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シーボルトコレクションおよびそれに関わった人たち

Siebold botanical collections and the collectors

加藤僖重
Nobushige Kato

シーボルトといえば,たいていの日本人は「江戸時代に出島にオランダからやって来た医師で,日本人に西洋式の医術を伝えた人物」であると答えるでしょう.もちろんそれはその通りではあるが,本人がもっとも関心のあったのは博物学であったことはあまり知られていないのではないでしょうか?

シーボルト (Philipp Franz von Siebold,1796年2月17日生まれ,1866年10月18日没)は,ロマンチック街道の起点として知られている南ドイツのヴュルツブルクに生まれ,亡父が教授であったヴュルツブルク大学医学部に学び,卒業後まもなくオランダ海軍の軍医となって1823年(文政6年)7月,日本にやって来たのだった.

彼は6年間日本に滞在しているが,その間それこそ眠る時間があったのであろうか,と思われるほど多方面の資料,例えば陶器類,家具類,大工道具類,浮世絵類等々を蒐集・調査している.しかし,彼がとくに興味を持っていたのは動植物で,植物では標本ばかりでなく,生きたものまでも集め,苦心してオランダに送り出している.

シーボルトのコレクションの多くは現在オランダのライデン市に残されている.ライデン市は「博物館都市」と呼ばれるほど,多数の博物館,美術館,標本館があるが,シーボルトの収集品は種類に従って国立植物学博物館,国立自然史博物館,国立民俗博物館などに分蔵されています(第2章参照).

3年前の2000年,我国のみならずオランダ国でも各地で日本とオランダ国の国際交流四百年を記念した様々な記念行事が行われた(右の図参照).東京大学総合博物館にオランダ国立植物学標本館よりシーボルト・コレクションの中から多数の植物標本が贈られてきたのも日蘭交流四百年記念事業のひとつだった.

ライデンの中の日本
日蘭修好四百年の2000年にライデンで催された「ライデンの中の日本」展のポスター. ライデン市内にて.
 

シーボルトが日本を目指した,あの頃のヨーロッパは産業革命後の好景気の時代で,世界各地の富がヨーロッパに集まってきていたが,日本の産物はオランダが運んでくるわずかな輸入物品だけだった.ドイツ人のシーボルトが当時鎖国中であった神秘的な日本に入るためにはオランダ語を習う必要があった.

日本からの産物である漆器,陶器,浮世絵,お茶,絹織物などは高額な値段で取引されていたが,その他に関心の高かった物として,極東アジアに生育している植物があった.当時、熱帯を中心に世界各地の植物がヨーロッパに運び込まれてきていたが,まだ板ガラスが発明されていなかったので,熱帯植物を植栽することができたのは私的にオランジェリー(つまりオレンジを植えて植栽する建物,左の図・上)を持っている富裕階級だけだった.だからこそ,同じような緯度に位置している日本の植物をヨーロッパに運び込むことができたら,露地植えも可能となり,それは確実に儲かる話だった.

未知の植物をより早く入手し,販売することで生計を立てている人たちのことをプラントハンターというが,シーボルトも見かたによってはその一人とも考えられる.実際彼がヨーロッパに運んだアジサイ類,ギボウシ類,ユリ類など多くの種類が,現在ヨーロッパの庭を彩っている(左の図・中).

現在,シーボルトの植物コレクションはライデン市にある国立植物学標本館,ロシアのサンクト・ベテルブルク市にあるコマロフ植物研究所,ドイツのミュンヘン市にあるバイエルン州立植物標本館(左の図・下)等々の博物館が収蔵しているが,日本国内でも,東京大学総合研究博物館,東京都立大学理学部附属牧野標本館,限られた標本数ではあるが茨城県立自然博物館でシーボルトが収集した植物標本をみることができる.

オランジェリー.
オランジェリー.
移入した植物を植えた庭
シーボルトが移入した植物を植えた庭.
バイエルン州立博物館
バイエルン州立博物館.
 

これらの博物館を実際に訪れ、丹念に標本を調べることで,江戸時代後期の植物を通して行われた日蘭交流の様子を知ることができるはずだ.

ここでは,2000年に日蘭交流四百年を記念してオランダ国立植物学標本館より東京大学総合研究博物館に贈られてきた450点余りの標本,1963年末,ロシアのコマロフ植物研究所のタカジャン博士(A. Takthajan)より牧野標本館の水島正美博士(1923年-1973年)に交換標本として送られてきた2700点余りの標本,また必要に応じてオランダ国立植物学標本館の20,000点余の標本の中から,とくに興味ある標本を紹介する.

ところで,一口にシーボルト・コレクションといっても,もちろん全部の植物標本をシーボルトが採集・作成した訳ではない.興味深いことに実に多くの人たちが作成した標本がその中に含まれていることを注意しておきたい.

すなわち,シーボルト・コレクションとはシーボルトならびにシーボルトの後継者あるいは関係する人々が日本で収集した標本群を総称して呼ぶ名称と理解してよいだろう.その中心となるライデンの国立植物学博物館では第3章で紹介されているように日本植物標本コレクション(The Herbarium Japonicum Generale)と呼ばれている(第3章参照).

