第一部

記載の世界



23a 焼塩壺(泉州麻生)
一六九〇年代
土器、本郷構内医学部付属病院地点出土
口径八・一cm、底径五・五cm、器高一〇・七cm
埋蔵文化財調査室蔵(F34-11.170/E34-5.97)
23b 焼塩壺(泉州磨生)
一七二〇年代
土器、本郷構内医学部付属病院地点出土
口径七・八cm、底径五・〇cm、器高一一・五cm
埋蔵文化財調査室蔵(Y35-4.26/FG34-36.223)
23c 焼塩壺(泉川麻玉)
一七三〇年代
土器、本郷構内医学部付属病院地点出土
口径八・二cm、底径六・一cm、器高一一・二cm
埋蔵文化財調査室蔵(G20-2.13/IV.235)

  近世を対象とした考古学的な調査や研究の存在やその意義については、ようやく一般に認知されつつあるのが現状である。しかし近世の所産となる遺物の中で、焼塩壺と呼ばれる土器は古くから関心を持たれてきた特異な遺物である。その最大の理由は胴部に刻印が捺されているものが多く見られることと考えられる。本展ではその内の代表的な製品の一つである「泉州麻生」の刻印をもつものと、これに類似した刻印である「泉州磨生」「泉川麻玉」の捺された製品とを展示している。なお、身に伴う蓋は、胎土、寸法などから身との対応関係が推定されるものであって、出土におけるセット関係を必ずしも反映してはいないことを付記しておく。

  以下にこれら「泉州麻生」の印文の刻印をもつ焼塩壺(以下「泉州麻生」の焼塩壺」と略称する。他の刻印についても同様)およびこれに類似する刻印をもつ焼塩壼について、その刻印を中心に概略を述べる。

  焼塩壺とは何か
  焼塩壼は、中に粗塩を入れ、焼き返す(=二次焼成を加える)ことによって「壼焼塩」と呼ばれる精製塩を得るための土器の壺であり、焼塩生産の容器であるが、同時に流通、販売の際の容器でもある。またそのまま食膳に供せられたとも言われるところから、供膳の容器とすることもできる。ただし、一般に焼塩壺と呼ばれるもののすべてが、この三様の性格を有していたわけではなく、二次焼成の痕跡がなく、別の方法で製造された焼塩を入れて流通せられたと思われるものも含まれていることから、これらを「土師質塩壼類」と呼ぶ場合もあるが(小林・両角一九八九)、ここでは一般的な呼び方としての焼塩壺を用いることにする。

  焼塩壼の多くは蓋を伴う小型の土器であり、大きく分けて最大径に比べ器高の方が大きいコップ形の製品と、器高に比べ最大径の方が大きい鉢形の製品とがある。「泉州麻生」およびこれに類似する刻印は、蓋に捺されたわずかな例を除いて、いずれもコップ形の製品に見られる。冒頭にも述べたようにこれらの刻印は、焼塩壺のきわめて大きな特徴の一つであるが、コップ形の製品では胴部に、鉢形の製品では蓋に捺されている。これらの焼塩壺は、刻印にも、器形その他の壼の属性にも多くの種類が存在し(挿図1、2)、多様な議論が展開されてきている。

挿図1 挿図2

  焼塩壺の素材である土器は、陶磁器に比べて脆く吸水性も高いなど繰り返しの使用や長期にわたる使用、あるいは遠隔地への移動などに適さないが、この焼塩壺は疎密の差があるとはいえ汎列島的な分布を示すものが多く、そういう意味では土器の中では希有の存在であるといえる。また、その伝世されにくい性格から、生産から廃棄に至る時間差がきわめて小さく、鋭敏に年代を示すことが期待される資料でもある。

  一方で塩のもつ潮解性から、焼塩壺の中に入っていたであろう壺焼塩が出土することは期待できない。が、精製塩としての焼塩そのものは、必ずしも壼焼塩の形によらずとも、荒塩を奉書紙に包んで火にかざしたり、焙烙で煎ったりして簡単に入手が可能である。したがって、その出現の初期にあっては、壺焼塩という精製塩は、宴席で用いられるものであり、あるいは贈答品としての性格を有するいわば高級品であり、焼塩壼の出土は社会的階層性を反映するものとの見方もあった。しかし少なくとも江戸時代後半には、出土の絶対数だけでなく、遺跡の数も増加し、農村部からの出土も見られるようになるなど、階層的に偏るという性格は希薄になっていったと思われる。


  焼塩壺の生産者とその系統
  焼塩壼は、壺それ自体が商品ではなく、その中に入れられていた焼塩が商品である。したがって壺を作る業者と、これに塩を入れて加工し販売した業者とが異なっている場合が十分に想定されるので、前者を「壺屋」、後者を「壺塩屋」と呼んでいる。ただしこれは議論を行う上での便宜のために措定した概念である。このうち壺屋の差異は焼塩壺に見られる成形技法や器形などの差異という形で認識され、壺塩屋の美異は基本的には刻印の印文の差異として認識されることが期待される。また壼塩屋のみは史料の上に具体的にその姿を現している。そこで、刻印と壺自体の諸属性との対応関係等から、壺屋が壺塩屋に対して支配−被支配の関係にある下請けのような存在であったのか、あるいは相互に独立していて、複数の壺塩屋に壼を供給していたのか、さらには壺屋と壼塩屋がはたして異なった存在であったのか、といった問題が検討される必要がある。

