第一部

記載の世界



22a 鳥の餌・水入れ
一九世紀前半
瀬戸美濃窯、陶器、本郷構内御殿下記念
館地点四九号遺構出土
口径四・七cm、底径四・七cm、器高二・五cm
埋蔵文化財調査室蔵
22b 鳥の餌・水入れ
一九世紀前半
瀬戸美濃窯、陶器、本郷構内御殿下記念
館地点四九号遺構出土
口径五・二cm、底径四・六cm、器高二・五cm
埋蔵文化財調査室蔵

東京大学本郷構内の遺跡、御殿下記念館地点四九号遺構より出土した遺物である。a、bともに、瀬戸・美濃産の「鳥の餌・水入れ」と称される小型の陶器で、背の低い円筒形の体部に粘土紐の張り付けによるドーナツ状の把手が付けられている製品である。

  底部中央にはロクロ成形時に生じた回転糸切り痕が残る。紬は体部外面から内面にかけて灰白色を呈する灰釉が掛けられており、底部と口唇部は無釉である。これは、釉による製品同士の溶着を防ぐことを目的とした技法として用いられることが多く、本製品は複数個体を直に重ね、窯積めされたものと考えられる。そして底部無釉部分には「御鳥御用」(a)、「纏」(b)の墨書が各々書かれている。この墨書の意味に触れる前にこれらの出土した御殿下記念館地点と、四九号遺構について概略したい。

  東京大学本郷キャンパスの大半は、江戸時代には加賀藩の江戸藩邸であったことは周知の通りであるが、御殿下記念館地点は、育徳園(現在の三四郎池を含む庭園)東側に隣接し、本郷邸が上屋敷となった天和三(一六八三)年以降幕末まで、ほぼ一貫して藩邸内の「御殿空間」を構成する一部分であった。その土地利用は文献・絵図史料から以下のような変遷が確認される。一八世紀中葉から末までは「坂下御厩」が、享和二(一八〇二)年から一八二〇年代頃までは「梅之御殿」が、「梅之御殿」解体以降は一八二〇年代頃から「馬場」が、一八六〇年頃から「米蔵」が存在した。一方、発掘調査からは、約一・五メートルを測る江戸時代の盛土層中より各期の生活面が確認され、「厩」「梅之御殿」「米蔵」の基礎遺構もほぼ絵図面に一致し検出された(東京大学埋蔵文化財調査室一九九〇)。

  本製品を出土した四九号遺構は、上部にらせん状の階段が付設された方形土坑を伴う井戸である。この井戸は絵図による記載が見られないが、下限は米蔵の掛塀の土台基礎の切石が遺構の覆土中より確認されていることから一八六〇年頃と推定される。上限は明確ではないが、本製品を含む出土遺物の年代から「梅之御殿」解体後の可能性が高い。「鳥の餌・水入れ」は、瀬戸・美濃産陶器が本製品を含め十四点、清朝磁器が一点とまとまって出土している。

  さて、本製品の墨書であるが、aの「御鳥御用」は用途を、bの「」は所有者を表している。

  名称・用途に関してはその形態から「鳥の餌、水入れ」(あるいは「鳥の餌入れ」)とした報告書等がほとんどであるが(『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 四』でも「鳥の餌入れ」としている)、「御鳥御用」は本製品の用途の傍証を成すものである。この名称・用途に関して小林克は、同形態で把手のついていない製品も含め以下のように検討している(小林一九八八)。

  江戸遺跡の報告例で最初に「鳥の餌入れ」という名称を使用したのは動坂遺跡の佐々木達夫の報告で、ここでは把手のついていないものも含めて「鳥のエサ入れや水を入れたといわれるもの」としているが、その後の各報告例の中には把手のついているものだけに限定したり、名称も「餌入れ」のみに限定しているケースが多く、当初佐々木が可能性を含め類推した表現が、未検討のまま一人歩きを始めていることに危倶し、再検討の必要性を指摘している。また用途の一例として、滝沢馬琴が越後塩沢の文人鈴木牧之に宛てた書簡「金雀養方」の中にドーナツ状の把手のついた製品の図が描かれ、その脇に「水入レはかごの口へたにはいれずなるたけ大きなるがよしやはりかごの内とまり木のきはへかけおく也 ゑ入レはかけず下にすゑおく也」と説明文が付けられていたことから、把手のついている製品は「水入れ」として、ついていない製品は「餌入れ」として扱われている例を提示しているが、鳥の大きさ、飼育法、籠の大きさ、形態などの規制から一律には考えられないと結んでいる。

  本製品の用途も「餌入れ」なのか「水入れ」なのかは断定できるところではないが、少なくとも江戸時代後期に出土例が増加する本製品が、鳥の飼育に関する製品であることは墨書が物語ってくれるところであろう。bに墨書された「」は第十四代藩主前田慶寧のお印といわれている。慶寧は、輿入れにあたり赤門が造営されたことで知られる、徳川家斉の斉女溶姫を母とし、天保元(一八三〇)年五月四日に江戸本郷邸にて生まれた。慶応二(一八六六)年に前田家最後の藩主を襲封し、明治七(一八七四)年に没している。この間参勤交代にて金沢に在府している期間除き、本郷邸で生活していたことが史料から理解できる。お印に関しては、現在の皇室の慣習から類推すると生誕時から付けられていた可能性が高いが、「梅之御殿」解体後に構築されたとする遺構の年代観とも矛盾しない。

  このように二例の墨書から、本製品は、慶寧が所有する鳥の飼育に用いられた容器であることが窺えるが、容器の法量から鶏、鷹などの家畜、猛禽類ではなく、小鳥の飼育に用いられたものと考えられる。江戸における小鳥の飼育は、小林によると「金雀養方」の中に、カナリアは天明年間頃に輸入され、文政年間頃には盛んに飼われていたことを示す記述があるとされるが、江戸時代加賀藩の支藩の大聖寺藩邸があった、医学部附属病院中央診療棟地点(束京大学遺跡調査至一九九〇)での出土傾向を例に取ると、本製品は一八世紀中葉頃に出現期が求められ、一九世紀に入ると増加する傾向が認められ、カナリアに限らず、一九世紀の江戸では小鳥の飼育が流行していたことが考えられる。
(成瀬晃司)



【参考文献】

小林克、一九八八、「「鳥のえさいれ」について」『江戸遺跡研究会会報 一五』
東京大学遺跡調査室、一九九〇、『東京大学遺跡調査室発掘調査報告書 三 東京大学本郷構内の遺跡医学部附属病院地点』
東京大学埋蔵文化財調査室、一九九〇、『東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書 四 山上会館・御殿下記念館地点』



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