第一部

記載の世界




書く、刷る

文字の支持体としてもっとも一般的なのは紙である。紙は運搬にも保存にも最適の支持体だった。初期には教典や歴史が紙に書き記された。さらに物語や伝承などの文芸が後に続いた。世俗的なテキストが文字で書かれるようになると、書風が問題にされるようになり、それと同時に支持体としての紙それ自体にも装飾性が加えられ、挿し絵も施されるようになる。天下一本の写本から、複製可能な刊本への移行は、文字の需要層の増大に応えるものである。



24 古写本『大智度論巻第八十一』(一折)
天平六(七三四)年
山直麻呂筆、折装本
文学部国語研究室蔵(L54847)


25 古刊本『成唯識論』(春日版)(全十巻)
鎌倉時代中期
巻子装本
文学部国語研究室蔵(L89162-18171)


26 古写本『古今和歌集』(一帖)
鎌倉時代
枡形列帖装本
縦一四・九cm、横一五・四cm
文学部国語研究室蔵(文1950)

斐楮交漉紙を料紙とする枡形列帖装本。表紙は書写と同時期かさほど下らない時期の古金襴で、青・黄・茶の三色の菊花のそれぞれの周りに六枚ずつの葉を配したものを織り出している。見返しも当初のものかそれに準ずるもので、一面に銀切箔を散らしてある。表紙には絹布と思われる白布にごく薄く金泥で雲を描いた題簽が、中央やや上寄りに貼付されており、本文とは異なる筆跡で「古今和歌集」と書かれている。題簽の大きさは縦九・七センチ、横二・五センチ。


  古今和歌集は本来全二十巻、十巻ずつの上下二巻に分けて書写される場合が多いが、本書は仮名序と四季の部(巻一春哥上から巻六冬哥まで)と真名序のみの抄出本であり、全一帖に書写されている。一面九行書、一行十二字から十七字詰め、和歌は上句下句の二行書である。詞書は和歌に対して二字下げ、左注は三字下げ。仮名序では、所謂古注は本文に対して一字下げで同大の字で書かれており、和歌は本文中のものも古注のものも共に二字下げで書かれている。即ち、和歌に関しては見た目の上では本文と古注とが区別がつかなくなっている。用字は全体を通して漢字交じりの平仮名文である。

  本書の書写年代について、西下経一氏は、「鎌倉時代」とした上で、「一首を二行に書き、初行に三句をかいてゐるのは新しいやうに思ふ」と注しておられる(1)。確かに、和歌を五七五の上句を一行目、七七の下句を二行目に書くのは必ずしも古くからある習慣ではない。藤井隆氏によると、鎌倉初期までは和歌の二行書の際には、「上旬下句の二行書ではなく、続け書式で自由な箇所で改行」する習慣であったとされる(2)。従って本書の書写の上限は鎌倉中期、しかし、書風からしても、また料紙の雰囲気からしても、下っても南北朝までのものではないかと推測される。

  更に本書には、書写とあまり遠くない時期のものと思われる書き入れがある。異本校合を主とするもので、少なくとも三筆を認めうるようである。その内訳は朱一筆、墨二筆である。朱の書き入れはただ一カ所のみ存する。巻一春哥上、二三丁オモテの文屋康秀の歌(新編国歌大観番号八)に見られるもので、本文「花なれど」とある「花」の右傍に「我」としてあるものである。墨による書き入れば、少なくとも、やや墨色が薄く太めの字で書かれたもの(以下墨1と略称)と、細字で墨色濃く書かれたもの(以下墨2と略称)とに分けることができる。墨1には、巻四秋哥下六七丁ウラの僧正遍昭の歌(新編国歌大観番号二二六)に「ナニメテ、ヲレルハカリソヲミナヘシ」と、片仮名で書き入れたものも含まれる。墨2は最も繊密に書き入れられており、校合書き入れの他、歌人名の漢字表記などをも施している。

