強度より低かったことも影響があったかも知れない。そうすると可能性は茂住だけになる。茂住を訪れた両先生は必死であったそうである。両先生がカミオカンデの構想を関係者に説明されたが、茂住関係者も承諾の返事を即答できるはずもない。まあ食事でも、ということになった時に、「建設を引き受けてくださるか、肯定的な返事を戴けなければ、食事も戴けないし、東京にも帰れません」と須田先生と高橋先生が両手をついてお願いしたそうで、これには茂住の関係者もまいってしまった。1980年の10月末か11月初めだった。私の想像では、小柴先生は、相当な言葉でもって両先生を送り出されたのではないか。とにかく次の日に1000mの岩盤の被りのある池の山三角点直下の場所へ行くことになった。茂住の坑口からトロッコで15分で池の山三角点に到着する。すると須田先生は「ここでいいから何時から建設してもらえるか」。続けて「この装置が完成すれば、大統一理論、ニュートリノ、モノポール、太陽ニュートリノなど7つのノーベル賞受賞も可能になる」と言った。現に、その1つは今回実現した。その地点には旧坑があり、坑夫がのどの渇きを止めるために常用していた清浄な水が豊富に出ていた。それを見て、須田先生は「早く作りたい。1分1秒を争うのだ」と関係者を急かしたそうである。当時、カミオカンデと同様の設備がアメリカで計画中で、陽子崩壊をどちらが先に見つけるかの、まさに先陣争いを繰り広げているところであった。この熱意に動かされたこともあって、茂住の鉱山長はカミオカンデ建設に前向きの回答をした。しかし、茂住の鉱山長が建設を承諾したというニュースが社内に広がると、社内は大騒動になった。先ず、混乱の原因は宇宙線と放射能の混同であった。公害には神経を尖らせていた社内の人々には「宇宙線(=放射能)観測施設」は刺激的であった。また、鉱山関係者の中に神岡町議もいて、このあたりから噂が広がり、神岡町議会にも反対の声が上がる始末となった。しかし、地元である茂住の住民は建設に強く賛成した。建設の決定が遅れて、業を煮やした小柴先生は仮の設計図を持ってこさせる。茶筒型の案を一見しただけで「これでいい。明日から始めてくれ」と言われた。このような東大側の熱意と運動で、遂に三井金属の本社も建設を承認するに至った。建設が承認され、正式な設計が始まったのは81年の年明けであった。栃洞鉱床は、神岡鉱山で最大の鉛・亜鉛の鉱床で、埋蔵量は約1億トンである。一方の茂住は、3千万トン。従って、非常に大雑把な仮定であるが、もし栃洞と茂住の山の容積がほぼ同じであれば、茂住鉱床の方が鉱石のない場所が多い。その上に、茂住鉱床の上には1300mの池の山があることも有利であった。
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スーパーカミオカンデ建設写真 (東京大学宇宙線研究所提供) |
茂住にカミオカンデが建設されることが決定されても、問題点は山積していた。まず、このような建設が鉱山保安法に従って鉱山保安局の担当で行われるのか、労働基準法に従って労働基準局の担当で行われるのかである。要するに、鉱山として鉱石採掘という形式で工事を行うのか、土木工事という形式で工事を行うのかである。それぞれ法的な制限が異なり、従って工事のやり方も異なってくる。また、鉱石採掘となると鉱石に対して税金を払わなければならない。神岡鉱山として最終的には労働基準局の担当の工事として行うことを決定し、その申請が行われた。もう一つの問題点は、池の山付近に富山県と岐阜県の県境が走っていることである。県境を超えた施設を建築することは、例えばカミオカンデへの入り口建設は岐阜県、カミオカンデ本体の建設は富山県に申請しなければならない。このような建設申請はなにかと不具合を生むので、池の山直下から岐阜県側に入ったところを建設位置にすることとしたのである。
しかし、労働基準局の担当の工事として行うと、不便なことも多々ある。例えば、発破に使う火薬は、鉱山の火薬を使用することが出来なくて、別途の購入し保管しなければいけない。また、掘削後に出る岩石は産業廃棄物としての扱いになり、3000m3の岩石は破砕すると5000m3になるため、大量の岩石の廃棄には莫大な費用がかかる。幸いに、茂住の堆積場を充実する必要があったため、坑外に出された岩石は全て堆積場の堰堤等の建設に使われた。この点では費用はかからなかった。
また、建設に当たっての最大の問題点は、直径数十メートル、高さも数十メートルの大空間を長期間安定して使用できる強固な岩盤地区を確保することであった。まず、当然の如く茂住鉱山の池の山三角点直下に目が向けられた。池の山三角点は標高1368mであり、建設の水準となる茂住−500m水準は標高355mであるために、1000mの被りの条件を満たしてる。しかし、池の山三角点直下の地点付近には断層(北20号断層)が走っており、更に断層の下盤には手取層の砂岩や礫岩が互層した区域があったことで建設には適していない。そこで、池の山三角点直下付近で岩盤のしっかりした飛騨片麻岩からなる場所として、現在のカミオカンデ(カムラント)のある岐阜県側の場所が選定された。その場所は東5号鉱床と呼ばれていた小規模な亜鉛鉱体に近いところであったが、主要鉱体から離れていること、また坑道の奥から大量の良質な水が流れ出していることから、この位置にカミオカンデを建設することになった。
