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シーボルトと彼の日本植物研究

 
 

大場秀章


 日本ではシーボルトという名前を聞いたことのない人はいないくらい,シーボルトは有名人になっている.江戸時代の日本に近代的な医学を伝えたこと,禁制の地図を持ち出し国外追放になったシーボルト事件のことなどがよく知られている.医者として開業経験もあるシーボルトは,確かに日本人に西洋の医術を伝授したが,彼はこのことだけに情熱を燃やして来日したのではない.国外追放に象徴されるように,彼はオランダ政府から日本の博物とその情報の収集,医学技術の伝授という特殊な任務のために日本に派遣されてきた人物なのである.
「小生は新たに抜擢された駐在官の侍医,かつ自然研究者として日本へまいります.小生の望んだものはうまくゆきました.小生を待つものは死か,それとも幸せな栄誉ある生活か.」
 これは,いまのジャワ島から日本に向けて出発するシーボルトが故国の伯父宛に書いた手紙の一節だが,風だけが頼りであった当時の航海,海賊の出没,厳格な鎖国など,シーボルトの日本への旅行には多くの危険がともなっていた.この手紙は,そうした危険をあえて冒してまでも,シーボルトはこの旅行に期待する何かを抱いていたことを示している.シーボルトが日本に期待したものは何だったのだろうか.


 
シーボルト来日の頃の日本
 シーボルトは2度来日している.2度目の来日は幕末になってのことで,その再来日についても興味深いものがあるが,ここでは最初の来日に焦点を当ててみる.シーボルトが初来日し,滞在したのは江戸時代の文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間である.この時代は化政年間と呼ばれ,江戸時代の文化的な欄熟期のひとつで,伊能忠敬,上田秋成,十返舎一九,小林一茶,歌川豊国などの文化人が活躍した.政治的にも一種の小康状態にあり,健康・医学に対する関心も高かった.

 享保5年(1720)に8代将軍,吉宗は,キリスト教以外のオランダ書の輸入を解禁した.これを契機にオランダを経由して多くの学術書が渡来し,紹介され,さらに少数ではあるが『解体新書』(1774年刊)のように日本語に翻訳されたものもあった.西洋式の医療を行う医師が急増し,蘭方医と呼ばれた.ある意味では,もはや進歩のしようもない漢方医に対して,これまで未知数であった西洋式の医学への関心が吉宗の学術書輸入解禁後に急速に高まりをみせていたのである.

 こうした西洋の学術書が渡来する中で,医学以外の学問に対しても興味を示す人々がいた.当時は中国の影響を受けた天文学,本草学などの学術研究が盛んに行われていて,一部の人たちは西洋の学術にも興味を示した.日本全体に蘭学を享受しようとする気運,それに素地・環境が整っていたとみることができる.しかし,吉宗以降に突然学術への関心が起きたわけではない.蘭学が急速に広まったのはそれなりの文化的環境の形成があったからである.植物学についていうと,この当時の研究は本草学に付随するものであったが,その中心的役割を果たしていたのが,中国の明時代に李時珍が著した『本草綱目』である.『本草綱目』を解説し,かつ類似する日本の植物との異同を論じた名著『本草綱目啓蒙』の著者であ小野蘭山は,文化6年(1809)に81歳で亡くなった.蘭山は日本での本草学を完成させた人物であり,蘭山の弟子や彼の影響を受けた本草家はこの化政年間に多数活躍していた.日本で最初の植物図鑑といってよい岩崎潅園の『本草図譜』が完成したのもこの時代である.潅園も蘭山の学閥に連なる本草学者のひとりであった.蘭学者,宇田川榕菴は,シーボルトが来日する直前の文政5年(1822)に『菩多尼詞経』を著した.これは経本ではない.お経のかたちを借りて植物学(菩多尼詞=botanica)を概説した,日本で最初の植物学の教科書である.榕菴のこの著作が示すように,当時の知識人の間には医学のような実学に止まらず,純粋科学に対する興味も高まっていたのである.


青年時代のシーボルトの肖像
青年時代のシーボルトの肖像.Krijttekening van J.Schmeller画.ワイマールのGoetheund Schiller Museum 所蔵.
シーボルト来日の頃のオランダ  
 シーボルトが来日した1823(文政6)年前後のヨーロッパはたいへんな激動期であった.オランダは,フランス革命とそれに続くナポレオンの台頭の時代,フランスさらにはイギリスに占領され,一時はオランダ国旗が掲揚されていたのは長崎の出島だけになったこともあった.