  筆者はそうした中で、個々の焼塩壼を産み出したこれら壺屋と壼塩屋の時間軸上の連続性を「系統」として捉えうるものと考え、それらが一つの焼塩壼という資料の上に実在していることから、その対応関係を整理することによって、個々の焼塩壼を時期差、壺屋および壺塩屋の系統差の枠組みの中に弁別していくことができるものと考えて検討を加えた。この際、壺屋が壺塩屋と強固な支配−被支配関係の中にあったということが前提してきた傾向のあることは否めない。これに対し小林謙一と両角まりは「考古学における系統とは、特定のメーカーを同定することではなく、時空間的に他から分離されるような、製作技術における特徴の共有を保存するシステムを持つ製作集団を同定することと考える」とし、「総じて小川氏の言う系統性……は、壺塩屋における屋号・商標の世代間の継承を示す、即ち「壼塩屋の系譜(系統性)」……という意味が与えられている」との指摘を行っている(小林両角一九九二)。


  研究の歩み
  この焼塩壺に関する研究は、途中長い断絶期を挟みながらも江戸時代後期にまで遡ることができる。すなわち、貝塚の中盛彬は、その著書である『拾遺泉州志(かりそめのひとりごと)』の中で、「泉州麻生」および「泉湊伊織」の刻印をもつ焼塩壺が江戸の大名屋敷から出土したことをその図とともに紹介し(挿図3、小川一九九三b)、さらに刻印の印文と、地名、文献、伝聞などをもとに考察を加えている。

挿図3

  この研究はその後直接継承されることなく、昭和初年に至り、高橋艸葉(高橋一九二八)、前田長三郎(前田一九三一、一九三四)の両者が相互の影響関係の中で、焼塩壺を対象とした論考を発表している。中でも前田は「泉州麻生」の刻印として二種類のものを図示していること(挿図4)、「泉州麻生」の焼塩壺と花焼塩との関連を指摘していること、さらに「泉州麻生」に類似した刻印をもつものについても初めて言及していることなど、重要な言及を行っている。さらに初めて焼塩壼における「模倣」という概念を提示している。

挿図4

  これらの論考の後、焼塩壺に関する研究は再び途絶し、戦後の近世を対象とした発掘調査の進展に伴う資料の増加を契機として、再び焼塩壼が脚光を浴びるようになる。渡辺誠は、出土資料を集成、分類し、これに史料や聞き取り調査の成果を援用して刻印の変遷を整理するなど(挿図5)、焼塩壺の考古学的研究の礎を築いた(渡辺一九八五、一九九二など)。その後、都心部の再開発が展開する過程で麻布台一丁目遺跡をはじめ江戸地域を中心に資料が激増する。東京大学本郷構内における各地点の発掘調査は遺構レベルでの把握の可能な良好な資料を多数もたらしたものとして特記される調査となった。この内の法学部文学部地点の調査に携わった大塚達朗は板作り成形の創出に関して、遺構における共伴関係という考古学的な資料操作を基礎に新たな視点を提示した。またこれに伴って先の二種類の「泉州麻生」の刻印を時期差として認定している(大塚一九八八、一九九〇)。医学部附属病院地点における焼塩壼の報告を担当した筆者すなわち小川望は、一遺構から多量に出土した「泉州麻生」の焼塩壺の諸属性の分析などから、法量、内面、刻印の微細な差異の観察が時期差に対応する可能性を示した(小川一九九〇)。さらにその後「泉州麻生」、「泉湊伊織」、「泉州磨生」の刻印をもつ焼塩壼をはじめ、ロクロ成形の製品や鉢形の製品を対象として検討を加えている(小川一九九一、一九九三a、一九九四a、一九九五、一九九六)。

挿図5

  また小林・両角は焼塩壺全体を対象とした総合的な把握と、これを用いた近世を通じての編年を試みている(小林・両角一九九二)。この論考中で焼塩壺の分類を担当した両角は、その後刻印の他、器形・造形痕・工具痕の各局面からの分析という新たなアプローチを試みている(両角一九八九)。


  刻印のもつ意味
  焼塩壺の大きな特徴である刻印は、単なる記号ではなく土器面上の文字として「読む」ことによって、生産地や生産者、生産の年代などに関する情報源となるものである。

  まず第一に、この刻印は差異化を目的とした商標であり、「泉州」「麻生」「イツミ/ツタ」「ミなと」「堺湊」「泉湊」「摂州」「大坂」「難波」「サカイ「深草/砂川」「播磨」といった産地を示すもの、「御壺塩師」「瓦師」といった業種を示すもの、「藤左衛門」「浄因」「権兵衛」「四郎左衛門」「弥兵衛」といった業者の名を示すもの、「天下一」「伊織」といった受領した称号を示すもの、「大極上」「大上々」といったグレードと思われるものなど多様な内容を表している。

  この刻印の中には、印文中の文字とこれを受領した年代に関する文献上の記載との対比によって、その刻印が捺された暦年代を推定することができるものもある。「ミなと/藤左衛門」「天下一堺ミなと/藤左衛門」「天下一御壺塩師/堺見なと伊織」「御壺塩師/堺湊伊織」の四者はほとんど同一の器形の壼に見られる刻印であるが、これらの壼を用いて焼塩壺を生産、販売したとされる藤左衛門を祖とする系統の壺塩屋(藤左衛門系の壺塩屋)に伝わる史料やその他の史料を利用すると、個々の刻印の使用されていた年代が推定されるのである。すなわち承応三(一六五四)年の「天下一」の号の拝領、延宝二(二八七四)年の「伊織」の名の拝領、天和二一一六八二一年の「天下一」の禁令をそれぞれ契機として刻印が変化したと考えられることから、「ミなと/藤左衛門」の刻印が一六五四年以前、「天下一.堺ミなと/藤左衛門」の刻印が一六五四年から一六七四年の二一年間、「天下一御壺塩師/堺見なと伊織」が一六七四年から一六八二年の九年間、「御壺塩師/堺湊伊織」の刻印が一六八二年以降に生産されたと考えられるのである。

