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懐徳館駒場の土地と敷地交換して、新たに本郷キャンパスに組み込まれた旧前田家の屋敷地(キャンパスの南西隅)には、明治時代末に建設された西洋館、和館が建っていた。 前田家が新たな邸宅の計画を開始したのは明治35年である。当主前田利嗣(第15代)はかねてから屋敷・庭園を改築整備して天皇の行幸を仰ぐ宿願をもっていたが、次代の利為がそれを実現しようとしたのである。建築・庭園の建設の次第は以下のとおり。明治36年1月地鎮祭および起工、同37、38年日露戦争のため約1年工事中断、同38年12月日本館竣工、同40年5月西洋館竣工。設計を担当した建築家は、西洋館が海軍技師の渡辺譲、日本館が同設計技師の北沢虎造であった。 そもそも天皇の行幸が目的であったから、充実した建築が計画されたことは言うまでもない。正面車寄せは西に面し、ルネサンス式のデザインでまとめられていた。地下1階、地上2階、総面積約214坪で、建築費約19万5千円、装飾費は家具食器を含んで約11万円であった。全体の姿が優れていることは言うまでもないが、いかに内装・家具に力が注がれたか良くわかる。渡辺譲の設計した洋館のなかでも、最も上質な建築のひとつであり、都内各所に設けられた華族・貴族・ブルジョアジーの邸宅のなかでも第一級のものであった。 新前田邸竣工の少し後、明治43年7月8日に明治天皇の行幸、10日昭憲皇太后の行啓、13日皇太子・皇太子妃(後の大正天皇・皇后)の来臨が実現した。充分ではなかった日本庭園は行幸の直前に、前田家庭師伊藤彦右衛門によって整備された。現存の懐徳館庭園はこの時に現在の姿となったと思われる。なお、行幸に際し、京都鴨川の河鹿数十匹、蛍2万匹が池に放たれた。 大正15年8月の敷地交換に際しては、同時に、西洋館・和館も大学に寄付された。実際には、駒場の前田家新邸宅(敷地は現駒場公園、主屋は都立近代文学博物館となっている)の新築・移転をまって昭和3年8月にそれが完了した。 このようにして大学に移管された旧前田家邸宅は、残念ながら震災復興などを急務とする大学側の経済的事情から、しばらく放置されていたようだ。しかし文部省から旧前田邸を聖蹟に指定したい、との内示があり、昭和8年再び前田家から補修費として2万円の寄付を受け、昭和10年には完成披露された。またこの時市村讃次郎・宇野哲人両博士によって「懐徳館」と命名された。これ以後、懐徳館は本学内外の学賓を迎える建物として使用されることになった。 しかし、この旧前田家邸宅の西洋館と和館は、昭和20年3月10日の東京大空襲によって炎上し、創設されてから38年のわずかな生命を終えた。現在の懐徳館和館は戦後早々に再建されたものである。 |
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