 独立を回復したオランダは,1814年に日本との貿易を中国とともに独占していたオランダ領東インドの統治権をイギリスから売買の形式で譲り受けた.国家財政の立て直しを図るため,貿易の純益がもっとも大きかった日本との関係を一層深めることに力をいれることを政策としたのである.その一環として,日本の歴史,国土,社会制度,物産などについての総合的な自然科学的調査を行う方針が検討された.これは,対日貿易の振興に向けての1種の対策であったが,同時にオランダに対する日本側の受けを良くするための日本への文化的貢献もその視野に入れてのものだった.そこで,オランダは日本でとくに歓迎される医学と博物学の振興に力を入れる政策を打ち出した.これは,すでに指摘されているようにその当時の日本医学は漢方主流で,ヨーロッパの新しい医学の知識や技術の移入が遅れていること,また,こうした最新の医学知識・技術の教授が渇望されていたこと,への的確な対応である.

 この医学と博物学の振興の担い手として,出島のオランダ商館に派遣される医師に白羽の矢が当てられた.それまでのオランダ商館医はせいぜい10人ほどの同国人の健康管理をしていればよい閑職だった.それが国家の施策にもとづく特別な指令のもとに行動する特殊な職へと転じたのである.この目的を遂行する医官として来日した人物こそが,シーボルトである.なぜ,オランダ人でもないシーボルトがこの特別な職の適任者として選ばれたのか.まず彼の生い立ちを追ってみたい.


シーボルトの生涯
 シーボルト(Philipp Franz[Balthasar]von Siebold)が生まれたのは,ドイツの地方都市ヴュルツブルクである.ライン川の一支流マイン川の浅瀬に発達したこの町は,バイエルン州北西部に古くから都市として栄え,フランケン地方の文化の中心地として,また南北と東西に走る中世以来の重要な通商路の交差する地点でもあるため商業も発展していた.とくにこの一帯は南部へ向かう道筋がイタリアとの通商路として栄え,いまでも中世の面影を残す町が連なり日本ではロマンチック街道と呼ばれている.また,ヴュルツブルクには司教座が置かれ,司教を領主とするカトリック文化の中心地でもあった.シーボルトはここで1796(寛政8)年に生まれ,カトリック教徒として,地元の大聖堂で洗礼を受けた.

 シーボルト家は中部ドイツ出身の名門で,多くに学才が認められ,とくに医者や医学教授を多く輩出している.彼の家系も祖父の代から貴族に列せられていた名門で,父クリストフはヴュルツブルクの大学教授で,ユーリウス病院の第一医師であった.しかし,シーボルトは2歳のとき,父を失った.母,アポローニアは9歳になった彼を伴い,市の南西の郊外に移り,13歳でヴュルツブルクの高等学校に入学するまでシーボルトはこの地で過した.卒業と同時に大学に進み医学を学んだ.ヴュルツブルクでは,父の友人でもあり博物学に造詣の深かった,解剖学と生理学のイグナーツ・デリンガー教授の家に下宿した.そして1820年に優秀な成績で卒業すると,母が住み,彼自身も幼児を過ごしたハイディグスフェルトで医者として開業した.


マリーエンベルク城からの遠望
シーボルトが生まれたドイツ中南部の町,ヴュルツブルク.市の西方にあるマリーエンベルク城からの遠望.
オランダ領東インド陸軍勤務  
 シーボルトは,自分が名門の貴族の出だという誇りと自尊心が強かったと言われている.それが彼をして一生を町の開業医として終わることを許さなかったのだろう.このシーボルトの性格をよく知っていた伯父は,一族の旧友で現在オランダ陸海軍軍医総監兼国王ウィレム一世侍医でもあるフランツ・ヨゼフ・ハルパウル(Franz Joseph Harbaur)にシーボルトの就職について斡旋を依頼した.オランダ領東インド陸軍勤務の外科軍医少佐という職をハルパウルはシーボルトに斡旋し,ここにシーボルトとオランダとの関係が芽生えることになる.