  一方、刻印は印体によって土器面上に刻されているところがら、単にその印文を文字資料として「読む」だけでなく、同一の印文の刻印に対して微細な観察を通じた分析を行うことによって、印体レベルでの差異を見いだし、これによって時期差や壼塩屋の系統差に分離しうると考えられる。一例を挙げると、「御壺塩繭/堺湊伊織」の刻印においては、輪積み成形(I類)上板作り成形(II類)という全く異なる技法によって作られた壺に、印体レベルにおいて同一の刻印が捺されていることから、異なった系統の壺屋の製品が同一の壺塩屋に供給されたこと、そしてこれが壼塩屋による壺屋の変更という形でなされたものであることが推定され、また板作り成形の製品においては、成整形技法の差異と印体との対応関係から、組列が措定され、その変遷が解明し得たのである(小川一九九四a)。

  このように印体レベルでの差異を観察し、分類することは、印体の管理と壺の生産に関するシステムを明らかにすることにつながり、その結果、壺屋と壺塩屋の関係をも推定することが可能になると考えられるのである。

  こうした議論をふまえて、以下に、個々の刻印を持つ製品について、これまでの蓄積をもとに述べてみたい。


  「泉州麻生」の刻印をもつ焼塩壺
  aは筆者の刻印の分類で3(1)bに分類される「泉州麻生」の刻印をもつ製品である。今回展示した資料はその代表的な例であるが、都内だけでも百五十点以上報告されており、比較的多量に検出されている焼塩壼の一つである。刻印は明瞭に押捺されており、内側が二段角になった二重の枠線で囲まれている。壼の成形技法はII類の板作り成形で、筆者の分類でII(1)b2に分類される。胎土は明澄色で、底面は粘土塊の挿入によって閉塞されている。内面には離型材の痕跡である粗い布目が見られる。

  この製品とその刻印に関しては、特に以下の3点が重要である。まず第一に、この刻印に類似した印文を持つ製品が多種存在すること、第二に、同じ「泉州麻生」の印文の刻印であっても、刻印や壺に様々なレベルでの差異が見いだされる製品が存在すること、第三に、この刻印に関連する史料がいくつか遺されており、それによって、この製品ないしはその一部を生み出した壼塩屋の出自や系統に関して多くのことが明らかになることである。

  第一の点に関しては、本展でともに展示するbの「泉州磨生」、cの「泉川麻玉」の他にも、「サカイ/泉州磨生/御塩所」、「泉州麻玉」、「泉川麻王」がある(挿図6-6、8、9)。この問題については改めて論じるが、「泉州麻生」が和泉国麻生郷という特定の地名を示すものであるのに対し、これらの製品の印文にはそうした対応する地名が考えられないことから、これらの印文の刻印を持つ製品は「泉州麻生」の刻印を模倣して成立したものと考えられる。さらに、「泉州麻生」の刻印の捺された壼とこれらの類似する刻印の捺された壼とは共通するするものがほとんどないことから、これら類似する刻印をもつ製品は異なった壺塩屋が異った壺屋に作らせた壺であることが想定される。したがってこの類似刻印と「泉州麻生」とのあり方を検討することは、壺屋と壺塩屋との関係を論じる上でも重要である。

挿図6

  第二の点に関しては、同じ系統の壺塩屋によって時期を異にして生産された製品である場合と、異なった壼塩屋が上記の類似刻印の延長で、全く同一の印文の刻印を捺した製品を作らせた場合とが考えられる。

  壺の胎土や成形技法から同一の系統の壺屋の製品と思われる壼に見られる、字体ないしは印体レベルでの差異は前者の例である(挿図7-(2)a〜f)。また、aの焼塩壺について見ると、これは3(1)bに分類される刻印を有するが、このほかに3(1)aに分類される二重の長方形の枠線に囲まれた刻印の捺されたもの(挿図7-(1))が存在する。このことは、先に前田の指摘について言及したところであるが、これについてすでに筆者は、壺の成形技法と刻印の関係およびそれぞれの共伴関係とから、この両者が一連のものであることを論証している(小川一九九〇)。すなわち、3(1)aの刻印をもつ壼は内面の離型材の痕跡が縫目のみからなっている。これに対し、3(1)bの刻印を持つ壺の大半は内面が粗い布目となっているが、二例のみであるが内面が縫目のみのものも存在する。このことから、壺の成形に用いられる離型材がおそらくはスウェードの様なものから布へと素材が変更され、これよりわずかに早く刻印が3(1)aから3(1)bへと変更されたと考えられるのである。つまり、二種類の独立した属性が変化した場合、この両者が全く同時に変化することは考えにくく、中間的な様相をもったものが間に生じるであろうからである。すなわち、縫目→布目という変化と、3(1)a→3(1)bという変化とが相前後して起きた場合、[縫目+3(1)a]と[布目+3(1)b]との間に[縫目+3(1)b]ないしは[布目+3(1)a]が存在することが想定されるのであり、上の2例の製品は正にその[縫目+3(1)b]に当たるものであったわけである。また逆にこうした関係が認められる場合に、これらが一連の、すなわち同一の壺屋によって製造されたものであることを証明し得たことになるのである(挿図8)。