  さて、書き入れ三筆の前後関係であるが、朱書き入れの「我」には、墨2による合点が付されているので、朱が墨2に先立つことは確かである。また、墨1と墨2については、巻四秋寄下、六二丁オモテの新編国歌大観番号二五番歌の本文「とみし」に対して右に墨1で「おもふ」と合点、左に墨2でミセケチ記号と「おもふ」と合点がある。墨2は普通は本文の右傍に記入されているから、ここでは墨1が先に右傍にあったものと判断しうる。朱と墨1の先後関係については確証がない。

  本書の伝来については、東京大学保管となったのは大正一三(一九二四)年で、村口書店より購入されたことが明らかであるが、それ以前の事は全く不明である。「東京帝/國大學/区に圖書印」の陽刻朱正方印以外には蔵書印もない。ただ、桐箱上蓋の裏側に、直径三センチ弱程の梅花様の枠の内に「妙関什」と記した陽刻の朱印を紙に捺したものが貼付されているが、この「妙関什」の印については、現在のところ不明である。本書には奥書・識語等もなく、また極札や添状といった付属物もない。ただ、二枚の箱題簽に、伝承筆者等の記述が見えるのみである。

  本書が納められていた箱は、現在では破損が激しく部材の一部を失くしてさえいるので、箱としての用はなさない状態にある。いつごろの制作であるかは不明。薄い桐板でできた箱で、上蓋は枠を一辺欠く。大きさは縦一七・四センチ、横一七・四センチ、高二・六センチ。下は底板と枠を一枚残すのみである。底板の大きさは縦一六・六センチ、横一六・四センチである。

  この上蓋に二枚の箱題簽が貼付されているのである。一枚は中央上寄りに貼られており、縦九・二センチ、横三・五センチの白紙である。かなり掠れていて下半分以上は判読困難であるが、内容は次の通り。

  「家隆卿
  古今[和哥集(カスレ)]」

  もう一枚は、水色の料紙で大きさは縦四・七センチ、横五・八センチ。右上端部分に貼られている。右上端は破けていて読めない。

  「[ ]壱号(朱書)
巻物帖
  定隆(朱印?)
古今集」

  ここに「家隆卿」と「定隆」の二人の名が見える。「家隆卿」はまず問題なく「藤原家隆」(一一五八〜一二三七)と判断される。藤原定家とともに新古今時代の歌壇の双壁を成した人物である。古筆の伝承筆者としても屡々目にされる名であり、文政一一(一八二八)年版の『古筆名葉集』には升底切金葉集、中院切千載集、祐海切新古今集の三つの名物切と朗詠巻物切、古今集六半切の五種を挙げ、安政五(一八五八)年の『増補新撰古筆名葉集』に至っては、実に十六種を挙げる。しかし、一方の「定隆」にはこれといった人物が該当しない。『公卿補任』によれば、仁安三(一一六八)年に三十五歳で従三位に任ぜられた「藤原定隆」がいるが、歌人でも書家でもなく、伝承筆者としては不自然である。これが伝承筆者名を表すものであるならば、誤写若しくは誤伝と言わざるを得ない。

  この水色料紙の方の題簽にはもう一つ疑問があって、それは「巻物帖」という言い方である。この語について、筆者は管見にして他に類例を知らない。

  先に述べたように本書は列帖装の本である。列帖装とは桃山期以前の文学書の古写本に多く見られる装丁法で、二つ折りにした紙を数枚から十数枚程度重ねたものを、更に内容の分量に応じて何折か連ね、それを糸で綴じ繋げるものである。したがって、折本などとは異なり、巻子本から改装することは不可能である。また、古今和歌集はその奏覧本は巻子本であったと考えられ、また高野切本のようなごく古い写本にあっては巻子本装のものもあるのだが、鎌倉時代以降の書写の古今集が巻子本であることは殆ど考えられない。あとで述べることだが、本書の本文は、鎌倉時代に校訂されたものであるから、書写の際の底本が巻子本装であったとも考えにくい。現在のところ「巻物帖」という言葉については不明というしかなく、この水色料紙の箱題簽には多く疑念が残るものとしておく。

