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シーボルトと彼の日本植物研究


あとがき・付録

大場秀章


あとがき
 日本へ行くに当たってシーボルト自身が期待したものは何だったのだろう.このことについては,私は,ひとつがヨーロッパには未知の国に等しい日本を探検することだったと思っている.だが,シーボルトは終生変ることなく日本の植物への関心を抱き続けた.予想以上に日本の植物は素晴らしいものであり,シーボルトを虜にした.これを研究すること,園芸植物としての資源性を宣伝すること,そしてそれをもってヨーロッパの園芸植物と庭園を大改良するという野心が彼の2つめの期待であり,また,帰国後の心の支えではなかったか.



付録
『フロラ・ヤポニカ』とシーボルトの協力者たち


『フロラ・ヤポニカ』
 シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』は2巻に分けて出版された.表題は次の通りである.

[巻1]Flora Japonica sive Plantae, quas in imperio japonico collegit, descripsit, ex parte in ipsis locis pingendas curavit Dr. Ph. Fr. de Siebold, (一部省略).Sectio prima continens plantas ornatui vel usui inservientes. Digessit Dr. J. G. Zuccarini,(一部省略).Centuria prima. Lugduni Batavorum apud auctorem 1835.

「日本植物誌または日本帝国で採集し,記載し,一部は現地にて描かせた植物Ph. Fr. ド・シーボルト博士(一部省略).第1部.観賞植物あるいは有用植物からなる.J. G. ツッカリーニ博士(一部省略)記述最初の100図版.ライデン,著者による出版1835年.」

[巻2]Flora Japonica sive Plantae,quas in imperio japonico collegit,descripsit,ex parte in ipsis locis pingendas curavit Dr. Ph. Fr. de Siebold.Regis auspiciis edita.Sectio prima continens plantas ornatui vel usui inservientes.Digessit Dr. J. G. Zuccarini.Volumen secundum,ab auctoribus inchoatum relictum ad finem perduxit F. A. Guil. Miquel. Lugduni Batavorum, in horto Sieboldiano Acclimatationis dicto. 1870.

「日本植物誌(以下同じ).Ph.Fr.ド・シーボルト博士 王の後援のもとに編纂.第1部観賞植物あるいは有用植物からなるJ. G. ツッカリーニ博士記述.第2巻,遺稿を補充し,校訂して続刊,F. A. G. ミクエル.ライデン,シーボルト気候馴化植物園.1870年.」

 日本ではシーボルトの『フロラ・ヤポニカ』と通称されている著書は,正しくはシーボルトとツッカリーニの『フロラ・ヤポニカ』と呼ぶべきである.表題にはこの著書が観賞植物あるいは有用植物だけからなる,日本植物誌の一部であると明記されている.continensは動詞contineoに由来する現在分詞で,含むとか結合するという意味であるが,他の植物に混って有用植物を含むという意味ではない.観賞・有用(になると思われた)植物だけを第1部に集めたという意味が強い.第1部というからには当然第2部あるいはさらに第3部なども構想されたにちがいない.サンクト・ペテルブルクに保管される植物画コレクションの中には,チャノキ,イタドリなど刊行を待つばかりの版下のかたちの原図がかなりある.このことからも続刊が予定されていたことが判る.

 巻1と巻2の表題を見比べるといろいろな相違箇所がある.表題に記された1835と1870年のうち,前者は第1巻の最初の分冊の刊行年,後者は最終分冊の刊行年である.すなわち,35年の歳月がこの2つの表題の間を経過している.しかもシーボルトはその間の1866年に他界している.巻1は著者による出版と書いてある.巻2はおそらくミクエルの手になると思われるが,シーボルトの死後ライデンにあったシーボルト気候馴化植物園がオランダ国王の援助を得て出版したものである.巻1の‘著者による出版’の著者とは誰か.apud auctoremのauctoremは単数で記されているので,シーボルト以外には考えられない.

 巻2のVolumen secundum以下の部分はシーボルトとツッカリーニの遺稿を整理してミクエルがあたかもすべてを出版したようにもとれるが,そうではない.ミクエルがその出版に手を貸したのは巻2の本文45ページから89ページにわたる第6から第10分冊と,第137図版を除く第128図版から第150図版である.このことについては後で再び述べることにする.