 ヴュルツブルクを治めていたバイエルン国王は,彼の名誉ある家系に免じて,シーボルトの他国勤務に対して国籍変更なしに学術旅行目的の旅券を交付した.赴任前にヨーロッパの学会との緊密な関係をもつことを望んでいたシーボルトは,1822年7月にヴュルツブルクを出発すると,諸都市を訪ね,いくつものアカデミーや学会の会員資格を手に入れた.なかでもシーボルトがとくに望んだのは,当時もっとも名高かった帝室カール・レオポルト自然科学者アカデミーへの入会であり,植物学者ネース・フォン・エーゼンベック(Christian Gottfried Nees von Esenbeck)の援助によりこれを許可されている.エーゼンベックとシーボルトの親密な関係はその後も続く.シーボルトは日本からもエーゼンベックに手紙を送っている.また,シーボルト自身による唯一の植物分類学の論文である日本のアジサイ属についての論文(1829年)を発表したのはこの学会誌であった.


特別の任務を帯びて日本に派遣される医師
 1822年9月にオランダのロッテルダムを出航した乗船「ヨンゲ・アドリアナ」(Jonge Adriana)号はおよそ5ヶ月でジャワ島のバタヴィアに到着し,ここでシーボルトは砲兵連隊の軍医に配属された.しかし,彼はすぐに総督のファン・デル・カペレン男爵(Goderd Alexander Gerard Philip van der Capellen)の目に止まる.カペレンよりシーボルトはバタヴィア芸術科学協会員に任命され,前に述べた特別の任務を担って日本に派遣させられる医師に抜擢された.

 ところで,シーボルトについてのこれまでの研究では,彼が自らの意思で日本に来るために東インド勤務を選択したことを証拠付ける資料は見つかっていない.現在の知見では,カペレンの知遇を得たことが,後に日本学の始祖となり,日本の植物学と日本植物の園芸化とヨーロッパヘの紹介に大なる業績を残したシーボルト誕生の契機となったとみるべきであろう.カペレンはシーボルトに日本でのあらゆる種類の学術調査の権限を与え,総督府がこれに要する経費を負担すること,収集した資料の所有権はオランダ政府にあることについての契約をシーボルトとの間に結んだ.「この国における自然科学的調査の使命を帯びた外科少佐ドクトルフォン・シーボルト」(De chirurgijn Majoor,belast met het naturkundig onderzoek in dit Rijk. Dr. von Siebold)という,シーボルトが日本で用いた肩書きは,この契約にもとづく半ば公式のものであり,総督府にこの肩書きで記された報告類が多数残っている.

 シーボルトはどうずれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え,それを実行に移した,と考えられる.西洋医学の知識と技術は最大の武器になったのはいうまでもない.これは東インド会社も望んだことである.日本では西洋医学(蘭方)への関心が高まっていたのである.彼はそれまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで日本人との交流を深め,彼らから資料や情報を得ることを考えた.これは,行動がきびしく制約された日本で,必要かつ質の高い資料・情報をうるのにもっとも効果的な方法であっただろう.こうした蘭学の伝授が暗黙下に認められることになったのは,シーボルト自身というより,このシーボルトの使命を認識していた商館長ステューレル(Johann Wilhem de Sturler)とその前任者のブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)の努力に負うところが大きい.とくに,シーボルトがオランダ人に居留が義務付けられていた出島の外にある鳴滝に私塾を設けることができたのは特例中の特例であった.こうしてシーボルトは彼に与えられた目的を果たすべく懸命に務めた.こうした成果の一部は彼の著した『日本』に結集しているといってよい.また,独身だったシーボルトは遊女の其扇(楠本滝)を妻として待遇し,女児稲を授かった.


植物についての情報収集
 シーボルトが『フロラ・ヤポニカ』中にフランス語で書いた解説は,植物の自生地,分布,生育地の状況,栽培状況,学名の由来,日本名,その由来,利用法,薬理,処方など多岐にわたっている.シーボルトがいかに多種多様の情報を収集していたかを如実に示している.シーボルトは長崎やその近郊で実際に観察し見聞したこと,また江戸参府随行中に道中の至る所で自生あるいは栽培されていた植物に彼の目が注がれていたことが判る.当然といえば当然だが,シーボルトは日本の植物を研究するに先立ち,特にケンペルとツュンベルクの著作は完壁に自分のものとしている.覚え書ではケンペルとツュンベルクの記述と自己の観察からえた情報が一致しない場合,彼らの記述に言及されることが多い.齟齬のないときには彼らの書いたことにまったく触れていないので,一読するとケンペル,ツュンベルクの誤りをただあげつらっているような印象を受ける.