  さて、本書の造本の体裁について述べる。本書は全部で六折からなり、それぞれの折が、以下の丁数となっている。「前」「後」とあるのは、折り目の前・後の意である。

 第一折前六・後六、計十二丁(うち前一丁は遊紙)
 第二折前十一・後十一、計二十二丁
 第三折前九・後九、計十八丁
 第四折前十二・後十二、計二十四丁
 第五折前十・後十、計二十丁
 第六折前五・後三、計八丁(うち後三丁は遊紙)
 以上合計百四丁

  列帖装は原理上、各折の前後が同じ丁数になるはずである。しかし、ここでは第六折がそうなっていない。そこで第六折の末尾を見ると、確かに二丁分引きちぎられたような痕跡が残っている。何らかの理由で、この二丁が破かれているのである。

  実は、本書の欠丁はそれだけに止まらない。内容の調査から、以下の箇所に欠落のあることが判明した。

 一、第一折第一丁の遊紙は他と紙質が異なる。ノドの所で継ぎ足された跡のある事がわかる。
 二、第一折の末尾と第二折の冒頭(仮名序)が丁度一丁分連続していない。第二折の末尾と第三折の冒頭は連続しているから、欠落したのは第一折の最終丁であることがわかる。とすれば、第一丁の初めにも元来は更にもう一丁あったはずで、第一折は都合三丁分が欠丁、うち一丁は後補されていることになる。
 三、第五折の末尾と第六折の冒頭(真名序)が丁度一丁分連続していない。第四折の末尾と第五折の冒頭は連続しているから、欠落したのは第六折の初丁であることが分かる。とすれば、第六丁の末尾にも更にもう一丁あったはずである。
 四、第六折の後半三丁はいずれも遊紙で、何も書写されていないが、その前半の最終丁は真名序の途中で、しり切れのまま終わっている。従って、第六折の真ん中に少なくとも一枚(つまり二丁)以上の欠落があることが分かる。第六折には都合六丁以上の偶数丁の欠丁があることになる。

  以上の欠丁の意味については、後に分析する。


  次に、古今和歌集の伝本系統の中における本書の位置について述べる。

  古今集は、その歌学上の絶対的な地位からしても、当然貴族の身に着けるべき教養であったことからしても、より良い伝本が求められ、競って書写され、所蔵されるところとなったものである。そしてまたそれは奏覧直後からのことであって、従ってその伝本系統は、甚だ複雑多岐に渡るのである。そうした古今集の伝本についての研究は、西下経一氏や久曽神昇氏を中心として進められてきており、現在では、多くの写本が一つの形成過程のもとにほぼ序列化されるに至っている。

  中世は、本邦における文献学、殊に古典文学本文の原典批評の本格的に始まる時代であり、その頃既に古今集の伝本系統についてもかなり高い関心が持たれているのである。特に、中世における古今集の伝本研究や本文校訂は藤原定家と藤原清輔の二人を軸として考えてよい。古今集の複雑な伝本のあり方にもかかわらず、中世という時点を限定して切りだして来た場合には、伝本系統ということについて、当時の流布本であり、かつ現在に至るまでその地位を保っていると言ってよい定家本の系統、それとは別の流れを形成していた清輔本の系統、そして平安時代写本とその流れを伝える諸本の三に比較的単純に大別することができる。そして鎌倉時代以降の写本は定家本を圧倒的多数とし、清輔本系統の写本や、中間的な性格を持つ本が残りの殆どを占めることになるのである。

  定家本の系統は、藤原定家がその生涯に、知られているだけで実に十六度にわたって古今和歌集を校訂・書写したものの流れで、そのうち特に貞応二年七月書写の本文が以後、古今集の流布本となったものである。