『フロラ・ヤポニカ』の今日的意義

 『フロラ・ヤポニカ』に掲載された図版は合計150である.本文は巻1が193ページ,巻2は89ページで合計で282ページに及ぶ.本文は,ツッカリーニおよび一部はミクエルによる分類学的所見及びシーボルトによる原産国日本での生育場所,利用などについての記述からなる.前者はラテン語,後者はフランス語で書かれている.ラテン語による記述は当時の学問常識だが,一般に関心がもたれそうな部分をフランス語で記しているのは広い範囲の読者層を得るという,後述の経済的事情も関係しているようだ.

 本書の今日的意義を3つの側面,すなわち,植物学,民俗植物学・植物文化史,そして植物画(ボタニカルアート),から検討してみよう.


Siebold・Zuccarri著『Flora Japonica』の表紙
Siebold・Zuccarri著『Flora Japonica』の表紙.
『フロラ・ヤポニカ』の植物学的意義
 著者の意図は植物学者や園芸家の関心を引く観賞植物あるいは有用植物を『フロラ・ヤポニカ』で紹介することであった.当時,日本の植物は未知数であり,しかも精密な美図を付けての紹介であったから,目的は十二分に達成されたといえる.必ずしも潤沢とはいえない経費の中でシーボルトは出版経費を切り詰めたとは思えない.むしろシーボルトがあらゆる犠牲を払って,この『フロラ・ヤポニカ』の完成に貢献したことは大いに評価されるべきである.

 シーボルトらの研究によって日本植物の研究水準は,一気に当時の欧米の水準に引上げられた.現代に直結する出発点がこの『フロラ・ヤポニカ』であるといってよい.『フロラ・ヤポニカ』で数多くの新種が発表されたばかりでなく,Stachyurus(キブシ属),Corylopsis(トサミズキ属),Schizophragma(イワガラミ属)など,新しい属の設立も提唱している.余談だが,Paulownia(キリ属)はシーボルトが『フロラ・ヤポニカ』を献呈したパウロウナ公妃に因む.公妃とはロシアの女帝エカテリーナ二世の孫娘で,オランダ国王ウィレム二世の皇后となったアンナ・パウロウナ大公女で,知性的との評価が高かった.シーボルトは,日本の高貴な家柄の紋章に用いられていることを十分に理解したうえで,パウロウニア・インペリアリス(Paulownia imperialis)として公妃にキリの学名を献呈した.

 本書の植物学的記述をみると驚くほど分析的で,それを基礎に記載が行われていることが判る.その記述には今日から見ても誤りが少ない.新属の記載では,その類縁関係が考察されているが,多くの場合今日から見ても正しいと判断される結論が下されている.先のキブシ属,さらにはコウヤマキ属(Sciadopitys),パイカアマチャ属(Platycrater),クサアジサイ属(Cardiandra)などは,当時の植物学としては画期的な分析をもとに新属として提唱されている.『フロラ・ヤポニカ』で正式に種として発表された植物は多数にのぼる.新たに記載された新植物でも,後に異名とされたものはたいへん少ない.ただ,今日とは異なる命名規約によっているので,現行の国際植物命名規約によってのみシーボルトらの学名を判断してはならない.

 ウツギの学名Deutzia crenata Siebold & Zucc.のように,学名の命名者によくみられるSiebold & Zucc. (なお古い文献にはSieb. & Zucc. と記されることが多い)は,学名表記に用いるシーボルトとツッカリーニの省略形である.ただし,Siebold & Zucc. とある学名,すなわちシーボルトとツッカリーニが命名した学名は,全部この『フロラ・ヤポニカ』で正式に発表されたものではない.バイエルンの自然科学学会紀要に1845年と1846年にツッカリーニと共著で発表した,『Florae japonicae familiae naturales』(日本植物誌分類大綱)や,それに先立っ1843年に,同じ紀要に発表した,『Plantarum,quas in Japonia collegit Dr. Ph. Fr. de Siebold genera nova』(シーボルト博士日本採集新属植物)にも共著で数多くの新植物を発表しているからだ.