挿図7 挿図8

  第三の点に関して「泉州麻生」の刻印をもつ焼塩壼を生産した壼塩屋に関連する史料(史料一〜七)から知られることを整理すると、正庵(菴)と号した塩屋源兵衛もしくは治兵衛という人物が泉州津田村で正保元(一六四四)年に花焼塩を創始し、ぞの後、正庵の系譜に連なる業者(泉州麻生系の壺塩屋)が、延宝元一:(一六七三)年から享保年間(一七一六〜三五)にかけての一時期壺焼塩も製造していることであり、その際に用いられた壼が「泉州麻生」の刻印をもつ焼塩壼であると考えられるのである。

  一方筆者はかつて東京大学御殿下記念館地点出土の「い津ミ つた/花塩屋」の刻印をもつ製品(挿図9-2)について検討し、この刻印の印文が「イツミ/花焼塩/ツタ」の刻印をもつ花焼塩の容器(挿図9−1)の蓋の印文と強い類縁性をもつことを指摘し、共伴関係などからこれが二重の長方形枠の刻印をもつ、最古と目される「泉州麻生」の焼塩壼に先行する泉州麻生系の壺塩屋の製品であると論じた(小川一九九一)。しかし、津田村が中世以前の麻生郷に含まれること、また津田村が現在の貝塚市に含まれることなどが災いしてか、その所在地が途中で津田村から貝塚に移った、ということについては、これまでの研究史の中では看過され、「麻生」と「津田」とが同一視されてきていた。したがって、この段階では花焼塩の蓋の方は「イツミ/花焼塩/ツタ」と、津田村を直接示す文字を印文にもつ刻印を用いているのに対し、壺塩の方では当初花焼塩と同じく「い津ミつた」と津田村を示しているにもかかわらず、途中から「泉州麻生」に換わる理由が不明であるとしていた。これに対しその後知られるようになった史料(史料八)が重要な回答を与えている。この史料によれば、正庵はもと丹羽源兵衛という人物であり、浪人の後津田村へ来て塩屋の名跡を継いだということ、この正庵が津田村の領主である岸和田城主岡部宣勝と交流をもって家屋敷を与えられていたこと、この正庵の次女が津田村に近い貝塚寺領の卜半家の妾となり、その縁で正庵が津田村から貝塚へと移転したこと、そしてその移転に当たって岸和田城主が、花塩の銘は津田のままにしておくようにとの指示を与えたことが明らかになる(小川一九九三a)。

挿図9

  この史料は、焼塩壼の刻印に直接言及したものとしても注目されるが、泉州麻生系の壺塩屋の動向において、津田村から貝塚への移転という大きな節目が存在したことを知ることができる点が最も重要である。そしてこの移転の後も「津田」を名乗ることの許された花焼塩に対し、これを名乗ることのできなくなった壺塩の方は、刻印の印文に、例えば「貝塚」等の地名を用いて、津田からの移転をあからさまにすることを避ける目的で、津田村と貝塚とを包括した古来の地名である「麻生」を使用したものと思われる。したがって、本来花焼塩の生産者であり、近世初期から少なくとも化政期にかけて花焼塩を生産していた泉州麻生系の壺塩屋が「泉州麻生」の刻印の焼塩壺を用いたのは上の移転以後のものであり、移転以前は「い津ミ つた/花塩屋」を用いていたことが判るのである。

  次に、aの資料を含めこれらの泉州麻生系の製品の生産されていた年代を見ると、まず「い津ミ つた/花塩屋」の刻印が用いられていた時期は、史料二の内容から一六七三年が始期である。これに対して終期、すなわち壺塩屋の所在地の移転の具体的な年代は史料からは確定し得ない。しかし、「い津ミ つた/花塩屋」の焼塩壺が一重枠の「天下一堺ミなと/藤左衛門」の焼塩壺と共伴する一方、これに後続する3(1)aの「泉州麻生」の焼塩壺が「天下一御壺塩師/堺見なと伊織」の焼塩壼に共伴することから、この移転の時期が「天下一御壺塩師/堺見なと伊織」の捺されていた期間の下限、すなわ一六八二年より下ることはない。他方、史料二の成立は一六八一年であるが、この時点で津田村に所在すると記載されていることから、移転の上限は一六八一年ということになり、終期は一六八一ないし一六八二年となる。

  次にaに先行する3(1)aの刻印をもつものについて見ると、これが「天下一」の部分を削り取った「天下一御壺塩師/堺見なと伊織」の焼塩壼と共伴する例が存在する。これは東京大学理学部附属植物園内研究温室地点SK二七出土の資料であるが(成瀬ほか一九九四)、このことから、3(1)aは天和二(一六八二)年の天下一の禁令の時点までは継続したことが知られる。

  aを含めた3(1)bの刻印をもつものに関して、その具体的な年代を論ずるに足る資料はほとんどないが、その初期の段階に属するaの出土した遺構である東京大学附属病院地点のF三四−一一は、陶磁器などによる年代観として一六八〇年代後半から九〇年代前半付近に位置づけられるとの見解が示されている(堀内一九九四)。これらの最終的な下限については、史料七から見ると享保年間(一七一六〜一七三三)と考えられる。一方大塚は一七三九年初鋳とされる寛永通宝輪十後打との共伴の見られる例(東京大学法学部、文学部地点)から、さらに下ることを推定している(大塚一九九〇)。また小林らも一七四七年の被災廃絶とされる麻布台一丁目遺跡の一一二P遺構例の存在などからその下限を一八世紀中葉付近に位置づけているが(小林・両角一九九二)、いまだに明確にはなっていない。類例の増加を待って、より具体的にしていく必要がある。


