ディオスコリデスと植物園

青柳正規


この地球上には、現在一、五〇〇を超える植物園と植物園類似の施設があるという。系統を異にするいろいろな植物を集めて栽培すると同時に、植物についての研究ならびに生きた植物の展覧を通して教育・啓蒙を行うところが植物園である。したがって植物園とは、ただたんに植物を集めて栽培するだけの場ではなく、だれもが植物に親しく接することができるよう、なんらかの方式で植物を植え込んだ庭園でもある。この植物園という庭園様式は、庭園技法の発展に大きく作用してきただけでなく、文化と科学のあり方にも多大な影響を与えてきた。そこで、ヨーロッパでの植物園発祥にいたる歴史をたどってみることにしよう。

デイオスコリデスの園
 今日の植物学の系譜をたどるとディオスコリデスの本草学がひとつの起源になるといわれている。つまり彼が著した『マテリア・メディカ』の教えを忠実に学び、それに注解を加えることが学問としての植物学の発端であり、そのような学問状況はかなり長く続いたようである。ヨーロッパだけでなくイスラム世界でも『マテリア・メディカ』が一種の権威とみなされた時代、イタリアやヨーロッパ中部の都市もしくは修道院に『マテリア・メディカ』に記載された薬草を栽培する薬草園がつくられるようになる。長い歴史をもつ植物園には、このディオスコリデスの園に端を発しているものがすくなからずある。したがって、植物園誕生の契機となったディオスコリデスの『マテリア・メディカ』とはどのような書物であるのかを見ておかねばならないだろう。

 ヨーロッパの学問と芸術の多くは古代のギリシア・ローマ文化にその起源を求めることができる。薬草の研究も同様で、紀元前二世紀までさかのぼることができる。紀元前一二〇年、黒海南岸にあるポントス王国の王に即位したミトリダテス六世はクラテウアス(KrateuasまたはCratevas)という侍医を抱えていた。世に知られた名医であると同時に本草学者でもあった彼は、薬草の彩色挿絵をのせた著作をまとめている。クラテウアスの著作は、残念なことにすべて失われ現存しないが、一部が他の著作に引用され、その内容を断片的に知ることができる。

 ポンペイとヘラクラネウムを壊滅させた七九年のウェスウィウス火山の噴火で不幸な死を遂げた大プリニウス(Gaius Plimius Secun-dus)はクラテウアスの彩色本草図のことを『博物誌』に記している。プリニウスが見たクラテウアスの著作が彼自身の手による稿本なのかそれとも写本なのかはわからないが、写本である可能性が高い。というのも、ポントス王国はローマ帝政期にはいっても王国としての自立性を認められており、その王室図書館に長く保存されていた蓋然性が高いからである。もちろん名著としての評価をはやくからうけていたので、多くの写本が製作され、その一つをローマのパラティヌス丘にあったアポロ神殿付属図書館でプリニウスが見たのかもしれない。

 このクラテウアスの後継者の一人と見なされているのがディオスコリデスである。彼はプリニウスと同時代の人物で、ディオスクリデスPedianos Dioskuridesともいい、ローマ皇帝であるネロとウェスパシアヌスの時代(五四〜七九年)、小アジアに生まれ、多くの地方を見聞したと記されているので、従軍医であったのかもしれない。

 彼の主著『マグヌム・オプスMagnumopus』は、ギリシア語によって書かれた薬草についての本で、一般にはDe materia medica libriquinqueを略した『マテリア・メディカ』の名で広く知られている。デ・マテリア・メディカとは薬の材料についてという意味であるから、『本草書』と訳すこともできる。

薬草園と薬の貯蔵室
1 本草学者の薬草園と薬の貯蔵室
(Das Kreüteruch oder Her-barius,1534年より)



『マテリア・メディカ』の広まり
 この『マテリア・メディカ』にはおよそ五〇〇種の薬用植物が採録されていたと推定される。後述の写本の一つ、ウィーン本には薬草の彩色図が描かれているが、原本には図がなかったと考えられている。必要な場合、クラテウアスの彩色図を参照すればよかったからである。

 残念ながら『マテリア・メディカ』の原本および同時代の写本ともに現在まで伝わるものはないが、後世の写本がいくつか現存している。そのうち最も古い写本はビザンチン時代の五一二年頃に製作されたものである。この写本は一五六九年に幸運にもコンスタンティノープルで発見されウィーンの帝室図書館に収蔵されることになり、『ウィーン本、Codex vindobonensis』と呼ばれている。この『ウィーン本』は所有者であったアニキア・ユリアナという貴婦人の名前を冠して『アニキア・ユリアナ写本』と呼ぶこともある。