 『フロラ・ヤポニカ』でツッカリーニを共著者とする部分は,第2巻第5分冊で終わっている.この刊行年は1844年だから,上記の1845年と1846年の論文はシーボルトとツッカリーニの共同研究としては最後の著作ともなっている.ツッカリーニは1848年に他界してしまう.『フロラ・ヤポニカ』の第5分冊刊行後にこれらの著作が『フロラ・ヤポニカ』とは別個にまとめられ,バイエルンの学会紀要に発表されることになったいきさつは興味深い.『フロラ・ヤポニカ』を巡り,シーボルトとライデン国立植物標本館との間に何らかの確執があったことが想像される.これに関連してティッセが本冊子3章で述べているミクエルの日本植物研究の経緯は,日本植物の研究を巡るオランダ,ロシア,アメリカ等の間にあった競争関係(これは本冊子6章参照)を具体的に示すものとして興味深い.

 川原慶賀などが実物から描いた下絵が『フロラ・ヤポニカ』の作図では参考にされている.また,それらに用いられた標本も多くの場合保管されているが,最近山口隆男と加藤僖重によりいくつかのケースについて具体的に検討されている.

 ところで学名というものには必ずタイプが伴う.シーボルトらが命名した植物と,ツュンベルクなどにより既に命名された植物,あるいは日本以外の地域から記載された関連植物との異同を考察するには,タイプとされる標本の正体が何かが問題となる.それによって分類学上の結論が異なることがありうるからである.シーボルトの時代はまだタイプ法が確立していなかった.シーボルトとツッカリーニは当時の慣習によりタイプを指定することなく新種の記載を行った.このような場合には後の研究者がタイプを選定しなければならない.これは,日本の植物相を集大成する過程でこれは避けて通れない,将来に残された課題である.この意味では,『フロラ・ヤポニカ』は単なる過去のすぐれた文献ではなく,現代の研究にも重要な関わりを有している.


キリ.川原慶賀画
キリ.川原慶賀画.シーボルト・ツッカリーニの『フロラ・ヤポニカ』の原画となった.
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アンナ・パウロウナ大公女
アンナ・パウロウナ大公女.
『フロラ・ヤポニカ』植物文化史的意義

 すでに述べたようにシーボルトは,日本植物の海外への紹介と西洋の植物学の日本への紹介に貢献した.後者は『フロラ・ヤポニカ』と直接関係をもたないが,シーボルトが西洋の植物学を日本人に伝える過程で水谷豊文(助六),宇田川榕菴ら日本の学者からえた資料・情報も『フロラ・ヤポニカ』執筆に駆使されている.このことは,本文を読めば明らかである.

 美図を伴ったシーボルトの日本産植物のヨーロッパヘの紹介は,各国に大きな影響を及ぼした.シーボルト自身も日本植物の販売カタログを配布して,流布に務めた.もっともこれは,『フロラ・ヤポニカ』出版の必要経費の一部とすることや,その販路を開くことのためにも,より大きな意義があったと考えられる.

 『フロラ・ヤポニカ』の本文は,ラテン語による純粋に植物学的な記述とフランス語による利用や日本での生育地の覚え書からなるが,後者はすべてシーボルトの手によるものと思われる.ここにはシーボルトの並々ならぬ蘊蓄が投影されている.文政年間という限られた時代ではあれ,当時の一般の人々の個々の植物についての知識や利用法などは,どれをとってもかけがえのない民俗植物学,植物文化史上の貴重な記録である.

 シーボルトの記録した和名には今日とは異なるものがある.それが方言名としてのみ知られていることもあるが,『フロラ・ヤポニカ』以外にはまったく記録がない場合もある.アジサイはシーボルトと関係深い植物だが,アジサイという和名は,今日のガクアジサイを指していたらしい.シーボルトが装飾花のみをつける今日の「アジサイ」に残した和名は,「オタクサ」だけで,ガクアジサイが当時アジサイと呼ばれていたらしい.これは本当だろうか.「名は実の賓」では済まされない問題を含んでいる.