  「泉州磨生」の刻印をもつ焼塩壺
  bは筆者の刻印の分類で3(2)に分類される「泉州磨生」の刻印をもつ製品である。類例は少なく、管見の限りでは東京都内で十点の報告があるに留まる。刻印は明瞭に押捺されており、内側が二段角になった二重の枠線で囲まれている。壺の成形技法はH類の板作り成形で、筆者の分類でII(1)cに分類される。胎土は赤榿色で、底面は粘土塊および粘土紐によって閉塞されていると思われるが、多くはその痕跡が明瞭ではない。内面には離型材の痕跡である粗い布目が見られる。口唇の蓋受けは厚みがあって、口縁部蓋受けの直下に平行な四条の微隆起線が、おそらくは櫛状の工具によって施されている。

  はじめにこの「泉州磨生」を生産した壺塩屋とその年代に関する史料を見ると、この焼塩壼は弓削氏に伝わっていたという史料(史料七)から、奥田利兵衛によって正徳三(一七一四)年に創始されたという壼塩屋の製品と考えられる。一方、明治三六(一九〇三)年の内国勧業博覧会の壼焼塩の出品者として奥田利吉なる者の名がその一覧に現れていると言われる(渡辺一九八五)。一方考古資料から直接実年代を決定する根拠はないが、その始期は藤左衛門系の製品との共伴関係から一七二〇年前後に求められる。他方一七三〇年代初頭をその始期とすると考えられる「泉湊伊織」の刻印をもつ焼塩壺と共伴しないことから、一七三〇年代初頭までにはその終焉を迎えていたことが推定され、一七二〇年代を通じて存在したものであることが推定される。

  さてこの製品とその刻印に関しては、特に以下の三点が重要である。

  第一にこの刻印の印文が「泉州麻生」に類似していること、第二に同じ印文でありながら、壺の形態や胎土、刻印の字体や大きさが全く異なるもの(挿図6−10)が存在すること、また逆にこの製品と全く同一の壺でありながら、「泉州麻生」の刻印をもつもの(挿図6-5)が存在すること、第三に「サカイ/泉州磨生/御塩所」という、類似する印文を持つもの(挿図6-6)が存在し、これとの関係が問題となることである。

  第一の点については、第二の点とともに類似刻印と模倣の問題として論ずることになるが、印文が指示する「磨生」に相当する地名は存在しないと考えられる。他方、口縁部蓋受け直下の微隆起線も、前項で述べたaに見られる調整痕を模したものと考えられ、その成立が「泉州麻生」の焼塩壺そのものの模倣に由来したものと考えることができる。

  第二の点のうち、前者は次項の「泉川麻玉」の刻印をもつものの部分で述べることにする。後者の報告例は一例であるが、未報告の資料の中にも同様のものが存在する。その刻印は前項で述べた「泉州麻生」の刻印をもつ一群とは異なり、いずれも筆者の分類で(2)gとしたものであり、また逆にこのタイプの刻印が見られるのはいずれもbと同様の壼のみである。したがって、印体レベルで見た場合、II(1)cの壼に見られる刻印は「泉州磨生」と(2)gに分類される「泉州麻生」のみである。このことは、壺屋と壺塩屋の関係について検討する上で重要な意味をもつものであり、模倣に関する部分でさらに詳論したい。

  第三の点は、先に論じたように印文が同じであることは壺塩屋の系統の同一性を必ずしも保証しないという筆者の考え方から、印文の一部に「泉州磨生」の語を含んでいるとしても、直ちにこの資料がbの「泉州磨生」と直接の系統関係にあると結論することはできない。

  そこで年代的な位置づけを見ると、この刻印を持つ製品の始期は、藤左衛門系の製品である「泉湊伊織」以前のものとの共伴がないことなどから一七四〇年をそれほど遡らないと思われ、また終期は刻印を有するロクロ成形の製品との共伴が見られないことから一七五〇年前後に求められ、少なくとも一七四〇年代を通じて存在していたことが推定される。このように、「泉州磨生」と「サカイ/泉州磨生/御塩所」のそれぞれの刻印をもつ焼塩壺の間には年代的な隔たりもあり、これらを同一の系統の壺塩屋の製品であるとする積極的な根拠は存在しない。壺屋の系統の異同を含め、資料の増加を待って改めて検討を加える必要がある。


  「泉川麻玉」の刻印をもつ焼塩壺
  cは筆者の刻印の分類で3(2)に分類される「泉川麻玉」の刻印を持つ製品である。類例は少なく、管見の限りでは東京都内で十三点の報告があるのみである。刻印は隅の切られた一重の長方形の枠線で囲まれている。壼の成形技法はII類の板作り成形で、筆者の分類でII(2)bに分類される。胎土は黄褐色で、金色の雲母粒子を含むという際立った特徴を有する。底面は指頭でえぐるように押圧されている。内面には離型材の痕跡である編布状の布目が見られるが、下方約三分の一ないしはそれ以下の部分が段を介して平滑になっている。口唇の蓋受けは低く、痕跡的である。