 シーボルトは本草学者の水谷豊文,弟子の伊藤圭介や大河内存真,さらに宇田川榕菴,桂川甫賢などを「日本の植物学者」と記している.日本人学者との接触を通じてシーボルトがえた情報は,彼の日本植物についての理解を深める上で重要だった.中でも宇田川榕菴と桂川甫賢の情報は重要と見なされた.サンクト・ペテルブルクにあるシーボルト植物画コレクションの多くに,宇田川榕菴のイニシャルであるW. J. が残されるが,これは榕菴が認めたことを意味する一種のサインだろう.

 シーボルトの「鳴滝塾」に集い来た塾生たちは情報収集に多大の貢献をした.標本を集めるだけでなく,シーボルトが投げた課題についての報告をシーボルトに提出している.シーボルトは居ながらにして,日本の各地の植物に関わる情報を集めることができた.覚え書に四国や九州南部からの情報が多いことに驚かされるが,これらの地方からの入門者が多かったためか.

 日本の植物をヨーロッパに移入し,彼地の庭園を豊かなものとし,また林業の活性を図ろうとしたシーボルトは,緯度がオランダやドイツにより近い,本州東北部や北海道の植物にも強い関心を寄せていた.シーボルト事件に発展した蝦夷の地図の収集をその延長線上にあると解することはできないが,ともかく蝦夷地などシーボルトの日本北方に寄せる関心は生半可なものではなかった.この蝦夷地,北方の植物の情報の大半は最上徳内から得たものである.『フロラ・ヤポニカ』ではウラジロモミのところで最上徳内の名前をあげ,情報と資料提供に謝している.最上徳内によったと思われる記述は,カラマツやモミなど随所に見られる.

 このように『フロラ・ヤポニカ』のシーボルト自身による覚え書こそはシーボルトが日々折々のあらゆる機会に書き留めた日本植物についての総決算である.もっとも『フロラ・ヤポニカ』として出版された植物の種数は150に満たない.チャノキなど『日本』に詳細に記載された植物もあるが,未発表のまま残されたメモやノートは相当の量にのぼるであろう.遠からずこうした資料がすべて日の目を見る機会の訪れることを願わずにはいられない.繰り返すが,シーボルトはすべてを見,そしてそのすべてをメモした.その労力なしには『フロラ・ヤポニカ』の覚え書は生まれなかっただろう.


テイカカズラの標本
テイカカズラの標本(東京大学総合研究博物館蔵).この標本はシーボルトの2度目の来日時に採集された.未整理のまま放置され,没後に未亡人によりロシアに売却された.ロシアのコマロフ植物研究所との交換による.
日本の植物への関心
 シーボルトは日本の植物について来日以降ずっと大きな関心を抱き続けていた.総督府にも研究に必要な人材の派遣を要求している.カメラの未発達な時代である.植物の生きた姿を記録する画家も必要だった.この目的のためにドゥ・ヴィルヌーヴ(Carl Hubert de Villeneuve)が来日するが,シーボルトは独自に長崎絵師の川原慶賀を見出し,慶賀はシーボルトが要求するレベルに達する植物の素描画を千点近く描き彼の要求に応えている.余談だが,シーボルトは慶賀に描かせた日本植物の写生画を最後まで手許に残した.どうしてだろう.これは日本の植物への終生変ることなく続いた深い関心によるのだろうか.

 帰国後,シーボルトは『日本』とともに,後述するように日本の植物についての研究を集大成した『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica,『日本植物誌』ともいう)の出版にたいへんな努力を払っている.だが,シーボルト自身は帰国後に植物学者として身を固めようと考えたとは思えない.分類学的な研究は,ほとんど全面的にミュンヘン大学教授のツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini)に依頼した.シーボルトはヨーロッパ中の宮廷を廻り出版に要する資金調達にも奔走している.シーボルトにこれほどの情熱を傾けさせた日本の植物の魅力は何だったのか.もちろん植物を調査することも特別な任務のひとつではあったが,シーボルトが植物へ向けた情熱は任務とか義務でする仕事の域をはるかに超えたものであったと私には思われる.シーボルトを虜にした日本植物の魅力とは,それが園芸植物として役立つという日本植物の資源性ならびに日本植物をもってヨーロッパの園芸植物や庭園の大改良ができるという事業的野心である.