ヒノキ.図版の製版用原図
ヒノキ.『フロラ・ヤポニカ』に用いた図版の製版用原図.K. F. M. Veithによるものか.
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ヒノキ
ヒノキ.『フロラ・ヤポニカ』より.
『フロラ・ヤポニカ』の植物画としての意義
 『フロラ・ヤポニカ』は植物画史上にも残る著作である.それは本書が世界で最初の日本植物の本格的な植物画集であることによる.本書以前にもケンペルやツュンベルクによる図譜が出版されているが,学問的には価値があっても大方の評価を得るには至らなかった.『フロラ・ヤポニカ』の図版は第85図版から93図版,99図版から150図版,その他部を除き,画家と製版者の名が明記されている.画家として最も多数を描いたのはSebastian Minsingerである.その他,Victor Kaltdorff,H. Popp,J. Unger,F. Veith,de Villeneuveの名がある.製版はWilhelm Siegristによるものが多い.Ungerは自身の画作の製版もしている.

 ここに名を挙げた画家や製版者についての情報は少ない.Minsingerはレーデボール(Carl Friedrich von Ledebour,1785-1851年)の4巻からなる『アルタイ植物誌』(Flora Altaica,1829−1833年),マルチウス(Karl Friedrich Philipp von Martius,1794-1868年)の15巻130分冊20733ページ,3811図版からなる大作『ブラジル植物誌』(Flora Brasiliensis,1840-1906年)の図版の制作にも携っており,ドイツばかりでなく,ヨーロッパにおける当代一流の植物画家のひとりであった.また,Minsingerはツッカリーニの出版した『落葉状態におけるドイツ産木本植物の特徴』(Charakteristik der deutschen Holzgewachse im Blattlosen Zustande,2巻本,1829年,1831年)に合計18の図版を描いている.これは『フロラ・ヤポニカ』出版開始に先立つ6年前で,ツッカリーニからは贔屓にされた画家といえよう.

 『フロラ・ヤポニカ』の図版は出版当時から高い賞賛を博した.『フロラ・ヤポニカ』の最初の10図版が出版された1835年代は,フランスではルドゥテが晩年の傑作『名花選』をその2年前の1833年に出版していたし,イギリスではカーチスの始めたボタニカル・マガジンがW. J. フッカーの手で新シリーズとなり,著名な画家で製版師のウォルター・フィッチの時代である.まさに『フロラ・ヤポニカ』は植物画の全盛時代に出版され,しかもトップクラスの著作と認められていた.

 その植物画は何よりも植物学的正確さにおいて優れていたことはもちろんだが,シーボルトが生きた状態で描かせた素描画にもとづく写実性が評価された.こうしたリアリティは標本の写生だけでは得られないものである.素描画の中では川原慶賀(登与助)など,日本人絵師に依頼して描かせたものがとくに役立った.日本人絵師にとって日本の植物は日頃から馴れ親しんでいるだけに,核心に迫る素描画を描くことができた.だが,『フロラ・ヤポニカ』の植物画の一部に,部分部分のリアリティーに比べて,全形図の構図や自然さが劣ることがある.これは素描画から原画を作制する段階で,原画を描いた画家たちの芸術性あるいは画工職人としての恣意によると思われる.

 慶賀ら日本人絵師の画は,葉は重なり合い,花もそのかたちを植物学的に見るには不向きな位置から描かれているなど,技法の訓練を受けたヨーロッパの製版画家には稚拙に思われたのであろう.写生画としては優れるが,当時の植物画の基準や型に合致していなかったため,そのままでは植物画として用いることはできなかったのであろう.

 手彩色による有色化は,当時のイギリスとドイツ各地で広く行われた手法である.『フロラ・ヤポニカ』の植物画には,ルドゥテのスティップル法やバンクスの描かせた銅版彫刻による原色図と異なり,彩色のために黒い線による縁どりがなされている.つまり輪郭線のある植物画になっている.

 『フロラ・ヤポニカ』の最初の10図が刊行された1835年は,日本の天保6年にあたる.シーボルトとも面識のある岩崎潅園は,天保元年(1830)に『本草図譜』の最初の4冊(巻5〜8)を刊行した.潅園自身は絵心にすぐれていた.狩野派などの洗練された日本画とは異なるが,彼は個々の植物の特質をよくつかみ,またウエインマンの図譜などから見よう見まねで得た西洋の植物画のもつ構図法なども取り入れ,独特の画風を確立したのである.絵心では,『本草図譜』も『フロラ・ヤポニカ』と比べてさほど遜色ないが,植物の細部にわたる観察に欠け,葉の枝へのつき方,配列,花序など,肉眼で見える部分の描き方にさえあいまいな点が多々あり,植物画としては明らかに劣っている.