  この製品とその刻印に関しては、特に以下の三点が重要である。第一にこの刻印の印文が「泉州麻生」に類似していること、第二に「麻」字の摩垂れの中の林の左側の「木」字が「本」字となっていること、第三に胎土や器形に共通点を有する異なった刻印の製品が多種存在することである。  第一の点は、「泉州磨生」と同様、この印文が指示する地名等は存在しないと思われるところから、「泉州麻生」の模倣の意図のもとに成立したものと考えられる。

  第二の点は、元来は存在しない文字を使うことによって、完全な模倣であることを回避したとも思われる。同様の例として、前項で触れた「サカイ/泉州磨生/御塩所」の「磨」字や、以下に述べる真砂遺跡、上野忍岡遺跡出土の「泉州磨生」の「磨」の字にも見られ、焼塩壼を離れると土製の南鐙二朱銀や天保の一分銀で本来「座」の文字の部分に「」という字を用いている例と相通ずるものであるかも知れない(寄立一九八九)。異体字の確認とともに、模倣に関する議論の一環としてもそうした異形文字使用の習慣の有無を確認して行かなくてはならない。

  第三の点は、胎土に金色の雲母粒子を含むという最も特徴的な属性を共有するものであり、成形技法や器形等において若干の差異があるが、一連の変異の中に位置づけられると考えられる一群の焼塩壺である。それらの内刻印を有するものには「御壺塩師/難波浄因」「難波浄因」「摂州大坂」「泉州麻生」「泉州麻玉」「泉州磨生」「泉川麻玉」「泉川麻王」「泉湊伊織」の印文のものが見られ、中でも「泉湊伊織」はきわめて類例が多く、共伴関係等から見て年代的に最も新しい一群であることが確認されている。なお、ここで「泉州麻生」としているのは、「泉州麻生」の刻印をもつものの内で筆者が(2)hと分類したタイプの刻印をもつものである(小川一九九四b)。また「泉州磨生」としているのは、真砂遺跡および上野忍岡遺跡から出土した資料であり、後者の報告で「泉州麻星」とされたものであるが、ここでは「泉州磨生」としておく。これらは刻印を有するものに限っても壺の諸属性上強い類縁関係をもっており、両角の指摘(両角一九九二)にもあるように「同一の技術的背景をもった製作者集団」すなわち壺屋による製品の一群であると考えられる。しかし、これらが壼塩屋の異同と如何に関わっているのかに対する見通しを得るためには、これらが同時に存在したものであるのか、あるいは年代的な変遷を経たものであるのかを検証する必要がある。

  そこでこれらの焼塩壺の法量を同じ座標上に記して検討すると「御壺塩師/難波浄因」「難波浄因」「摂州大坂」「泉州麻生」「泉州麻玉」「泉州磨生」の刻印をもつものが「泉湊伊織」の焼塩壼の領域の上方にわずかに重なるように位置していることがわかる(小川一九九五)。より詳しくみると、その中でも「泉州麻生」「泉州麻玉」「摂州大坂」がやや上方に、「御壺塩師/難波浄因」「難波浄因」および「泉州磨生」がわずかに下方に位置し、この三種が「泉湊伊織」の焼塩壼の領域内に分布しているといえる。

  「泉川麻玉」の刻印をもつものは、この後三者の領域に一部かかり、かつ「泉湊伊織」の刻印をもつものの領域の上方にも比較的広く重なり合って分布している。このことは「泉川麻玉」の刻印をもつものが、「泉湊伊織」の焼塩壺よりわずかに古く出現し、これよりも早くその終焉を迎えていることを推測させるものである。具体的には、一七二〇年代末から三〇年代初頭に出現し、三〇年代の後半から四〇年代のはじめには終焉を迎えると考えられる。

  そこで、これらの製品について改めてその印文をもとに検討すると、前田が述べている藤左衛門系の壺塩屋の末喬からの聞き取りの結果をもとに渡辺が論じた、藤左衛門系の動向が重要になってくる。すなわち、藤左衛門系の壺塩屋は八代休心の時代に大坂に出店を出していたこと、九代目の藤左衛門が湊村の船待神社に寄進した菅公像画幅裏面の願文に元文三(一七三八)年の紀年があるということである(渡辺一九八五)。したがって、大坂の支店は遅くともこの年までには設置されていたことがわかる。

  そこでこれを法量分布から推定される年代観と併せ考えると、まず藤左衛門系の壺塩屋は一七二〇年代には生産の主体を大坂に移し、おそらくは何らかの刻印の壺を生産する。一方で、少なくとも一七二〇年代には大坂の地で「泉州麻生」「泉州麻玉」「摂州大坂」の刻印をもつ焼塩壺が生産されはじめ、その後「御壺塩師/難波浄因」と相前後して「難波浄因」「泉州磨生」が、次いで「泉川麻玉」が、さらに「泉湊伊織」が生産されるようになる。これらの大半はわずかな期間で終焉を迎えるが、「泉川麻玉」と「泉湊伊織」の刻印をもつものが残り、一七四〇年代には「泉湊伊織」の焼塩壺のみとなり、後に刻印のないものばかりとなる。藤左衛門系の壼塩屋は明治時代まで壺焼塩の生産を行っていたことが知られているのであるから、おそらく上記の変遷の中の「泉湊伊織」および、無刻印のもののおそらく一部は少なくとも藤左衛門系の壼塩屋の製品ということがいえよう。このことは印文中の「伊織」の名によっても裏付けられる。