 『ウィーン本』では薬草のすべてが図示され彩色をほどこされ、描かれた薬草を取り囲むように、その薬効や処方などがアンシャル字体(古写本に用いられた大文字だけによるギリシア文字の書体)で記入されている。しかし、この書の彩色図の多くはクラテウアスから借用したものと考えられている。つまり『ウィーン本』の『マテリア・メディカ』は、クラテウアスの著作から写した薬草の彩色図にディオスコリデスがギリシア語で解説を書いたものなのである。

 『ウィーン本』の植物画の多くは正確で描写も細部に及んでおり、科学的な同定に耐えるものであった。ケンブリッジ大学のシーブソープは、一七八四年、ギリシアヘの植物調査の途中ウィーンでこの古写本を研究し、ジェームズ・エドワード・スミスと共著で『ギリシア植物誌』を出版することによってその同定結果を示し、ディオスコリデスの植物名を引用した。こうしてディオスコリデスの薬草研究は近代植物学の系譜の中に学術的位置を与えられることになったのである。

 『マテリア・メディカ』にはこのほかにも多くの写本がある。それらの多くは六世紀から一〇世紀にかけて製作されたもので、ギリシア語だけでなくラテン語やアラビア語、英語にも訳されている。

 中世を通じてディオスコリデスの名声は高まりこそすれ、衰えることはけっしてなかった。そのことは著名な本草学者ルカ・ギー二が「ボローニャのディオスコリデス」と呼ばれたり、各地の有名な本草家が何々のディオスコリデスという名前で呼ばれたことからも十分推測することができる。




植物園の誕生
 ヨーロッパの初期の植物園が『マテリア・メディカ』に採録されている薬草を中心に栽培し、それを研究する薬草園に端を発していることはすでに述べた通りである。そのような薬草園では、薬草自体の研究だけでなく医学全般の教育も行われていた。なぜなら当時の医者に求められていた知識と技術は、病気にもっとも効果的な薬を処方することであり、外科的な手術によって患部を摘出するような治療はかなり限定された範囲でしか採用されていなかったからである。

 したがって、医者は薬となる植物を熟知することによってはじめて適切な薬の処方、つまり治療が行えたのである。このような背景があったからこそ、薬草園は次第に公共的な性格を有するようになり、大学の医学部に設置されるようになる。

 この段階にいたる以前の薬草園を考えるにはローマ時代までさかのぼる必要がある。ポンペイやヘルクラネウムの遺跡を見るまでもなく、ローマ人の住宅には中庭(ウィリダリウムもしくはペリステュリウム)があり、薬草が栽培されていた。ただし、薬草といってもその多くは今日香草と呼ばれているような、芳香や刺激成分をもつ植物だったと考えられる。薬草は「神が定めた自然の効能をもつ」植物であり、悪魔が生み出した、不自然な効能をもつ邪悪な言葉や呪文よりもはるかによいと信じられていたのである。植物が自然にもつ芳香や刺激臭は悪魔の接近から人々をまもる効果があると信じて疑わぬ時代だったのである。

 古代ローマ人の植物への関心は、食料としての穀物や野菜、薬草という範囲を超え、今日の園芸植物の一部にまで広がっていた。それはローマが地中海域全体を支配する大国に発展する以前の、都市国家に過ぎなかった共和政時代の社会構造に起源を求めることができる。

 共和政が成立する紀元前六世紀末からサムニウム戦争が勃発する紀元前四世紀末まで、ローマ人の多くは農業牧畜に携わる農民が社会の中核をなしていた。彼らは一〇ヘクタール程度の耕作地を所有する中小規模の自由農民で、戦時には自ら武器を携えて戦場に出かける兵士でもあった。このような農民が社会の中核を構成していたので、自然に対する関心がきわめて大きな国民であり、そのことがローマ人の伝統的な精神性の形成にも作用していた。紀元前三世紀の第一次、第二次ポエニ戦争を経過したローマ社会は、ギリシア文化の影響を受けて「ギリシア風に生きる」ことが流行となり、その先頭を切ったのがスキピオたちであるが、伝統的精神がすべて変わることはなかった。

 ローマ社会のギリシア化にともなって美術品をはじめとするさまざまなギリシアの文化財がローマに流入しただけでなく、学問、思想、技術も伝わってきた。そのなかに、セレウコス王朝およびプトレマイオス王朝から伝わったのがアルス・トピアリアars topiaria(庭園術)である。ヘレニズム王国において培われた庭園術の起源はおそらく空中庭園などを生み出したメソポタミア地方にあると考えられている。

 この庭園術がローマ人固有の自然に対する関心とあいまって都ローマにはいくつかの広大な庭園hortusが出現する。それらの主なものを造園年代にしたがって列挙するとほぼつぎのようになる。


アキリウス庭園 Horti Aciliolum
 ピンキウスの丘Mons Pincius に紀元前二世紀頃造られた。のち皇室所有となる。

ポンペイウス庭園 Horti Pompeiani
 ポンペイウスがカンプス・マルティウスに造った庭園。

サルスティウス庭園 Horti Sallustii
 紀元前一世紀の歴史家サルスティウスSal-lustiusがローマ第六区Region VI に建設した庭園で、のち皇室所有となる。