 1835年から21年経た安政3年(1856)に飯沼慾斎の『草木図説』の刊行が始まる.これは潅園の『本草図譜』と並び,高い評価を受けている著作であるが,川原慶賀らがシーボルトを介して習熟したと考えられるが技術はまったくといってよいほど受け継がれていない.その印刷が木版彫刻によったという印刷上のハンディがあるとしても,これは時代遅れの出版物であり,評価できない.『フロラ・ヤポニカ』に関わった慶賀らのえた技術が江戸時代の植物画にインパクトを与える機会がなかったのは残念なことである.


シーボルトの胸像図
ライデン大学附属植物園内の日本庭園にあるシーボルトの胸像.
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センノウ
センノウ.『フロラ・ヤポニカ』より.
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共同研究者たち

ツッカリーニ
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 シーボルトは帰国後,彼の日本での収集品のほとんどが保管されることになったオランダのライデンに住居を構えた.これは第一に日本での調査の成果を出版するためであった.植物標本についても大部分が,ライデンの王立植物標本館(現在の国立植物学博物館ライデン大学分館)に収蔵されたが,一部の重複標本は後にボゴール植物園,ブリュッセル国立植物標本館,ケンブリッジ大学,パリの自然史博物館などに送られた.また,ツッカリーニが『フロラ・ヤポニカ』の研究を行ったミュンヘンにもシーボルトの標本が一部保管されている.

 ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini)は1797年生れで,1819年にシーボルトの故郷ヴュルツブルクから100キロほど東のエルランゲンの大学で医学博士号を得た.1823年にはミュンヘンの高等学院の植物学教授,翌年から2年間は同じ南ドイツのランドシャフトの大学の植物学教授となり,1826年にミュンヘンの大学の植物学教授,そして奇しくも『フロラ・ヤポニカ』の第1分冊が出版された1835年から農業と森林植物学の正教授となった.シーボルトと共同研究を開始するまでのツッカリーニは,新大陸のカタバミ属やサボテン科植物,アガヴェ(Agave)やフォルクロイア(Fourcroya)属植物,それにバイエルン地方の植物相の研究で成果を上げていた.また,林学関係の教科書も出版している.

 シーボルトは1884年夏から出版資金調達を目的としたヨーロッパ各地の宮廷への勧誘旅行に出向くが,ツッカリーニとはこの旅行のときに出会った,といわれている.ツッカリーニは1835年4月10日発行の『植物学彙報』(Allgemeine botanische Zeitung)にシーボルトとの共同計画について書いている.

 ツッカリーニはバイエルンの自然科学アカデミーの研究紀要に『ミュンヘン植物園及び植物標本館収蔵の未知ならびに新植物』(Plantarum novarum vel minus cognitarum quae in horto botanico herbarioque regio monacensi servantur)という題の論文を1832年から5回に分けて発表している.これはツッカリーニの植物学への貢献としては『フロラ・ヤポニカ』に匹敵するものである.興味深いことに,第1報から第3報(それぞれ1832年,1836年,1838年に出版)が100ページ近いかそれを越える大作なのに『フロラ・ヤポニカ』に着手後の第4報(1843年前後)と第5報(1846年前後)はともに35ページほどのもので,内容も雑多な報告を寄せ集めたという印象をうける.『フロラ・ヤポニカ』にツッカリーニが書いた植物学的解説はたいへんすぐれたものである.克明であり,関連文献への言及も完壁である.前述したように,惜しむらくは彼らの記載に用いられた標本及び学名の基準となるタイプが明記されなかったことである.これはシーボルトの標本のほとんどを保管するライデンから離れて研究を行っていたツッカリーニの研究状況を反映したものだろう.ツッカリーニは様々な事情からシーボルトの標本を完全に利用できなかったのではあるまいか.