  このように考えると、「御壺塩師/堺湊伊織」の刻印をもつ製品の終焉後「泉湊伊織」の焼塩壼の出現までの約十年間の藤左衛門系の壼塩屋の製品は、「御壺塩師/泉湊伊織」などではなくて、この間に出現した一連の刻印をもつものであると考えるべきであろう。もちろん一つの壺屋が異なった壺塩屋の製品を作ることもありえなくはない。たとえば上記のうち「御壺塩師/難波浄因」は、「御壺塩師」が共通しているものの、藤左衛門系との関連をうかがわせる固有名詞は含まれていない。したがって渡辺の指摘するように「御壺塩肺/難波浄因」および「難波浄因」の刻印をもつ製品を藤左衛門系の大坂の支店のものとする積極的な根拠はないことになる。しかしこれを除くと残りの刻印の印文は、他の既存の壺塩屋の刻印と同じ印文である「泉州麻生」と「泉州磨生」、模倣の結果生じた印文である「泉州麻玉」「泉川麻玉」等、オリジナルなものではない。また「摂州大坂」も基本的には「泉州麻生」の模倣といえよう。全く異なった固有名詞をもつ「御壺塩師/難波浄因」「難波浄因」を仮に別の壺塩屋の製品としても、それ以外は「泉湊伊織」に先行する藤左衛門系の製品と考えるべきであろう。大坂に支店を出すに至った事情は明らかでないが、おそらくは事業の拡大というよりも「泉州麻生」の刻印をもつものが市場を席巻し、その影響から凋落の道を辿りはじめた藤左衛門系の壺塩屋が、大阪へ生産地を移動し、これに応じて壺屋も変更したのではなかろうか。そして当初は「泉州麻生」のような同一の印文の製品や「摂州大坂」のような印文の製品を作るが、抗議をうけるなどして、初め「泉川麻玉」、次いで「泉湊伊織」の刻印をもつものを作るようになる。その後一七四〇年代には「泉川麻玉」の製造は中止され、「泉湊伊織」に一本化されるという経緯を辿ったと推定されるのである。


  模倣に関する議論
  さて、ここまで述べて来るに当たって「系統」、および「模倣」という語を幾度か使ってきたが、これについて以下で整理しておく。

  「模倣」という語は当初、壺焼塩の生産技術そのものの盗用に対して用いられており(前田一九三四)、「泉川麻玉」のような「泉州麻生」に類似する印文の刻印は、「何か意味があるのかもしれない」などとされながらも誤記と見られてきた(長瀬一九八五)。しかし、先に述べたような事情で中世以来の麻生郷の地名を商標として採用するようになったと考えられる「泉州麻生」を除けば、今の所具体的な地名などとの対応を見いだし得ない「泉州磨生」をはじめ「泉川麻玉」「泉州麻玉」「泉川麻王」などの印文の成立の背景には、すでに商標としての価値の確立した製品に倣おうとする模倣の意図があることは疑い得ない。丸の内三丁目遺跡で報告されている「ミ名戸/久兵衛」「ミなと/久左衛門」「ミなと/作左衛門」「ミなと/平左衛門」も、その系譜が中世まで遡るとされる「ミなと/藤左衛門」の模倣の意図のもとに成立した刻印であると考えられる。

  このほか刻印の周囲の枠線が内側二段角の二重枠であることや、印文が四文字の一行書きで表されることなども、刻印の表現を模倣したものということができよう。同様の例として「泉州麻生」の刻印をもつ最も古い段階の刻印の枠線が長方形二重枠であることが、藤左衛門系の壼塩屋の製品である「ミなと/藤左衛門」や「天下一堺ミなと/藤左衛門」の枠線に倣ったものと見ることができる。

  このような形で、他の壺塩屋が模倣の意図をもって特定の刻印の印文やその他の表現を似せたものを採用し、あるいは壺屋に特定の器形や調整を似せたものを作らせるということがあったと考えられる。したがって、刻印の印文が全く同一のものも用いられることがあったのではないか、というのが筆者の立場である。そして、これを本家、すなわちオリジナルの製品から弁別する際の手がかりとなるのが、刻印の微細な観察による分類と壼との対応関係である。つまり、同一の印文でありながら、他の壼塩屋の手によって作られた刻印、すなわち同文異系刻印とでもいうべき刻印は、必ずオリジナルとは異なった壺に捺されており、その壺には多くの場合、別の刻印が捺されているからである。

  しかし、これを否定的に見る見方も存在する。大塚は「……別々の作り手集団によると考えるべきものを、あたかも一方が「本物」で他方が「偽物」であるかのような議論をするのは感心しない。……そのような詮索をするのではなく、課題は焼塩壼の製作に関わった集団がどれくらいあったか、その弁別であろう」(大塚一九九一)とし、小林・両角も「器形は異なるが印文が同一のものに対して「刻印の印文が完全に模倣された」と捉えられるのであろうか。壼塩屋が銘を管理し、注文した幾つかの容器メーカーに印文を使わせれば同様の状態になるのではなかろうか」(小林・両角一九九二)としているのである。

  しかしむしろ筆者が強調したいのは、印文が同一であるからといって即座に同一の壼塩屋と断ずることの是非を問うているのである。また刻印の微細な観察によって明らかにしうる印体レベルでの同定が、こうした壺塩屋と壺屋との相互の関係を明らかにしうると考えているのである。この点を考えるとき問題となるのは、壺塩屋と壺屋の関係であり、印体の管理を壺屋と壼塩屋のいずれが行っていたのか、という点である。