終生変わらぬ日本の植物への関心
ライデン
ライデンは大西洋に近い低地が続き,縦横に運河が通じている.
ラッペンブルク運河
ライデン市内ラッペンブルク運河に沿って並ぶ建物.この一角にシーボルトハウスがある.
 シーボルトは帰国後,彼の日本での収集品のほとんどが保管されることになったオランダのライデンに住居を構えた.これは第一に日本での調査の成果を出版するためであった.植物標本についても大部分が,ライデンの王立植物標本館(現在の国立植物学博物館ライデン大学分館)に収蔵されたが,一部の重複標本は後にボゴール植物園,ブリュッセル国立植物標本館,ケンブリッジ大学,パリの自然史博物館などに送られた.また,ツッカリーニが『フロラ・ヤポニカ』の研究を行ったミュンヘンにもシーボルトの標本が一部保管されている.

 来日中に植物学と園芸が進んだ日本の状況を目の当たりにしたシーボルトは,日本の植物を導入してヨーロッパの園芸を豊かなものにする衝動に駆られていた.園芸的価値のある野生植物が少なかったヨーロッパでは,そもそも露地植えできる園芸植物の数は限られていたためである.シーボルトは日本の植物を園芸へ導入するためにこれをヨーロッパの環境に馴らす作業を開始する.その作業の場となったのが,ライデン近くのライダードルフに設けた馴化植物園である.また,日本それに中国の植物を導入するために「園芸振興協会」を設立し,さらに営利目的の「シーボルト商会」を設立した.

 1844年にやっとシーボルトが日本から持ち帰った植物を掲載した販売用の『有用植物リスト』ができ,球根や苗,種子が販売に供せられた.このリストに載せた多くの日本産植物が単に魅力的であるだけでなく,多くがヨーロッパにも多少とも類似した類縁のある植物があったので,ヨーロッパの人々は大いに驚いた.筆頭はカノコユリで,その球根は同じ重さの銀と取引きされたといわれている.テッポウユリやスカシユリもこのときシーボルトによって初めてヨーロッパに紹介された.また,このときに導入されたギボウシ類などの多数の日本植物が,後にヨーロッパでは欠かせない園芸植物になったのである.


『フロラ・ヤポニカ』出版までの道のり
シーボルトの旧居
ライデン市内ラッペンブルク運河沿いにあるシーボルトの旧居.いまシーボルトハウスとしてシーボルトの記念館となっている.
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 シーボルトの3部作とされる『日本』,『ファウナ・ヤポニカ』,『フロラ・ヤポニカ』の中で,シーボルトがもっとも情熱を傾け出版にこぎつけたのは,『フロラ・ヤポニカ』である.当時は色刷りの図版をともなう大型の図譜の出版の全盛期であり,多数の博物図譜が刊行されていた.

 シーボルトはこれまでに行われてきた日本の植物の研究史を正しく理解していた.つまり,彼自身が日本の植物を最初に研究した学者としての名声をうることはできないことである.しかも,いずれもオランダ商館医として来日したケンペルとツュンベルクは,それぞれのフロラ・ヤポニカを出版していた.だからシーボルトは二番煎じではない,斬新な彼のフロラ・ヤポニカの刊行を目論んだにちがいない.これを達成するため,シーボルトは,前書にはない詳細な研究に加え,図版をもって日本の植物のリアルな姿を伝えることとした.そのために必要なことは,ひとつには国際的にも評価される専門家の助力をえることであり,その当時の最高水準の植物学的にも質の高い色刷り図版を制作することだと理解した.

 帰国したシーボルトは彼の来日中に起きた植物学の驚くべき進歩を知り,自分一人では画期的なフロラをまとめるのが不可能なことを悟る.シーボルトが同郷のツッカリーニに共同研究を託した意図の中には,自分の希望に沿って研究してくれることを期待する考えがあったと,私は思う.シーボルトの3部作はいずれもが自費による出版だった.ふつうの印刷さえ高価な当時,シーボルトが考えたような多数の色刷りの豪華な図版を伴う大形本の出版にはばく大な経費が必要となる.その資金集めにシーボルトが考えたのが,見本をもってヨーロッパの宮廷や貴族,商人の間を廻り,彼の『フロラ・ヤポニカ』の予約を募ることだった.実際シーボルトはサンクト・ペテルブルク,ベルリン,ウィーンなどを訪問した.

 しかし,シーボルトは彼の『フロラ・ヤポニカ』を完成させることなく1866年にミュンヘンで亡くなった.70歳であった.彼の手元に残された慶賀らが描いたおびただしい数の日本植物の素描画がシーボルトの壮大なフロラの構想を想い起させてくれる.




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