 

シーボルト植物コレクションに関わった後継者たち

 次にこのコレクションに関わったシーボルトの後継者といってよい人たちとその標本について紹介してみよう.

 

ビュルガー(Heinrich Burger, 1806年?-1858年)の採集品

ビュルガーは化学の知識を持っており,薬剤師として出島においてシーボルトの研究調査を助けていた.彼の作成した標本は相当数あり,東京大学のコレクションにも多数含まれる.

ビュルガーの標本の中にはタイプ標本となった標本もある.例えばIlex buergeri Miq.(シイモチ)のタイプ標本がオランダ国立植物学標本館にあるが(登録番号904,134-52,右の図・上),このタイプ標本を写した線画と標本の一部が牧野標本館のシーボルト・コレクション中にあることは興味深い(S1266)(右の図・下).

シイモチ 標本の写し
上.ビュルガーが採集したシイモチのタイプ標本(ライデン大学国立植物学博物館蔵).
下.上の標本の写し. 同じ個体から採取されたと考えられる断片標本をともなう(牧野標本館蔵).
 

ピエロ(Jacques Pierot, 1812年-1841年)の採集品.

シーボルトは帰国後にも日本の植物を調べたく,若いフランス系オランダ人の植物学者ピエロを日本に派遣した.しかし実際には途中で客死してしまったため,実際には彼は日本に来ていない.それにもかかわらず,彼が日本で採集したとされる標本がかなりの点数ある.それらはピエロが,バタビアに戻っていたビュルガーの私的に所有していた標本を買ったものである.

彼の筆跡は独特ですぐに見分けることができ,何故かビュルガー自身の標本には遺されていない採集地名が記されていて,それらを見ることでビュルガーがどこで採集したかが判る.通し番号からすると,ピエロの標本数は少なくとも1000点はあるはずだ.東京大学総合研究博物館に贈られてきた標本の中にもクチナシ(登録番号023),メドハギ(113),ガクアジサイ(273)など,ラベルにPierotと記された標本が(左の図・上).牧野標本館にはたった 1点,ヒシ(S427)の標本がある.

ヒシ
ピエロが採集したヒシ(牧野標本館蔵).
 

テキストール(Carl Julius Textor, 1816年-?)の採集品

テキストールはシーボルトがピエローに代わって私費で派遣した植物学者である.出島や日本各地から標本だけでなく,生きた植物を送らせようとしたが,船が沈没して大部分の標本を失ってしまった.そのためシーボルトに大損害を与え,後にはシーボルトと諍いをおこしている.

サツマギク(111),アキノタムラソウ(174,左の図・中)などいくつかの標本が東京大学に贈られてきている.

アキノタムラソウ
テキストールが収集したアキノタムラソウ(東京大学総合研究博物館蔵).
 

モーニケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike,1814年-1887年)の採集品

彼は出島に派遣された医師で,ジャワより効果の高い種痘苗を取り寄せて,日本の天然痘予防に大きな役割を果たしたことでも知られている.ライデンには多数の標本があるが,東京大学に寄贈された標本中にも,ヤブラン( No.126),タヌキマメ(191),カイドウ(308)がある.左の図・下はヤブランの標本である.

ヤブラン
モーニケが採集したヤブラン(東京大学総合研究博物館蔵).
 

シーボルトに植物抄本を提供した日本人

次にシーボルト植物コレクション中に見出された日本人の採集者について簡単に述べておく.なお,これらの標本は文化史あるいは日本の学術研究史の研究上,重要な意味をもつものである.しかし,シーボルトはこれらの標本のかなりの部分を手元に置き留めたため,没後未亡人によりロシアに売却され,コマロフ植物研究所が収蔵するところとなった.しかし,その多くは分類学研究上の標本としては不完全であったため,一部が当時コマロフ植物研究所と標本交換を行っていた都立大学牧野標本館に交換標本として送られてきた.なお,コマロフ植物研究所にはさらに多数の日本人収集の未整理おしば帳などが蔵されている.

 

水谷助六(1795年-1833年)

尾張の博物同好会,嘗百社の会長であった水谷助六は,江戸参府旅行一行に加わっていたシーボルトと尾張国宮(現熱田)で1826年2月21日(西暦 3月29日)に会って多数の動植物標本を贈呈したことがシーボルトの日記に記されている.彼の標本には簡略ながら墨絵やオランダ語の単語をともなったものもある(右図).

オグルマ写生図 オグルマ
水谷助六が採集したオグルマ.
上は助六の写生図と自筆文字(牧野標本館蔵).
 

大河内存真(1796年-1883)作成の標本

嘗百社のマネージャーでもあった大河内存真も師の水谷助六と一緒にシーボルトに会っている.その折りに,彼はシーボルトに島田充親・小野蘭山著『花彙』を贈呈していて,それは現在オランダ国立植物学標本館の貴重図書室に保管されてる.彼は『花彙』を贈呈しただけではなく,各図版に描かれた植物を標本に作成して,それを併せてシーボルトに贈呈していた.この標本にはkwあるいはkwawiと図版番号が記されている.