  筆者は壼塩屋が印体そのものを壺屋に貸し与える形で管理していたこと、したがって印体レベルでの刻印の異同が、やはり壺塩屋を直接表象していること、先に見た「御壺塩師/堺湊伊織」の刻印の使用時に見られたような壺屋の乗り換えはきわめて例外的なことであって、基本的には壺屋は壺塩屋と一対一の関係を取り結んでいたものとの結論を導いた。このことは、前田による藤左衛門系の末裔という弓削氏からの聞き取りに「凡ての印形印板の類が完全に保存され……」(前田一九三四)とある所からも推定される。さらにこのことは、同一の印文であっても印体レベルで特定の壼塩屋の製品とは異なる刻印が、他の刻印をもつ壺と同じ壺に捺されていた場合、これを壺屋が複数の壺塩屋の下請けとして壼を作っていたのではなくて、壼塩屋の模倣の意図のもとで、同一の印文の製品が作られたことを示す証左と考えうるものである。


  以上、焼塩壺という一見地味な素焼きの壺を対象に、その内の特定の刻印が物語る近世の特異な商品の生産に関する議論の概略を述べてきた。刻印を有する壺焼塩といういわばブランド商品が既に存在したこと、そしてその必然的な結果としてそのコピー商品が現れたことは、前代に比べて飛躍的に市場経済が発達した近世という時代の中にあって、市場の動向を鋭敏に取り入れて生き残っていこうとする同業者間の、現代を髣髴とさせるような熾烈な競争を反映していると見ることができる。今後、この焼塩壼の汎列島的な出土の状況やその数量的な把握等を通じて壺焼塩の流通や壺屋、壼塩屋の消長をさらに詳しく明らかにすることによって、当時の社会や経済の実態の一端にさらに迫って行くことができるものと思う。
(小川 望)



【史料】

史料一 『了珍法師日記』慶安元(一六四八)年九月二十三日条
  津田之花焼塩五ツ入壱折卜半様より清滝寺様へ、音信書状有
史料二 『和泉国村々名所旧跡付』延宝九(一六八一)年 花焼塩麻生之郷内津田村
  是は三拾七年以前より正庵といふもの焼出す。又八年以前より壺焼塩も焼出し諸国へ商之。
史料三 『農事調査書』元禄元(一六八八)年頃の写本
  一、花焼塩・同壺焼塩焼出す。「一、花塩、焼塩也。近年焼始め夥しく売出す。今は貝塚にあり」。
史料四 『泉州志』元禄一三(一七〇〇)年刊 花塩出津田村
  津田村有正菴者近来焼花形塩所賞干世津田花塩是也
史料五 『和漢三才図会』正徳二(一七一二)年 和泉土産の部 花塩津田
史料六 『和泉志』享保二一(一七三六)年刊
  四之五 土産製造之部 花塩 津田村山團塩為花様
史料七 『弓削氏の記録』
  壺印麿生なるものは正徳三辰年より堺九軒町当時在住奥田利兵衛なるもの(堺海船鳥屋長兵衛子)伊織方下女つまと馴合奥田利兵衛の女房となり伊織が秘法を盗み盛に妨害せり云々。
  壼印麻生なるものは、延宝年間より享保年間に渡り、泉州貝塚塩屋治兵衛なる人伊織方へ表面視察といふ様にして細縄にて竃の寸尺を窺ひ勘帰し跡にて其偽なるを知り即時追掛け細縄を取戻し云々と採録せり
史料八 『卜半家来之記』天保一一(一八四〇)年
  丹羽源兵衛正庵先祖ハ丹羽勘介ト云壱万石取也
正庵尾張大納言殿ニて知行三百石二て奉公後浪人して岸和田へ来り夫より津田村乃塩屋乃名跡相続也正庵事岸和田城主岡部美濃守宣勝殿へ茶湯之事二て御出入申候願事有之候者ゝ可聞届由被仰候時正庵事地子御免許御願中候所即津田村正庵家屋敷五百坪御免許被成候其後第二女を中与左衛門六才之時5受取置後中与左衛門女ト半了匂へ婚礼之節彼女を附ケて罷越候其以後彼女了匂妾と成夫故正庵を貝塚へ呼寄せ屋敷五百坪之地子免許志て被遣源兵衛も了匂家来二成る但花塩乃銘ハ津田と可致由岸和田5被仰候故今ニ津田と銘を書き申し候泉州志ニ津田乃花塩ハ正庵より初而と云ハ誤里也正庵妻妙玄祖母乃曾伯父ハ明智日向守光秀也ト云又二代目乃源兵衛従弟二五百石位乃旗本衆有之由語里博ふ泉州世六人衆乃内沼村川崎紋兵衛事大坂門跡攻之時信長公乃命を蒙ふ里河州泉州乃勢を催して行住吉二て神木をき里陣取す其神罪二て流矢二あた里死す紋兵衛子孫沼村庄屋源太夫と云源太夫仕損し有之候て沼村を立退申候源太夫男源兵衛事丹羽正庵名跡相続す

【参考文献】

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小川望、一九九一、「「泉州麻生」を生み出した「花塩屋」について」『江戸在地系土器研究会通信』二二
小川望、一九九二、「大名屋敷出土の焼塩壺」『江戸の食文化』
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