アグリッパ庭園 Horti Agrippaeqpae
 カンプス・マルティウスCampus Martiusのアグリッパ浴場に隣接して造られ、紀元前一二年、ローマ市民に遺贈される。

ルクッルス庭園 Horti Lucull(i)ani
 紀元前六〇年頃、リキニウス・ルクッルスがピンキウスの丘に造った庭園。

アシニアヌス庭園 Horti Asiniani
 紀元前一世紀、のちにカラカラ浴場が建設される地域に造られた。

カエサル庭園 Horti Caesaris
 現在のポルトゥエンシス門近くに造られた広大な庭園で、クレオパトラが滞在する。カエサルの死後はローマ市民のものとなる。

マエケナス庭園 Horti Maecenatis
 エスクイリヌスの丘Mons Esquilinusにマエケナスが造った庭園で、その死後皇室所有となる。

アグリッピナ庭園 Horti Agrippinae
 現在のサン・ピエトロ聖堂のあたりにあった広大な庭園で、カリグラの所有となり、のちにネロ庭園Horti Neronisと呼ばれるようになった庭園と推定される。

ラミニア庭園 Horti Laminiani
 紀元前一世紀末、執政官のアエリウス・ラミニアが造った庭園で、ティベリウスに遺贈される。

ドミティア公園 Horti Domitiae
 ドミティアヌスの妻がハドリアヌス墓廟の近くに造った公園。


 紀元前二世紀から紀元前一世紀にかけて都ローマに建設された庭園は、ごく少数の大富豪や権力者によるものであり、一般の貴族や金持ちは都のそとに別荘を構え、そこに緑豊かな別世界をつくるようになる。ポンペイなどに残る住宅に中庭が登場し、庭園としての整備がなされるようになるのは、そのような別荘環境を都市のなかにも確保しようとする願望の具体化とも考えられる。

ローマ人にとって自然と親しめる環境を確保することは、豊かさと幸せの象徴でもあり、したがってそのような緑あふれる場所を「喜ばしきところlocus amoenus」と呼んだ。アウグストゥスの妃リウィアがプリマ・ポルタの別荘地下室の壁面全体に庭園を描かせたのは、そのような憧れの具体的表現だったのである。

 ローマ人が住宅や別荘にどのような植物を植えていたかは、最近の研究で次第に解明されつつある。そのなかでとりわけ関心の強かったのがバラである。貴族や富豪はバラで部屋を飾り、バラやサフランの花に埋もれた部屋で食事を楽しんだ。ナポリの南方のパエストウムには多数のバラ園があり、遠くエジプトやカルタゴあたりからもバラを輸入していた。このような生活に密着した植物への関心と広い地域を対象とする植物の往来が植物自体を研究する動機を与えたのである。そのことはプリニウスの『博物誌』を見るだけでも十分に理解できる。

 以上のようなローマで培われた庭園術とそれによって実現した庭園の伝統は、厳しい中世の社会には十分に継承されることがなかった。しかし、時代が下がるにつれ本草学者の間に、各地の薬草を求めて旅行することが盛んになる。ディオスコリデスの『マテリア・メディカ』に採録されていない、薬効をもつ植物を求めてのプラント・ハンターの旅とでもいえよう。その結果もあって、植物全般についての情報も飛躍的に増大し、やがてどこにどんな植物があるのかという記載も行われるようになった。本草家が持ち帰った薬草は試してみなければ薬効があるかどうかわからないため、植物を植えて育てる試験場となったのはもちろん薬草園である。外形は似ているが、薬効がまったくないというようなことが徐々に判明してくると、似ている植物同士の比較を通して、微妙な性質の違いにも通暁するようになる。

 本草学者の一部の人々の関心はやがて薬効から離れ、植物そのものに向かうことになり、ここに植物学が誕生するのである。そうなると薬効の有無とは関係なく、多種多様な植物が集まるようになる。こうして様々な植物が集められ、植物を学ぶ人々のための庭園である植物園が誕生する。




世界最初の植物園
 世界で最初に植物園ができたのはイタリアである。最古の植物園とみられているのはルカ・ギーニが一五四三年に創設した、ピサ大学植物園(Orto Botanico)である。この植物園のことは当のギーニが、メディチ家のコシモ一世の執事長リッチ(Riero Francesco Ricci)に宛てた一五四五年七月四日付けの手紙で、その存在にふれている。ついで一五四五年にはフィレンツェ大学とパドヴァ大学の植物園が、一五四七年にはボローニャに植物園が誕生した。パドヴァの植物園(Orto Botanico)は一五四五年五月二九日のヴェネツィア共和国議会がその設立案を可決し、同年七月七日にジュスティーナ修道院の一部を植物園とすることで実現をみた。植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想したパドヴァの植物園には創設当時の設計による庭園があり、一六八〇年に植えられたスズカケノキや樹齢二〇〇年を越すイチョウなどが残っている。

