いうまでもなく、この法隆寺壁画の手本となった 中国中原地域長安・洛陽の仏教寺院壁画は悉く失われ、 唐代中国を中心として大きく広がった国際的な美術、特に仏教絵画は、 中国の西の辺境、敦煌の石窟寺院壁画 (敦煌壁画と略す) にその面影を偲ばせるにすぎない。
一方、東に遺された稀有の大作、 この法隆寺壁画の各壁の主題解釈や制作年代の推定は 法隆寺再建非再建論争ともからんで活発に論議されてきた。 昭和以後の発掘調査に基づく考古学的な方法によって、 若草伽藍の発見などにより、現金堂は、 天智9年 (670) の火災 (『日本書紀』) 後の再建と見るのが 今日一般的である。 壁画の主題については、図1に示す様な解釈がほぼ定着しているものの 結論をみるには至っていない。 また近年可能となった敦煌壁画との具体的な比較研究は、 法隆寺壁画のより詳細な再検討を我々に不可欠なものとしている。
再建金堂において壁画は、単なる建築の荘厳にとどまらず、外陣四周に 当時の人々の信仰が深かった
の各仏あわせて四仏 (四大壁) の浄土を現出し、 さらに四隅の小壁には各1体、合わせて8体の当時親しまれ、 或いは渡来したばかりの新たな密教 (雑密) の十一面観音像などを 表わすものであったと考えられる。大小12壁面の主題や表現には一貫した統一原理、 すなわち壁画の論理ともいうべきものが存在したと考えられる。 それは壁画の主題の論理と画面構成の論理とに一応分けられよう。 どの大壁に何仏の浄土を配するか、 小壁は大壁との関係でどのような尊像が描かれるべきか、 こうした主題の論理は、この時代の仏教信仰に深くかかわるところであり、 選択された主題を優れた表現にまで高めるためには造形的、 視覚的な面でのかなり厳密な論理性が求められた。 そして両者が見事に結び付けられたところに この法隆寺壁画の最も優れた特質の一つがあるといって過言ではない。 本展では、内部四周の壁画を、今日はもちろんかつても不可能であった さまざまな視点から、あるいはその全体像を、 あるいは各壁面の構図やディテールの異同を、 視覚を通して我々に直感させてくれるデジタル再現画像によって、 上記の特質がより明確に示されるであろう。
特に四大壁のそれぞれの画面は、 各仏のいる浄土の広やかで華麗な光景を表すというよりは、 主尊の周囲にその脇侍や眷属を配した 諸尊集会的構成による尊像本位の内容で、 当麻曼陀羅などに代表されるような浄土図のイメージとは大いに懸隔があり、 これら四仏浄土図は仏説法図と捉えられ、 敦煌壁画仏説法図と関連づけて考察されるべきものである。 各大壁の主題に拘泥せず、それらの図様に注目すれぱ、 四大壁間には、さまざまな共通点が存在することが指摘でき、 それらは特に 1号壁 (図2) 、 9号壁、 10号壁 (図3) に著しい。
図2〜3は樋口富麻呂氏描き起こし図
(春山武松 『法隆寺壁画』 朝日新聞社 昭和22年刊) に筆者が加筆
まず、主尊 (中尊) が画面中央に坐し、その左右に脇侍菩薩が立つ。 中尊と両脇侍菩薩との間には比丘形がそれぞれ1体ずつ (阿難と迦葉) 上半身を見せる。 左右にはさらに4体ずつ合計8体の尊像が集い、三大壁いずれも敦煌壁画、 主に隋代以降の仏説法図に最も多い一仏二菩薩二比丘の五尊像を中核とし、 それに8体ずつの尊像を加えて、総数を13体に限定統一していることが判る。 各壁は背後にそれぞれの中尊に固有の眷属を配しており、 中では1号壁が 十大弟子全尊を揃えているが、 10号壁などでは 十二神将すべてを表すことなく、薬師仏説法にふさわしい 日光・月光両菩薩と薬師八菩薩のうちの2体などを加え、 総数13尊の構成の論理にしたがっている。 さらに9号壁、 10号壁の前面左右に 共に二力士を配する構成は、敦煌第57窟などにみられるが、 堂内北側の東西に並び描かれた これら2図の構図の対称性を重んじたからに相違ない。 1号壁、 9号壁、 10号壁の各壁、 ことに9、10号壁においては一般的な仏説法図の構成論理が優先し、 何仏の説法かを示す標識を積極的に明示することよりも、 恐らくは総数13尊とすることによって得られる 視覚上の統一が求められたのであろう。
一方、法隆寺壁画中の白眉ともいうべき 第6号壁 (図4) 阿弥陀浄土図は 他の3大壁とはその図様において著しい差異を有している。 まず中央、背屏の付いた蓮華座上の阿弥陀如来が衣を通肩に纏い、 説法印を結んで結跏趺坐し、その左右には観音菩薩・勢至菩薩が立つ。 この阿弥陀三尊が構図のかなめとなり、 他壁にみられた諸尊集会の形式はとらず、 代わって大きさはさまざまながらいずれも小さな童子形の菩薩達が 画面下方にひろがる蓮池に17体、上部山崖上に8体計25体描かれている。 従って6号壁は極楽浄土における 阿弥陀仏の説法相を明確に表して 他の3大壁とは別格の存在としなければならない。 おそらく当時の人々が西方阿弥陀浄土の宝池の具体的なイメージを既に持ち、 単なる諸尊集会式説法相とは異なる図様を求めたのであろう。 極楽の蓮池における阿弥陀の説法図すなわち阿弥陀浄土図は、 敦煌壁画において早くから成立し、さまざまな展開を示しており、 特に貞観16年 (642) の年記をもつ第220窟南壁阿弥陀浄土図は 本格的な阿弥陀極楽浄土の宝池や楼閣の景観を備えたものとしては 最も古く優れた表現を見せる注目すべき浄土図であるが、 その中尊下には一対の透明な蕾に入った胎生、 及び中尊と向かい合う化生菩薩の計3体のモチーフが描かれており、 このモチーフを含めて第220窟南壁浄土図中心部が 第6号壁の図様に近似することも見逃せない。
壁画は白土下地で、おそらく十分に練り上げられた 原寸大の下図を画面に転写し、彩色・文様を加え、 さらに鉄線描と呼ばれるしなやかで強靱な弾力を持つ朱線を 簡潔に用いて描き起こし、適度な隈取り (陰影法) を施している。 自然な人体表現に基づきながら より雄偉な理想化された諸尊の威厳に満ちた像容、森厳な あるいは慈悲に満ちた眼差しに仏教の高い理念が込められ、 みずみずしい溌剌とした息吹が感じられる。 中国中央の完成度の高い図様・描法をおそらく直接に学びながら、 そこにはすでに日本の美意識に根ざし高い品格を備えた 日本独自の絵画の生成が示されていると思われる。 その制作年代は、天智の火災後の伽藍復興の中での 金堂の中心的意義を考えるとき、 火災後あまり降らない7世紀80〜90年代として大過ないのではあるまいか。
法隆寺金堂壁画一号壁〜十二号壁までの写真
法隆寺金堂壁画の写真等
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