  これに対して清輔本は、藤原清輔が、やはり生涯のうちに三度以上に渡って書写したものである。書写年次の分かっているものには、永治二年本・仁平四年本・保元二年本がある。そのいずれもが、「通宗」の奥書のある、特定の一本を底本としたものであった。西下氏は前掲論文で、清輔本系統の一伝本である佐佐木竹柏園蔵本の伝承筆者が藤原家隆であることを取り上げ、新古今時代歌壇において定家と並び称された歌人の家隆が伝承筆者に擬せられているのは、とりもなおさず、定家本に対抗するものとして清輔本が一般に受け取られていたためであり、この国語研究室蔵本に関してもそれと同様の事情によるものだとする。そのことは当時としては優れた洞察であったに疑いないが、研究資料の整備が格段に進み、殊に『古筆学大成』によって家隆を伝承筆者とする古今集古筆切資料が都合十種類は存在すること、そしてその内訳には必ずしも清輔本系統のものばかりでなく、定家本系統の本文を持つものも少なからず含まれていることが分かっている今日の段階では、修正すべき所となった。寧ろ、この筆者の伝承は、純粋に書風より発生し、伝えられたものとするほうがよい。

  本書は、内容的には、以上に述べたうちの後者、清輔本の系統とみてよい。しかし、西下氏が「大いに研究を要する」と述べられたように、即ち清輔本と単純に認める以前に克服すべき問題がいくつかある。

  その第一は、清輔本系の中の代表的な伝本である前田育徳会尊経閣文庫蔵保元二年本などの本文と対照すると幾つか独自の異文が存することである。そう多いものではないが、その中には、寧ろ高野切本と一致する部分があったり、或いは元永本と一致する部分があったりと様々である。

  第二は清輔本系統の諸本がもつ外形的特徴を本書が欠いていることにある。その外形的特徴というのは、一つには、清輔の書写の際の底本となった「藤原通宗」本の奥書の存在である。これは、清輔本の仮名序の直前の遊紙のウラに書かれている。因みに、本の書写の作法については、藤原定家が『下官集』で次のように述べている(東京大学国語研究室蔵鎌倉時代写本により、いま句読点を補う)。

  「一 書始草子事
  仮名物多置右枚自左枚書始之。旧女房取書置皆如此。先人又用之。清輔朝臣又用之。……(以下略)」

  即ち、仮名書きの本を書く時には、右を白紙のままあけ、左から書きはじめるというのである。そして、「清輔朝臣」もそのようにしていたという。その、本文としては白紙となった部分に、底本の奥書が書き込まれたと考えられるのが、清輔本古今集の「通宗」奥書である。その本文は次の通り(尊経閣叢刊複製前田家保元二年本による)。

  「本云
  以貫之自筆本書写古今也。件本ハ於皇太后宮焼失畢云々。和哥等不似餘本其説頗違矣
通宗」

  もう一つは、清輔による書写奥書で、これは本の末尾にある。やはり前田家保元二年本によって示す。

 「以若狭守通宗朝臣自筆本書写古今也。文字仕不違彼件本。僧隆縁為彼朝臣外孫所相伝也。端書文、彼朝臣筆也。以片仮名書入歌等同彼人所考入也。件古今貫之自筆小野皇太后宮御本之流也。上下考物者管見之所及、予所記付也。真名序又以同。前後日校合 新院御本朱雀筆彼御本説也。件御本以貫之妹自筆本書写古今云々。〈或説件本貫之妹自筆云々〉但有序注少以有疑殆件正本閑院贈太政大臣本云々。転々在故花薗左府御許。又陽明院御本説間二注付之大略不違此本。件本貫之自筆延喜御本云々。後顕綱朝臣許焼失了。若州号讃州入道本此本也。如此古今二箇度書写之、而為難去人被収公了。伽保元二年五月比、更以書写之至今度深秘筥中死後可左右而巳。
和歌得業生清輔
   書写校合不交他人之功云々