 歴史の古いこうした植物園はいまも十分に大学と一般市民への植物に関する教育研究に貢献している。例えばピサ大学植物園は三ヘクタールほどの面積をもち、温室を含め一、六〇〇種あまりの植物を栽培している。この植物園のコレクションで有名なのは地中海の植物を代表するユリ科とヒガンバナ科の球根植物である。フィレンツェ大学植物園はピサの植物園より少し狭く、二・五ヘクタールあまりだが、イタリアの植物だけでなく、ソテツやヤシなどの熱帯植物が多数集められている。一方、ボローニャはサボテンなどの多肉植物のコレクションが名高い。

 現在イタリアで最大の植物園は一七八五年創設されたシチリア島のパレルモ植物園(InstitutoBotanico e Giardino Coloniale)だろう。九ヘクタールの敷地には温室を含め、サボテンなどの多肉植物、タコノキ科、ウコギ科、ヤシ科などを中心に一五、〇〇〇種の熱帯と乾燥地気候、それに地中海気候に適応した植物がところ狭しと植えられている。




世界の植物園のモデルに
 イタリアに生まれた植物園はその後ヨーロッパの主要都市に建設される植物園のモデルになった。しかし、ヨーロッパ中部や北部の都市ではヤシやソテツ、それにサボテンなどの多肉植物を戸外で栽培することは難しい。それどころか、地中海沿岸の植物さえ越冬が困難である。ドイツやイギリスでは冬も緑葉を繁らせた柑橘類のような地中海の植物は室内で栽培しなければならなかった。常緑の植物には大きなガラス窓のあるオランジェリーと呼ぶ特別な部屋(ガラス室)が用意された。熱帯産のヤシの栽培には加温ができる巨大なガラス温室が造られた。ヤシ温室は、パーム・ガーデン(palm garden)、と呼ばれ市民に親しまれ、熱帯植物の啓蒙に大きな役割をはたした。その他、サボテンなどの多肉植物の栽培を目的とした砂漠温室等、数々の温室がイギリスやドイツのような温帯地域に出現し、植物園の名物になったのである。

 いかに植物園が植物栽培を目的にするとしてもそれは一種の庭園であることを忘れてはならない。造園上の創意や試みも数多く行われてきた。水生植物で満たされた池、植物をからませた棚やテラス、着生植物の栽培に用意された巨大な壁や石垣、岩組みなどが生み出され、園内に計画的に配置される。

 そればかりではない。イタリアの植物園には大理石の彫像が目立つ。古代のサルスティウス庭園やマエケナス庭園などを文献から復元しようとした試みの結果である。ギリシアやローマの神々の白亜の大理石像は緑陰をきわだたせ、人々を至福へと誘う。植物園ならではの無数の植木鉢さえも、装飾が施された回廊や壁や石組みのすぐれたアクセサリーとなっている。植物をできるかぎり最高の状態で訪問者に見てもらうことも植物園の重要な役割である。したがって、野外の自然植物を眺めながら散策する場所とは明らかに異なるのである。




文化のバロメーター
 植物園が植物学と植物の多様な遺伝子資源の保全にはたす役割はいうまでもない。しかし、植物園の役割はそれにとどまらない。社会一般に対して植物自体と植物学という植物文化の知識を普及する役割も忘れてはならないのである。この役割を担っているからこそ植物園は庭園技術を駆使して訪問者に植物に関する知識だけでなく、植物に接することによる感性のリフレッシュと、人間もまた自然環境の一部であることを思い起こさせるための工夫をつねに行っているのである。この意味で植物園は博物館とともに、その国や都市の文化に対する関心の度合いを評価する物差しにもなる。したがって、植物園をより親しい存在にすると同時に、研究者にとっても価値のある場とするためには、植物学だけではなく植物園を維持管理し有効かつ効率的な展示を開発研究する植物園工学のような研究分野が生まれることを期待せざるをえない。そうでなければ、巨大な都市の排泄機能によって植物園はウォータ・フロントか郊外に体よく追い出されてしまうだろう。

 事実、誕生当初は規模も小さかった都市の多くはいまや拡大を続け、自然の森はおろか植林地や草原さえもますます都市から遠のいていく。都市生活は自然との距離を隔てる一方である。都市にあって、都市の人々のオアシスとして植物園の需要性は増しこそすれ、減ることはない。植物園はその起源において、薬草を栽培し供給するところであったが、今日の植物園は現代に生きる我々にかけがえのない精神上の処方筆を提供しているのである。    (あおやぎ まさのり)



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