 1846年に英語圏以外の国での著名な研究を紹介する目的でロンドンのレイ・ソサエティから出版された『植物学論考』(Reports and Papers on Botany)にはツッカリーニの「針葉樹の形態学」という50ページあまりの論文がジョージ・ビュスク(George Buski)の翻訳で載っている.これを読むと彼が針葉樹について並ではない深い造詣の持ち主であることが判るが,興味深いのは,この論文に添えられた図版に『フロラ・ヤポニカ』第137図版のモミ類の葉痕と葉枕の図の一部が用いられていることである.そもそもこの137図は『フロラ・ヤポニカ』にはそぐわない内容の図である.ツッカリーニは当時,日本の針葉樹だけでなく,世界の針葉樹について広範な研究を行っていた.『フロラ・ヤポニカ』の後半にまとめられた日本産針葉樹の図版と記載はとくに精彩に溢れている.それは,共著者ツッカリーニの専門性に裏打ちされているためである.

 ツッカリーニは1848(嘉永元)年に『フロラ・ヤポニカ』巻2の完成を半ばにして他界した.わずかに50歳を越えたばかりであり,当時としても早い死であった.


スギ.川原慶賀画
スギ.川原慶賀画『フロラ・ヤポニカ』のスギの原画である.
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スギ
スギ.『フロラ・ヤポニカ』より.
ミクエル

 ツッカリーニの死後,シーボルトの『フロラ・ヤポニカ』を手伝ったのがミクエルである.ミクエルが関った部分の出版は1870年(明治3)だから,これはシーボルトの死後でもある.

 ミクエル(Friedrich Anton Wilhelm Miquel)は,1811年10月24日,現在はドイツに属するノイエンハウス(Neuenhaus,オランダ名はNienhuis)の著名な医者の家に生まれた.ミクエルは,現在はオランダに属するフローニンゲン大学で医学を学んだ.卒業後2年ほどアムステルダムの病院の医師を務め,1835年にロッテルダムで医学を教えた.その後,1846年にアムステルダムの医師養成大学の植物学教授となり,1859年から1871年までユトレヒト大学の植物学教授を務めるかたわら,ライデン国立植物標本館にも関係し,後年には館長を務めた.ミクエルは植物学上のマレーシア地域を中心とする熱帯アジアの植物について優れた研究を行ったが,1862年にライデンの館長に迎えられると,日本植物のコレクションを集中して研究した.ミクエルがシーボルトの『フロラ・ヤポニカ』の未完部分をかなりの空白を置いて出版した意図は本冊子3章に述べられているように,日本植物研究のイニシアチブを確保しておきたいとするライデンの立場を反映するものである.

 ついでに記すと,ビュルガー(H. Bürger)はシーボルトの離日後も日本に残って植物調査を続行した.ビュルガーの採集品もここでいうシーボルトコレクションに含められているが,標本の質・点数ともにビュルガー標本はシーボルト自身のコレクションに匹敵する重要な意味をもつものである.シーボルトの共同研究者ツッカリーニはこの標本を利用することはなかった(できなかったかも知れない).

 多量のビュルガーコレクションの分類学的研究が,日本植物研究でのイニシアチブ確保の上で重要だと考えたのはミクエルである.ミクエルはこの研究を単に,ビュルガーコレクションの分類学的研究とするのではなく,これを主体として,彼のフロラ・ヤポニカを発表するのである.それはシーボルトとツッカリーニによる植物画を伴うような『フロラ・ヤポニカ』ではなく,純粋に学術目的のものであった.ミクエルの時代はもはや豪華なコーヒーテーブルブックの出版の時代は終わっていた.ロシアとアメリカに加えて,フランスのフランシェとサヴァチェは純粋に学術的な立場で日本植物研究のイニシアチブを競っていたのである(6章参照).その中で,ミクエルは『日本植物誌試論』(Prolusio Florae Japonicae)(1865−1867)という,フォリオ版で392ページというぼう大な著作を刊行したのである.その中で多数の新植物がシーボルト自身や日本人らが収集した標本,そしてビュルガーやさらに後のテクストール(Cajetan van Textor)らの標本にもとづいて,記載された.


表紙
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本文
Mique1著Prolusio Florae Japonicaeの表紙と本文.


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