  因みに、前田家本の場合、この後遊紙を隔てて、更にこの本の伝領奥書がある。

 「此本先年[元弘]之比、不慮伝領之〈円有所進也〉規模證本也。秘而有餘々々
難波津末流二品(花押)親王」

  第三の特徴は、所謂「勘物(考物)」の存在である。奥書に「上下考物者管見之所及、予所記付也」と述べているものである。この記述の通り、清輔本の諸本では、本文の頭脚に、作者の伝記、歌の出典等について小字で注記したものが多い。ただし、この点に関しては、本書の場合、もともと和歌は四季の部だけを抄出したもので、到底、家の証本となるべきようなものとして書写されたものとは思われないのだから、勘物が省略されたとして、至極当然のことと言えるかも知れない。

  さて、以上述べきたった問題のうち、第一の問題に関しては、清輔本系統の諸本間の詳細な対照・伝承についての調査が必要で、筆者にはいまその準備ができていないが、後者のほうに関しては、些かの試論を用意することはできる。その前に、本書の校合書き入れの性格について考えておきたい。

  まず、もっとも繊密な墨2から検討してみる。そのいくつかの例を示す。


あさみとりいとよりかけてしら露をたまにもぬけるはるの柳か
はちす葉のにこりにしまぬこゝろもてなにかは露をたまとあさむく
    嵯峨野にてむまよりおちてよめる
(一三オ)
/山たかみ
    さとゝをみ人もすさめぬやまさくら
 /いたくなわひそ
    ものなおもひそわれみはやさん
(三一ウ)
七夕によめる /なぬかの日の夜よめる
    としことにあふとはすれとたなはたのぬるよのかすそすくなかりける
(六〇オ)


  これらの例から分かるが、いずれも定家本系統を伝えるものと言ってよい。墨1については先に述べたような六二丁オモテの「ひくらしのなきつるなへに日はくれぬととみしは山のかけにそありける」の「とみし」を「おもふ」としたものや、六七丁ウラの「ナニメテヽヲレルハカリソヲミナヘシ」の片仮名書き入れがあるが、これらもやはり定家本のものである。朱については、一カ所のみであるから、何とも言えないが、定家本と合致することは確かである。

  ここで、話を奥書のことに戻したい。重要なのは、本書は始めから明らかにそれを持たなかった訳ではない、ということである。書き入れと奥書とが存するべきはずの場所が、丁度先に述べた欠落部分にあたっているのである。古写本に切り取りがある場合、その理由としてはまず、それを古筆切として売却したことが考えられる。しかし、それには和歌本文の方が都合がいいはずで、敢えて仮名序・真名序を選ぶのは不自然であるし、ましてや遊紙の部分では全く意味がない。この場合にはむしろ別の理由を考えたほうがよい。

  本書の古い所蔵者、即ち書き入れを残した人物、殊に墨2の筆者は、明らかに流布本である定家本と異なる本文を持つ本書に対して、殆ど網羅的に流布本の本文を校合書き入れしている。しかも、多くの場合、それに合点を付して、定家本の本文をとるべきことを宣言しているのである。かような定家本の信奉者が所持していた本にあって、もしこれが清輔本であるならばその特徴たるべき奥書のあるはずの部分が、破り取られているという事実は、偶然として片づけにくいように思う。寧ろ、清輔本特有の奥書があったからこそ、定家本を第一とする所蔵者には不必要なものと思われ、切り取られたのではないか。即ち、その位置に欠丁があるということ自体が、本来、本書が清輔本の奥書を備えた本だったのではないかということを推測させるのである。先に本書の表紙で、中央部に題簽のあることを述べたが、表紙の中央に題簽を貼るのは定家の家系、御子左家の一分家であり、古今集の流布本たる貞応二年七月本を伝えた二条家流の和歌故実である。二条家流以外では決してそのような方法をとらなかったとは言い切れないが、どうも以前には左端に題簽のあったらしい形跡も微かながら見えるように思われ、やはり清輔本である本書が何らかの経路を辿って定家流の歌学を信奉する人物のものとなったものと推測されるのである。