小柴先生が神岡鉱山に行って、「ここでいいから、直ぐに建設を始めてくれ」と言ったからといって、このような大規模な空間を確保して3000トンの重量を支える施設の設計は容易でなかった。先ず、被りの岩石の重圧に耐えるために天井をドーム型にして、更に3000トンの重量を長期間、安定して受け止めるために下部もドーム型に設計を行った。しかし、単なる茶筒型で良いとする大学側と意見が合わなかったり、設計には苦労が多かった。有限要素法による検証を行い、最終的に上部はドーム型、下部は茶筒型をもつ空間に決定した。更に、工事費用の問題もあったが、その際には有名な「小柴先生の値切り交渉」の力も十二分に発揮されたようである。
実際の建設に当たって、神岡鉱山の特長が十二分に活かされた。まず、建設現場の水準が標高355mであり、地上レベルであること。これは、採掘された岩石の搬出や、工事機器類の搬入に非常に有利であり、そのためには茂住坑口が使用された。また工事の方法には、大型重機を坑道内に入れてトラックレスマイニングの手法を採用した。茶筒の形に空洞を仕上げるために発破に使われる爆薬も通常の採掘に用いられる強力な爆薬でなく、爆発の時に岩盤に残る歪みを最小にするべく弱い火薬を用いた。掘削後の岩盤の固定にはロックボルト(フランスの新技術であるレジンアンカー)を多数使用した。空間を作るために、4層に分けてトンネルを掘削して、上から順番に崩しつつ空洞を形成する方法で完成させた。地上レベルであることは、湧水や通風処理も容易となる。また、万一3000トンの水が流れ出しても、跡津川坑口に流出するように、茂住坑道と跡津川坑道には1mの高低差を付けてある。以上のような神岡鉱山の特長によって工事期間は著しく短かった。掘削は、1日3交代、24時間体制で行われ、1982年に始まった掘削工事は、僅か1年間で終了した。そして1983年7月から観測が始まった。当時研究者達は茂住坑口からトロッコに乗ってカミオカンデに通ったそうである。当時、トロッコは人が入坑する時間帯以外は鉱石の搬出に使われており、人車のトロッコの運転時間に制限があった。そのために、自由な出入りは出来ず、例えば夜間に装置の故障が発生しても、翌日の朝に人車のトロッコが運転されるまで待たなければならなかった。トロッコ軌道を人が歩くことは安全上鉱山では堅く禁じられていた。
その後、カミオカンデの後継施設として十数倍規模のスーパーカミオカンデが建設された。スーパーカミオカンデも東5号鉱体を避けて、カミオカンデの南側約200mの同じ水準に建設された。その建設では、搬出するべき岩石の量も十数倍であり、トロッコを使っての岩石搬出は効率的でなく、跡津川坑口にあったトロッコを撤去して大型重機の出入りが可能になるように坑道を拡張した。掘削された岩石は跡津川の護岸工事に使用された。その結果、スーパーカミオカンデへのアクセスは自動車で自由になりカミオカンデ時代とは隔世の感がある。スーパーカミオカンデの建設には、カミオカンデ建設のノウハウが活かされたために、建設が大規模であることを除けば、基本的に問題はなかったようである。神岡鉱山における近代的採鉱法としてのトラックレスマイニングや採掘法としてのICB(インディユースト・ブロック・ケービング)などの技術が十二分に活用されたことは言うまでもない。
カミオカンデは、本来は陽子崩壊を観測するために建設されたのであるが、小柴先生によると、陽子が陽電子と中性パイ中間子に崩壊するモードばかりでなく、その後の崩壊モードも観測できて崩壊の分岐比まで測定できるような装置にするように最初から考慮していたそうである。そのためには、開発された直径50cmの光電子倍増管と神岡の水を純化した純水が必要であった。この周到な準備が、太陽ニュートリノや超新星ニュートリノの観測、さらにはニュートリノ振動の測定にまで繋がっていったことを考えると、ノイズフィルターとしての岩盤と純水のための水源こそ、カミオカンデ成功の基盤であったといえる。小柴・須田・戸塚各先生を中心とした、いわばニュートリノ機関が神岡鉱山の技術者と一体になって作り上げた芸術品がカミオカンデである。
予期せぬ成果として、神岡の茂住は閉山後の地下利用という点で画期的な可能性を世に示した。多くの鉱山が閉山後は、完全閉鎖か観光鉱山として生きている現状から見ると、神岡鉱山は学術研究のための鉱山の再活用という点で新しい視野を開いた。これは鉱山側にしてみれば目から鱗が落ちたのではある。
神岡は、ニュートリノ研究のメッカとなったばかりでなく、鉱山の再活用のメッカとなるに違いない。