伊藤圭介(1803年-1901年)作成の標本

伊藤圭介は存真の実弟である.圭介も師の水谷助六,兄の大河内存真とともにシーボルトに会っていますが,その折りシーボルトに長崎に来るようにさかんに誘われ,翌年実際にシーボルトの下に留学している.ライデンには「さく葉帳」がほぼ現状のまま保管されているが,その一部は切り取られた台紙に貼付され日本植物コレクション中に収蔵される.1995年,ライデンを訪れた朝比奈泰彦博士は伊藤圭介採集のハナゴケ標本を膨大な一般標本の中から見つけているが,これは圭介の「さく葉帳」の二十八番目の標本を切取ったものである.彼は1829年(文政12年)に『泰西本草名疏』を著わしてリンネの二十四綱をはじめて日本に紹介している.

彼は後年,東京大学の員外教授となり,日本の植物について研究し,日本での理学博士号第一号を取得している.彼の標本はオランダ国立植物学標本館にはハコネシダ(908,279-411),イヌワラビ(908,323-1456)など150点以上収蔵されている.なお,これとは別に圭介の作成した多数のおしば標本は国立科学博物館植物部門に保管されている.東京大学には圭介が在職中に作成した多数の標本が蔵されている.

熊吉作成の標本

熊吉はシーボルトの身の回りを世話するために雇われた少年であるが,江戸参府旅行1826年9年の旅行にも同行させている.「亥X月Y日」あるいは「亥A月B日 熊吉」と墨筆された短冊をつけた標本があるが,これは亥の年すなわち1827年に熊吉が採集したものである.東京大学には亥年4月23日に採集されたもミゾコウジュの標本(25)がある.

小野蘭山(1729年-1810年)の標本

彼は『本草綱目啓蒙』(全48巻)の著者として知られている当代一流の博物学者であった.牧野標本館にアケボノスミレなどOL,O.L.あるいはOno lansanと小さく台紙に記された標本がある.しかし蘭山はシーボルトが来日したときには既に亡なっており,これらの標本をシーボルトは誰から入手したのか興味を覚える.

桂川甫賢(1797年-1844年)の標本(ミツマタなど)

将軍の侍医であった甫賢は1826年3月7日,津山藩の藩医であった宇田川榕庵(1798年-1846年)と,江戸本石町の長崎屋に滞在していたシーボルトを訪ねている.シーボルトはこの時,甫賢より多数の標本をもらったと記している.牧野標本館には甫賢が作成したミツマタの標本がある(左の図,上・中).

ミツマタの標本 付属文書
桂川甫賢のミツマタの標本と付属文書(牧野標本館蔵).
 

平井海蔵(1809年-1883年)の標本

三河出身の鳴滝塾塾生であった平井海蔵が作成したおしば帖全4冊(左の図・下)はライデンの特別室に保管されるが,それらのいくつかは切り取られ,台紙に貼付け一般標本として収蔵されている.

おしば帖
平井海蔵が作成したおしば帖(ライデン大学国立植物学博物館蔵).
 

美馬順三(1795年-1825)の標本

オランダ語に堪能であった美馬順三は鳴滝塾の塾長だったが,流行病のコレラであっけなく死んでしまい,シーボルトを悲しませた.雲仙岳で採集されたヤマブキショウマの標本が牧野標本館に収蔵される(S0407).

 

岡研介(1799年-1839年)の採集品

周防の医師であった岡研介もオランダ語に秀で,鳴滝塾の塾頭をしていました.彼の標本は目下のところ,ライデンのフノリの標本(910,167-900)(次ページの図・上)しか知られていない.

フノリ
岡研介採集のフノリ(ライデン大学国立植物学博物館蔵).
 

茂伝之進邸に植えられていたネズの標本

長崎奉行所の目付であった茂伝之進邸に植えられていたネズから採取された標本が牧野標本館にある(右の図・下).このネズはシーボルトの前任者のツュンベルク(Carl Peter Thunberg,1743年-1828年)が江戸参府の折り,箱根で採集し伝之進の父親節衛門が植栽したものである.

ネズ
茂伝之進邸に栽植されていたネズの標本(牧野標本館蔵).
 

中山作三郎作成の標本

長崎奉行所の通詞であり,いわゆるシーボルト事件(1829年)の裁判の通訳をしたことで知られている人物である.エドヒガンの標本(牧野標本館S0253)やタマシダ (ライデン大学,908,303-50)が残されている.

以上のような標本の他にも,まだほとんど調べられていない海藻類,地衣類,蘚苔類の標本,果実・種子標本等も多数あることを付記しておく.なお,シーボルト及び彼の後継者ならびに日本人協力者の採集した標本についての詳しい内容については,引用および参考文献に掲載された,加藤(1999),Yamaguchi (ed.) (2003),Yamaguchi and Kato (1998)を参照願いたい.

かとう・のぶしげ 獨協大学外国語学部言語文化学科教授
(Professor, Dokkyo University)

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