  本書の文字は、典型的な鎌倉中期以降の書風を示している。しかし、そうした書道史的な観点よりのみならず、国語史学的にみてもその文字面にいかにも鎌倉時代的な特徴をいくつか指摘しうる。例えば、ツの仮名に「川」を字母とするものを多く用いること、また「め」の字形に関して、第一画の左上から右下に斜めに運筆される線が「の」の形の部分と交わらずに短いまま次の画へと繋がっていることなど、である。

  しかし、その一方で、鎌倉中期以降のものとしてはいささか古い書記の姿を残してもいるのも本書の特色である。その第一は踊字の用法にある。踊字は、平安時代の用法では、同じ音節が連続した場合、それが二文に跨がる場合以外には例外なく用いられるものであった。ところが鎌倉時代以降変化が起こり、同一文節のうちでの同音節連続には用いるが、二文節に跨がる場合には用いなくなるのである。鎌倉時代初期を生きた定家の場合などは過渡的な性格が見られ、新旧両用の方針が混在した踊字の用法を見せているのだが、本書の場合も同様で、「かすかのゝとふひのゝもりいてゝみよいまいくかありてわかなつみてん」(二三ウ)のように、古い踊字用法を見せている所もあれば、「人はいさこゝろもしらすふるさとははなそむかしのかににほひける」(二八ウ)のように、新しい用法に従っているところもある。因みに、同じく清輔本である前田本では完全に古い踊字用法に従っている。

  他に古い要素といえば、「江」を字母とする平仮名字体の使用が挙げられる。この字体は本来ア行の「え」に対してヤ行の仮名であるが、ア行とヤ行のエの合流の後、鎌倉時代においても文書などには見えるものの、歌書などには殆ど見えなくなったものである。各務支考が『仮名遣捷径』(享和元年)で、「江はいろはの手本に習ふのみにてあらゆる哥書に衣の字を書り」と指摘しているものである。この字体は前田本でも僅かながら例が見える。

  また、撥音の平仮名無表記も本書の特徴であり、やはり古態の表記様式と言える。例えば「みやすところ(御息所)」「へせう(遍昭)」といったものであるが、これはやはり、前田本にも共通した性格である。こうした箇所は流布本では「みやすむところ」のように撥音を表記しているか、「遍昭」と漢字表記するかである。

  清輔本である国語研究室本と前田本とがともに、表記の上でこうした古い要素を含むことについて、その理由を正確に指摘することは困難な問題であるが、一つには清輔本の底本であった通宗本が、「貫之自筆本」とさえ称される古写本に従ったものであったこと、更に清輔本が本来「文字仕不違彼件本」という方針で書写されたものであったことなどが遠く原因して、古態の表記形式がこの時代にまで流れこんだものという可能性が一つには考えられる。国語研究室本では、仮名遣上、本来のヤ行のエの箇所を「へ」とする場合が多いが、良く知られている例では、為家本『土左日記』が、紀貫之自筆本で「江」とあった箇所を多く「へ」としているような例もあり、この場合も、同様の事情があったかもしれない。こうした、清輔本の表記に見られる古態の痕跡は、古今集の本文批評において清輔本を置くべき位置について、示唆を与えるものとはなりえないであろうか。




【註】

(1)西下経一「古今集伝本の研究−特に俊成本定家本清輔本の研究−」『国語と国文学』第六巻一号、一九二九年一月[本文へ戻る]
(2)藤井隆『国文学古筆切入門』、和泉書院、一九八五年[本文へ戻る]



前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